7
揺れる視界の中、イザンバはその愛称を呼んだ。誰よりも心を揺さぶる人を。
「…………——コージー様……!」
コージャイサンも応えるのが当然と言うように馬から降りて側に寄る。そして、どちらからともなく腕を伸ばして——。
「ザナ」
二人はギュッと抱きしめ合った。確かな温もりに溢れた感情がイザンバの頬を一筋伝う。
さて、現れた彼に目を奪われたのはイザンバだけではない。
昏く淀み濁った群青は上等な男を求めた。妾のモノだと、声なき声を上げているようでガラスを引っ掻いたような不快な音が耳を刺す。
「危ない!」
それは誰が発したのだろう。混乱の最中、もはや誰の声かも分からない。
だが、迫る悪意を肌で感じ取ったコージャイサンがイザンバを間合の外に離した。
鞘に添えた左手、片膝をついたまま素早く抜かれた剣は紫銀を纏い、迫る呪詛を斬り捨てる。
立ち上がったコージャイサンは斬られた怒りに耳に痛い音を上げる異形を冷ややかに見ると、ただ一言。
「うるさい」
そのまま気力を高め、いっそ神々しさを増した剣を大きく振りかぶり————ぶん投げた。
ナイフよりも、矢よりも、弾よりも、速く飛んだ剣。
勢いよく異形の胸に突き刺さり、ひどく割れた不協和音があたりに轟いた。それは痛み悶える絶叫のような、突き付けられた現実を拒絶するような、そんな音だ。
「おー」
見事な投擲にイザンバは感心して拍手を送っているが、これは彼女がコージャイサンの戦いぶりに慣れているからであろう。
そして以下が正常な反応である。
「はぁぁぁぁあっ!!!???」
コージャイサンの立ち回りに広場にいた騎士は驚きを発し顎が外れそうだ。
「アイツ……ほんと、どうなってんだ」
とはチックの言。
「流石は、人外……じゃなかった、我らが、オンヘイ小隊長」
ジュロは褒めているのか貶しているのか。
「状況、分かんないけど、敵さん終了なのは、分かる」
当然の如き終了のお知らせはフーパから。
やっと隊長に追いついた小隊メンバーの騎士全員が肩で息をしながら、隊長の行動に感服するやら敵方を憐れむやら。
けれども戦闘の最中に飛び込んだのだから、休む間もなく剣を振るう羽目になった。
ちなみに騎士以外はすでに気絶という名の体力切れだ。涼しい顔しているコージャイサンが大概おかしい。
流石の彼でも剣一本では異形を消滅させる事は出来ず、しかし動きを止められた。
コージャイサンの登場、巨大な脅威の一時停止と安心要素が増えたイザンバは、ふと自分が今どこにいるのかを思い出してピシッと手を挙げる。
「はい! コージー様が戻られたのならココ、交代します!」
「いや、それは無理だ。もうザナの魔力と繋がってるだろ」
しかし、あっさりと却下されてしまうのだからイザンバはがっくりと項垂れてしまう。
「くっ……! 調子乗らないで大人しく待っておけばよかった!」
「そうでもない。急ぎはしたが、間に合うかどうか本当に分からなかったんだ。でも……」
コージャイサンは膝をおり、彼女の頬に手を添えてヘーゼルを見つめて目元を和らげた。
「無事で良かった」
「助けてくれてありがとうございます。それとお花も……すごく心強かったです」
「ん」
甘く柔らかな眼差しを向けられてすっかり緊張が解け、ふにゃりとイザンバから力が抜ける。
代わりに嬉しいような、気恥ずかしいような、心が一気に騒ぎ立てるのだから、さぁ別の意味で落ち着かない。
彼女は思いついたままに言葉を吐き出した。
「そう言えばコージー様少尉になられたんですよね! おめでとうございます! 帰ったらお祝いしましょうね! って言うか、軍服! やっぱり似合いますねー! カッコいいー! あ、つまりは出張帰りそのままですか⁉︎ おかえりなさい! お疲れ様です!」
「うん、ただいま。それは後でゆっくり聞くから取り敢えず落ち着け。今やらないといけない事は分かるな?」
「はっ! ごめんなさい! なんか色々と昂っちゃって……」
コージャイサンの冷静な言葉にイザンバは意識を改めようと深呼吸をした。
周りは戦闘中という慣れない状況下、しかも重要な役目を担っているのだ。まずは務めを果たそう。
「ザナ、ゆっくりでいい。いつも通りに落ち着いてやってみろ」
「はい。あの、コージー様……その……」
「ん?」
呼びかけておきながら言い淀む彼女にコージャイサンは優しげな声で先を促すと、イザンバは少し視線を彷徨かせた後、申し訳なさそうに願い出た。
「近くに……居てもらっても、いいですか?」
「もちろん」
安心させるように微笑みながらそう言うと、彼女の手を取った。
さて、コージャイサンの応答にポカンとしたのは小隊メンバーだ。「あの声どっから出てんの⁉︎」「本当にあの鬼畜隊長と同一人物⁉︎」なんて戦いながら騒がしいにも程がある。
それは本人にも聞こえているわけで、白い目を向けられた彼らは瞬時に顔を逸らして戦闘へと戻った。
コージャイサンはイザンバに視線を戻して一つ問う。
「そう言えば、天地闘争論でザナが好きな火の天使は誰だった?」
「え、急に何ですか?」
「多くの人は浄化の炎がどんなものか知らない。そんな状況では火の手が上がったと言う見た目の事実だけでパニックになる。だが、それが一目見て分かりやすい象徴があれば……恐怖心は抑えられる」
「だから火の天使をイメージしろって事ですか?」
「そういう事だ」
よく出来ましたとコージャイサンが微笑みながら頷きを返す。
突然の推し問答に首を傾げたイザンバも、そう言う事ならと早速脳内にその像を思い浮かべた。
「えー、悩むなぁ……ヒロインのアズたん、子犬系ラファきゅん、理想的上司のミカ様、自由人ウリウリ……」
それぞれに魅力があり、個々に推せる要素があるのだからこれは悩ましい。腕を組み、頭を揺らし、イザンバは悩む。
「能力とか細かい事は考えなくていいからな」
「うーん……やっぱりアズたんですね!」
「分かった。イメージ出来そうか?」
「挿絵は脳内メモリに焼き付けてあるから余裕です!」
「それなら大丈夫だな」
ニコニコと微笑み合う二人の空気はなんとものほほんとしていて。
そこへひどく焦りを抱えたファウストの声が割り入った。
「主よ! 大変申し上げにくいのですが、状況的にはまだ全然、何も、一つも大丈夫ではありませんので!」
「イチャつくのは後にせんかっ!!」
グランからも喝が入る。
それもそうだろう。彼らも他の者たちも二人がのほほんと話している間に動き出した異形や死霊、願い主と応戦していたのだ。声の一つや二つ、荒げたくもなる。
けれども、コージャイサンは淡々としたもので。
「別にイチャついていませんが」
「どっちでもいい! 早くしろ!」
「かしこまりましたっ!」
グランに叱られ、つい元気に請け負ったイザンバ。緊張感に震える彼女を魔法陣の中心に立たせるとコージャイサンが口を開く。
「ザナ、聖なる炎の呪文を省略なしだ」
「はい」
「魔力切れの心配はするな。俺が渡すから」
「はい。……はい? それって危機的な状況の最終手段ですよね?」
「十分危機的な状況だろ? やり方は、そうだな……いつも思考を読んでる時の逆だと思えばいい。まぁ、調整は俺がするしザナは何もしなくていいから」
「分かりました」
彼の申し出をイザンバはあっさりと受け入れた。ここまで来たらもうなるようにしかならないと反対する気もないのだろう。
そんな二人にキラキラとした視線を向ける人物がいる。ファブリスとマゼランだ。コージャイサンの「いつも」という言葉に目を輝かせた。
しかしその他の面々はギョッと目を向いているのだから……うむ、こちらは正常な反応だ。
だが、これが二人のいつも通りの会話なのだ。気にしたら負け、と従者たちも悟り顔である。
「あと……これ」
コージャイサンが胸ポケットから取り出したのは蛙と紫のアネモネが刺繍されたお守り。さて、どうして渡されたのか、とイザンバは首を傾げた。
「えっと……?」
「俺は無事に帰ってこれた。次は『災いがカエル』……だろ?」
それはかつてイザンバが彼に言った蛙の縁起。コージャイサンはじっとお守りを見つめる彼女と額を合わせた。コツン、と。
「ザナ、大丈夫だ。一緒にアレを祓おう」
「はい」
二人は並び立つ。指を絡め、決して離れないように固く互いを繋いで。
そして、目を閉じて集中し始めた彼女の呼吸にコージャイサンも同じく合わせた。
魔法陣から灯る柔らかな光の中で。
イザンバは一心に祈りを捧げる。
——呪詛に禊を
——彷徨う魂に導きを
——傷付いた心に安らぎを
魔法陣から広がる清廉な空気の中で。
「I AM a Being of Silver Violet Fire. I AM the purity God desires.」
心地よい声音で力強く紡ぎだされた聖なる炎の呪文。胸の前でお守りと共に握られていたイザンバの手に銀色混じりの紫の炎が現れた。
刺繍された術式からも光が溢れ出し、まずは増幅。その美しさと鮮やかさを従えて巨大な紫銀の炎柱が一気に天を衝いた。
そして、拡散。王都を囲うように同じく紫銀の炎柱が八本立ち昇る。
くたびれていた魔術師たちが術式の成功に湧き立ち、レオナルドもようやく肩の力を抜けた。
新月さえも照らすほどに明るくなった夜の王都。
中央の紫銀の炎柱が徐々に凝縮され祈りを捧げる乙女に変じた。
——目を閉じた整った顔
——流れる豊かな髪
——存在感のある大きな翼
その姿はまるでおとぎ話の火の天使のようで、人々の視線を一気に攫う。生者も、死者も、その善悪に関係なく。
誰もが言葉すら忘れて見入る中で、静止の声が上がった。早くもその身を焼かれ始めた呪いの使用者たちである。
「だめだ……やめろ……やめろぉぉぉ!」
「あかんで。黙って見とき」
その尻をヴィーシャが鞭でピシッ、ピシッと打ちつける。妖艶な笑みを向けられて、痛んでいるのが焼かれた肌か打たれた尻か分からないまま、彼らはポッと頬を染めて声を揃えた。
「女王様!」
しかし、残念ながらおかわりはいただけなかったようだ。
さりとて異形も黙っていない。末端からジリジリと焼き崩す紫銀の天使を睨み付け、激しく尾を振りながら威嚇するような不機嫌な音を発す。
そして、三対の腕を振り回した。
しかし、そんな悪足掻きを彼らが許すはずがない。
「ハハッ! 邪魔すんじゃねーよ、雑魚がぁ」
イルシーはナイフで素早く細切りにし。
「今から良いところなんだよ!」
リアンも鋼線を貫通させて裂く。
「全く……無粋だな」
ファウストがギチギチと掴み潰し。
「大人しくしていろ!」
ジオーネがバズーカ砲を発射した。
先程よりもしっかりと効いている様子に彼らは目を見張る。どうやら紫銀の炎柱が立った事で彼らの攻撃も通りやすくなったようだ。
それに気付いたビルダもお守りを持たない騎士と共に。
「それでも仇なすならば——」
「叩き斬るまでっ!!」
グランは単騎で腕一本落としにかかる。
次々と削られていく様に人の神経を逆撫でる不協和音が鳴り響いた。痛い、嫌だ、と駄々を捏ねるように。
「I AM a Being of Silver Violet Fire. I AM the purity God desires.」
二度目の詠唱でさらに紫銀の炎は濃度を上げた。
イザンバは魔力がごっそりと持っていかれる感覚を覚えたが、すぐに感じたあたたかい流れ。自分の魔力に寄りそう温もりに、大丈夫だと安心して受け入れる。
「ザナ」
呼びかけに応えた彼女の視線がコージャイサンに向けられた。
瞼によって隠されていたヘーゼルは彼の魔力を受け取った影響かその三分の一を翡翠が彩り、そこに紫銀を写し込んだ。
その瞳は幻想的で、それでいて清純な輝きを放つ。
イザンバは微笑む。
——助けてくれてありがとう
——側に居てくれてありがとう
だから頑張れる、と。
それを見てコージャイサンも笑む。
ここで天使の顔が変化した——柔らかな微笑みを湛えた淑女へと。
「いいねぇ。そのままぶっ放せ!!」
邪魔者を踏みつけながらもイルシーの口元はいつになく楽しげだ。
彼は知っている。これから人々の認識が大きく変わる事を。そこに彼女自身が含まれていればいい、とほんの少し情を見せて。
そして、多くの人々が天使に託すように、共に寄り添うように祈りの形をとった。
呪文は分からなくても、退魔の才能がなくても、誰かの安寧を心から願い——……。
二人は静かに足掻き喚く異形を見据える。ギュッと強く、繋いだ手を握りしめて。
「I AM a Being of Silver Violet Fire. I AM the purity God desires.」
三度目の詠唱。ついに開眼し、翼を広げた天使は濃密な紫銀の炎で王都を浄化する。
眩く、優しく、温かな炎。
生あるものが惹かれてやまない、迷い子を、命を導く灯。
生なきものが焦がれてやまない、ぬくもりと、救いの光。
浄化の炎はイザンバだけではなく多くの人の心を乗せて夜を埋め尽くす。
不自然な霧も、不穏な空気も、不相応な呪詛も、全てが消えゆく泡沫の夢。
眩い紫銀の炎が昏い夢の結晶を包み込むように、断ち切るように、その腕の中で抱き溶かしていく。
——異形が消え
——死霊が消え
呪い返しだけを残して、取り戻した平穏に王都中が歓喜に沸いた。
そんな中でその光景を黙って見ていたイザンバは達成感よりも安堵を覚えた。
そして、天使が天に還るように完全に消えると同時に一気に全身が重くなった。
ふらりと傾いたその体をコージャイサンが素早く抱き止める。様子を伺えば彼女は魔力切れで気を失っているようだ。
「——よく頑張ったな」
奏でる声にも向ける瞳にも誰よりも深い感情を宿して、コージャイサンは宝物に等しいその存在を強く胸に抱き締めた。
さて、こちらは王宮。その窓から天使の出現を確認したゴットフリートが中の人たちに声をかけた。
「陛下、ご覧ください。切り札がきられた」
「ほぉ…………——なんと、美しい……」
王のみならず全ての王族が言葉をなくして見入る聖なる浄化の炎。
「あら、素敵な光景ね」
開眼した天使を見て、セレスティアは殊更ご満悦だ。
「ようやく終わったか……」
「そうですね。これで……馬鹿げた国盗りも終了。コージーの目的も達した」
「んん? どうしてコージャイサンが出てくるんだ?」
「あの浄化の炎を上げたのはザナですよ。呪いに手を出した馬鹿もくだらない妄言を繰り返す馬鹿もこれで黙ります。コージーの相手は国を救った火の天使ですから。敵うわけがないでしょう」
「あー……なるほど。そういう意味でも切り札か」
ゴットフリートの言い分に王もすっかり納得してしまった。そう言われれば天使の顔がイザンバに似ていたな、と。
だが、ふとおかしくないかと頭を振った。
「待て待て待て待て、待てゴットフリート。お前、国の危機ってちゃんと分かってた?」
そう問われ彼は綺麗に微笑んだ。それはもうにっこりと。
「それは痛いほどに。いくら息子とは言え使えない案には乗りませんよ。これで心置きなく——あちらを潰してこれます」
「ちゃんと奪ってきてね」
「もちろん」
一瞬鋭くなった視線にゾッとしたが、セレスティアの声にすぐに甘く溶けるのだから、もしや国最強はこの妹でないかと王は思った。
「いや、だからね、国の危機……はぁ。お前たちは親子揃って本当に恐ろしい」
「それは心外です。俺もコージーも自分の大事なものを守る為に動いているだけですよ」
「その規模が普通じゃないだろう。あと、イチャつくならよそでしなさい」
ゴットフリートは何でもないように言うが、この男が味方で良かったと王は心底安堵したのであった。
この後、五日もせずに一つの国が消えた。
けれども人々の関心は消えた国よりも現れた天使で持ちきりだ。
曰く『あの天使は実在する伯爵令嬢である』
曰く『心根の美しい素晴らしい淑女である』
曰く『人も魔も惹きつける光りの人である』
曰く『公爵令息が愛する唯一の女性である』
曰く『互いを思う心が国を救ったのである』
天使を呼ぶほどの強く結びついた二人の絆の話を、さて今日も誰かがどこかで噂する。憧れと、尊敬と、感謝を込めて。
そして、変わっていく。
正邪は人の心ゆえにままならぬ。
それでも人は正しいと思える光を求めて、探して、見つけて生く。己を変えていく心を抱いて。
彼らを悩ませた不穏な夜は終わりを告げた。
月は新たに生まれ変わり、また穏やかに夜を見守り始める——。
活動報告に防衛局の面々と従者たちの会話をアップ予定です。
これにて「影も踊った新月」は了と相成ります!
読んでいただきありがとうございました!




