02.ライマン家
家に帰ると弟が本邸に来ていた。勤め始めたエルマーは赤毛のふわふわした部分をきっちりと撫でつけ、かなり大人びた印象になった。オスカーは普段はふわふわさせたままなので、並ぶとエルマーの方が年上に見える。
今日は職場でハーブティーの試作と試飲があり、参考に茶葉を買ったのだという。
「兄さんの方が詳しいから頼みたくて。これ、3つ飲んで感想を聞かせて」
並んだ3つのカップのお茶の色は全て異なる。配合を変えたものらしい。
昔、ライマン家ではハーブティーが主流だった。病弱だったオスカーの為のもので、免疫の向上や症状を穏やかにするものなど、よく世話になった。丈夫になって以来、主流の飲物は紅茶になったが今でもたまに楽しんでいる。
「飲みやすいのはこれ。……だけど香りが薄いから、これの方がいいかな」
メモを取るエルマーの真剣な姿に、弟の部署はこんな仕事内容だったかな? と疑問が持ちあがる。
「何の調査だい?」
「薬学から回ってきた。飲みにくいハーブティーの改良案らしいんだけど、僕は元々得意じゃないから詳しくなくて……」
へぇ、と思って気が付く。仕事でないならわざわざ家で試作する必要はないはず。これは本人の好奇心から来た行動だ。こういう知的好奇心は自分にはないもので本当に感心するばかりだ。
「ニコラは?」
「彼女もハーブはあまり。元々甘いものが好きだからか、オーソドックスな茶葉が好きでね。兄さんがいてくれて良かったよ」
ペンを走らせてから、味がしないと返したカップに口を付ける弟を見て兄は思う。弟も随分変わったな、と。昔は人の好みに興味なんてなかった。興味があるのは現象や物事だけだったのに。
微笑ましい気持ちで普段聞かない話題を振る。
「ニコラとは上手くいってるみたいだね」
ぐずっとお茶を噴き出した音がした。くぐもった声が返ってくる。
「……おかげ様で」
相変わらずこの手の話題は苦手らしい。結婚当初に聞いて睨まれて以来遠慮していた。並んでいる時は自然に仲が良さそうなのに、改めて調子を聞くと恥ずかしそうにするのが微笑ましい。にやりと笑うと、じとりとした目でやり返された。
「……兄さんこそ、お茶会はどう? そろそろ厳しいシーズンじゃない?」
兄が毎年この時期は憂鬱そうなのは弟も知っている。学生時代から始まった、人付き合いに疲れる季節。おまけに今年は既にいつもより多くのお茶会に出ており、いつもに増して母親が熱心に尻を叩いている。
オスカーはため息を隠す。
「まぁね。ぼちぼち……と、言いたいけれど難しいところだ」
と、そこで彼女のことを思い出す。
「面白くて可愛いご令嬢はいた」
「へぇ、どんな?」
「うーん……よく食べて可愛い、健康的なお嬢さんだった」
「よく食べ……?」
お茶会に参加したことのないエルマーでもわかる。お茶会でたくさん食べるご令嬢など普通ではない。皆小食ぶって少ししか食べないはずだ。兄は随分珍しい人に出会ったらしい。
「うん。今日もたまたま会った。ジャムの小瓶をたくさん抱えていたよ。力持ちだと話していたけれど、いやぁ凄いなぁと」
いくら身分制度がとても窮屈な時代ではないとはいえ、貴族の娘がたくさんのジャムを抱えているなんて奇妙だ。断片的かつ謎の情報で相手を想像できないエルマーが怪訝な顔をすると、オスカーは困ったように笑った。
「さてね、事情は知らないんだ。彼女、お茶会で色々言われているから、聞くのは憚られる」
ある程度致し方ない事だが、これはオスカーの良いところであり悪いところだ。お茶会で値踏みされ離れられることを繰り返し、叶わない可能性の高い恋をしないようにしてきた結果、無意識で自然と距離を取ってしまう。
付き合い方こそ特殊なものの、長年弟をやっているエルマーは、自分より友人や知人が多い兄のそんな特徴には気が付いていた。兄が誰かの話をすること自体がこの頃では珍しい。だからこそ、そこに意味を見出す。
「……また会えるといいね」
「……うん」
そこでオスカーは気付いた。長年お茶会に出ているが、彼女と話したのはこの前が初めて。意識したことがなかったが、姿を目にするのも稀な気がする。この前も今日も運が良かっただけ。次はいつ話せるだろうか。途端に残念な気持ちが戻ってくる。
沈んでしまったオスカーを見て、急かしてしまったかとエルマーは少し焦った。
「ごめん。急かすつもりはないんだ。兄さんには幸せになってほしいけれど、もし無理に決めるくらいなら――」
目が合えばお互いに相手が何を思うかはわかる。だからこの言葉は続かなかった。兄弟はそっと薄く笑い合った。
離れに帰ったエルマーをニコラが迎える。
「おかえりなさい」
「ただいま。本邸に寄り道してた」
おかえりなさいの挨拶のキスをすると、エルマーがぐっと息を止める。これはニコラの家の習慣だ。
実家の習慣を持ち込むのはどうかとも思ったが、エルマーの図書館に帰る日常を知ってから考えていたことで、思い切って提案してみた。険悪な訳ではなく、家族と距離を遠くしてしまったエルマーに、少しでも人との距離をと思ってのことだ。提案はすんなり受け入れてもらえたのだが、実際は中々だった。頬を寄せるだけのキスだが、エルマーが恥ずかしさで固まってしまい、半年経った今も妙な空気になる。それでも徐々に変わりつつあるし、止めようとは言わない。そんな様子をニコラは微笑ましく思っていた。
ソファに座ったエルマーがニコラを隣に座らせる。ニコラの服はエルマーが贈ったものだ。色もデザインも控えめで、飾りは襟のレースとウエストの背中部分の大きなリボンだけ。よく似合い、本人も気に入っている。
髪型はアレンジしているが眼鏡はそのまま、ニコラの容姿はほとんど変わらない。コンタクトレンズを長時間入れると目が疲れるらしく、あれはおしゃれする日限定の特別な道具になりつつある。ニコラの妹は残念がったがエルマーは構わない。彼女が気に入る格好をしているのが一番だ。
2人で選んだ布地のソファは座り心地が良く、体を穏やかに受け止めてくれる。
「ニコラはお茶会に出ていた時期があるんだっけ?」
「ええ、妹の付き添いでね」
「お茶会って、どういう雰囲気なの?」
その質問にニコラが不思議そうな顔を返す。
「どうしたの? あなたがそんなことに興味持つなんて……」
「ああ、兄さんのことで」
そう言われれば、ニコラにもわかる。
「あら、素敵な人に出会ったの?」
「いや、それが残念。悪意からどう庇ったものかと悩んでいるらしい」
『彼女を知るのが憚られる』状況なのは察した。お茶会ではないがエルマーだって貴族の学校に通った。噂はどこにでもあるし、憚られるのは大概が異性同士の問題。女性同士のいざこざに男性は口を挟みづらい。原因が何であれ、介入して宥めることは中々難しく、下手をすれば自分の評判が暴落する。もっと下手をすれば、救いたい相手が益々厳しい状況に追い込まれる恐れがある。本末転倒だ。
そもそもオスカーは優しい。穏便に済ませたいのはわかる。
「お茶会は扇の奥のやり合いがひどいから……男性が関わると庇われた方の立場が悪くなりそうね」
真剣に答えてから、心配そうな顔のエルマーに気が付いて言葉を足した。
「エルマーなら容赦なく相手をキリキリ追い詰めるでしょうけど……」
心配そうな風を装ったニコラの唇から紡がれる言葉がエルマーをつねる。
「……そりゃ言われている事が理不尽な事だったらね。でも優しい兄さんにそれが出来ると思えないよ」
「そうね。けど、あなたのお兄さんだもの。優しいからこそ、大丈夫よ」
にっこり笑う妻の励ましが嬉しくてエルマーはぎゅっとその手を握った。
笑顔の裏でニコラは考えていた。綺麗な扇の奥の妬み嫉み。醜いそれを振り払えない人が幸せになる方法を。




