16.一方的には愉快な話
「それで? 何があったの?」
焼成中のマフィンを前にエルマーは隣のニコラに訊ねる。今ここには2人しかいない。
ハンナは「マフィンを婚約者の家に持って行くの」とうきうきしながら支度に向かった。このために手伝わされたんだな、と思いながらもニコラは妹に感謝した。こうでもなければエルマーを自宅に招待だなんて出来なかった。親かエルマーに言われるまで保留にしていただろう。
「……その前にごめんなさい。あの子とってもはしゃいで。あなたに会えるのも、お菓子を持って出かけるのも嬉しかったみたい。いつもの数倍話していたわ」
「いや、大丈夫。相槌しかうってないけど、気を悪くしないでくれて助かったよ。貴重な体験だった」
ニコラの妹ハンナは姉とは全く方向性の違う女の子だ。エルマーが自主的に関わることは一生なさそうなタイプ。未知との会話にエルマーは新鮮さを感じた。
「そう言ってもらえると助かるわ。お茶を淹れるわね……」
エルマーの質問の意図はわかっている。どう答えるべきか時間を稼ぎながらニコラは口を尖らせる。
「あのね、少し前に……アンゼルマ嬢が……」
ポットに水を汲むと、近寄ってきた侍女がそっと手を伸ばしてそれを火にかける。すぐに扉まで下がる侍女を確認してから話を続けようとするが言葉が出ない。
「プラネタリウムの件?」
澄ましたように見えるエルマーの顔は冷たい。
「プラネタリウムで、会ったじゃない? それで……」
「何か言われた?」
エルマーの眉がぎゅっと寄る。
「たいしたことじゃないの。私のことよ」
言葉に迷うが、嘘をついてもエルマーは納得しないだろう。自分だってそうだ。
その結論に辿り着いて不愉快な話を全て話した。
話し終わった頃に侍女がお茶を淹れてくれた。オーブンの中はまだ焼成中。良い香りが広がってきている。
大人しく聞いていたエルマーは紅茶のカップを手ににやりと笑う。
「レーガー嬢ねぇ……」
――どうやら作戦はアタリだ。
リーンハルトの方は元々関係のなかった人物だ。興味の有無以外にも、妙なことを仕出かした以上、下手にこちらに接触できないのは明らか。だがアンゼルマは違う。彼女とエルマーの見合いの件は学校の誰も知らないのだから、これまで同様好き勝手にニコラをからかうことは出来る。
逆に言えばこの作戦で運が良ければボロを出すのも不愉快さを露わもするのも彼女だけ。それを見越しての「昼食のお迎え」だ。
だが必要以上にニコラに嫌な思いをさせてしまったらしい。
「ごめん。そんなことを言われているとは思わなかった」
「別にあなたのせいじゃないわ」
「プラネタリウムがお気に召さなかったって話だけなら耳にしていた。疑うべきだったよ」
「いいってば。彼女が私の容姿をからかうのはいつものことだから。腹立たしいのは自分に対してよ。あそこまで言われるなんて」
自分だけならまだしもエルマーのことも悪く言われるのは実に不愉快だ。
「それで君は髪の手入れを?」
「そう。校則違反になるからお化粧はしないけれど、ヘアケアは自由でしょう。元から広がりすぎるのは気になっていたし、お化粧しても髪がみすぼらしければ台無しっていうから」
ニコラのことだから美容関係の本を手に入れたのだろう。そう思うエルマーの予想は果たして当たっている。
その沈黙を何と取ったか、ニコラが唇を尖らせる。
「知ってると思うけど、私とっても負けず嫌いなの」
だろうね、と言いかけて口をつぐみ、別方向の質問を返す。
「……君のことだから、熱心に色々試している?」
「……ええ」
恥ずかしそうなニコラの返事に、エルマーはにやりと笑う。
「よし。なら話が早い。計画を増やそう。是非協力してほしいんだ」
その笑顔はいつものあの笑顔で、碌なことを考えていないことがわかる。
「……ちょっと……何よ……」
じりっと引いた彼女に対し、彼はさらりと続ける。
「ニコラにはこれからこっそり綺麗になってもらう」
「え?」
ずいっと顔を近づけたエルマーと一緒に甘い香りが動く。その距離の近さにニコラの胸が跳ねる。動揺したその声を抗議と取ったエルマーが詫びる。だが不躾にじろじろ見るのは止めない。
「あ、別に今がどうって訳じゃない。気を悪くしないでくれ。スキンケア……は不要だね。他は今からでも十分間に合う。レーガー嬢がうらやましがるほどに」
ぽいっと視線を逸らすとオーブンへ向き直るエルマー。マフィンはすっかり良い色に膨らんでいる。危ないから、とニコラを脇に除けてから大きな扉をガコッと開けて天板を取り出す。熱と共にふわりとした香りが部屋に強く広がる。
「おいしそう」
はい、とニコラの前に天板が置かれる。ニコラはそれをトングでつまみ、ケーキクーラーの上に移していく。
移しながらニコラはぼそぼそと考えを述べる。
「努力はするけど彼女には勝てないわ……」
アンゼルマは美人だ。ハチミツ色で緩やかにウェーブを描いた金髪。色白で小さな顔は愛らしい。ありふれた水色の瞳も整った顔の中でキラキラと輝き、男性を情熱的に見つめる。ふっくらと色形のいい唇からは、厳しい言葉しか聞いたことがないが、男性の前ではその限りではない。
「確かに相手は文句なしの美人だ。だけどあれに勝つことが目的じゃない」
しかしエルマーにとっては最早あれ扱いである。
「一方的に見下している相手が変わることに意味がある。君は君が思う以上の結果を出せる。自信を持ってくれ」
エルマーは自信満々だが、ニコラには不安が残る。
「そんなに綺麗には……」
「なれるよ。ニコラは十分に可愛い」
固まったニコラにエルマーは話を続ける。
「ハンナ嬢のこと、可愛いと思ってるんだろ」
「そりゃ、ハンナは……」
「君は彼女と似てる。全く同じじゃないけど君も――」
言葉の途中で甲高い声が割り込んだ。
「その通りです!」
「ハンナ……?」
「いつも言ってるでしょ! もっとおしゃれなさってって!」
台所の入り口には可愛く着飾ったハンナがいた。
なるほど、さっきも結構だったがこの状態で一緒に視界に収めると確かに大差あるな、とエルマーは納得する。だが問題はない。先日の裸眼のニコラは、目を細めていてもいつものニコラからは想像できない姿だった。比較対象が世の美人ではなくニコラ自身だからこの計画には意味がある。
会話を盗み聞きしていたハンナは理解した。
この冴えない赤毛の男は姉のことをよくわかっている、と。何故か姉が急に婚約を決めたことを不思議に思っていたが、腑に落ちた。自分たちのようなふわふわした空気はないけれど、この2人は良い夫婦になると、女の勘が告げていた。
マフィンを詰めたバスケットを片手に、ハンナはエルマーの手をぶんぶんと握り「何でも協力しますわ!」と笑顔で出かけて行った。
今は応接室で2人きり。テーブルの上には焼き立てのマフィンと紅茶。上機嫌でマフィンを口にするエルマーの表情は本当に嬉しそうだ。
ニコラは決意を固める。
「あなたもよ」
その言葉が響く。
「あなたにも私の言う通り、変わってもらうわ」
「ん?」
怪訝そうな顔のエルマーをニコラが睨む。
「私に言ったこと全部そのまま、あなたにも該当する。それもあなたの方がきっと効果が高い」
そうかな、という顔をしてすぐ、彼は了承の意を示す。
「……別にいいけど僕は効果薄そうだよ」
「大丈夫よ」
――そんな訳ないわ。だって彼女はあなたが嫌いだって言っていたじゃない。
にやりと笑ったニコラの顔はどこかの誰かによく似ていた。
※ルビ・傍点が表示されない方へ
以下のように ○○には△△ というルビ・傍点がふられます
見下している相手→「相手」にニコラ
全24話予定になりました。そろそろおしまいに向かって地味に動きます。




