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【あとがき】




 改めまして。

 ここまで本作「君と俺が、生きるわけ。」をお読みくださり、ありがとうございました。

 ただでさえ長い物語なのに、内容もとびきり重たいという……。さぞ読みづらい作品だったのではないかと、作者自身も不安で仕方ありません。もしかしたら本編をすっ飛ばして先にこの部分を読まれている方もいるかもしれないので、念のために注意書きをしておきますね。

 この「あとがき」部には少なからぬ(というよりも重大な)ネタバレが含まれているので、ご注意くださいね!←




 本作は、竹丘友慈と野塩愛という、二人の架空のCCS(小児癌経験者・Childhood Cancer Survivor)の闘病の過程を描いた長編小説でした。

 とは言え、単純な闘病小説というわけでもないところが悩みどころで、投稿前にはジャンルをどうしようかかなり悩みまして……。主眼をどこに置くかによって、本作のジャンルは色々と変わってしまうのかもしれません。ヒューマンドラマの中には恋愛要素等々も内包されているだろうと考え、今のジャンルを設定した次第です。

 小説を書くにあたっては、その小説によって何を訴えたいのか、何が主題なのかをはっきりさせることが大事だと言います。現に作者も、この他の作品に関しては主題の明確化をそれなりにきちんと心がけているつもりです。ですが本作に限っては、書いているうちに色々と盛り込みたい内容が増えてきてしまい、結果として「こういう主題の作品です!」と主張できるものが小さくなってしまったかなと思っていて……。ここまで読んでくださった皆さんがどれを主題だと感じられたか、もしも感想をいただけるのならば伺ってみたい気もします。


 ですが、あえて作者の側から主題を提示するとするならば。

 『生きる意味などなくてもいい。生きる理由さえあれば人は前を向き、未来に向かって生きようとすることができる』──。

 これが、本作を通じて作者がもっとも描きたかった主題になります。


 本作は闘病小説であり、恋愛小説であり、患者を取り巻くたくさんの人間を描いたヒューマンドラマですが、基本的には主人公・竹丘友慈が闘病を通して精神的に大人になっていく過程を追った成長物語が中心になっています。その証拠に第一章と第五章では、友慈の考え方や物の見方がびっくりするほど大人びていました。作者も書いていて驚いたくらいです。

 その友慈は作中冒頭、「脳腫瘍を克服して部活に復帰する」ことを目指し、検査や治療に取り組みます。もっとも友慈にとってその目標は目標ではなく、「当たり前に実現できること」のはずでした。ところが中盤以降、愛との親交を深めていくのと引き換えに友慈の病状は徐々に悪化し、部活への復帰はおろか治癒という中間目標すら、どんどんと遠ざかっていきます。当たり前だと思っていた安寧が崩壊し、信じてきたものに裏切られ、絶望し、投げやりになって大切な人をも傷付け、ついに自殺未遂まで図り……そんな友慈を最後に救ったのは、ずっと隣で日々を過ごしてきたヒロイン・愛でした。

 愛は「依存」の象徴のような人物です。家庭を失い、記憶を失い、自分を無条件に守ってくれる存在を欠いてしまった愛は、周囲の人々にあらゆる意味で依存して生きていました。『生きる力』然りです。そして、自分を好いてくれる気持ちが友慈にあることを知った愛が、外気舎の壁の中で友慈に懸命に提案したのもまた、依存でした。互いが生きていることを希望にすれば、永遠に「生きる理由」を持っていられる──すなわち共依存の関係を、愛は友慈と一緒に作ろうとしたのです。もちろん、その関係が新たな居場所になり、やがて病院という居場所を失ってからも自分を守ってくれる場所になるという計算も、込みで。

 前向きな感情は身体の好循環を促し、それが病を撃退するチカラになる。愛がやろうとしたことは究極の免疫療法だったのかもしれません。そしてこのことは、たとえ科学的に証明することはできなくとも、ある意味では真理に近いのだと作者は思います。笑ったり泣いたりするだけで病状の悪化が抑えられた例は、実は世界中にたくさんあるのです。逆に否定的な感情に包まれてしまうと、今度は周りが見えなくなり、改善の道が足元に延びていても見つけることができなくなってしまうことは、うつ病の対策などでもよく知られていること。作中の友慈がまさにそうだったと思います。

 では、その前向きな感情を刺激してあげるには、どうすればいいか?

 実はずっと前から疑問に思ってきたことがありました。自殺願望を持つ人たちに『あなたにも生きる意味はあるんだよ』と問いかけることは、果たして本当に効果的なのか。意味があるかないかってそれほど重要なのか、と。おそらく世間一般の人のほとんどは、自分が生きている意味など考えもせず、けれどそれで何の問題もなく暮らしているわけですから。

 『生きる意味』というのは、実際には『生きる理由』を作る材料の一つに過ぎないのかもしれません。意味がある人生なら、もっと続けてみよう──そう考えることができれば、それは確かに明日を生きる大きな理由になるからです。ただ、実際にはすべての人に、そこまで思えるほど客観的な『生きる意味』が備わっているわけではない……。それならば、意味を押し付けようとするのではなく、寄り添って『生きる理由』を一緒に考え、与えてあげればいいのではないか。

 そう思えて、ならないのです。




 本作で大事にしようとしたことが、実はもう一つありました。それは『完全なハッピーエンドを作ろう』というものです。

 作中登場のキャラクターは、一人残らず何らかの形で友慈に牙をむきます。真実を隠したり誤魔化そうとした、病院関係者と家族。勝手に部活のことを決めてしまった友達。最後の最後まで友慈を悩ませ続ける存在になった、愛。最終話までの間にこれらすべてのわだかまりを解消したことで、本作はそれなりに後味のいい仕上がりになったと自負しています。

 無論、闘病小説という性質上、バッドエンドにすることは簡単です。どのようなオチにするかは最後の最後まで迷い続けましたが、「バッドエンドであることで、この作品の主題をきちんと描くことができるのか?」という疑問が湧いたことが、最終的には決め手になりました。


 闘病小説を書くにあたり、脳腫瘍患者さんの闘病ブログを多数、読ませていただきました。

 亡くなられた方もいれば、寛解された方もいました。中には患者さん本人が亡くなっても数年間にわたってブログを書き綴り続けている方もいますし、更新が完全に途絶えてしまって生死すら確認できない方もいます。ただ──失礼を承知で書かせていただくとすれば、安心して読むことのできた記事は、どこにもありませんでした。

 ガンは治癒の難しい病気です。寛解というのはあくまでも症状が落ち着いているだけで、いつ、どこで再発するか誰にも予見できないのです。寛解したからといって絶対に大丈夫なわけではない。寛解した方の記事を読んでいても、どこかしらにそうした空気を感じてしまいます。読んでいる側でさえこんな心境になるのに、書かれた方はいったいどれほどの心痛を抱えていることだろうと思うと……今でも、胸が苦しくなります。

 正直に言って、自分の作品など本物の闘病記の足下にも及ばないと思います。どんなに現実的な描写や展開を心掛けても、本物の闘病記の節々に滲む静かな重みを表現しきることはどうしてもできないのです。虚構だから当たり前なのか、はたまた自分にそれだけの技量がないからか……。それならばと開き直って、この物語では『虚構だからこそなし得る』完全なハッピーエンドをもたらそうと考えました。『生きる理由があれば前を向ける』というメッセージの織り込みは、ハッピーエンドの中でこそ真価を発揮すると考えたのです。

 とは言っても、病気の爪痕が全くゼロであるとしてしまうと、今度は現実性を損なってしまうわけで。そのあたりのバランスを取ろうとした結果が、友慈と愛の負った機能障害だったりします。


 実際の脳腫瘍はおそらく、ここまで都合のいい展開にはならないでしょう。特に友慈の罹患した神経膠腫の場合、五年生存率(全患者のうち、五年以上生存する患者の割合)も決して高いとは言えません。手を取り合って病を乗り越えようとしてくれる隣人も、懸命に親身になってくれる医師も、励ましてくれる家族や友達も、もしかすると現実の病床の脇にはいないのかもしれません。

 だからせめて、虚構の闘病を読んでいる時くらい、心の中を希望で満たしてみたいのです。

 もしも脳腫瘍に限らず、重大疾病を抱えて病院に幽閉され、失望の淵に立っているような人が、偶然にもこの作品を手に取ったとしたら……。そういう可能性が0だと言い切ることはできません。そんな人にとってこの作品が、少しでも希望を感じさせて、少しでも前向きな気持ちを起こさせて、回復を諦める気持ちから少しでも遠ざかるきっかけになれたなら。

 作者にとってそれ以上に喜ばしいことなど、ありません。


 それから最後に、ひとつだけ。

 高校一年の秋にこのサイトでの活動を始めて、はや三年。上のような矜持で執筆に挑み続けた本作『君と俺が、生きるわけ。』は、これまで投稿してきた作品の集大成でもあります。

 本作第四章でも描いた自殺の場面は、作者が自作品の中で繰り返しモチーフに据えてきたものでした。本作の語り口は通常の一人称小説よりもかなり崩して書いていますが、これは作者の考え方として「一人称は主人公の年齢・性格になるべく合わせるべき」というものがあるからで、これまでの作品の中でも徹底している原則なのです。賛否両論があろうとは思いますが……。

 自分なりに培ってきた何かを、このような形で総まとめとして残せたことには、やはり大きな達成感を感じました。自分は幸せ者だと、心から思います。






 本作執筆にあたり、何人もの方にご協力をいただきました。

 病院運営や治療に関して貴重な話を聞かせてくださった、元医療関係者の鮎弓千景さん。

 入院経験のない作者に入院中の生活について教えてくれた、桐生桜嘉さん。

 ならびに入院のしおりを見せてくれた、作者の弟K君。

 脳腫瘍治療に関して専門的な知識を施してくれた、医学部志望の友人T君。

 病と心の関係について、心理学的観点からの見解を教えてくださった、高見リョウさん。

 皆さんのご協力があったからこそ、この物語は無事に完結を迎えることができそうです。本当に感謝しています。ありがとうございました。


 そして、長い介護入院生活の末2016年8月に亡くなった、作者の祖母Nさん。

 あなたのところへ何度もお見舞いに行ったことが、病院の雰囲気や感覚を掴み、この作品に生かすことに繫がりました。

 あなたを喪って、人生で初めて「近親者が亡くなる」ことを経験したことが、自分の死生観をまた少し、前に進めてくれたような気がします。

 心からありがとうと言わせてほしい。……けれど、もっと欲を言えるのなら、あなたが亡くなる前にこの物語を完結させたかったです。


 その他、参考にさせていただいた書籍やインターネットの記事を書いてくださったすべての皆さんに、(おそらく届くことはないと思いますが)感謝したいと思います。

 症状の推移に関しては、前述のとおり多くの患者さんの闘病ブログを参考にさせていただきました。亡くなられた方々のご冥福をお祈りするとともに、今も病と闘っている方や、寛解を告げられひとまずの安寧を得ている方のこれからが、よりよいものであることを願っています。

 そして、ここまで本作を読んできてくださった皆様にも、最大限の感謝を。

 ありがとうございました。




 病を前にしても未来を諦めることなく、確かな『生きる理由』をかざして治療に臨むことのできる人が、どうか一人でも多くありますように。






2017/03/19

蒼旗悠






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