05.手を取って
高鳴る胸に言い訳のように『ハンカチを返すだけ』、そう繰り返して馬車を降りるパトリツィアの手にはお礼のお菓子が抱えられている。今日は少し良いワンピース。髪はロープ編みをまとめた。
オスカーから手紙が来たのは少し前。綺麗な字の差出人はイニシャルのみ。家族には友達だとごまかした。気遣いとお誘いの文面に心を躍らせながらも悩み、勇気を出して返事を書いたが、やはり緊張する。
目の前に伸びた、ライマン邸の見事なアプローチは二又に分かれている。深呼吸をしながら植え込みの花を眺めていると、片方のアプローチの向こうに赤毛の男性が見えた。オスカーかと思って声を掛けようとすると、すぐ側に女性が駆け寄った。その人も赤毛だ。妹かとも思ったけれど、それよりずっと仲が良さそうな距離で手を繋いで歩いてくる。
パトリツィアは固まって動けなかった。
――ただ親切で仲良くしてくれた優しい人にお礼を言ってハンカチを返すだけ。そうよね。『友達』だもの。励ましと優しさに、随分自惚れて勘違いしてしまったわ。
鼻の奥がつんとする。2人が近づいてくるけれど、涙で滲んで良く見えない。
こちらに気が付いたような女性の声が聞こえた。
「あら、お客様? ねえ、何か聞いてる?」
「そういえば予定があるとか……」
知らない男性の声にはっとする。滲む視界で確認出来る限りでも、顔が見える距離まで近付いてきたその人の雰囲気は少し違う。
「ちょっと、エルマー。また適当なの……」
眼鏡をかけた女性の呆れ声。
「向こうが浮かれていてきちんと説明してもらえなかったんだよ、っと……こんにちは」
戸惑うパトリツィアは言葉を返せない。目を見開いてまだ少しぼやける男性を見上げた。
どことなく似た男女は礼儀正しく礼をした。
「初めまして。僕はエルマー・ライマンと申します。こちらは妻のニコラ」
「初めまして」
会釈を返すとようやく視界がはっきりしてきた。よく似ていながらも、ずっと涼し気な顔付きの別の人だった。
「オスカーのお客様ですか?」
「……パトリツィア・クランクと申します……オスカー様に御用があって参りました……」
ああ、とエルマーは眉を上げた。
「オスカーは僕の兄です。時間にルーズで申し訳ありません。ご案内します」
「いえ、あの、私が時間より大分前に参りまして……」
「お気になさらず。お荷物、お預かりします」
恐縮するパトリツィアから受け取った荷物は信じられない程に重い。エルマーは男性で重い本も持ち慣れているが、女性でこんな重い物を軽々持つとは何者かと内心で驚き、相手の正体を察した。
こちらへ、と歩き出す夫婦は雰囲気が穏やかで随分お似合いに見えた。素敵だなと思うと同時に、急に自分がこの場に不釣り合いな気がしてパトリツィアは悲しくなった。
さっき気が付いてしまったのだ。返事を書いた時は『ハンカチを返す』つもりで心を決めたし、さっきもそう思っていた。オスカーは親切な知り合い、お茶会の友達。
でも言い訳だった。もっと話したい、一緒に居たい。それが本心。2人の様子をオスカーと恋人だと勘違いして泣きそうになった時、『友達』だと自分に言い聞かせていた人の存在がどれだけ心に染み込んでいたか痛感した。
お茶会では皆紳士。でも噂や事情を知っても変わらず優しかったのはオスカーだけ。街で声を掛けたのは、令嬢にあるまじき食欲の自分を笑わず、会話を楽しんでくれた彼にお礼を言いたくて。迷惑にならないようにと思いながらも、笑顔を向けてしまったのは嬉しかったから。
パトリツィアはオスカーが好きなのだ。好きだからこそ、怖くなってしまった。先日可愛いご令嬢と話していた彼は自分とは違う。この気持ちも迷惑かもしれない。
「あの……もし、ご迷惑なら申し訳ありません。お借りしたハンカチをお返しするだけですのに……」
声に立ち止まった2人は不思議そうな顔でパトリツィアを見て、目配せし合ってからにこりと笑う。
「兄があなたを招待したんでしょう? 迷惑なんてまさか」
実の弟の意見で自分の想像より確かなはず。それでもパトリツィアはいたたまれない気持ちでいっぱいだった。
「いえ、あの。だってよく考えたら随分厚かましくて申し訳なくて……良くない噂もあるし、皆様にご迷惑ではと……」
「え?」
今度は2人がきょとんと固まった。パトリツィアは俯いてしまう。
短い沈黙を破ったのは明るい声だった。
「お気になさらないで下さい。ねぇエルマー」
顔を上げた先のニコラは笑顔で、隣のエルマーも涼しい顔で頷く。
「ええ。世間の事はあまり気にしない家です。特に噂話の類は」
冴えない表情のままのパトリツィアに2人は笑いかける。
「我が家は『病弱伯爵と引きこもりの弟』とずっと言われていて」
「私は『不細工な姉と美しい妹』と笑われていた時期があって」
パトリツィアはどちらの噂も耳にしていた。わざわざ確かめる性分ではないから、目の前の人達がそうだとは知らなかった。
「僕達は某公爵家の仲介で婚約しましたが、世間の美談と違って校内では冴えない赤毛のがり勉地味カップルと笑われていました」
公爵家がまとめた優秀な2人の素晴らしい縁談も耳にした事がある。嫌味は初耳だが、2人が嘘をつくとは思えない。汚い話が美談になるのもよくある事だ。
「でもこの家は誰も、どの噂も気にしていないわ」
この赤毛の女性は『美しい妹に比べて大分酷い』と陰で笑われていたその人なのだ。さぞ傷ついただろうに、と思うパトリツィアの前で彼女は続けた。
「きちんと自分を見てくれる人は必ずいるもの。相手にするのが楽しくなくて」
その言葉と2人の雰囲気にパトリツィアは卑屈になった事を恥じた。あの日のオスカーの優しい言葉を忘れてはいけない。
「ありがとうございます。私……オスカー様にも失礼でしたわ」
2人の笑顔に胸が温かくなる。暗い気持ちはどこかに消えていた。
「お2人もお優しくてしっかりしていらっしゃるのね。冴えないなんてとんでもないお話で、やっぱり紅茶みたいな髪色で素敵で――あ、すみません。私ってば食いしん坊でいつも食べ物の話ばかり……」
少し顔を赤くするパトリツィアに、ニコラの糸目が益々細くなる。
「そんな風に褒めていただいたの、初めてです。どうもありがとう」
その和やかな空気の中、玄関の扉を開けてオスカーが姿を見せた。
「あれ――遅刻したかな? いらっしゃい、パティ」
「こんにちは、オスカー様」
花がほころんだような笑顔にオスカーも嬉しそうな顔を返す。
現状を理解したオスカーは弟と義妹に礼を言い、弟の持つ荷物を受け取ろうとする。しかしエルマーには兄にこの重さが持てるとは思えない。彼女に気を遣わせるのはまずい。ぎゅっと眉を寄せて断る意思を示しながら、穏やかにエスコートを勧めた。兄は弟の真意には気が付かなかったが、この協力をありがたく受けることにした。
「こちらへ」
恭しくパティの手を取り、玄関ホールへ案内する。その最中にオスカーがパティの装いを褒めた。
オスカーはエルマーとは違う。社交慣れして女性を褒めるマナーには明るく、お世辞も気の利いた言葉も言える。勿論お茶会ではいつもそうしていた。
ただ家族の前でそんな姿を見せた事はない。兄の、知らない、あまり知りたくなかった一面に後ろを歩くエルマーの目が思わず細くなる。それをちらりと横目にニコラが小さく笑った。
ホールに入るとオスカーの後を追って迎えに出てきた使用人が荷物を受け取ってくれる。使用人は重さにぎょっとしながらも、エルマーの眉間の意味を読み取り、何も言わずにいてくれた。
2人に挨拶をしてホールを後にすると、出かける予定だったエルマーとニコラは馬車に乗り込んだ。
「重い荷物、『お2人も』、『やっぱり』、あの人が例の彼女か」
「そうね。紅茶みたいな髪色ですって。詩的で素敵ね」
「そうだね。随分ロマンチックな例えが存在したもんだ」
「本当に。食い気だと仰っていたけれど、私たちにはない発想でうらやましいわ」
自嘲気味に2人で笑う。お互いロマンチックもお世辞も縁遠いままだ。
「そんなおしゃれなこと言える気がしないや」
ニコラは隣の夫に薄く笑う。
「あの頃から何にも変わらないわね」
「もうずっとこのまま変わらな……あ、変わっていることもある」
「例えば?」
「まだカウチで寝てない」
「そうね」
得意げなエルマーに対し、片眉を上げて細めたニコラの目には“まだ、ね”という言葉が浮かんでいた。
「……厳しいなぁ」
むくれた調子で赤い跡の残る指を組むと、先程の兄の姿が思い出された。
「……さっきの兄さん、意外だったな。普段はああなのかな」
「多分ね。お茶会では皆あんな感じよ」
そういえば、前にさらっと積極的な事をアドバイスされた。知識だけだろうと思ったが本当に言えるのか、とエルマーは苦い顔になった。
「……見たくなかった」
先程よりひどい顔に二コラがふふっと笑う。
「家族だと気まずいかも。でもお茶会の男性は皆紳士で大袈裟よ。義兄さんより断然ロマンチックに……たまに何を言っているのかわからないくらい詩的な人もいるわ。妹を妖精だとかなんとか……」
エルマーが益々苦い顔になる。
「でも仰々しいと気味が悪いし、義兄さんくらいが丁度いいと思うわ」
そのニヤリと笑うような唇から、あなたも少しは見習ってほしいわ、と冗談が続くのを察してエルマーの頭は一瞬で正解を導き出した。間髪入れずに口を開く。
「見習いたいもんだね。僕なんかニコラが可愛いと思っても良い表現が浮かばなくて、上手に伝えられる気がしないから10回に1回くらいしか言えないし、かわりに抱きしめようかなと思っても、恥ずかしいから5回に1回くらいしか抱きしめられてない」
先手を打って笑うエルマーに対し、ニコラはうぐっと顔をしかめる。ニコラはニコラで、挨拶以外で自分からエルマーに触れるのに慣れない。優に30秒後、ニコラが手を伸ばして、満面の笑みのエルマーにぎゅっと抱き着いた。




