心配しなくていいよ
その日の夕暮れ、つい先程ヒロユキたちとの喧嘩をしてきたばかりのタケルは、自転車で自宅に帰りついた。
タケルの家は、高校からは自転車圏内にあり、20分程自転車を漕げば、タケルとその母親が二人で住んでいる、八畳一間の小さなアパートまで着く。
ドアの鍵を開けた部屋の中には、誰も居ない。タケルの母親は、この時間はまだ仕事から戻っていないのが常だ。
タケルの母親は、とある小さな会計事務所で、正社員として事務員の仕事をしている。年末や年度末は残業になる事が多いが、夏休み明けの今の時期だと、基本的に残業は無く、もうすぐ帰ってくるはずである。
タケルは、手慣れた手付きで米を洗って炊く準備をすると、炊飯器のスイッチを押し、そして次に、小さな鍋にワカメの味噌汁を作るのに取り掛かった。これが彼の毎日の日課である。
おかずは、タケルの母親が前日作った野菜炒めが冷蔵庫にまだ残っているので、それを食べる。
タケルが味噌汁を作り終わり、炊飯器の米も炊けた頃、タケルの母親が帰宅してきた。
「ただいま! タケル、ご飯もう炊けてる?」
急いで靴を脱ぎ、部屋に入ってくるタケルの母親の表情は、タケルを気遣うような優しい笑顔である。
スーツの上着をハンガーに掛けているタケルの母親は、少し疲れたようではあるが、それをタケルの前では見せまいと元気に振る舞っている様子であり、タケルも、そんな母親に、にっこりと笑って答える。
「おかえり。ちょうど今炊けたところだよ。味噌汁も出来たし、食事にしよう」
タケルの母親が、高収入では無いとはいえ正社員として働いているおかげで、タケルたち二人は、借金する事なく生活する事が出来ていたが、その生活は決して楽という訳ではなかった。
「いただきます」
二人は、一緒に手を合わせてそう言うと、小さなちゃぶ台で静かに食事をとり始めた。
「……ねえ、タケル」
食事をしながら、タケルの母親がタケルに気を遣うように話し掛けてくる。
部屋にはテレビはなく、ラジオは今はつけていない。静かな部屋の中に、彼女の声だけが響く。
「学校……大丈夫? いじめ、まだ続いてるんでしょう? 先週も夜遅く帰って来るし……。もしどうしてもきつい時は、通信制の高校に転校するっていう手も……」
母親の心配そうなこの言葉に、タケルは手に持ったお碗を見ながら、静かに答える。
「うん……大丈夫、母さん。状況は変わったよ。劇的にね……」
そう言うと、タケルは箸とお碗を置き、母親の方を向いた。
「母さん……。心配かけたけど、もう大丈夫。僕、いじめっ子に勝てるようになったから」
「えっ……勝てるようになった……って?」
タケルの母親は、味噌汁のお椀と箸をを持ったまま、タケルに尋ねる。
「ふふっ……言葉の通りだよ。でね、母さん、先に言っておかないといけない事があるんだ」
タケルは、母親をじっと見つめ、話を続けた。
「これから、色々問題が出てくるかも知れない。警察や学校……いろんな人が、僕に何かしようとしてくるかも知れない。でもね、心配しなくて良いよ。全てはきっと……うまく行くから」
そう言うタケルの表情は、いつもと同じ、優しい、穏やかな笑顔であった。
「え……? タケル、どうしたの? 学校で何かあったの?」
タケルの母親が心配して、タケルに問いただそうとしても、タケルは静かに笑って、「いや、何でもないんだ。一応、念の為にね」と答えたきり、ただ笑っているだけであった。
そうして、新学期二日目の夜は、静かに過ぎていったのである。
次回からは、各方面からの圧力vsタケルと言う構図になります。
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