お客さん
日曜日、タケルは何処にも外出せず、朝からずっと家にいて過ごしていた。
仕事が休みであったタケルの母、紀子は、家で本を読んだりして居間でゆっくりと過ごしているタケルを、台所から振り返って見てみた。
紀子の目には、優しい穏やかな、いつものタケルが映る。
元々滅多な事で怒る子ではなかったが、ここのところ一、二週間ほどは、タケルは怒るどころか、大きな声を出す事も無くなっていた。
タケルの父である夫を九年前に事故でなくして以来、タケルにも寂しい思いをさせたはずであったが、タケルは寂しそうな顔はほとんど出さず、むしろ母親である紀子を気遣うくらいであった。
(確かに、元々優しい子だったけど……)
紀子は、少しだけ、ほんの少しだけではあるが、違和感を感じていた。
ここ最近のタケルは……優し過ぎる。良い子過ぎる。
母親である紀子に対しても、怒らないどころか、紀子が何かミスをしても――それは例えば、ベランダに干してあった洗濯物を、夜になっても取り込むのを忘れていた、等の小さな事であるが――タケルは、文句の一つも以前なら言うところを、そんな事は何も言わず洗濯物を取り込み、「取り込んでおいたよ」と一言言うだけなのだ。
(最近は、学校での問題も無くなってるらしいし、心が安定しているのかしら……?)
多少の違和感を感じながらも、紀子は、まあこれも子供の成長と言う事なのかと納得し、昼食の準備のため、振り返っていたのをやめて、再び前の方を向いた。
まだ11時前なので昼食にはまだ早いが、早めに作っておこうと紀子は鍋を取り出し、先程冷蔵庫の中身を見て決めたおかずを作る準備を始めた。
そんな紀子の後ろ姿を、タケルはちらっと見て、かすかに微笑んだ。
そして、タケルは壁の時計を見て現在の時刻を確認した。その様子は、まるで何かが起こるのを待っているかのようにも感じられる。
(さて……もうそろそろかな。心を読んでみたら、今日の昼前に来るつもりだったみたいだからね……)
そう思いながら、タケルは図書館で借りてきた小説の続きに戻ろうとして……その時、アパートの外階段を誰かが登ってくるのに気が付いた。
金属製の階段を、コン、コン、と音を立てて登ってくるその足音は、来訪者が一人である事を示していた。
やがてその足音は、二階の廊下の上を歩いて来るコツ、コツ、という音に変わり、そしてタケルたちのいる201号室の前で止まった。
少し躊躇うような間があった後、玄関の小さなチャイムが鳴った。
電池が切れかかっているせいで、微妙に少し間の抜けたようなチャイムの音に、紀子は玄関に出ようとしたが、立ち上がったタケルに止められた。
「いや、いいよ母さん。僕が出るから」
手が水で濡れていたのをエプロンで拭きながら玄関に出ようとしていた紀子は、「ああ、じゃあタケル、頼むわね」と少し笑って言い残し、また台所に戻って行った。
「さて……来てくれたね……。待ってたよ」
そう小さくつぶやいたタケルが玄関を開けると、そこには一人の中年の女性が立っていた。
その女性は、玄関から出て来たタケルを見ると少し力なく笑い、タケルに声を掛けた。
「今日は……。タケル君、久しぶり。ごめんなさいね、突然来ちゃって。どうしても行かないといけないと思ったものだから」
その女性の言葉に、タケルは優しく微笑んで答えた。
「いえいえ、じゃあ、どうぞお入り下さい……。ヒロユキ君のお母さん」
そう言ってタケルは、ヒロユキの母親であるその女性を、家の中に招き入れたのであった。
「あら、ヒロユキ君のお母さん! ああ、仰って下さってればおもてなしの準備も出来ましたのに……」
突然の来訪者に少しあたふたしている紀子とは対照的に、タケルはまるでこうなる事が分かっていたかのように、やけに落ち着き払っていた。
「いえいえ、そんなお気遣いさせてしまうといけないと思って、こうやってお伺いしたんですから……。あ、紀子さん、これ、もし良かったら……庭で取れた野菜なんですけど」
そう言って彼女が差し出したビニールの袋の中には、ミニトマトが何個かと、きゅうりが三本入っていた。
「あらあら、そんな気を使わせてしまって……さ、どうぞこちらへ。なんのお構いも出来ませんけど」
紀子からそう言われて、ヒロユキの母親――芳江は、頭を丁寧に下げると、靴を脱いで、居間のちゃぶ台の前に座ったのであった。
ゴールデンウィークくらいには完結させたいです。




