第9話 また僕は……何もできない
* * * * * *
暗い暗い闇の中
少年にわかるのは目の前に横になっている男がいること
彼は言った
「イァエ エリウ ウムサイ ヒソクス ……オズ フィー カエラド ラタタイク…… レクセオコ イェム……」
(俺は少し休むから 誰か来たら起こしてくれ)
建物の隙間を抜ける風音が少年の恐怖を煽る
少年は男の手を強く握っていた
眠りについて力が抜けたその手だけが
一人ではないことを教えてくれた
何も見えない中で心の支えとなっていた
風の音は、男の吐息の音を掻き消し
緊張は皮膚の感覚を鈍らせた
握っているその手から
熱が失われていくことにも気付かないほどに
* * * * * *
「眠っている?」
明希と共に病院へ向かった光秀は、診察を終えた別室で担当した医師から説明を受けていた。親族ではない正信は、廊下で警察と待機している。
「はい。遷延性意識障害……いわゆる植物状態も疑われましたが、現段階では彼女は眠り続けているだけの状態と考えられます」
「じゃあ先生、そのうち起きるんだよな!?」
正信からの連絡を受けてやってきた光秀の父、豊も共に説明を聞いている。眠っているだけ。そう聞いた豊は安堵の表情を浮かべていたが、医師の反応は明るくはなかった。
「それはまだなんとも……」
「でも今、眠ってるだけって」
「医学的な所見でいえば、間違いなく寝ているだけです。その原因はわかりませんが、状況を考慮すると何らかの薬物を投与されている可能性もあります」
CTや血液、脳波の検査まで行われたが、診察した医師の高見 幸大は睡眠状態であるという仮の診断を出した。その結果に高見自身は納得していない。しかし、内臓も脳も無事。血液検査でも異常値は見られず、今あるデータからはそれ以上言えることがない。
「薬物って……そんな」
「あくまでも可能性の話です。過眠症という、長時間眠ってしまう病気もあります。明日になっても目を覚さないようであれば、さらに別の検査を進めてみますので、今日のところは病院の方で様子を見させてください」
「先生……」
「はい?」
険しい表情を浮かべる豊は、椅子から静かに立ちあがると向かいに座っていた高見の横に膝をつき、ガンッと音を立てるほど自分の額を床に叩きつけた。
「稲葉さん!?」
「父さん?」
「先生……俺は……」
どこかに頭をぶつけたような、そんな鈍い音が光秀の耳に届く。そして、続く豊の声がわずかに震えているのを感じ取る。高見も彼の行動に驚いたが、口を閉じて何かを語ろうとするその声に耳を傾けた。
「俺は息子と違って頭が悪いから……何をしたらいいのかわかんねぇ……けど……」
声の震えが徐々に強くなり、何度も鼻を啜る音が聞こえる。
目が見えなくなってから、光秀は父の顔を見ていない。彼の前で魔法を使うわけにはいかず、かといって妻や娘のように特別見たいと思う機会もなかった。覚えているのは子供の頃に遊んでくれた陽気な顔。危ないことをした自分に説教する強面な顔。仕事に集中する真剣な顔。いくら記憶の中を探しても、聞こえる声と合う父の顔が見つからない。光秀が初めて聞く父の声だった。
「俺にできることなら何だってする! 金が必要ならいくらでも工面する! だから頼む……明希さんを助けてくれ……光秀の……目の見えねぇ息子のことをちゃんと見てくれた……大切な人なんだ……」
「父さん……」
「光秀がいなくなった時も、俺は何も出来なくて……節子にもうあんな顔させたくねぇんだ……光秀との結婚を認めてくれた……明希さんの親御さんにも……俺は……なんて言えば……」
これほど弱々しい豊を、光秀は知らない。彼の言葉から伝わる悲しみと自責の念が、光秀の胸の奥深くに刺さる。明希が助かったのは蛍司が来てくれたお陰であり、自分一人では明希を救い出すことはできなかった。現場にいたというのに、医師に懇願している豊と何も変わらない。光秀は何もいうことができず、唇を噛み締める。
「稲葉さん」
求めている言葉をもらえるまで、豊は頭を地面から離すつもりはない。そう感じた高見は、座っていた椅子を下げると彼の正面で両膝を着いた。
「子供を亡くした親のことを何と呼ぶか……ご存知ですか?」
唐突な高見の問いに、豊は小さく首を横に振る。
「ないんですよ。日本語でも、英語でも存在しません。言葉にできないほどのことなんだと、私はそう考えています」
床についた両手を、豊は強く握りしめる。高見は力が入って小刻みに震えている彼の拳にそっと自分の手を置くと、優しい口調で話を続ける。
「明希さんがこのまま目を覚さなければ、彼女のご両親や稲葉さんたちがどれほど辛い思いをするのか、私には計り知れません。しかし、彼女の心臓は動いています。脳も眠っているだけで体も無傷です。だから、医師である私がやることは一つです。彼女のことを諦めるつもりはありませんよ」
「先生……」
豊が顔を上げると、その目は涙を流しすぎて真っ赤に充血していた。目からも鼻からも液体を垂れ流しながら、豊は高見の右手を両手で握る。まるで神に祈るように下を向き、小さな声で何度も「お願いします」と呟きながら。
「こんなもので申し訳ないですが、お顔を拭いてください」
そういって高見が白衣のポケットから取り出したのは、パッケージされた滅菌ガーゼ。それを空いていた左手で太腿に押し当てながら器用に開けると、中に入っていた清潔なガーゼを手渡す。高見の言葉を聞いて少しだけ落ち着きを取り戻した豊は、それで流れ出た涙と鼻水を拭き取る。
「ひとまず、今後の手続きの話をしようと思いますが……もう少し落ち着いてからの方が良さそうですね」
「手続きについてなら僕が聞きます。父さん、ちょっと外の空気吸ってきなよ」
「……わかった」
高見に背中を摩られながら立ち上がった豊は、部屋の外に出て廊下に並ぶソファーに腰を下す。警察と話をしていた正信は、様子のおかしい豊の姿を見てすぐに駆け寄ってくる。
「ユタさん、大丈夫!?」
「ああ……」
「稲葉さん、ひとまず息子さんと手続きの話をさせていただきます。ただ書いて頂かないといけない書類がありますので、落ち着いた頃にまたお呼びしますね」
「先生!」
部屋に戻ろうとする高見を呼び止めると、豊はソファーからゆっくりと立ち上がる。ふらつく体を支えるように太腿に両手を置き、高見に向かって深く頭を下げた。
「よろしく、お願いします」
「わかりました」
高見が再び部屋に戻るまで豊は頭を下げ続けた。正信にはその姿が、いつも見ている彼とは思えないほど、とても小さく見えた。
「で、先生。実際のところどうなんですか?」
高見が部屋に戻り扉を閉めるや否や、光秀は彼に質問を投げかけた。豊がいた都合、魔法が絡む話をするわけにはいかなかったからである。
「説明した通りだよ。今の段階では、魔法によるものか薬物によるものか、それとも彼女の体に起きた異変によるものか判断がつかない。相手が魔法使いである可能性を考えれば、研究機関の見解を聞く必要があるだろう」
「あいつらか……」
高見の話を聞いて、光秀は露骨に肩を落とす。
「君達にはあまり良い印象はないだろうからね……でも……」
光秀と高見は15年前の事件以来の付き合いで、魔法暴走の定期診察も高見が行っている。事件の被害者たちに研究機関がどんな対応をしていたのかも良く知っている。
15年前……協会にて管理されていた古代遺産の異常によって、光秀たちは行方不明となった。そんな彼らが再び姿を見せたとき、多くの魔法使いたちが彼らの帰還を喜ぶ中で研究機関の興味はロドが開いたときの出来事。そして、異世界へ通じると伝えられていたロドの向こう側で、どうやって彼らが生きていたのかということだった。
研究機関には、ロドが急に開いた原因の追求や帰還した彼らがこちらの世界に存在しない有害なものを持ち帰っていないかの確認など、やらなければならない課題があったのも事実である。しかし、思春期の子供たちからすれば彼らは、自分らの心配よりも向こうの世界のことが知りたいだけの大人にしか見えず、結果として子供たちは口を閉ざし向こうでの出来事を語る子はいなかった。
「分かってます。あの時は……仕方なかったんだと」
光秀も例外ではなく、目の怪我やどう治療したのかなど何度も聞かれてうんざりしたし、今でも彼らの印象はあまり良くない。しかし大人になった今は、あの時の彼らの行動がこちらの世界を守るためだったと理解できる。今の明希の状態を確かめるために、そんな彼らの知識が必要だということも。
「もうあんな質問攻めはやめて欲しいですけどね」
「あれは彼らの悪い癖だからね……私の方で医学的な検査は継続してやってみる。やれることはどんどん試していこう」
「ありがとうございます」
その後、豊に必要な書類の記入を頼み、光秀は明希の眠る病室へとやってきた。正信は念のため豊のそばにいてもらっている。あんな声を聞いた後では、一人にさせておくのが不安だった。かといって、目の見えない自分が隣にいても何もできない。彼以外に頼める人はいなかった。
「明希……」
静かな病室の中で彼女の寝息だけが聞こえる。高見の手配で部屋は個室にされた。警察は部屋の外にいて、今は光秀と明希の2人しかいない。部屋の中は薄暗くされているが、目の見えない光秀には関係なかった。
光秀は魔力を目に集め魔法を発動させる。すると、濁った彼の黒目から深く暗い青色の液体が滲み出て眼球を夜空の色に染めていく。そして頭上に現れた円錐状のレンズと繋がり、彼の目に眠っている明希の姿が映し出される。普段寝ているときと何も変わらない、穏やかな寝顔が。
光秀は布団から出ている彼女の手を取る。毎日目の見えない光秀の顔に触れ、そばにいることを教えてくれる手。外に出かけた時はいつも引っ張ってくれる手。ただ温かいだけではなく、心を温めてくれる手だ。
「また僕は……何もできない」
彼女の手に触れながら、光秀は思い出す。力が抜けた大きな手。石畳のように冷たくなった肌の感触。人に言われるまで光秀はその手の持ち主の命が尽きたことに気付けなかった。魔法をいつも通り使えていれば、もっと早く助けを呼んでいれば救えたかもしれない。けれど、時を戻す術は存在しない。光秀は己がどれだけ無力なのかを思い知った。そして今、再び同じ気持ちが光秀の心の中で膨れ上がっている。蛍司のような強さを持たぬ自分に出来たのは、明希が箱の中に入っているのを知ることだけだった。そう自分に言い聞かせるが、目を覚まさぬ彼女を前にしてその気持ちを消し去ることは難しく、光秀の濃紺の瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
◇
「高見先生、至急処置室までお願いします」
豊に書類を書いてもらっていた高見の内線用PHSに連絡が入る。救命センターの看護師からであった。明希の入院手続きを担当看護師に任せると、当番ではない自分が呼ばれる理由もわからぬまま処置室の扉を開ける。そこでは一人の患者に大勢の医師と看護師が処置に入り、まるで戦場のような空気であった。
「状況を教えてくれ!」
高見はすぐに近くにあった箱から取り出した手袋を嵌めると、張られているレントゲン写真に目を向ける。
「左前腕部に打撲痕、左右橈骨及び尺骨の開放骨折。肋骨も背部に複数骨折あります」
「何をやったらこんなになるんだ……」
前腕の真ん中で、二本ある骨が粉々になっている。特に打撲痕があるという左腕の損傷はひどい。何を当てればこんな怪我になるのか想像がつかない。
「身元はわかってるのか!?」
「運ばれて来たのはネフロラジャパンの岩端 聖さん。問い合わせたところ、本日夜番の業務中だったとのことです」
「岩端!?」
高見はストレッチャーで酸素マスクをつけられている男の顔に視線を移す。確かにそこにいたのは、高見が知っている岩端 聖だった。父親と知り合いだったことから、彼のことは幼い頃から知っている。法執行機関の捜査員として働いていることも。
「夜番ってことは、誰かにやられたっていうのか……?」
「あんまり考えたくはないですけど、そういうことでしょう。高見先生、神経の損傷を避けたい。アレをお願いできますか?」
「わかった!」
聖に怪我を負わせた犯人に不安を抱きながら、高見も処置に加わる。聖が明希を連れ去ろうとした犯人を追いかけていたのだと知ったのは、全ての処置を終えた後であった。
第1章でほんの少しだけ語られた15年前の事件。
灯真もでしたが、光秀や豊もあれのせいで心に深い傷を負っているのでした。
光秀と明希も心配だし、聖も心配だし、幸路が犯人を見つけられるかも気になるし、
第2章はいろんなところで話が動いていてなかなか進め方が難しい。
なので次回は、光秀と幸路の出番が交差します。
わかる人にはわかる……そう、あのシーンの続きです。




