20.過ぎる日々
穏やかに中庭のベンチに座っているニコラの元へエルマーが歩いてくる。気配に気づいたニコラがゆっくりと本を閉じ、昼食のクロスとバスケットを広げる。エルマーが着席する頃には準備が整っていた。
「今日の昼食、あなたの好きなマーマレードのサンドイッチよ」
「それは嬉しいね」
パラフィン紙の包みを食べやすいように少し開いてパンを手渡す。ふわりと優しい空気がベンチの周りに漂う。あの約束からしばらく、ニコラはエルマーの分の昼食も作るようになっていた。同じ中身を半分こする。奇妙な幸せ。
ニコラの手元の本の、半分以上進んだところにしおりが挟まっているのを見てエルマーが片眉を上げる。
「その本、もうそこまで読み進めたの?」
「ええ。おすすめしてくれてありがとう。自分では読まないタイプの本だったから新鮮で、とても楽しいわ。あなたがこれのせいで寝不足になったのも頷ける」
それはいつぞやのエルマーを寝不足にさせた本だった。
談笑する様子はまるで夫婦。新婚のような熱量はないが、温かい優しい雰囲気は教室の窓からもうかがえる。
事実、演技ではなく2人の仲は良い。計画の効果もあってたった数ヶ月の間でもお互いのことはよく理解している。特に他人の機微に敏感な女性、ニコラはエルマーのことなら大体わかるようになっていた。
「首が痛い」
「またあそこで寝たの?」
「少し眠い」
「新しい本買った?」
「……」
「今日、少し疲れてるわね」
そんなやりとりはいつものこと。好奇心の限りに本を読むエルマーを温かく見守るその雰囲気は「不愛想で小さな目でいつも誰かを睨んでいる赤毛」ではない。ニコラもエルマー同様に本を読む。むしろエルマーよりよく読む。ただちょっとお行儀がいいだけだ。
エルマーもエルマーで、わかりにくいニコラの小さな変化によく気が付く。
「ニコラ」
「はい」
いつだってそうかなと思った時に手を差し出し、ニコラは必ず菫色の目をわずかに輝かせる。重い本はいつだってエルマーが持つ。日傘もエルマーがかざす。何も言わなくてもいつでもニコラを優先した。
別に腕を組んだり、腰を抱いたりキスをしたり、ベタベタする訳ではない。学生らしい距離感。たまに自分の変化や相手の態度に我に返って照れたりもするが、2人にとってはそれも幸せだった。
変わったのは2人だけではない。少し前、がり勉カップルとからかっていた生徒の大半が、2人をうらやましそうに見ている。地味に残っていたからかう声も、穏やかな2人の様子に次第に減り、そんな噂はなかったように収束してしまった。
今や「理想の婚約の在り方」「理想の夫婦像」として、2人を見て頬を染める女性徒まで出てくる始末である。
最後のテストは少し前に無事に終わった。結果、2人とも満点で同着首位だった。健闘を称えあった2人だが、総合でニコラの勝利である。エルマーは隠しもせずに最後くらい君に勝ちたかったよとこぼしてニコラが笑い飛ばした。
テストが終わってしまえば、卒業まで緩やかなひと月が過ぎるだけだ。仕事が決まっていない生徒は、この間に学校の成績を持って就職活動を始める。見習いが始まる仕事の者は放課後に見習いを始める。
エルマーとニコラは文官になる。文官の仕事は仕事場からの持ち出しが厳禁。そのため2人は今特にすることがない。予習と称して自主的に学ぶことは出来るが、どの部署に配属になるかわからない以上、浅く広くするしかない。そしてそれは文官の試験を受ける時にほとんど終わっていることばかりだった。
急に手持無沙汰になった、ということはない。2人には大事な計画がある。卒業して、成人して、結婚する。その途中で変身を遂げる必要がある。
テストの翌日、学校に衝撃が走った。
エルマーが髪を切ったのだ。それはもう信じられないくらいの変化だった。周りが静かにざわつくのを本人は気にした様子もなく、返却される満点のテストの答案を澄ました顔で見つめ、ニコラの隣で昼食を食べ、帰りの馬車まで送った。そしてその日以来、昼食の際に迎えに来ることはなく、2人は中庭で待ち合わせて過ごしている。
その時にはまだ一部いた、追ってまでからかいたい愚か者は校舎から中庭を見下ろし、妙に虚しい気持ちに襲われた。
アンゼルマ・レーガーは舌打ちをしたい気分だった。がり勉カップルと笑われていたエルマーとニコラが理想の夫婦像と言われているのを耳にしてから数日。同じクラスのニコラは相変わらず地味で野暮ったい。愛想だってない。
だが、エルマーと昼食を食べる時は笑っているようだし、前より肌や髪に艶がある。こんな些細なことでうらやましいとは思わないけれど、毎日が楽しそうでなんだか忌々しい。
何よりエルマーだ。これまで数年ずっと妙なブロッコリーだったのに、卒業まであと少しになった今、急に小綺麗にしてきた。
ぼさぼさだった巻き毛は整えられ、耳周りは少し刈り込み、顔周りは後ろに流してある。前髪で隠れていた目元は涼し気な印象で理知的、きつくなりそうなところだが髪質との関係で柔らかい雰囲気をまとっていた。感情の起伏が少ないのが不気味に思えていたが、気だるげな口調も、派手で大袈裟な貴族たちの中、今では穏やかに感じられる。色気付いたと言えばそうだが、女受けするおしゃれを始めた訳ではないので少しニュアンスが違う。
当然見た目が変わっただけでエルマーを好きになどならない。でも、今の許せる範囲の容姿やニコラとの雰囲気や将来性を思えば、あの縁談を断ったことが妙に惜しく思えてきてしまう。
あの見合いの頃は、就職しない女生徒にとっての婚約ラッシュだった。断っても後がある状態で、アンゼルマもあの後割と早く婚約を決める事が出来た。同じ伯爵家で、顔も成績も悪くなくて優しいが至って平凡、どこにでもいる普通の男性だ。
あの婚約ラッシュの時、文官という魅力的な仕事に就くとわかっていながら、どの家も申し込まなかったエルマー・ライマン。あんなのと結婚するなんて嫌だと泣いても聞き入れてくれない両親に見切りをつけて、リーンハルトに相談して、同じように地味であぶれていた嫌いなニコラ・タウベルトとくっつけてもらったのに、こんなことになるなんて。
出来ることなら、あれをきっかけにリーンハルトと近付きたいと思っていたアンゼルマの読みが外れたのも後悔の1つだった。元々美しさには自信があったし、リーンハルトに会う時はとびきり綺麗に着飾って、涙も綺麗に使ったつもりだったのに。あれ以来、話しかけても特に親し気な気配は出してくれなかった。お困りなら力を貸そうと言ってはくれるが、リーンハルトの方からアンゼルマに近寄るようなことはない。
そしてリーンハルト自身はアンゼルマよりはやや不器量なものの、一般的には美しい女性との婚約を決めてしまった。これも悔しい。美貌で言えば自分の方が絶対的に上なのにと爪をかんだ。
――まあ、婚約者は侯爵家の方だと聞くし、私は伯爵家。家柄で無理があるのよね。
自分を納得させる理由を身分にして、なんとか気分を落ち着ける。
だからこそ、その時は思いもしなかったエルマーが急に惜しく見えてくる。
――あんなに変わるなら我慢できたかもしれない。
とはいえ今更も今更でなくても、自分から積極的に関わることはしたくない。悔しく思っても隣に居るのがニコラなら、その点だけでも自分は勝っている。そう思ってやり過ごしていた。




