第1話 考えても無駄か
さあ、第2章の始まりです。
「お先に失礼します」
瞼の傷と黒と白が混濁した目を隠す大きなスモークレンズのメガネをかけた小太りの男は、白杖を手に取るとまだ作業に残っている他の同僚達に軽く頭を下げる。
「お疲れ様。気をつけて」
「ありがとうございます」
彼が部屋を出ようとすることに気付いた同僚の男が、彼に代わって部屋の扉を開け見送る。床を確認する白杖の音が廊下に響く。
「稲葉、今日も定時ぴったり」
「連続記録更新ね」
白杖を持って職場を出て行った男、稲葉 光秀のこと話しながら、同僚達は仕事の手を止め肩を回したり背伸びをしたり小休止し始める。
この職場に勤めてからというもの、光秀はイレギュラーが発生したとき以外に定時退勤を守らなかったことはない。子供の面倒を見るためだと公言している。かといって、仕事を残して帰ったこともない。
「いい加減、エレベーターに乗るまでは魔法使えばいいのに」
「律儀に法令遵守っすからねぇ」
光秀が白杖を持っている理由を職場の同僚達は皆知っている。だがこの会社……ネフロラジャパンで仕事をする上で、彼はそれを必要とはしない。
「家に帰るまでが仕事って考えたら、問題ないんじゃない?」
「下の階に行ったら一般人もいるわけだし、グレーゾーンかな。稲葉はそういうの気にするだろう。言い方は悪いが、少し頑固なやつだから」
「会長が頑張ってる改革に期待するしかないか」
「そういうこと。さてと……俺らもさっさと終わらせて帰ろうぜ」
固まっていた体がわずかにほぐれたのを確認した彼らは、再びパソコンに向かい残っている仕事を片付けまいと動き出す。人が少なくなり静かな部屋の中では彼らの叩くキーボードの音だけが響いた。
「きょうね、おばあちゃんのおてつだいしてね、タマゴかきまぜたの!」
「そうなのか。じゃあ今日はいつもよりおいしい卵焼きが出るのかな?」
「ンフ〜、そうだよ〜!」
イヤホンマイクから耳に入る幼い女の子の声に、光秀は頬を緩ませる。満面の笑みを浮かべる愛娘の姿が閉じた瞼の裏に映し出される。
「はやくかえってきてね!」
「わかった。急いで帰るよ」
イヤホンに繋がったスイッチを押して通話を切ると、緩んでいた頬を元に戻し光秀は足を一歩踏み出す。地面を叩く白状の音を頼りに。何年も通うその道は敏感になっている耳に余計な雑音さえ入らなければ、工事などで地面に変化がなければ、どの方向に足を向けて何歩進めば駅にたどり着くのか光秀の頭の中に地図が出来上がっている。
稲葉 光秀……30歳。15歳の時、目の怪我により視覚障害1級となる。現在はネフロラジャパン品質管理部に勤務。それが、公になっている彼の素性である。
「あっ、危ない!」
はるか後方から聞こえた若い男の声が耳に入った光秀は、自分の右側を強引にすり抜けようとする自転車を紙一重のところで避け、何事もなかったかのように歩き続ける。自転車に乗った男は一瞬稲葉の方を振り向くが、気にするそぶりすら見せず先を急いだ。
「あの人……視覚障害者……だよな……」
稲葉の持つ白い杖の意味を知っている若者は、自転車を軽やかに避けた稲葉の動きに驚きを隠せない。おそらく普通の人なら、声の方を向いて近づく自転車に驚き慌てて避けただろう。しかし若者には稲葉が、健常者でも見えていない位置から接近してきた自転車の存在に気付いていたように見えた。
(ニュースで自転車の危険運転が増えたって言ってたな)
通り過ぎる人々は明らかに視覚障害者だとわかる彼からわずかに距離を取って歩いて行く。白杖による道の確認の妨げにならないようにと。彼の動きにだけ注目が集まり誰も気付いてはいなかった。メガネの奥で白目と黒目が区別できないほど、光秀の両眼が陽が落ちた直後の夜空のように濃い青色に染まっていることに。
(便利ではあるが、いい加減どうにかしたいもんだ)
歩く速度を落とし、光秀は目を閉じて深呼吸をする。再び目を開けた時、彼の目は元の色を取り戻していた。同時に彼は目の奥に気だるさを感じ小さく嘆息する。
(そういえば、職場の同い年の連中が最近目が辛いっていってたか……僕の目がこうなってなかったら今頃毎日これを感じてたわけだ……どっちがいいのやら……)
光秀は良いとも悪いともいえない今の状況に悩む。目が見えていたのならば、ネフロラジャパンとは無縁だったし違う職を目指していただろう。だが、彼にはその道しかなかった。アーサー・ナイトレイに声をかけられなければ今頃どうなっていたのか、光秀にも想像できない。
(……考えるだけ無駄か……)
白杖で叩く床の音が変わる。コンクリートの歩道から、駅の構内へと入ったからだ。仕事帰りのサラリーマンや学生など多くの人々の足音、話し声が光秀の耳に入る。それによって頭の中の図面がぼやけてきた彼は、点字ブロックを頼りに改札へと移動した。
* * * * * *
「体の方はもう馴染んだようですね」
「うむ。まだ本調子とまではいかないが」
窓のない白い壁に囲まれた病室で、ベッドに横になっている男は手首を回したり指を細かく動かしたりして体の状態を確認している。その肌は薄い緑色をしており、普通の人間ではないことが伺える。しかし、ベッドサイドに立つ白衣の男はそんな彼を見ても動じる様子はない。ベッドサイドに置かれた心電図モニターの音が不気味にこだまする。
「急ぐ必要はありませんよ。例の実験も、始まったばかりですし」
「あれか……どの程度集めるつもりなんだ?」
「ん〜……サンプルは多い方がいいんですが、そろそろ調査機関が動きそうですし、あと数人で一旦戻す予定ですよ」
白衣の男は、手に持ったタブレットの画面を見ながら残念そうに答える。
「随分と慎重だな。一気に進めることも出来ただろうに」
「そうしたいのは私も同じですが、懸念材料がいくつもありましてね。まあ……目的の達成率を上げるためです」
「そうか……なら、結果を楽しみに待っているとしよう」
「ええ。近日中に第一報をお届けしますよ」
そういって二人は口元に笑みを浮かべる。白衣の男が持つタブレットの画面には、ベッドで横になっている男と同じ緑色の肌をした小柄な男たちの姿と、それぞれにGB-001、GB-002といった識別番号が映し出されている。
「では、私の方はこれで。そういえば、食事の方はお口に合いましたか?」
「ああ。良い肉だったな」
「それはよかった。何かあればいってください」
「わかった」
軽く会釈をして白衣の男が出ていくと、緑色の肌の男はゆっくりと体を起こし再度テーブルに置かれたタブレットをいじり始める。
「こんな世になろうとは……くだらん選択をしたものだな……」
男は画面に映し出されたニュースに一通り目を通すと、嘆息しながら再び横になり目を閉じて眠りに入る。
部屋を出た白衣の男は、何かにご満悦といった表情と軽やかなステップで廊下を歩いていく。すると、持っていたタブレットから音が鳴り画面にメッセージがポップアップで表示される。
「思ったより早かったですね……」
メッセージに目を通した男は歩みを止めると、顎に手を当て目を瞑って天井を仰ぐ。他に廊下を通るものはおらず、空調の微かな音だけが耳に入る。
「彼らの管轄外になるはずですが……一応注意しといてもらいますか」
考えがまとまったところで男は、表示されているメッセージをタップしアプリを起動させると軽快なタッチで返事を入力していく。
「失敗のリスクは少しでも減らしておかないと」
内容を確認することなく書き終えたメッセージを送信し、男は鼻歌を歌いながらリズムに合わせて足を前へと進めた。
* * * * * *
「ただいま」
「パパ! おかえりなさい!」
帰宅した光秀が玄関のドアを開けると、そこにいたのは今年で6歳になる長女の舞だ。鍵が開けられた音に気がつき、彼女は一目散に玄関へとやってきた。
「おかえり」
舞の後ろから歩み寄ってきたのは光秀の母、節子だ。光秀や彼の妻が帰宅するまでの間、子供の面倒を見てくれている。光秀が定時を守って帰宅するのは、子供の面倒というだけでない。節子からの提案で共働きという選択をしたものの、もうじき60歳になる母の負担を減らしたいという思いもあった。最も、その話を直接すると「舐めるんじゃないよ」と、きついお言葉をいただくことになるので光秀は二度と口には出さないと決めている。
「ただいま。父さんは?」
「明日入荷する商品のチェックをしてるわ。新商品があるから展示のレイアウト考えてるんじゃないかしら」
「相変わらず、そういうところは変わらないね」
持っていた白杖を折り畳んで鞄に入れ靴を脱いだ光秀は、舞に手を取られリビングの方へと案内される。すでにテーブルには食事の支度が整いつつある。
「新しいおもちゃを楽しむ子供よ。舞ちゃんの方がよっぽど大人だわ」
「まい、おとな?」
「そうよ。ちゃんとお留守番できてお料理も手伝ってくれて、舞ちゃんの方がじいじより大人ね」
「えへ〜」
褒められたのが嬉しかったのか、舞は体をくねらせて喜びを表現している。握った手から伝わる動きで、光秀は娘が可愛い動きをしていると悟る。しかし、その姿を見れない悔しさから、肩にかけたカバンの紐を右手でぎゅっと握り締める。
「さあさあ、ご飯装るから着替えてらっしゃい」
「はやく〜」
「わかったわかった」
舞に後ろから押され、光秀は招かれたはずのリビングから追い出される。彼女の反応に困り顔を見せながらも、内心ではそのふれあいを楽しむ光秀。二人の様子を見て節子は口元を手で隠しながら笑みを見せる。
手すりを頼りに2階の寝室へ向かうと、光秀は来ていたスーツを所定の位置にあるハンガーにかけ部屋着へと着替える。そして、上着のポケットに入れてあったスマートフォンを取り出し、音声入力の画面へと切り替えた。
「明希からの新しい連絡は?」
「未読ノ 通知ハ アリマセン」
「今日も忙しいのかな……」
明希……妻からの連絡がないことを確認すると、ため息をつきながら光秀はベッドに腰を下ろした。
「舞の反応……見たかったな……」
喜んでいた舞の姿を見れなかったことを光秀は気にしていた。きっといつまでも見ていられるくらい可愛いかったに違いない。魔法を使えばそんな彼女の姿を確認できた。だが、娘も母親も光秀が魔法使いであることを知らない。魔法の存在を知らない二人の前で魔法を使うわけにはいかなかった。
それを選択したのは光秀本人だ。魔法使いの生き辛い世の中で、家族に余計なしがらみを背負わせたくなかった。
「見たい時にこそ発動すればいいのに……」
自分の意思でなければ、協会の法令違反を問われても言い訳ができる。だが残念なことに、自分の身の危険を感じた時にしか彼の魔法が勝手に発動することはない。
かといって、魔法を発動すれば目の色の変化を家族にどう思われるかわからないし、家族に魔法の存在を知られた段階で協会への報告など色々面倒なことも増える。
家族が寝静まった時を見計らって、彼女たちの寝顔や家の中に飾られた写真を魔法を用いて見ることはある。協会法令的にはグレーなラインなのだが、自宅の中だけの使用で家族に知られないようにという条件で協会の許可を得ている。しかし、動いたりしゃべったりしている家族の姿を見たいと思う気持ちと、家族を一般人として生活させたいという思いが毎日のように光秀の心の中で攻防を繰り広げている。
「……考えたって無駄か。答えは決まってる」
自分に言い聞かせるように言葉を吐き出すと、光秀はのっそりと立ち上がり娘たちの待つ1階に降りていく。
稲葉光秀 ネフロラジャパン品質管理部所属
魔法登録名『ロウドルォウ コールヴェロ イーエ』
そして……
魔法暴走 第2級障害認定者
その事実を彼の周りにいる人々は知らない。
第1章は如月灯真を軸にしてきましたが、第2章は稲葉光秀を主軸としたストーリーになります。
彼のストーリーが第1章のラストにどう繋がるのか……
楽しんでいただけたら幸いです。




