08.エルマーの家
本日07話から更新しています
しばらくの間、紙をめくる音だけが聞こえる心地いい時間が流れる。
ニコラは本を読むことに集中していたが、エルマーは自分の家である。なんとなく我に返る瞬間があり、その度にニコラをちらりと見ていた。
難しい部分なのか眉間にしわが寄っている。
あまり見ては気付かれると思うのだが、ついちらちら見てしまう。いい褒め言葉が見つからなくて何も言えていなかったけれど、見れば見る程今日のニコラは可愛く見えた。
控えめなおしゃれは今日を楽しみにしてくれていたということだろうか。今日は誰かに見られる心配もない日なのに。エルマーだって実は今日が楽しみだった。だけどそれ以上に緊張もしていた。この前兄に言われてから妙に意識してしまう。ただしそれは、「ニコラを」ではなくて「婚約者というニコラとの関係」だと思っていた。でも今日見るニコラは――
ぼんやりしているとふっとイメージが降りてくる。
――ニコラと結婚するとこういう時間がやってくるのか。
結婚なんてどうでもいいと思っていたけれど、こんな風に穏やかな時間が流れるのなら悪くない。願ってもない程の幸運ではないだろうか。
思わず目を閉じると、何を乙女チックな事を考えているのだと、じんわりと恥ずかしさが持ち上がってくる。
ニコラがカップを下ろした音で現実に戻る。
「冷めてるだろ。淹れ直してもらうよ」
「本当? ありがとう」
使用人に指示を出し、ほとんど読んでいない本にそれらしく指を挟みながらニコラに向き合う。
「さっき眉間にすごいシワが寄ってたよ」
ニコラが恥ずかしそうに頬に手を当てる。
「やだわ。癖なの。あとになるって注意されているんだけど、だめね……」
そんな様子はいつものニコラだ。だけどいつもよりふんわりまとめた髪型のせいか、やはり可愛く見える。
「……今日は随分可愛くしたんだね」
思い切って何のひねりもないまま、思ったことを口に出してみた。ニコラはニコラで、直接的な表現に何かの意味を見出そうと返答を曖昧にする。
「……変?」
「……いや、似合ってる……と思う」
エルマーはニコラが服や髪型を変えたらと思っていたが、ここまで可愛くなるとは思っていなかった。いつもと同じ3つ編みも、アレンジ次第で随分雰囲気が変わるものだと感心する。ドレスの色に関しては御愛嬌だ。年頃のご令嬢が着るベージュではないのはさすがのエルマーもわかっているが、この図書館の雰囲気とはとても合う。普段のニコラを知らない者や、煌びやかなご令嬢を見慣れている人ならわからないが、エルマーにとっては今日のニコラはとっても可愛く見える。
「妹にね、してもらったの」
「へえ、仲良しなんだね」
「まあね。もっとおしゃれにして、ってしょっちゅう言われるの」
エルマーは目を細めた。ニコラがおしゃれをどう感じているかはわからないが、妹は姉想いなのだろう。そして姉も妹想い。
「僕も兄さんに寝っ転がる癖を直せっていわれてる。どうも本を開くと寝ころびたくなるんだよね」
「だめよ、お行儀が悪いし、目も悪くなるわ」
厳めしい顔になるニコラに対しエルマーはへらっと笑う。
「ニコラはしっかりしてるね。僕は小さい頃はこのソファに上手に座れなくて、床で本を読んでいたんだ。そのうち寝っ転がるようになって……この図書館は基本的に静かで人が少ないから、僕が寝るまで気付かれないこともあって、常態化してずるずる来てしまった。けどそうだね。頑張って直すよ」
ニコラは不思議に思った。本を読みながら寝てしまうなんて小さい子のすることだ。10年ここに居るというのも不思議だったが、幼少期、ここに1人で放っておかれたということだろうかと不安が胸を過る。
「小さいあなたが1人でここに?」
「そうだよ」
けろりとした答えは、幼い頃から兄妹とずっと一緒だったニコラには衝撃的なものがある。
「幼少期の兄さんが病弱で、僕は暇つぶしに僕付のメイドとしょっちゅうここに来ていた。とはいえメイドは忙しいからね、色々作業をしてると僕に気付かないこともあってさ。たくさん本を読んでお昼寝もここで。そのうちに部屋まで作ってもらった」
何でもないことのように話すエルマーだが、ニコラの胸に寂しさが生まれる。自分はいつも賑やかな家にいた。小さいこどもがこんな静かな図書館に1人だなんて。初めに少しはしゃいだことを申し訳なく思う。エルマーの話し口調はいつもと大体変わらないけれど、辛いのではないかと勝手に考えてしまった。
その視線に気づいたエルマーが怪訝そうに訊ねる。
「何?」
「あ……いえ……」
ごまかそうとするが、どうにも難しい。
「あの……言いたくなかったら構わないのだけれど、エルマーはこの図書館、好き?」
エルマーには質問の意図がわからない。
「その、ずっとここにっていうから……」
「? 好きだよ?」
きょとんとしたエルマーの顔はこどものようだった。
「ここにはたくさん本があって、面白くて……大好きだからここに住みたいと思って部屋まで作ってもらったんだし」
「そう……」
明るさを取り戻さないニコラの返事。
ここでエルマーは考え至る。明るくない幼少期を想像されたのだろう。ニコラの気遣いに意外なものを感じながら礼を言った。
「ありがとう。けどニコラが想像するより、現実は気楽だよ。僕はここが好きでここにいる。それに誰かさんに自慢できるし」
にんまり笑ったエルマーに、ニコラが呆れる。
――柔和さの不足はにじみ出る性格かしら。
新しい紅茶を運んできたエルマー付きのメイドは、主が初めて見せる微笑ましいやり取りに微かな微笑を浮かべていた。
15時少し前、2人は本邸へ向かった。15時のお茶をみんなで楽しむ約束になっていたからだ。どんな経緯があろうと、最後の手段を実行しない限り、ニコラはエルマーに嫁ぐことになる。決定事項だ。
読み切れなかった3冊の本を片手にニコラはご機嫌だった。
「ニコラ、図書館は気に入った?」
「ええ! とっても」
「良かった。いつでも遊びに来てくれて構わないから」
「ありがとう」
2人の頭にさっきの会話が蘇る。どちらともなく、ふっと笑う。
ニコラは上機嫌で家へ向かう馬車に揺られた。「いつでも」と言われたことを思い出し、笑う。続いていつかの中庭でエルマーが言った「僕と結婚すると……」を思い出す。今日の穏やかさがいつか日常になるのだ。エルマーの適当な言い方も照れくさくなくていい。
嬉しくて借りた本をぎゅっと抱きしめる。足を引っ張らない結婚であれば十分だったのに、自分にもこんな幸せな結婚があったのだと嬉しく思った。
家に帰る頃には、いつもの冷静なニコラに戻っておく。家族の前であまりはしゃぐのは恥ずかしかった。心配そうに出迎えてくれた妹には、澄ました顔で「褒めてもらえたわ」と礼を言った。




