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君と俺が、生きるわけ。  作者: 蒼原悠
第四章 君と涙と“Valediction”
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Karte-25 孤独





「愛。……ちょっとそのカメラ、取って」


 俺は要求した。消え入りそうな声だった。

 無言でカメラを手に取った愛が、うつむきながら渡してくる。俺が病室に戻ってきてから十五分。ようやく愛も、しつこく問うのを諦めてくれている。

 細い手に掴まれたハレーションカメラを、俺も無言で受け取る。本当はありがとうって言いたかったけど、口の中が乾きすぎていて、声が出せなかった。

 自殺しようとして銃口を向けるみたいに、カメラのレンズの側を俺の身体に向けた。

 ぱしゃり。

 静かな音と共に、ハレーションカメラは相変わらずの性能を発揮してくれた。画面に写った俺の姿は、真っ黒だ。

「…………」

 こういう時、何を口にすればいいんだろ。喜べばいいのかな。笑えばいいのかな。ああ、笑うとしたらきっと、自嘲の笑いだな……。おめでたい妄想に浸っていた俺っていう人間を、精一杯笑ってやればいいんだな。

 なぁ、と後ろの愛を振り返る。愛はベッドに腰掛けながら、所在なさそうに足をぶらんぶらんさせていた。

「愛、気付いてたんだよな。今の俺に“生きる力”が見当たらないこと」

「だから心配したんだもん」

 今頃気付いたのって言いたげに、愛は口を尖らせる。前は確かに可愛いと思えたその表情にも、今はもう、何も感じられない。いつから俺、こんな無感動な人間に成り下がったんだろう。

「家に帰っていた間に、何か気持ちが沈んじゃうような出来事でもあったんだろうなって思ったよ。私は無力だけど、話を聞くだけならできるから、せめて友慈の気持ちを軽くしてあげられないかなって……思って」

「…………」

 俺はそっと、カメラに目を落とした。

 そっか。そうだったんだな。ただの興味からじゃなくて、愛らしい優しい気持ちから聞こうとしてたんだな。

 ──なら、望みに従って聞いてもらおうかな。俺の絶望がどんだけ深いかを。

「聞きたい?」

 念のために、そう尋ねてみた。とたんに愛は顔を上げて、大きくこくんと頷いて見せた。

 その仕草が、最後の躊躇いを俺から払い落としていった。俺は愛から目を背けた。

「俺、余命一ヶ月なんだって」

 愛からの反応は、なかった。本人の方を見てないから分からないけど、たぶん、驚いて目でも丸くしてるんじゃないかな。

「しかもそれ、告げられたのはもう一週間近く前だから、実際にはあと一ヶ月も持たないんだと思う」

 うつむきながら畳み掛ける。こうしていると、なんか自分に対して言っているみたいだ。お前はもう一ヶ月持たないんだぞ、ってさ。

 そこでようやく、愛が口を開いた。口調が変わっていた。

「そっ……か……」

「うん」

「で、でもほら、余命って当てにならないものって言うじゃない……。余命一年って言われて五年生きる人だっているんだよ? そんな気にしすぎちゃダメだよ、そんなんだといつか……」

「折れちゃいそう、って言いたいの?」

 わざと遮って、俺は聞いた。愛はさっきとは違って、小さく小さく頷いて見せた。

 愛。お前まで、そんな風に言うんだな。余命は信じるに値しないって。先生や父さんや母さんと、同じように。だとしたらお前、やっぱり俺の気持ちなんて何も分かってくれてないんだよ。

 俺さ、いつだったか愛が発作みたいなのを引き起こしてこの病室を去った時に、気になって脳腫瘍のことを調べまくったんだ。ネット上に転がってる闘病記だとか、体験談だとか、もう貪るように読み漁ったんだ。そしたら、余命が的中して死んでいく人は決して少なくはないんだってことが分かった。しかもそういう人に限って、余命宣告の直後にものすごく絶望しているんだ。

 それで思ったんだよ。人間って弱い生き物だから。『あと一ヶ月』って一度でも思っちゃうと、一ヶ月の期限が迫るにつれてどんどん気持ちが弱っていくものなんだろうなって。心は病状に直結しているんだと、いつか伏見先生が言っていた。気持ちが弱くなれば体力も落ちて、病状も悪化して、そうやって自ら予言を的中させて死んでいく人たちは、きっとたくさんいるんだ。

 愛。俺な、もうすでに一度、思っちゃったんだよ。『あと一ヶ月しか生きられないんだ』って。母さんの口から余命が飛び出したのを耳にした、あの無自覚な一瞬のうちに。


「放射線治療も抗がん剤も、効果がすぐに出てくるものじゃない──先生はそう言ってたよ。じゃあ、俺はいつまでその“効果”が出てくるのを待ってればいいっていうんだよ。今この瞬間だって、俺の脳腫瘍はどんどん大きくなっていっているのに? 間に合うなんてどうして言えるっていうんだよ!?」

「友慈…………」

「……何もかも、無駄になったんだよ」

 顔を上げて、俺は笑った。ははっという声と一緒に、汚い笑顔を愛に向けた。

「余命が出るくらいなんだから、きっともう完治なんて有り得ないんだ。完治しなきゃ病室から出ることもできないし、部活にも戻れない。俺、いつか必ず脳腫瘍を治して退院することができるはずだって思っていたからこそ、昨日まで頑張っていられたのに……。嫌いな検査だって受けたし、こんな部屋の中に閉じ込められた生活にも耐えてきたんだ……。なのに……なのに……」

 “こんな部屋”って口にした瞬間、愛の顔が歪んだ。

 ああ……そういえばこの病室は、愛にとっては自宅にも等しい場所なんだったな。傷付けちゃったかな。

 でも、今はそんなこと、何だってよかった。誰も彼も傷付けばいい。傷付いたって俺の知ったことじゃないよ。だって、誰に怨まれようが怨まれなかろうが、俺はもう死ぬんだもの。

「なぁ、愛。知ってるなら教えてよ。俺、これからいったい何を目指して生きていけばいいんだよ。一ヶ月以内に死ぬことが分かっていながら、いったい何を目標にして生きていけばいいっていうんだよ……」

「そんなの……私には……」

「分かるわけないよな。誰かの命を削って、殺して、そんで生き永らえてる“余命破り”の愛に、分かるわけないんだよな。死の迫ってない奴に、俺の気持ちなんて分かりっこないんだよっ!」

「ひっ、ひどいよ……!」

 愛が叫んだ。涙をいっぱいにためて潤んだ目で、俺を睨み付けた。

 だから俺も睨み返した。たぶん、睨みたかったのは愛じゃなくて、あの夢の中に出てくる愛の姿をしたあいつの方だったんだと思うけど。

「……もう、いいよ。同情なんてしないでいいよ。誰にどんな優しい声で慰められたって、未来が閉ざされてることには何の変わりもないんだ。愛と自由に遊んだり、話したりして、当たり前の日常を取り戻すことだって、もう叶わないんだ……。

だから愛ももう、俺のことなんて忘れていいよ。俺はもう金輪際、真っ暗な状態から元に戻ることなんてないだろうからさ……。また誰か、“生きる力”の強そうな奴を見つけて、そいつの傘の下で生きていきなよ。

俺にはもう、愛を救ってあげることも、楽しませてあげることも、何も、できないよ…………っ」


 病室に、愛が嗚咽を漏らす声が響き渡った。

 両手で顔を覆った愛は、ベッドの上でうずくまるようにして泣いていた。顔も、表情も、すっかり指に隠されていて何も見えなかった。

 俺の目からも、一気に涙があふれそうになった。駄目だ、俺。耐えろ、俺。俺は上を向いて天井を懸命に睨み付けながら、唇を噛んで涙を耐え続けた。天井に取り付けられている蛍光灯が、水面に浮かぶ影みたいに揺らいでいた。

 涙の理由なんて分からなかったし、分かりたくもなかった。今はただ、気を抜いただけで切れてしまいそうな胸の堰を、必死に押し止めてやることしかできなくて。


 どうして俺は、愛と出逢っちゃったんだろう。

 そうしたら、あんな不気味な夢を見ることもなかったのに。“生きる力”を持たない愛に、自分のそれを吸い上げられることもなかったのに。

 病院暮らしがこんなに楽しいものだなんて思うこともなかったのに。この四人部屋に帰ってくることが楽しみになるなんて、有り得なかったのに。

 愛のことがこんなにも愛しくて、この手で守ってやりたいって思うようになることだって、なかったのに……。

 こんな余計な未練、残さないで済んだかもしれないのに……!




 結局、一分と持たずに俺も泣き出して。

 二人で泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れて、倒れ込むみたいに眠った。

 同じ病室の隣り合ったベッドにいたのに、俺と愛の間には何万キロもの絶望的な距離が開いているみたいだった。お互い相手を労ることもなく、お互いの身体に触れることもなく、ただ目元から溢れ続ける涙を機械的に拭うばっかりだった。


 外気舎の崩れた夜の俺たちは、もう、そこにはいない。

 俺たちは、孤独だった。




   ◆




 次の日から、俺の容態も愛の調子も、まるで坂道を転がり落ちていくみたいに悪化していった。

 朝早くに頭の中からぎゅうぎゅうと締め付けられるような痛みが走るのなんて、もう日常茶飯事だった。次の日の朝、二人揃って苦しみながらスタッフステーションへの通報装置を押して、例にならって二人とも七三四病室へと移された。

 移されたと言えば、転移もあっという間に拡大していったな……。真っ先に肺、次に肝臓、次に膵臓と、転移したガンは少しずつ全身に広がっていった。言うまでもなく、そこには痛みや苦しみもセットでさ。

 二日目。息切れが始まった。熱も出てきた。CTで胸部を撮影したら、肺の異常がすぐに発覚した。

 三日目。視界に光が入るようになった。日中に初めて気絶を経験したうえ、その気絶していた間に俺は痙攣を起こしたそうだ。……先生が言うには、癲癇(てんかん)の症状が出てきているらしい。

 四日目。背中と上腹部に、(やじり)か何かが刺さったような痛みを感じ始めた。膵臓に転移したガンが原因の神経痛だった。頻繁とまでは言えないほどの頻度だったけれど、ひとたび襲い始めると痛みは波のように繰り返し押し寄せてくる。いっそ意識を失いたいって、この日だけでも二回か三回は考えた気がする。

 毎日のように血痰を吐いた。胸に水が溜まって、痛みを生み出した。熱もあったし、頭は靄がかかったみたいに朦朧としていて、常に視界がぐらぐらと不規則に揺れる。自力での移動が厳しそうだっていう松山さんの判断で、移動の時は車椅子に乗せられるようになった。俺自身、この期に及んで屈辱や気恥ずかしさなんて感じなかったし、感じている余裕もなかった。

 頭痛や腹痛、吐き気なんて当たり前。食欲はほとんどなくなって、鴇田さんが運んできてくれる食事さえもが苦痛の元凶になった。愛が室田おばさんの配膳を嫌がっていた時の気持ちが、こんなことで理解できるようになった。

 まさに一触即発の危篤状態に陥っていた俺たちの容態の変化を見落とさないようにって、看護師さんたちは代わる代わる頻繁に病室を訪れるようになった。それもそれで鬱陶しくて嫌だったけど、朝方に頭が割れるように痛くなって悲鳴をあげかけて看護師さんに介抱されてからは、そんなことを思う余力すらなくなった。

 相も変わらず放射線治療や抗がん剤投与は継続されていたけど、毎日のように撮り続けたCTスキャンの画像は、その努力を毎日のように裏切った。脳腫瘍は脳みそに溶け込むような姿を維持したまま、どんどん肥大化していっていた。そんな俺を毎日診療する伏見先生も、俺から見たって明らかなくらい疲れが溜まっていそうだった。俺と愛、重症患者を急に二人も同時平行で診なきゃいけないんだもんな、当然だろうけどさ……。




 面会に来る人たちの様子も、俺たちの病状悪化に従うように変化していった。


「……友慈。あんた、これ、忘れていったでしょ」

 七三四病室に移った日。見舞いに来た母さんは、ベッドで寝る俺の頭上で何かをチャラチャラと振ってみせた。瞳に映った母さんの目は、虚ろだった。

 ああ、何かと思えばそれ、愛のためにと思って買ったあのキーホルダーか……。

「そうだよ。ありがとう」

 掠れた声でお礼を言うと、母さんは無言でキーホルダーを机の上に置いた。

 置いてから、まるで独り言みたいに呟いた。

「……ごめんね」

「何が」

 すぐに問い返した。母さんが答えることはなかった。

 母さんの見立ては正しかった。余命なんて話してしまったら俺は生きる希望を見失うかもしれない──そう思ったからこそ母さんは余命を秘匿しようとしたわけで、実際、知ってしまった俺は今、こうして症状を一気に悪化させている。

 ごめんって言いたいのは俺の方だよ、母さん。あの夜、俺がうっかり水を飲もうと一階に向かって、ちょっとした出来心から盗み聞きをしようとしなければ、こんなことにはならなかったんだよな。そしたら余命のことなんて知らないまま、訳が分からないまま死んでいけたんだろうな……。そっちの方がお互い何倍も、いや何十倍もマシだったのに。

 母さんは涙ぐみながら、愛にも話しかけていたっけ。調子はどう、って。

「私も……苦しい……」

 噎せて咳込みながら、愛はそんな風に答えていたような気がする。

 母さんは何度も何度も俺たちを振り返りながら、病室を出ていった。ひどく落ち込んだ肩を見るのがつらくて、哀しくて、俺はいつも布団で顔を隠していた。


 部活仲間のあの三人も、俺が危篤って聞いて駆け付けてきた。

 こんなことになってるなんて聞いてないぞ、大丈夫になってきたんじゃなかったのかよ──なんて、さんざん耳元で喚かれた。だけど俺が余命のことを口にした途端、山田が俺に取りすがって泣き出した。

「嘘だろ!? そんなの嘘だよな……!? 嘘って言ってくれよ、でないと……俺……っ!」

 中西も、畑も、まるで病室の床から生えてきたみたいに、茫然としたまま動かなかった。

 こいつらともっと早くに仲直りしていればな……。そしたらもう少し長く、もう少したくさん、一緒にあの病室で笑い合っていられたのかな。

 後悔先に立たず。入院してからの俺は、後悔してばっかりだ。

 だから今度は、後悔しないように。

「借りてた漫画、返せなくなる前に返すよ。七○五号室に置いてあると思う。ドアは施錠されてないはずだから、適当に入って取っていってくれないかな」

 突っ立っていた畑に、俺はそう言った。それから、ちょっとだけの躊躇いを挟んで、付け加えた。

「……ありがとな。今まで、貸してくれてさ」

「お前…………」

 畑ももう、泣きそうだ。充血したその瞳に、俺の姿はどんな風に見えていたんだろう。

 何だよお前ら、揃いも揃ってらしくないなぁ……。ああ、俺もか。

 苦笑しようとした瞬間、噎せた。喉から跳ね飛んだ痰が詰まって、息が苦しくなる。青くなった俺を見た看護師さんが、飛び付くように駆けてきた。

「竹丘くん!?」

「げほげほ、けほっ……!」

 くそ、満足に返事もできないよ。そんな無言の叫びを聞き取ったのか、看護師さんは三人を振り返った。顔を上げた山田は涙でぐしゃぐしゃで、それを見てまた、喉を詰まらせそうになった。

「……ごめんなさい。申し訳ないけど、これ以上の面会の許可はできないわ。あなたたちだけで外に出られる?」

「出られます……」

「そうしてもらえるかしら」

 言われるがまま、三人はとぼとぼと病室を出ていった。俺にできたのは、ただ、噎せた拍子に潤んだ目で、その背中を追うだけだった。




 ああ。

 みんな、いなくなる。

 俺の目の前から、みんな立ち去っていく。






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