17.ケンカ
季節は進み、すっかり夏だ。
2人にとっては穏やかな日々が続いたが、ひと月後にテストが迫った。学生生活最後のこのテストは最後の勝負だ。社会人になればこんな機会はない。これまでの回数を数えた総合順位はニコラだが、最後のテストで首位を飾れればエルマーだって誉高い。
先日の昼にテストについて話し合った2人はわからないところは教え合い、そのうえで全力を尽くすことを誓ったのだった。中庭でののんびりした昼食は週に1度だけになり、他の日は図書館脇で急いで食べて、すぐに勉強に取り掛かるふた月を送っていた。
当然、休みの日も勉強をするため、外に出かけることは控えていた。専ら、エルマーの図書館で勉強している。
例の追加の計画は水面下で下準備をし、テストが終わってから本格的に始める。今は大人しく、学生らしい範囲でそれぞれの日常を過ごす。
最近ではからかうネタに飽きてきた生徒たちは、2人のことなど横目で見る程度。一部の生徒が「がり勉」と笑うだけ。最後のテストなど関係のない成績の者は非常に呑気に過ごしていたし、まだ就職が決まらず焦っている者は最後のテストの成績を就職に役立てようと、2人をからかえないほどに机にかじりついた。
テストから先1か月で卒業だ。最後の学生生活をどう過ごすか、全員が他人に構う暇よりも自分のことを考える時を迎えていた。
その、週に1度ののんびりした昼食の時。
「ニコラ、ケンカをしてみよう」
唐突過ぎるエルマーの提案に、ニコラは最後の一口をそのままにエルマーの方を見る。
「え?」
「いつも仲良しだと怪しい。たまには……そうだな、テストの件でケンカとかしない? テストではライバルだし」
「……あなた、ケンカなんて買わずに鼻で笑うタイプじゃない……」
「実際には鼻で笑って買う。でも、だからだよ。『ニコラには違う』ということが大事」
言いながら手に持った例の参考書を広げる。
「ケンカしてるシーンあったよね。……えーと……」
なんという冗談を言いだすものかと、ニコラは呆れながらエルマーを見る。
「あったよ。『どうしてあなたっていつもそうなの』」
「本気なの? エルマー」
「うん、まあ」
随分軽い返事が返ってきたものの、わざわざページまで探し出すあたり、ニコラ次第では実行する程度には本気なのがわかる。不自然だと言うエルマーの意見はいまいちあれだが、心配になる気持ちはわかる。でも、ケンカは無理だ。
これまでだってエルマーに対し、「何を言うの、この人は」と思ったことがない訳ではない。けれどそのどれもが「理由を聞こう」や「この人のことだからきっと何かある」という考えで止められて、怒りや不愉快の対象にまではなり得なかったのである。理由に呆れたりすることがあったものの、やはり怒りの感情は起こらなかった。
ニコラ自身、割と感情的な自覚はあるが、そんなセリフのような言い回しで悪意も敵意もない目の前の男と言い争える気はしない。あの見合いの時だって、腹が立っていたのはリーンハルトに対してで、エルマーに対してではない。ケンカなんて出来る気がしなかった。
「うーん……ケンカって結構エネルギー使って大変なのよ」
すると目の前の男はちょっとがっかりしたように本を下げ、それから頷いた。
「そうか。ハンナとは喧嘩する?」
「妹とはそんなに。兄とはたまに」
「そうなんだ。お兄さんとは会ったことがないから、今度挨拶をしないと」
ニコラの兄は2つ上だ。当主教育の都合で領地に戻っており、婚約のことも手紙で伝えたきり。結婚式には戻ってくる。ニコラは兄と似ており、感情的な2人はよくケンカをしていた。因みに兄の顔も地味だ。
「エルマーは……なさそうね」
「兄さん、穏やかだから」
「そうよね……」
ケンカしようという謎の提案からも、ライマン家でお茶する時の兄弟の様子からも、激論とも取っ組み合いとも縁がなさそうな気配。
いつも利口なエルマーの呑気さに微笑ましさと戸惑いのような気持ちを抱えて、ニコラは小さくため息をつくと最後の一口を片付けた。
沈黙が中庭を満たした。2人には無理そうである。
あっとエルマーが声を上げる。
「もしかして、僕より兄さんの方がタイプ?」
「えっ?!」
ぎょっとしてエルマーを見るとじとっと目を細めてこちらを見ている。
「ニコラはよく兄さんのことを話題にするだろ。この前も僕のこと兄さんに似てるって……。確かに兄さんは格好いいし、穏やかだし、ニコラが好きになるのも無理はないけど」
「ちょ……ちょっと……!」
焦るニコラ。
言葉の通り、同じ赤毛でもオスカーはエルマーに比べると見た目が良い。病弱だという噂さえなければ、幼い頃からそれなりに優良株扱いだっただろう。性格の穏やかさで結婚などすぐに決まりそうに見える。それを引きずって未だに決まっていないのが不思議なくらいだ。だがニコラにとっては優しい義兄であり、それ以上でも何でもない。会話に出てくるのはエルマーと、実兄とオスカーしか距離が近い男性がいないからだ。
この前エルマーをかっこいいと思ってからオスカーと顔を合わせる機会はあったけれど、エルマーに対する感情と同じ言葉は脳内辞書から引き出せなかった。違うのだ。
「そんなことないわ。そんなこと……ただ、本当に似ていたからそう言っただけで」
そこでちょっとだけ、マフィン作りの日のエルマーとハンナの空気を思い出す。アンゼルマ程の美人に興味がないエルマーのことだから、妹にも興味がないことはわかる。だから嫉妬心はないが、自分には妹のような可愛気がないと兄に言われたことがそれに絡んで、惨めな気持ちが首をもたげた。
「あなたこそ、本当は私と結婚なんて嫌なんじゃないの? 地味で頭でっかちでつまらないもの」
つっけんどんに口からでた言葉には結構な棘があった。この言い方では同じく勉強好きのエルマーに、巧妙に隠した悪意と取られても仕方ない言葉だった。
ニコラがしまったと思うと同時に、エルマーはにっこり笑った。
「そんなことないよ。ニコラは可愛いし頭が良い。一緒にいると落ち着くし、僕は君が好きだよ」
ケンカの提案より数倍驚く半面、ニコラの脳は冷静に文字を処理する。
「えっ。あっ……あ……ありがとう…………」
褒められたら礼を言う、その答えは出せた。
「ニコラは?」
突然の質問にその意味を理解し回答を探そうとする。
「僕のこと好き?」
それは出来なかった。この質問は予想外。情報処理の範疇を超えた。
ニコラは言葉に詰まって真っ赤になる。
「そりゃ……まぁ……」
しどろもどろな言葉しか口から出てこない。
ここでタイミングよくチャイムが鳴り、エルマーがいつもの調子で言う。
「戻ろうか」
息をのんで見つめていたエルマーの瞳はとても演技とは思えないほど真剣だった。笑っていたその笑顔が、本当に笑っていたのかもわからない。記憶力が良いニコラだがいつものエルマーの笑顔が思い出せない。
いつもだったら始めから全部計画でこれもまた冗談か、となるところだが、今の瞳の真剣さに、ニコラは何も言えずにただ隣を歩いた。




