04.彼女の事情
雨の日の午後。オスカーは図書館を訪れ、何度も読んだ恋愛小説を手に取った。ぱらぱらとめくるシーンはどれも夢のようで、甘い言葉が並んでいる。
これに憧れたこともあった。しかし自分にはこんな素敵な話はないと理解している。自分でいいと言ってくれる人を探すだけだ。相手の幸せに努めながら、少しでも好きになれそうな――
ぼんやりと彼女の事を思い出す。今、自分の心にあるこの気持ちは果たして本当に『恋』だろうか。綺麗だとか素敵だとか、社交辞令は簡単だ。でもそれはただの言葉。恋はそれを尽くし切って超えていく、心を尽くして、身を焦がし、悶えるような、もっと情熱的なものだと思っていた。
――一緒にいると楽しい。会って話して、もっと知りたい。笑ってほしい。これで良いのだろうか。それに、彼女はこれを望んでくれるだろうか。
本を閉じて外の雨の音に耳を澄ませる。答えは出ないが、こんな雨の日に穏やかな時間を一緒に過ごせたらどんなに幸せだろうとそっと目を閉じた。
その次のお茶会は本格的にシーズンが始まったことで参加者が随分多かった。エルマーとニコラの『良い方の噂』を知る若い学生も増え、オスカーにも期待を込めて熱い視線を送る。勿論これまでも学生はいたが、何しろ人数が多い。何事かと思うオスカーだが当然心当たりはなく、さり気なく周囲を探った。
趣味ではないのであまりしてこなかったが、意識を傾けると噂というのは案外耳に入るものである。歓談するうちに、弟夫婦の校内での微笑ましい話を耳に挟み、全てを悟った。
オスカーが知っていたのは、レーガー家との見合いに割り込む形で某公爵家の推薦が入り、タウベルト家との縁談が決まったという事と、当事者の2人ともが『がり勉』と呼ばれ、恋愛に疎いという事だけ。なので、今の情報にあの弟が、と思いもしたが先日のニコラの言葉を思い出してすぐ弟の作戦を理解した。上手くやったものである。本当にお似合いの2人だと思い直す。
いつものように自己紹介と簡単な会話の流れを繰り返す。ご令嬢たちの数人は話を聞いても“エルマーの兄”への視線を変えなかったが、オスカー自身は全く心を動かされなかった。愛らしい小鳥のような彼女たちは、それこそ小説の登場人物のように美しく着飾り、貴族の令嬢として完璧だ。目の前に描いているそれも、ロマンチックな恋愛模様だとわかる。自分がいつか憧れ、目指すべきそれかもしれない。けれど、今のオスカーには随分遠くに思えた。
当たり障りのない会話を繰り返し、会も半ばを過ぎた頃、パトリツィアが現れた。今日もフリルが見事なドレスだ。前かがみでちょこちょこ動いているが十分目立つ。彼女は顔見知りに挨拶をしながら、隅のテーブルに近寄っていく。
挨拶をと思ってふと迷う。事情も曖昧に縮こまっていた先日の姿から察するに、お茶会で話し掛けるのは迷惑かもしれない。自分だってある意味目立つ貴族だ。さっきも自己紹介をしたご令嬢の顔が陰ったばかり。
挨拶を終えた彼女がテーブルの隅の席に腰かけた。と、目があった。
オスカーより先にパトリツィアが優しく笑い会釈をした。嬉しくなったオスカーはさっきの思考を脇に避けて、挨拶に向かう。
「こんにちは。この前は大丈夫だった?」
「こんにちは。……その節はご親切にありがとうございました」
『お茶会向け』の彼女が極めて小さな声で返事をする。
「いいや、あの時間に1人で帰す方が問題ある。ご両親もさぞや心配をと思う。よければお詫びに……」
「お家の手前で降ろしていただいたので、両親は何も……!」
慌てる様子にオスカーは奇妙な感覚を思い出す。あの日も怯えるように随分遠慮されたのだ。彼女の隣の椅子を少しだけ離して座ろうとすると、揺れる瞳の彼女が僅かに俯いた。
オスカーがゆっくり腰を下ろしてすぐ、パトリツィアが俯きがちにぽそぽそと話し始める。
「私、オスカー様にお詫びを申し上げないとならないのです。どうか、黙って聞いてすぐにここを離れて下さい」
よそ行きの声は少し震えている。
「私の噂はご存知ですか? 『行き遅れの貧乏怪力大食い女』と呼ばれており、恥ずかしながらその通りです。美味しいものに目がなく、お茶会では食べてばかり。貴族の令嬢には相応しくないような重い物も平気で、ジャムの瓶の蓋も軽々開けられます。年齢に加えて、家も伯爵ではありますが財が厳しく、私の持参金のために人手を減らして、私自身がお手伝いをする状況です」
支度金が廃止になったこの時代、持参金貧乏は珍しくない。
クレンク家は長男が家を継ぎ、娘2人を嫁がせる予定だった。資金にも問題はなかったが、予定通りにいかなかった。パトリツィアの姉が恋をしたのは侯爵家の嫡男、喜ばしいその結婚には莫大な持参金がかかった。持参金は離縁後の妻の生活費でもあり、婚家の資産でその目安が異なる。当主は算出した持参金に目が飛び出さんばかりに驚いたが、想い合う2人を引き離すことはできない。粗末な額を持たせれば世間体にも関わる。妹の持参金を削って工面せざるを得なかった。
当時のパトリツィアはまだ学生。縁談が一切ない状態だったので、事情を聞いてもその日までにどうにか出来ると楽観的であった。だがパトリツィアの縁談は決まらない。これには体型も関係した。コルセットが武器でなくなった時代を経ても、世の中は細身な女性が中心。ふくよかなパトリツィアは人気がなかった。おまけにお金も少ないのだから当然。
両親も縁談を探したが良い話はない。人手を減らし、本人に家の手伝いをさせ、持参金を貯め直すしかなかった。家庭教師という働き口もあるが、働いた女は益々嫁ぎ先が少ないとも言われる。お金を増やす間に良縁に出会うことを祈りながら、娘をお茶会に出席させた。パトリツィア自身は結婚でも就業でも一昔前のように修道院でも構わない。ただ家のお荷物になるのだけは嫌だった。だから出来ることは快諾して受け入れている。
「あの町着はお手伝い用に買いましたの。一度ドレスで出掛けたのをどなたかに見られまして……」
さぞ嫌な思いをしただろう、思わずオスカーは目を細める。使用人のような生活をさせられているのかとも思ったが、次の瞬間彼女がそれを否定する。
「お手伝いは楽しく、シンプルな町着も大好きです。でも伯爵令嬢らしくはありません。悪く言われて当然。両親は私をとても大事にしてくれていて、結婚を望んでいます。そのためよそ行きのドレスは少しでも可愛く見えるようにと派手なデザイン、おまけに異性関係に敏感で……それで先日も失礼とは思いながらきつくお断りを……」
申し訳ありませんでした、とぽつりと呟く声が随分悲し気に聞こえた。
「両親には申し訳ないのですが、私自身は噂が広まるにつれて、こんな私はお相手の迷惑になるのではと思うようになりました。それまでは楽しく参加していましたが……大人しく目立たなければ、例えお話があってもそれなりのお話だけになるでしょうし、受け入れてくれる方がいらっしゃればと考えていました。でも今はもうなくていいとすら思います。妙な形でお姉様の耳に入るくらいなら名前を変えて働いた方が良いですもの」
緩い笑顔は穏やかで無理をしているようには見えない。一緒に馬車に乗るのを避けたのも、そのためだったのだ。
カップを傾けると、紅茶は最後の一口だった。
「今日までお話しなくてごめんなさい。ご一緒するのが楽しくてうっかりしてしまったとはいえ、これ以上は本当にオスカー様のご迷惑になるのではと思います。ここにいてはあらぬ誤解を受けてしまいますわ。さぁ」
彼女がちらりと見る先は賑やかな女の子たちの輪がある。
オスカーは僅かに腹を立てていた。噂がここまで彼女を追い詰めていることにも、この状況で彼女が「自分と話すのが楽しい」と言ってくれたことが嬉しいと思う自分自身にも。それなのに、何も返せないことにも。
「……僕はここにいるよ」
彼女は驚いた顔でオスカーを見た。
「君が嫌でないならここにいる。例え噂がどんなに本当でも、僕は元気なパティを素敵だと思うよ」
お礼の言葉と共にぽろりとこぼれた涙に、そっとハンカチを差し出した。
※ルビ・傍点が表示されない方へ
以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます
察するに、お茶会で→「お茶会」に ここ




