03.セラの秘められた力
その怪物は、タコに似た姿をしていた。
ただし足が二十本くらいあって、暗く濁った緑色の身体は僕の何倍も大きくて、そしてとても凶暴そうだった。
自然界に絶対に存在するはずのないその生き物は、おそらくどこかの研究室から脱走した魔法生物。
そいつはどうやら、ずいぶんお腹を空かせているらしい。周囲の植木や花壇の植物を掴んでは引っこ抜いて、大きな口に放り込んで噛み砕く、という事を何度も繰り返している。
やがてぎょろぎょろした目が僕やセラ、周りの学生に向けられたかと思うと――怪物はたくさんの足を器用に動かして、僕らの元へと這い寄ってきた。
鈍重そうな見た目に反して、その動きは素早い。不気味な姿に、周りからまた大きな悲鳴が上がった。
「逃げよう、セラ」
じりじりと後ずさりしながら、僕は隣に立つセラの手を強く掴む。
研究室から魔法生物が脱走するというのは、この学舎ではたまにある事だ。
大人しい小型の下級生物の脱走の場合、通りがかった学生が捕獲を手伝うというのも、珍しい事ではない。
けれどあれだけ大型で凶暴な相手となると、話は別だ。周りの学生達も逃げ出し始めている。僕らも早く、避難した方がいいだろう。
いつの間にか警備兵が集まってきて、怪物を取り囲んで攻撃を始めている。しかし怪物の抵抗はすさまじく、何人もの警備兵が蠢く足に殴られて吹き飛んでいた。
やっぱりあれは、僕らみたいな見習いが太刀打ちできる相手ではない。目の前で繰り広げられる光景に、思わず背筋が寒くなった。
「セラは、ご主人様の行かれる場所に一緒に参ります」
返事は噛み合ってないけれど、こちらの意図は伝わっているらしい。手を引っ張るとセラは、僕に倣ってきびすを返してくれる。
重い脚を叱咤して、僕はセラと一緒に駆け出そうとしたけれど――
「うわぁっ!」
その時後ろで上がった悲鳴に、はっと動きを止めた。
振り返ってみれば、足がもつれたのか、道の上に倒れる下級生の男の子の姿。
魔法生物は、いつの間にか警備兵の包囲をくぐり抜けていた。そして今、素早い動きで、転んだ男の子に迫ろうとしている。
――考えるより早く、僕はうずくまるその子に駆け寄っていた。
「駄目!」
走りながら叫び、右手の人差し指を怪物めがけて突き出して。
そして、目一杯の魔力を振り絞ると、呪文を唱えた。
刹那、僕の指先がばちばちと音を立て、そこから白い光があふれ出す。
迸ったその光は、怪物めがけてまっすぐに飛んでいき――男の子に喰らいつこうと大きく開かれていた口の中に飛び込んで、ばちんっ、と小さな爆発を起こした。
僕が一番得意な、雷を呼び寄せる下級魔法。その衝撃に怪物の身体がぐらりと傾ぎ、その場にどすんと倒れ込んだ。
きっと怪物は、電撃で痺れて動けないはず。今がチャンスとばかりに、僕は男の子に走り寄った。
「立って! 早く逃げよう!」
そう言って、泣きじゃくるその子の身体を引っ張って助け起こそうとしたけれど。
また魔力を消耗してしまった僕の手にはうまく力が入らなくて、思った以上に時間を取られてしまう。
その隙に、回復した怪物がよろよろと身を起こし、僕達の元へと一目散に這い寄ってきた。
多分今のあいつには、僕達は美味しそうな餌に見えているのだろう。沢山の足が、僕達を捕まえようと一斉に伸びてきた。
そのあまりの素早さに、僕は咄嗟に反応する事ができなくて。
「……っ!」
恐怖に身体が凍りつく。
僕はただ、男の子を抱き締めてぎゅっと両目を閉じた。
――だけど。
恐れていた痛みと衝撃は、いつまで経っても僕の元を訪れなかった。
「ご主人様は」
代わりに耳に届いたのは、後ろにいたはずのセラの声。
でもその声は、すぐ前の方から聞こえていた。怪訝に思いながら僕は、恐る恐るまぶたを開き――直後視界に飛び込んできた光景に、ぽかんと目を丸くする。
「セラが、お守りします」
いつも通りの平坦な声で言うセラが、僕の前に立っていた。こちらに背を向けて立ち、怪物に向かって両腕を高く掲げている。
彼女のドレスの袖は破れてなくなっていた。細かった腕の肘から下が、セラの身長ほどにも伸び、丸太のように膨れ上がっているせいだ。
腕の先に掌はなく、ぎちぎち動く五本の太い鉤爪が直接生えている。
彼女はその両腕を顔の前で交差して、怪物の足を受け止めていた。
「ご主人様をお守りする事が、セラの役目です」
淡々と宣言したのち、セラが顔の前に掲げた腕を動かした。
それは軽く振っただけ、というような気軽な動きだったのに。巻き付いていた怪物の足が何本か引っ張られ、ぶちぶちと引きちぎられる。
刹那、怪物の口から濁った悲鳴が上がった。それは聞く者の背中をぞわっと粟立たせる、不愉快な重低音。
醜いその音に、僕は思わず耳を塞ぐ。けれど反響する悲鳴の中でも、セラは顔色一つ変えずに怪物と対峙していた。
足を数本失ったにもかかわらず、怪物は闘争心を失っていないようだった。
そいつはどうやら、セラを新たな標的に定めたらしい。濁った呻き声を上げながら、彼女に向かって数本の足を振り上げる。
「危ない!」
思わず悲鳴を上げた僕とは対照的に、セラは冷静だった。
迫ってきた怪物の足を、右腕で軽々と払いのけ――そして左腕の鉤爪で、怪物の身体を深く切り裂いた。
瞬間、五本の大きな爪痕を刻まれた怪物が、辺り一帯に響き渡るほどの絶叫を放つ。
残った足をばたつかせ、真っ黒な血が噴き出す身体をぶるぶると震わせて――そして、どすんと地響きを立ててその場に倒れ込み、大人しくなった。
死んでしまったように見えたけれど、多分違う。怪物の足の先は、まだぴくぴくと動き続けていた。
そんな怪物を見つめて、またセラが動き出した。巨大化したままの腕をだらりと下げ、ずるずると引きずりながら、数歩の距離を歩いていく。
やがて彼女は、倒れ伏す怪物の前でぴたりと足を止めた。
直後、今度は綺麗な銀髪がぞわりと波打って、身長の何倍もの長さまで一気に伸びた。
その髪は、まるで一本一本意思を持っているかのように蠢いたかと思うと、一斉に怪物の巨体に絡みつき――あっという間にそいつは、身体の半分以上を銀の糸に縛められて、足一本すら動かせなくなってしまった。
――耳が痛くなるくらいの静寂が、周囲を包み込んでいる。
警備兵も、逃げ遅れた学生達も、何も言わない。目の前の光景が信じられないとばかりに、青い顔をして立ち尽くしていた。
僕もその中の一人。しゃくり上げる男の子を抱き締めたままその場にへたり込み、ただ呆然とセラの姿を見上げていた。
――頭の中が、分からない事で一杯だった。
セラが使ったのは多分、変身の魔法。身体の一部を作り替えたり、あるいは動物や植物に姿を変えてしまったり。そういう魔法の使い手がいる事は、見習いの僕だって知っている。
だけど、僕が気になっているのはそんな事じゃない。
魔法を使うためには必ず、呪文の詠唱が必要になる。それはどんな魔法使いでも、たとえお母さんみたいな天才であっても、例外ではない。
それなのに、腕を巨大化させた時も、髪を伸ばした時も、セラは一切呪文を唱えなかった。黙ったまま、自分の身体を作り替えてしまったのだ。
それに、おかしな事はもう一つ。
僕とあまり変わらない年頃の女の子なのに、セラは、とても強い。僕のお母さんと同じくらい――変身の魔法だけ見れば、ひょっとしたらお母さんよりも強いかもしれない。
それだけすごい力を持っている魔法使いが、誰かの弟子になる必要なんてどこにもない。
僕はセラの事が、ますます良く分からなくなった。
「……セラ」
身体が重い。頭の中がもやもやする。まるで脳みそが、綿菓子にすり替えられてしまったようだった。
それでも疑問に突き動かされて、僕は彼女に問いかける。
「セラは何者? 本当に魔法使い?」
その質問を受けて、自分の髪を巻き付けて怪物を取り押さえたまま、セラがゆっくりと僕を振り返った。
相変わらず感情のない、空虚な薄青色の瞳。それが僕を見て、ぱちっと一度まばたきする。
「セラは、セラです」
そして、相変わらず奇妙な答えを返しながら。
唇の両端を静かに吊り上げ、セラは僕に微笑んで見せた。
彼女の両腕は歪に変形したまま。髪もまるで、線虫のように不気味に蠢き続けている。
だけどそんな、人間を遥かに超越した恐ろしい姿をしていても。
微笑む彼女は、それでもやはり、とても美しかった。
「シオン!」
その時、突然甲高い声で名前を呼ばれて、僕はぱっと振り返った。
そこにいたのは、今一番会いたかった人。ふらりと立ち上がると、僕はぽつりとその名前を呼んだ。
「……お母さん」
お弟子さんや教官達と一緒にこちらに向かってきたお母さんが、僕を見るなりすごい勢いで駆け寄ってくる。そして屈み込んで僕の両肩を掴むと、怖いくらいに真剣な目で見下ろしてきた。
「シオン、大丈夫!? 怪我はない?」
魔力を使い過ぎて疲れてはいるけれど、怪我はしていない。こくりとうなずき返すと、お母さんは「良かった!」と僕の身体を抱き締めた。
「良かった……あなたが無事で、本当に良かった……!」
ぎゅうぎゅうと、息ができなくなるくらいの力で抱きすくめられて、僕は目を白黒させる。だけど、お母さんの声が少しだけ震えているのが分かったから、『離して』とは言えなかった。
それに、お母さんの身体はふんわりと温かくて、香水の甘くて上品な香りがして。
その中にもう少しだけ包まれていたかったから、僕はしばらくじっとしたまま、お母さんに抱き締められていた。
それから、僕を抱き締めながらお母さんが話してくれたところによると。
今朝、お母さんが慌てて家を飛び出していった理由。それは、学舎で研究されている複数の魔法生物に、暴走の兆候があったと連絡が来たからだった。
危険だからと研究棟を閉鎖して、お母さん達は魔法生物達を鎮めようとあれこれ手を尽くしたけれど、完全な解決には至らなくて。
やがて凶暴化した数体が研究室を脱走して、学舎のあちこちで暴れ出したという事だった。
「お母さんは、向こうで別のを相手にしてたの……遅くなってごめんね、シオン」
僕が助けた男の子も、膝をすりむいたくらいの怪我で済んだ。警備兵に抱えられて運ばれていくその子の姿を見送って、僕はまたお母さんの方を振り向いた。
良く見ればお母さんの服は煤で汚れていて、髪も少し乱れている。お母さんが苦戦するなんてどんな相手だったのかと考えて、僕は背中がひやりとした。
「でもあなたが無事で、本当に良かったわ」
「セラが、守ってくれたから」
ほっとしたように呟くお母さんに、僕は小さく返事をする。
そういえば、セラはどうしているだろうと思って振り返ると、彼女はまだ怪物のそばに立っていた。
怪物は、取り囲んだ教官や警備兵達によって捕獲されている。それでもう大丈夫と判断したのか、セラの腕と髪は元の形を取り戻していた。
彼女の葡萄酒色のドレスは、すっかりぼろぼろになっている。着替えを用意してあげなくちゃと、僕は頭の片隅で考えた。
「……セラ?」
けれどその時、お母さんの低い呟きが聞こえて、僕はまたそちらを振り返る。
どうやら僕の事で頭が一杯だったせいで、お母さんは今の今までセラの存在に気づいていなかったらしい。その瞳を目一杯に見開いて、信じられないというように、セラの姿を凝視していた。
「まさか……シオン」
やがてお母さんの視線が、セラから僕に移される。
どうしてそんなに驚いているのだろう。そんな事を考えて首をかしげる僕に、お母さんが尋ねた。
「あなた、セラを起動したの?」
「……起動?」
だけどその質問は、どう答えるべきか良く分からないもので。
その意味を、聞き返そうとしたけれど――ふいに世界がぐらりと揺れたせいで、僕の言葉は形にならなかった。
ただでさえ魔力不足の状態で、さらにお母さんに会えて緊張の糸が切れたせいで。
僕はどうやら、限界を迎えてしまったようだった。
視界がぐるぐると渦を巻き、ぎりぎりのところで保たれていた意識が、すうっと闇に呑まれていく。
脚からがくりと力が抜けて、僕は地面に倒れ込む寸前でお母さんに抱き留められた。
ふいに、どさりと音が聞こえたような気がして、僕はその方向にのろのろと眼球を動かした。
怪物の前で地面に崩れ落ちるセラの姿と、彼女を介抱しようとするお弟子さんの姿。ぼんやりした視界に、そんなものが映ったような気がしたけれど――目の前はもうほとんど真っ暗で、それが夢なのか現なのかさえ、僕には良く分からなかった。
「……――!!」
お母さんが何か叫びながら、僕の事をぎゅうっと抱き締めてくれている。
その温かさを、とっても心地良く思いながら――そこで僕の意識は、ぷっつりと途切れた。




