14.容姿
朝からどんよりと厚い雲に覆われたその日の昼。2人はいつもの通りに中庭のベンチでそれぞれのお弁当を平らげ、図書室に寄るかどうかを話し始めた。
その時、鼻先に雨粒を感じた。霧雨だと認識したすぐ後にそれは小雨に変わる。中庭の短い草達は嬉しそうに雨を弾いて揺れた。
慌ててお弁当の包みをひっつかみ、渡り廊下へ避難する。幸いなことに今日は本を持っていなかった。
「もしかしたら降るかも、とは思っていたけど急に降ってきたわね」
はい、とハンカチを差し出すニコラ。それをどうも、と受け取ってからエルマーが我に返る。
「いや……僕が君に差し出すのが普通だよね」
「そうかも知れないけれど構わないわ。だってエルマー、あなたハンカチ1枚しか持っていないでしょ」
言われて気付く。ニコラはもう1枚ハンカチを取り出していた。
「男性でもたまにいるわよね、2枚持ってる方。女性は案外入用だから、誰でも2枚くらい持ってるの。特に私は妹のこともあるから癖になっていて」
ニコラの言う2枚持っている男性はエスコート慣れしている紳士だ。女性に貸すためのシルクのハンカチと、自分のための木綿のハンカチを持っている。例の本にも登場するし実在し、夢幻の類ではない。当然、エルマーは縁がない。
「いやぁ。本当に僕はこういうところに気が利かなくてすまないね」
おどけたような言い方にニコラは鼻で笑う。
「何言ってるの。そりゃ持ってたらスマートだけど、別に」
そんなことより、早く拭きなさいよ、とニコラは手早く自分の身体を確認する。
「ほとんど濡れていないけれど、風邪をひいたら大変だから拭いた方が……」
肩の濡れを払い終えてエルマーを見たニコラが目を見張った。
ニコラの視線の先には、いつもぼさぼさの巻毛ではなく、エルマーの兄オスカーに似て、それよりうねりの強い赤毛があった。残念なことに顔周りはしっとりしたせいで伸びきって張り付いて、悲惨な様子だったけれど、ニコラは気が付いた。
「失礼するわ、エルマー」
「え?」
そっとエルマーの耳周りの毛を耳にかけ、思い切り背伸びをして前髪をぐいと上に撫でつける。そこにいたのは美男子ではないが穏やかな雰囲気の男性だった。今は怪訝そうな顔をしており、日頃からやや仏頂面なので冷たさも感じられるが、見える顔の面積が広い分、いつもの陰気さはなかった。
「……あなたって……やっぱりお兄さんと似てるわ」
「へ?」
「髪型、こうなるとお兄さんとよく似てるの。初めて会った時に思ったけど、確信したわ。お兄さんはもう少し柔和だけれど、あなたはこう……」
好印象を伝えたいがための「理知的」という単語が出てこなくておたおたしていると、さっきから頭の悪い返事ばかりしていたエルマーが呆れたように笑った。
「似てないよ」
受け取っていたニコラのハンカチで、自分の髪を触ったニコラの手を拭く。そしてもう1枚、自分のハンカチを取り出すと顔周りと濡れた髪を拭いた。
「何を言うのかとびっくりした。僕の髪、すぐぼさぼさになるんだけど、ちょっとの水分でべっしょりしてしまうんだ。実はこれでも割と頻繁に散髪はしてる。毛質だね。兄さんはうねっているけど基本的にこんなにぐるぐるしないから綺麗に伸びるんだ」
エルマーは完全に髪だけの話だと勘違いしているらしい。顔よ! と言いたいニコラはまだ理知的という単語にたどり着けていない。自嘲気味に聞こえたエルマーに何とか必死で伝えようと言葉を絞り出す。
「髪の話じゃないわ。その……顔の話……あの、あなたの顔、お兄さんと……」
――似てるけど似てなくて、ちょっと違うのよ。なんていうのだったかしら。その、賢そうでかっこいいってなんていうんだったかしら。
ニコラは我に返る。
――かっこいい?
自分の思考に驚く。早く続けたいのに続けられない、思い出せない混乱が頭と胸を占めていく。
「顔? ますますないよ。兄さんは優しそうだろ。僕は目つきが悪いし」
――ああ、違うわ! 確かにお兄さんは優しそうだったけど、あなただって涼しそうな目元も、きりっとした不機嫌そうな唇も素敵じゃない。
言葉に詰まるニコラの顔をじっと見てエルマーはいたずらっぽく目を細めた。
「ニコラ、レンズが濡れてるからおかしく見えてるんだろう。まずメガネを拭きなよ」
違うのに、と思いながらも、確かにレンズの雨粒のことを気にしていなかったニコラがメガネをはずす。
本当は雨粒くらい払えるのが優しくてかっこいいのはエルマーだってわかっている。ただ、いくら婚約者とはいえ、これまで友好的な範囲を超えてニコラに触れたことはない。この噂の広まりやすい学校で、慣れないことをボロを出さずにスマートに出来る自信はなかった。
それに、さっき何も考えずにとって拭いてしまったニコラの手は、わしづかみの時とは違って、柔らかくてふかふかしていた。自分とは違う手にほんのちょっと困ったのも事実だ。ドキドキはしないが、なんとなくため息をつきたい気持ちになっていた。
ニコラが少しでも兄に似ていると思ってくれたことは嬉しい。エルマーにはエルマーの、素直に受け入れられない事情があるが、少しでもさっぱりしている同じ赤毛に似ていると言われて嬉しくないわけはなかった。それでも、そんなわけはないと自分自身の心の中では強く否定する。
訳が分からないことを言うなよ、と思いながらメガネを取ってハンカチでレンズを拭くニコラを見遣る。そこにいた信じられないニコラの姿に、ため息どころか息を飲む羽目になった。
レンズの向こう側のニコラの目の大きさは常々目視で2.5cm程しかない。それが今、目の前のニコラはどう見ても優に3.5cmを超える、どう見てもどう考えても小さくない目をしているのだ。平坦で横一直線に見えた目は目じりに向かってなだらかに下がり、優しい雰囲気を漂わせていた。美人というには些か寂しいが、普段のニコラからは想像できない顔にエルマーは目を見張る。そんな様子にも気付かず、眉を寄せ、目を細め、懸命に手元のメガネを睨んでいるニコラ。
なんの冗談かと彼女の手元を見ると、ハンカチを忙しく動かすレンズの向こうのニコラの指は非常に小さく見えた。1cmはある瓶底レンズの端が渦を巻いているのがきっちり見えているにも関わらず、動揺するエルマーは頭の中で湾曲、収縮率、屈折率という一連の言葉を思い出せない。
「ニコラ……そのメガネは……」
「え? 何? ちょっと待って」
しかめた顔でレンズの拭き上がりを確認し、すちゃっとメガネをかけ直したニコラの目の大きさは目視2.5cm。いつも通り、真っ直ぐ引けてしまいそうな程の糸目。
「何?」
すっきりした顔でエルマーを見上げるいつものニコラ。彼女は極度の近視と乱視の持ち主であった。
二コラの瓶底は当時のレンズで約1cm厚なので多分1cm以上小さくなっているはず…
※今回の縮小率は現代の非球面レンズでの実測値参照です




