19.少しだけ苦いジャム
テストを1週間後に控えながら、エルマーは気になっていた新しい本を買ってしまった。誤って深夜まで本を読みふけり、今日は朝からぼんやりしている。ニコラとの昼食の時間も、食事を摂りながらぼんやりしていた。
「ちょっと、エルマー?」
ニコラの呼びかけにも反応はない。勉強のしすぎかと呆れつつ、ひとつからかってやろうと思うニコラ。
エルマーの昼食の包みを取り上げ、代わりに自分の包みを寄せてみた。ぼんやりしたままのエルマーは何も確かめもせずに、すいっとサンドイッチを取ってそのまま口に運んだ。
「……ん? 何これ?」
さっきまでと違うパンの食感、慣れない具材に驚きながら視線を移すと、自分のではない弁当箱が目に入る。その隣の少女はしてやったりと笑っている。
「……ニコラの?」
「そうよ。声を掛けても、お弁当を入れ替えても気付かなくて面白かったわ」
さすがに恥ずかしそうにすると思ったが、エルマーの反応は予想の斜め上を飛んでいく。
「これ、すごくおいしい」
目を輝かせ、あっという間に口に頬張ってしまったサンドイッチはマーマレードだ。領地で採れるオレンジを使っている。
「マーマレードね。それ、私が作ったジャムなの」
「手作り。すごいな。もう1つもらってもいい?」
あまりにも嬉しそうなエルマーの様子にこちらも胸が弾む。
「勿論、どうぞ」
「ありがとう。良かったら僕のお弁当どうぞ。今日のおすすめはハムときゅうり。僕はブロッコリーが1番好きなんだけど、こぼれるから学校には持ってきてない」
「ブロッコリー? 珍しいわね。ちょっと気になるわ……」
ニコラがハムときゅうりのサンドイッチを口に運ぶのを見て、エルマーは2つめのマーマレードを手に取る。
「今度、うちに来た時にごちそうするよ。この前のマフィンも上手に焼けていて美味しかったけど、ニコラは料理が好きなの?」
「ええ。お料理って実験に近いじゃない。化学反応として飽きないわね」
なんともニコラらしい回答にエルマーは笑う。料理を化学反応だと考えたことがなかった。そういえば、マフィンの作り方の話の時に、砂糖の水分のことを話していた。
「へぇ。僕はあんまり食べ物には関心がないタイプだから、そういう観点で考えられるのはすごくうらやましいや」
あまり見せない笑顔で2つ目のマーマレードのサンドイッチを味わうエルマー。疲れた頭にジャムの甘みが染みる。
ふと、ニコラの頭に1つの提案が浮かぶ。
「……良かったら、あなたの分も作りましょうか?」
「えっ。いいの?」
「勿論。ジャムならたくさんあるし、わけないわ」
「ありがとう。楽しみにしてる」
無邪気に笑うエルマーはとても可愛かった。
リーンハルトは考えていた。悩ましい問題が頭の中をぐるぐる回る。悩んだところでどうしようもないのだが、それを振り払えずにいた。
リーンハルトは先日婚約をした。
本音を言えば、在学中は婚約せず女性陣のナイトとして振る舞いたかったが、よその家の見合いに介入したのをきっかけに、両親から迫られるようになってしまった。仕方なく目を通し始めた縁談の釣書が短期間で変わるにつれ、覚悟を決めた。
公爵家に持ち込まれる縁談の数は多い。爵位の高い家は当然、爵位が低くても娘本人か家側になんらかの取り柄のある家が、あわよくばと狙って送ってくることもある。リーンハルトは相応しい家柄の中から、噂に縁遠そうな女性を選んだ。
公爵家という社会的立場の強い家の妻には、ある程度強かな女性であることが望ましくその必要があるが、これが案外難しい。高位貴族に嫁入りするその類の女性は女当主達とは違い、大概権力に溺れやすい。釣書の内容が徐々にそちらに偏るのを見て、潮時だと判断したというわけだった。
婚約者は1つ歳下だ。美しく賢いが目立たない。リーンハルトの周りに近寄る華やかで賑々しいご令嬢とはタイプが違う。下の学年では評判の才女ではあるがニコラには及ばない。美しさもハンナやアンゼルマには及ばない。のんびりした性格で、ちょっとみただけでは権力者の妻向きでもない彼女。だがそれでいい。自分の交友関係に嫉妬したり、自分への周りの意見を真実と押し付けてこない冷静さを重要視したのだ。
先日の夜会で婚約を発表し、婚約者を伴って挨拶をして回った。この時、周りの人から、祝いの言葉の次にかけられた言葉がある。
「良い縁談をまとめられましたなぁ。さすが次期公爵様だ」
その称賛は、リーンハルトの親世代、大概が国の大事な役職に就いている人から始まったものだ。
“良い縁談”、それは勿論リーンハルトのそれではない。リーンハルトの婚約祝いの流れで述べられるそれは“あの2人の縁談”だ。
この時の情報で、2人がここ数年の文官の中で2トップの成績で入試を通過したことを知った。優秀な2人のことは既に評判になっており、その2人が婚約、仲を取り持ったのはラングハイム公爵家だと、さすがの審美眼だという話らしい。
この出来事はリーンハルトを涼しくさせた。
元より自分からボロを出すつもりはなかったが、困ったことになった。公爵位を継ぐ前にあの2人が何か言い出せば、横暴な婚約を仲介した自分の立場が危うい。今更ながらに冷や汗をかいた。
止めを刺したのは婚約者の愛らしい口から出た言葉だった。学校の後輩でもある彼女は無邪気な笑顔でリーンハルトを追い詰めた。
「タウベルト様のご婚約はリーンハルト様のお口添えあってのことと聞いて、素晴らしいと思っておりましたの。タウベルト様がライマン様をお好きだなんて存じ上げませんでしたけれど、私たちの間では、あんな優秀なお2人がご結婚なさったら素敵ねって話しておりましたから……ライマン様はご結婚にはご興味がないと聞いて、残念に思っておりましたもので余計に」
“結婚に興味がない“、背中に氷をあてられたような衝撃に肩が震えるが、平静を装って訊ねる。
「おや、エルマー・ライマンの件を君はどこで?」
「お茶会です。あの方のお兄様がご出席で……お兄様が仰るには『弟は結婚に興味がなくて』と。確かにいつもお兄様お1人でいらっしゃるのです」
それから彼女はライマン家の兄弟仲は良さそうであること、穏やかそうな人が隠していた賢いニコラへの恋はロマンチックだとうっとりと続けた。1つ下の学年の秀才グループではがり勉のからかいは存在しないらしい。
リーンハルトは益々背中が冷える。あの時エルマーの言っていたことが本当であったら。
だが、アンゼルマに出会ってその美しさに気持ちが変わった可能性はあるはずだ。アンゼルマ欲しさに気持ちが……しかしそれならあの時もっと真剣に相手をしてきてもいいはずだし、どうして不器量なニコラとあそこまで親し気にする。
夜会中のリーンハルトは可愛い婚約者の呼び声にその考えを振り切った。目の前の彼女や大人が自分の行いを褒めている、その方が大事だ。
それでもこうして学校で2人を見るたびに思う。自分は正しかったのか? アンゼルマ・レーガーの話は本当だったのか? その疑問が胸にモヤを残す。
あれ以来、アンゼルマとは関わっていない。元より、数多くいる女生徒の特定の人物と仲良くすることは避けていた。リーンハルトは“誰にでも優しい公平なみんなの王子様”であるから。正式に婚約を決めた今も、その気持ちだけは変わらない。だからこそ、彼女を問い詰めることもできず、ただ省察する思考を抱えることしかできずにいた。




