タケルだぞ……
武は、目の前に現れた、ミナトヒメと名乗るその女性の美しさに目が釘付けになった。彼女から話しかけられ、何か言われていても、しばらく武は何も反応出来ずにいた。
ミナトヒメの横に立っていた老人は、彼女が名乗るのを見て顔をしかめた。
「まったく……軽々しく己の名を明かすべきではないと知っておろうに……」
「あら、あんたは言ってないんだ? こんな子供にまでそんな気を付ける必要も無いでしょ? 全く、あんたは心配性なのよ」
そう言ったミナトヒメは、老人を見てふふっと笑った。
「で、そこの武くん? 心を読んだら面白くないから、私、あなたの口から直接お話が聞きたいな……ねえ、なんで死んだほうがましなの?」
「あ……は、はい……」
ミナトヒメの顔をぼーっと見ていた武は我に返ると、先程老人にした話を、ミナトヒメにも同じように話した。
「ふーん……。で、死んでた方が良いって訳なんだ」
話を一通り聞いたミナトヒメは、少しつまらなさそうな顔をした。
「そ、そうです……。もう僕は、いじめられるのは嫌なんです」
武がそのように言うと、ミナトヒメはこう聞いてきた。
「でもでも、でもよ? あなたが死んで悲しむ人とか居るんじゃないの? 家族とかはどうなの?」
それを聞いた武の頭の中に、悲しむ母親の姿が思い浮かんだ。
「……お母さんは……悲しむかな……」
武が寂しそうにそう言うと、ミナトヒメはうんうんとうなずき、武の顔を見てニッと笑った。
「でしょ? だったらやっぱり生きた方がいいわね。いじめが無くなれば良いんでしょ? だったら……」
ミナトヒメは、そこですうっと静かに笑い、武の死体を指さした。
「私が、そのいじめっ子たちを退治してあげるから……その代わり、あなたのこの体、しばらく私に貸してくれない? そしたら私、この体でそのいじめっ子達にお仕置きできるわ」
「えっ……? か、貸す……って、どういう事……ですか?」
体を貸す、という言葉の意味が武にはピンと来ず、武が思わず聞き返すと、ミナトヒメは楽しそうに説明を始めた。
「ほら、私達って、体がないでしよ? だから、食べたり飲んだりもそうだけど、体を使って運動したり、楽しく遊んだりする事がいまいち体感できないのよ……。だから、私がその体を借りる……つまり、まあ分かりやすく言うと、乗り移る、って事」
「えっ……でも、そしたらその間、僕はどうなるんですか?」
ミナトヒメの説明ではまだよく分からない武は、更に質問を続けた。
そんな武に、ミナトヒメは説明するのが楽しそうにすら見えた。
「一つの体に魂は一つだけだから、私が入っている間はあなたはそうやってフラフラしながら待っててもらう事になるわね……。でも、まあそうやってるのも結構楽しいわよ。それでね、いじめっ子たちを完全にやっつけたら、その後しばらくこの体で遊ばせて欲しいな……。そうね、2〜3年くらい、どうかしら?」
ミナトヒメからそう言われ、武は考え込んだ。
「うーん……。3年か……」
「ねっ、お願い。もし途中で武じゃないってバレたらすぐ体を返すし、ばっちりいじめっ子達をお仕置きしてあげるから!」
ふわふわ武の周りを飛び回りながら、ミナトヒメは両手を前で合わせてお願いポーズをし、上目遣いで武を見つめた。
武はそのミナトヒメの目に、死んでもう動いてないはずの胸が高鳴るような気がした。
武に向かって老人が、「何を言っておるんじゃ……全く、お主、そんな話には耳を貸さなくて良いぞ」と言っていたが、タケルの心はミナトヒメの目に見つめられた時、もう決まっていた。
「う……うーん……。じ、じゃあ、ちゃんとあいつ等を懲らしめてくれるなら……」
武のその言葉に、ミナトヒメは文字通り飛び上がって喜んだ。
「やった! じゃあ取引成立ね! 任しといて、きっちり懲らしめてあげるわ! きっちりとね!」
ミナトヒメがそう言いながら武の死体を指さして指を鳴らすと、死体に、先程脱がされた学生服が着せられた。
「神社の入り口に落ちてたこの服、あなたのよね? ふふっ……これが学生服……何かワクワクするなあ……」
そして、ミナトヒメが武の死体に覆いかぶさったかと思うと……ミナトヒメはまるで溶け込むように武の死体に入り、そしてその体の目が、ぱちっと開いた。
「ふふっ……楽しみね……」
立ち上がりながら、まるで体の感触を楽しむかのように手を握ったり開いたりしているミナトヒメを見て、武は少し不安になった。
ひょっとして、自分は馬鹿な事をしてしまったのでは……そんな風にふと思ったのだ。
「ね、ねえ……ミナトヒメ。本当に大丈夫? そのままずっと体を返してくれないとか……無いよね?」
「そんなこと無いわよ? ちゃんと約束は守るわ。ちゃあんとね……。もし誰かが、私の事を本当の武じゃないって見破ったら、その時に体は返すわ。そうじゃなかったら、まあ、3年くらいは遊ばせてもらうわ。そういう約束ですものね」
そう言ったミナトヒメは、部屋の真ん中に立つと、楽しそうに笑った。
「よーし……今から私……じゃなくて僕は、タケル……タケルだぞ……。いじめっ子たちとバトル開始……ふふっ、楽しいだろうなあ……。よし、ではタケル、出発します!」
「えっ……? あっ、ちょっと待って……」
そう叫んで、笑いながら建物を飛び出したミナトヒメ……いや、タケルを、本物の武は、慌ててふわふわと追いかけて行ったのであった。
あと何話かでおしまい




