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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第五章 君は明日の“Direction”
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Karte-38 再邂






 いきなり夢の世界に引きずり込まれたのかと思った。


 聞き覚えのある声が背中にぶつかった。俺の視界を遮っていたのは、見覚えのある二つの手のひらだった。

 背中から回された腕が両脇の下を通って、俺のことを……。

 カメラが手から滑り落ちた。首にかけていた紐がちゃんと役目を果たして、首への衝撃と引き換えにカメラを落下から守ってくれた。ちくしょう、食い込んで地味に痛いよ……。紐がこんなに細いから……。

「あ、い」

 痛んだ首から発せられた声は、ひどく(おぼろ)げだった。ぱっと手のひらが両目を解放して、世界が爆発したように煌々と光り輝いた。こんなに明るかったなんて。今までの俺、いったい何を見ていたんだろう。

 振り向くと、そこに一人の女の子が立っていた。

 一年前の夜、夢だとばかり思い込んでいた現実の壁の中で目にした、病院の貸与してくれる患者用のコートを着てて。懐かしい三つ編みの髪型で。真ん丸に見開かれた瞳の色。肌の色。背の高さ。存在感。ぼうっと白い放射光を放つ、その身体。

「愛」

 俺はまた、呟いていた。

 誰に確認を取ったんだろ。相手にかな。自分の記憶にかな。たくさんのことを隠されて、たくさんの不都合な真実から守られて、俺、もう自分の記憶にちっとも自信が持てない……。

「……友慈、なんだよね」

 女の子は細い声で言った。驚愕と楽しさの入り交じったような表情から、その瞬間に片方が消えた。楽しさを蹴り出して別の感情が横入りしてきたように、俺には見えた。

「覚えてる? 覚えてない、かな」

 何言ってんだよ。さっき名前、呼んだじゃん。

「私だよ。野塩愛だよ。一年前、この病院で一緒に病気と向き合った、私────」




 すべての確信が、ようやく目の前の女の子を愛だと断定した時には、俺はカメラを横に払い除けて、愛の身体を力一杯引き寄せていた。


 どういう感慨が愛に手を伸ばしたのかなんて考えられなかった。なんで愛がここにいるのかなんて考えてもいられなかった。

 ただ、二度と離したくない一心で、めちゃくちゃに抱き締めた。室田おばさんの気持ちが今になってやっと分かったような気がした。相手の感じる分の痛みは自分にも跳ね返ってくるんだ。その確かな痛みが、離れないでいるという実感に姿を変えてくれるんだ……って。

 先生、これいったいどういうことですか。あれだけ念を押したのに、また俺に嘘をついたんですか。落胆させるだけさせておいて再会の喜びを数割増しにしようとか、そういう計算だったんですか。このさい誰だって構わないから、ここへ来てちゃんと教えてよ……。俺、今は喜んでもいいんだよね? 嬉しくなっても、いいんだよね?

「ゆ、友慈、ゆうじっ」

 胸の向こうで愛が暴れる。

「どうしたの、苦しいよ、苦しいってば……っ」

 うるさい黙れ。俺が今までどんだけ苦しかったと思ってんだ。忘れられる苦しみに比べたら、肋骨を圧迫される程度の苦しみなんか、そんなもの、なんだって……。

 愛の反応なんかお構いなしに、俺は愛を締め付け続けた。

 続けているうちに、涙が溢れ出した。両腕を愛に回しているせいで拭えない。とめどなく流れ落ちた涙たちが、愛の肩で次々に跳ねて、染みを作っていく。ああ、嗚咽なんて聞かれたくないけど、こんだけ近くにいたらきっと愛も気付いてるんだろうな……。

「ごめん、ね」

 それまで元気だった愛の声が、不意に、ぐらりと傾いだ。

「ごめんね……。私、今までずっと、友慈のことを思い出せなかった……。ついさっき先生と廊下で会って、友慈がどうしてるのか、どんなじょうたいなのか、どんなきもちでいるのか、はじめて、きいて……っ」

 最後の方の声はまるで聞き取れなくて、ただ何かを泣き喚いているようにしか感じられなくて。

 いいや、と思った。

 委細なんか、後でいくらでも聞き直せるもん。

 それよりも今は、胸をぶち破って炸裂したこの感情の燃え上がるままに、抱き締め合っていたいよ……。




 俺はそれからも、たまにしゃくり上げるばかりでほとんどずっと黙ったまま。

 愛は思い付いた言葉から口にするように、脈絡の整わない声を漏らすばかりで。

 春風の吹き荒れる光の中で抱き合って泣き続けた。


 ベッドに横たわっていたら突然、名前を呼ぶ声が三度、耳元で響いて、その途端に膨れ上がるようにして俺の記憶が蘇った──。

 愛はそう語った。それで慌てて起き上がって、友慈はどうなったのか、今どこでどうしているのかを、ちょうど病室に入ってきた松山さんに問い質したのだと。そうしたら今日は検診で来院しているはずだと聞かされ、診察室に走って向かう途中で伏見先生に遭遇し、すべてを目の当たりにした俺が失意の底に沈んでいると知り、外気舎のところまで駆けてきた──。そこに、カメラを構えて空を見上げる、俺がいた。

 三度、名前を呼ぶ声……。思い当たる節があるような、ないような、混乱と集束を繰り返す頭の中ではもうまともに記憶を掘り返すこともできなくて、考えるのをやめた。そのくらい俺、疲れてた。ただ、普通だったらあり得ないようなことが起きたんだってことだけが、肩の震えを余計に強くして。

「松山さんも、先生も、後ろから追いかけてきてるような足音、してたんだけど……。私、あんまり無我夢中、だったから」

 俺の左肩に目を押し付けながら、愛は途切れ途切れの声で言った。とっさに俺、顔を上げて辺りを見回したよ。左側だけの視界には誰も映っていないのを見て、そんなバレバレの場所でこっちを窺ったりはしないよなって苦笑して。

 こんな奇跡が起きていいのか、夢と現実の区別のつかなかった頭で懸命に悩んで。

 でも、数え切れないほどの奇跡を起こした俺と愛になら、それも叶うのかなって思い直して。

 木洩れ日が眩しい。まだこんなに寒いくせに、ゆったりとした春らしい時間の流れ方が仄かに満ちた空気に包まれていると、いくらでも時間を無駄にしていいんだって安堵できた。お互いの涙が止まって、その顔に穏やかさが戻ってくるまで、俺も愛も決して力を弱めたりはしなかった。


「……怒らないんだね、友慈」

 しんとした時間がほんの僅かに生まれて、そこに恐る恐る愛が言葉を置いた。

 うん、と俺は頷いた。喉が涸れて呼吸がざらつく。この際何でもいいから、飲み干して喉を潤したい気分だよ。

「怒る気力、残ってなくて」

「そっか……」

 愛が下を向いたまま、くす、って笑って目元を拭う。なんだよ、笑うなよ。色んなことが起きすぎて、俺、未だにちょっぴり混乱してるくらいだっていうのに……。

 でも、その笑みが俺のずっと見たかったものだって気付いていたから、何も言わずに愛から腕を離した。

 あれ。俺、カメラどこにやったんだっけ。見当たらない……。焦って身体のあちこちを触れて回る俺に、愛が怪訝そうな顔をする。

「どうしたの?」

「あのカメラが……。俺、確かに今まで提げてたのに」

「これ、だよね」

 愛の手が俺の右側に伸びて、ようやく事情を悟った。そうか、そっちにあったのか。道理で分からなかったわけだよ。愛の差し出したカメラを受け取って、やっぱり障害なんて不便でしかないな、なんて思う。

 愛がぽつりと尋ねてきた。

「……もしかして友慈も、半側空間無視?」

「愛も?」

「私は、左側」

 聞くと、愛もいくつかの後遺障害に悩まされているところだった。具体的には左半側空間無視、左の同名半盲、八割方の克服が済んだ運動障害、それから名前は分からないけれど疲れが出やすくなる症状。そして、若干の記憶障害。それは俺のことだけじゃなかった。事故に遭う前の部分の記憶、以前は少しだけなら思い出せたのが、今は全く出て来なくなってしまったらしい。

 俺も自分の後遺障害のことを説明した。愛の表情が見る見る落ち込んで、沈んでいく。

「友慈、走るの諦めちゃったんだね……。ごめんね。それ、私のせいだ」

「俺が自分で決めたんだから、愛のせいじゃないよ」

 俺はきっぱりと首を振って否定した。愛がそういう反応するの、何となく予見できていた。

「むしろ、もっとやばい障害を背負わずに済んでよかったって今は思ってる。右側がろくに見えないのは不便だし、怖いけど、前が見えればそれでいいなって……さ」

 それから、と接続詞を挟んで、愛の正面に向き直った。

「聞いたよ、愛。一年前の手術の背景も、愛が何をしてくれたのかも。俺の方こそ謝らなきゃだよ。何も知らないまま愛に苦労かけて、ごめん。……それと、ありがとう」

 充血した愛の瞳にじわりと涙が浮かんだ。コートの袖で力強く拭いながら、ううん、と愛は首を振る。その頬に赤みが差したのが見えて、それでどれだけ俺が胸を撫で下ろしたか、愛は知らないだろうな。

 そうだ、カメラ、渡さなくちゃ。一歩前に出て差し出そうとしたら、愛に押し戻されてしまった。

「愛?」

「私がリハビリを退院するまでは、友慈に預けておいてもいいかな」

 愛がそれでいいなら、そうしよう。分かったと頷いた。愛が口の端を持ち上げて、微笑んでくれた。

 その頭のてっぺんから、足の先に至るまで──愛の身体も俺の身体も、今は欠けることのない目映い白の光を纏っている。昔はカメラを介することでしか見えなかった。たとえその能力が病の残していった爪痕なんだとしても、俺にとっては愛と過ごした日々の中で手に入れることのできた、かけがえのない感覚だ。

 俺と愛を結ぶ特別な関係は、まだ、ここにある。


「友慈」


 愛が、目を閉じた。

 その意味するところにすぐに気付いた俺も、目を閉じた。だって目を開けたままでいられるほど、慣れてるわけじゃないし……。

 求めているのは約束の証。そうだよ、俺も愛も約束を守ったんだ。元気な身体になって再会する──一年前の夜にこの場所で誓ったことを、俺たちはきちんと守ることができたんだ。

 肩を引いて、顔を近付ける。

 唇が柔らかい感触を帯びて、ふんわりと融けそうになる。

 今度こそ俺、自分の方から距離を縮めることができたかな。できていなかったらいずれやり直そう。ここで命が燃えている限り、やり直すチャンスはたくさんある。だよね、愛。

 桜の咲き乱れる空の下。かつて命懸けで未来を見ようとした場所の、そのすぐ隣に立って、俺と愛は約束のキスの“続き”を交わした。ぷは、なんて可愛い声を上げて唇を離した時、愛も、俺も、桜と同じかそれ以上くらいに赤くなっていたんじゃないか。恥ずかしくなって二人とも視線を逸らして、可笑しくなって、くすくす笑いながら手を繋いで、空を見上げた。

 俺が左で、愛が右。

「こうすれば、お互いの見えない部分、見えるよね」

 愛が呟いた。

「これまでも、これからも……。こうやって隣に立って視界を補って、進む道、一緒に探せたらいいな」

 俺、思わず愛を勢いよく振り向いてた。だってあんまり既視感のある言葉だったから。

「なんで知ってんの」

 尋ねても、愛はきょとんとする。「なんのこと?」

 その顔を見つめていたら、何とはなしに問い直す気が消え失せて、俺は無言で首を振った。なんでもないよ。

 今は前を向けさえすれば、それでいいんだもの。




 愛も、俺も、もう病に悩まされる患者じゃない。

 中学を何年も休んでいる上、自分を守ってくれる家族もいない愛が、きっとこれからも否応なしにたくさんの苦労を強いられることになることは、俺にだって想像できる。

 そこに俺の存在意義があるのかどうか、今の俺にはまだ分からないや。自分で言うのもなんだけど俺、頭だって良くないし、身体も危なっかしいし……右側がよく見えないし。

 一年前の闘病生活の時のように、俺と愛がお互いの“生きる力”を補完し合って生きることは、もう、ないのかもしれない。

 それでも大丈夫だって思う。

 愛と再会することが、今日までの俺の“生きる理由(わけ)”だった。それがあるから、どんなことでも頑張れた。今、この瞬間にその理由は、『愛のいる明日を生きること』に姿を変えた。変化はたったのそれだけで、だけど前向きな気持ちは少しも失われない。


 これからは愛の存在そのものが、俺の生きる理由(わけ)になるんだ。







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