一人だけ誠実だった人
ヒロユキの母である芳江の座る姿を、タケルは卓の向かいに座って静かに見つめていた。
年の頃は、恐らく50くらいであろうか。しているかしていないか分からないほどの薄い化粧は、唇に引いた薄い色の口紅で、しているのだと分かる程度である。
髪には、白髪が少し混じり、それを無造作に後ろで束ねている様子は、あまり身だしなみに気を使う余裕が無いかのようにも見える。
半袖のモノトーンの服と、黒のスラックスぽい出で立ちで正座していた彼女は、タケルと目が合うと、ふっと力なく微笑みかけた。
「ええと、じゃあちょっとお茶でもいれますから、少し待っていてくださいね」
そう言って台所にタケルの母である紀子が向かったところで、タケルは、すっと静かに目を閉じ、そしてまたすぐに開いた。
タケルがそうすると、不思議な事に、紀子の動きがぴたりと停止してしまった。
部屋にいる三人のうち、何故か紀子だけが動きが停止しており、まるで時間が止まってしまったかのようにも見える。
しかしながらよく見ると、動きを止めていたのは紀子だけでは無く、ガスコンロの火も、外でさっきまで鳴いていた筈のスズメも、完全に静止していた。
この部屋の中で動いているのは、タケルと、ヒロユキの母――芳江だけであった。しかも、芳江はこの状況に全く気付いていなかった。
それはまるで、タケルから気付く事が許されていないかの様であった。
「……今日、来てくださったのは、僕に用があっての事ですね?」
タケルのその言葉に、芳江は少し身体を震わせるような仕草をしたあと、タケルの方を向いてゆっくりと話し始めた。
「ええ……」
芳江の表情は、少しばかり強張っているように見えた。
「……ヒロユキが……言ったのよ……。『今まで俺はタケルをいじめていた、だから俺はこれからその償いをしないといけない』って……」
芳江のその言葉にも、タケルは特に表情を変えることもなく、静かに話を聞き続けた。
「……うちの子、二人いるんだけど……どっちも全然私の言う事なんか聞いてくれなくて……。父親が外に女を作って出ていってから、私が一人で頑張って育ててはきたけど、どこでどう間違ったのか……二人共ひどい不良になってしまってねえ……。上の子のダイゴなんか、今じゃあヤクザになってしまって……このままじゃあ、ヒロユキもそうなってしまうのかと思って……思っていたけど、どうしようも出来なくて……」
ダイゴというのは、ヒロユキの兄の事で、タケルが殺したあの暴力団員の事である。
芳江は、少しばかりうつむいて話し続けた。
「ダイゴは、この頃は家にも帰らなくなっていたけど……何日か前から、もう連絡もつかなくなってしまってね……どこでどうしてるのか分からないけど……けど、何となく思うのよ……。ダイゴは、悪い事ばっかりしてたから、罰が当たったんじゃないか、って……。何だかね……もうあの子は帰って来ないんじゃないか……そう思うのよ」
芳江の話を聞くタケルの表情は、相変わらず変わらない。
「でも、それは自業自得だと私は思うの……。私の言う事を聞かなくなって……家の金を勝手に取っていって……たまに家に帰ってきたと思えば、すぐに機嫌が悪くなって暴れて、またすぐに出ていってしまう……。そして、ヒロユキまでそんなお兄ちゃんの真似をし始めていたから……もし、誰かと争ったとしても、もし、何かに巻き込まれてしまったとしても、そして……そのせいで死んだりしても……」
芳江は、そこで少し肩に力を込めた。
「それはもう、本人の責任……。仕方のないことだと思うわ……」
タケルは、芳江の話を黙って聞いていた。
「ねえ、タケル君」
芳江は、タケルの目をまっすぐ見ながら言った。
「ヒロユキね……ここ二、三日、言葉遣いが良くなったのよ。私の事も、前は"おい"とかだったのに、今はちゃんと母さんとか言ってくれるの……。で、理由を聞いたら、“乱暴なしゃべり方はタケルから禁じられている"って言うのよ。しかも、禁じられている事をすると、タケルにはすぐに分かってしまうって言うの。おまけに、今までは遅刻なんかも多かったのに、木曜日と金曜日は、時間に余裕を持って登校したわ……。タケルからそうするように言われてるんだって言って……」
そう言う芳江の顔は、嬉しさ半分、そして自分が本来やるべき事を出来ておらず、他人に頼らざるを得ない情けなさ半分といった複雑な気持ちが現れたかのような、そんな表情であった。
「何故かは分からないけど、タケル君……。今のあなたには、ヒロユキに言う事を聞かせる何かがあるのよね、きっと」
「……」
タケルは芳江のその言葉に、肯定も否定もせず、ただ黙っていた。
芳江はそんなタケルに、顔を少し近づけて言った。
「タケル君……。前にもヒロユキがあなたをいじめた時、あの時も謝ったけど、改めて謝るわね……。本当、うちのバカ息子がご迷惑をおかけしました……ごめんなさい……。つい最近まで、いじめは続いていたのよね……? ヒロユキから聞いて知ったの。気付いてやれなくって、本当に申し訳なかったわ……」
以前、タケル達がいじめの件を警察に訴え出たとき、唯一誠実に対応し、息子であるヒロユキにうるさく言って実際の話を聞き、謝りもしない息子に代わり、せめて自分だけでもと謝罪した人物、それが芳江であった。
その芳江が今また、タケルにこの日、謝りに来たのである。
土曜日も仕事をしている芳江は、本当はもっと早く行かなければならないとは思いつつも、休みである日曜日にしか時間が取れなかった。
そして今日、芳江はやっと謝りに来ることが出来た。高くて買えない菓子折りの代わりにせめてと思い、庭で取れた少しばかりの野菜を持って。
「そして……タケル君。あなたは、ヒロユキに償いをさせるのよね……? それはもっともな事だと私も思うわ……だから……」
芳江は、謝るときの頭をずっと下げたまま、下を向いてタケルに頼んだ。その声は、少しだけ上ずっているように聞こえた。
「ヒロユキに……しっかり償いをさせてやって……。私が本当はきちんとやらせないといけないんだけど、私じゃあ……あの子をちゃんとさせ切れなかったからっ……だから……よろしくお願いします……」
タケルは、ここでようやく口を開いた。
「ヒロユキ君のお母さん、どうか頭を上げてください……。お話は良く分かりました。あなたは今まで、本当に心から誠実に僕たち親子に接してくれました……」
その時のタケルの笑顔は、何を考えているか分からない、いつものあれではなく、本心から目の前の中年婦人をいたわる、優しいものであった。
「ヒロユキ君には、償いをしてもらいますけれど……けど、その後、きっとお母さんのところに返す……じゃなくて、帰ってくると思いますよ。だから、待ってて下さい。彼は、お兄さんのようにいなくなったりはしないでしょうから」
それは、タケルの約束であった。
芳江に、タケルは約束したのである。ヒロユキの命までは取らず、償いをさせたあとは、必ず母親の元に返すと。
「ヒロユキ君のことはきっと大丈夫です。だから顔を上げて下さい」
タケルにそう言われ、芳江はようやく顔を上げて少し笑った。その目には、少しだけ涙が滲んでいた。
「お待たせしましたね、芳江さん。今お茶が入りましたからね」
いつの間にか周りの時間が、再び流れ始めていた。
「あら、ごめんなさいね……。わざわざお茶まで出していただいて」
そう言って紀子に微笑んだ芳江の笑顔には、どことなく安心した気持ちが表れていたように見えた。
少しばかりの雑談の後、芳江は礼を言ってタケルのアパートを後にした。
帰っていく後ろ姿を玄関から出て見送ったタケルは、横で一緒に見送っている母に気付かない程の小さな声で、こうつぶやいた。
「ヒロユキ君のお母さん……。あなたのその誠実な態度が、ヒロユキ君を救いました……」
タケルの横で、一緒に芳江を見送っていた紀子は、少し不思議そうにタケルに言った。
「で……結局、芳江さんは今日なんの用事だったのかしらね……?」
「ふふっ……そうだね。お話がしたかったんじゃない? 母さんと」
そう答えながら、タケルは心の中で思った。
(さて……これで誰をどうするか、おおよその方針は決まったな……。明日から償いの開始と行こうか……)
芳江を見送るタケルの顔は、いつもの、あの何を考えているか分からない笑顔に戻っていた。
ヒロユキの兄、ダイゴの名前は、感想くれた方から名前をもらいました。




