Karte-23 真実と、現実。
「やっぱり家が一番、落ち着くよ」
夕食の鍋を囲み終わって、一息ついた俺は、ぽつり、そんな独り言を漏らした。
父さんは食後のビールを煽りつつ、やや顔を赤くしながらテレビに見入っている。母さんは向こうのシンクで黙々と洗い物をこなしていた。その表情は、穏やかだった。
いつもなら俺はすぐに子供部屋に閉じこもって、好きなことに興じたりしていたに違いない。でも、今日はそうする気分になれなくて、俺は何をするでもなくそこに座ったまま、ぼんやりとテレビを眺めていた。
ニュースキャスターが悲愴な声で、悲しい事故が起こったことを伝えている。今日の夕方、都心の方の路上で、飛び出してきたトラックに撥ねられそうになった視覚障害者を盲導犬が庇い、身代わりになって死んだらしい。
「…………」
いつもなら酔った勢いでニュースにいちゃもんをつけたり、自分の意見を述べたがる父さんも、さすがに黙ってビールをジョッキに注いでいた。
犠牲になった盲導犬の映像が、テレビに映された。毛並みのいい、大きくて立派な犬だった。
痛かっただろうな。つらかっただろうな。でも、それを耐え抜いてでも、パートナーを守りたかったんだろうな。
俺は静かに嘆息して、お茶をすすった。俺がいくら同情したって、あの犬は帰ってこないし。それに俺みたいなのが同情したって、きっと安っぽくて嬉しくも何ともないだろうし。
「……命を懸けてでも守りたい相手に、あの盲導犬は出逢ったんだな」
気がついたら、心に泡のように浮かんだ思いが次々に口から流れ出していた。
独り言のつもりだったのに、父さんが反応した。父さんはカチャンとジョッキを食卓に置いて、そうだなぁ、とつぶやいた。
「あの犬の最期は、幸せだったのかもしれないな」
「大切な人を、守れたんだもんね」
酔いの混ざった父さんのネタ振り、普段なら応じないところだけど、俺もそう付け加えた。──そうしたら、ここ最近ずっと考えてきた疑問が、すんなりと言葉に変換されて落ち込んできた。
いい折りかもしれないや。そう思って、答える。
「……父さんはさ、誰かを『守る』って、どういう意味だと思う? どうすることだと思う?」
面食らったように目を丸くした父さんだったけど、やがてゆっくりと、その目を細めていった。
「難しい質問だな」
「ごめん」
「いいんだよ。父さんだって、友慈くらいの頃はさっぱりだったからな。当事者意識がなければ分からないことは、この世にはたくさんあるさ」
すかさず俺をチラ見して、目配せを飛ばしてくる母さん。だからやめろってば……。恥ずかしいから無視して、俺は先を促した。
「何かを『守る』ことは、父さんは『愛する』ことに近いんだと思う」
父さんは一度そこで言葉を切って、空のジョッキの代わりに湯呑みを手にする。手の甲のしわが、目立っていた。
「『守る』というのには色んなスタイルが、アプローチが、気持ちの込め方がある。必ずしも手で保護することだけが、『守る』ことじゃない。それはな、友慈。お前を『守る』過程で、学ばせてもらったことなんだよ。父さんや母さんに何でもかんでも手を出されたら、お前だって嫌だろう?」
「……うん」
「真の意味でその人のためになることを、考え、実行し、何食わぬ顔をして隣に立っていること。それが、『守る』ことなんじゃないかって思う。そしてそれはな、守りたい相手を『愛する』ことにとっても近いことなんだ」
愛すること。
隣にいること。
その人のためになることを、してあげること。
ああ、と俺は思った。父さんの挙げた三点はみんな、愛がいつか俺に語ってくれていた内容と一致しているじゃないか。
母さんもいつの間にか洗い物を終えて、向かいの椅子に腰かけていた。
「お母さんも基本的には、お父さんに賛成するかしら」
ふっと口元を緩めて、母さんは組んだ手にあごを乗せる。
「でもお母さん、あんたが今回入院になったことで、けっこう意識が変わったところもあったのよ」
「なんで?」
「こんなにも長い間、守るべきあんたがお母さんたちの手中を離れていたことって、初めてだったからかしら」
ね、と母さんは父さんにうなずいて、父さんも同じようにうなずき返す。
やっぱり意識が通っているのかな、夫婦って。なぜかその時、初めてそう感じた。
「ドアを開けたらすぐの場所で眠っているのとは、まるで訳が違うの。お見舞いで病院に通うたび、まるであんたがお母さんたちのもとからどんどん遠くなっていくような感じがして、不意に怖くなったりするのよ。……本当に、ね」
「…………」
「知識も経験も技術もないお母さんやお父さんが、病気と闘っているあんたのためにしてあげられるのは、祈ることだけなの。『あの子をお守りください』って」
母さんは情けなさそうに苦笑してから、でも、と続けた。
「『守る』ことは気持ちの問題だと思うわ。努力が実らないことも、想いが伝わらないこともあるけれど、素直な気持ちが消えさえしなければきっと、友慈も見つけられるはずよ。友慈なりの『守る』ことの在り方をね」
山田たちから返信が来たのは、十時を回った頃だったと思う。安心からか疲れがどっと出てきて、でも眠りたくなくて、ベッドの上でだらだらと漫画を読み漁っていた時だった。
『明日あたり、遊びに行ってもいいか?』
要約するとそう書いてあった。前のこともあったからか、変に他人行儀な文面だったような。
それでも俺は、嬉しかった。部活のしばらくの休養が決まってしまった今、あのことで今さらどうこうなんて言い合いたくない。前みたいに四人で遊べる関係を、修復したかったから。
『当たり前だろ。今すぐでもいいよ』
そう返事をしたためると、スマホを机に置いて俺は天井を見上げた。前は見上げるたびにシミや汚れを発見していた天井が、今日こうして見ると綺麗に見えるのはどうしてだろう。
さすがに、寝るかなぁ……。
よし、決めた。いつまでもこうしているわけにはいかないよ。先生の言う通り、俺はまだ難病を抱えた患者なんだからな。
そうと決めれば起き上がって、電気を消しに行かなきゃいけない。身体を起こした俺は、ベッドからぽんと立ってドアの方まで歩いていった。
そして何気なく、後ろをちらりと見やった。
──真の意味でその人のためになることを、考え、実行し、何食わぬ顔をして隣に立っていること。それが、『守る』ことなんじゃないかって思う──。
父さんの声と共に蘇ったのは、ベッドに腰掛けて俺をじっと見つめ、そうしてにっこりと微笑んだ愛の姿だった。
愛。俺、約束するからな。きっと必ず元気になって、父さんみたいに何食わぬ顔でお前の隣に座っていられるようになるって。
心の中だけで囁いてから、今度こそぱちんと電気を落とした。
◆
その夜、俺は夢を見た。
もう言うに及ばないだろう。あの夢だった。
最初は気付かなかったんだ。ふっと意識が起き上がった瞬間、俺は夜の帷がすっかり下りてきている深夜の自分の部屋に、何事もなかったみたいに座っていたから。
俺、寝惚けて起きちゃったのかな……。
無意識のうちに痛覚を確かめようとしたんだろうな。前に見た時のように頬をつねろうとして、何気なく右腕を持ち上げた。
その腕に絡み付いてきた何かを感じて、それだけでもう、この夢が何なのかを俺は隅々まで理解したよ。──ああくそ、最悪だ。こいつ俺の家にまで出てきやがるのか……!
「“何食わぬ顔をして隣に立っている”?」
かちんこちんに凍り付いた俺の右隣に、ヤツはそっと寄ってきた。そうして耳元に口を寄せて、そう囁いた。
ああそうだよ。いったい何が悪いんだ。喧嘩腰じゃないと心が持ちそうになくて、必死に虚勢を張る俺。するとヤツは、低い声を引くみたいに薄く笑った。
「何言ってるの? “何食わぬ顔”も何も友慈はもう、私のことを受け入れちゃってるでしょ?」
それはお前が無理やり……その、お、犯そうとしたからだろうが!
右腕を握られたままなのも気持ち悪くて、振り払おうとした俺は腕をぶんと大きく動かした。いや、動かそうとした。動かそうとした時、ヤツが腕に力を込めやがって、結局持ち上がらなかったんだ。
なんて力なんだ──そう思った時、ヤツが小さく、笑った。
目は少しも笑っていなかった。
「何食わぬ顔で隣に立っているなんてもう、君には不可能だよ。私と出会ったあの日から、君にはたったひとつの道しか与えられてないの。ううん、私と関わった人は、みんなそう。
苦しみながら、痛みに叫びながら、私の隣で弱っていく未来。……残念だけど、それだけなんだよ」
「────はっ……!」
そこで目が覚めた。
目覚まし時計が示す今の時間は、まだ午後十一時だ。何だよ、電気を消してから一時間しか経ってないじゃんか……。
そのせいか。今ここで眠っていたわずか一時間の間、俺がどんな夢に魘されていたのかは、こうして起き上がってしまった今も鮮明に思い出すことができた。それこそ嫌って言うほど。
はぁ…………。
言いようのない疲労と、絶望感と、悲しみに包まれて、俺は膝を抱え込んだ。
当たり前ながら、右隣に愛はいない。だけど、右腕にじんじんと痕跡を放つヤツの腕の力の余韻のせいで、俺は全く笑う気分にならなかった。
いいか、俺。毎回のことだけどあんなのは夢だぞ。信じる必要なんてないんだぞ。そう言い聞かせてみる。本当に最初から最後まですべて夢だったら嬉しいのに。
そこまで考えてから、ふと、俺は胸の中で育ちつつある違和感の存在に気が付いた。
前の二回と今回って、だいぶ違う内容じゃなかったか。
まず、ヤツが俺の隣っていう、今までで一番近い場所にいたことだ。そりゃ、文字通り『つながっていた』前回の方が肉体的には近いのかもしれないけど、今回の方はどちらかっていうと心臓とか、脳に近い。そして、俺にはそっちの方がずっと不快だったわけだ。やっぱり心理的に、“心”に近いからなんだろうか。
キスと言い何と言い、何て言うか……いやらしい行為を何も求めてこなかったのも、今回の特徴かもしれないよな。
でも、そんなことは気にしようとしなきゃ見逃せるよ。
問題は──発言だ。
“私と出会ったあの日から、君にはたったひとつの道しか与えられてないもの。苦しみながら、痛みに耐えながら、私の隣で弱っていく未来。……残念だけど、それだけなんだよ”
あれはいったい、どういう意味なんだ……?
ぞく、と寒気が身体の奥深くを走って、俺は思わず布団を抱き締めてうずくまった。寒気の正体が冬の寒気でないのは、自分でもはっきりと感じ取れていた。
今日のヤツの言葉は、父さんがほんの数時間前に口にしたばかりの事柄に、ことごとく絡んでいる気がする。俺は俺なりに父さんの言葉を大事に受け取って、咀嚼して、胸のうちに大切に仕舞い込もうとしていたのに、ヤツはそれを真っ向から否定しようとした。
いや、否定しようとしたことそのものはどうだっていいんだ。ヤツの言葉がどうも予言めいているようだったのが、俺にはどうしても、どうしても気がかりなんだ。
意味不明なことばっかりを口走っていた以前のヤツとの最大の違いは、そこだった。
俺はヤツの正体を知らない。
ヤツの望みも、目的も、分からない。
だけどそろそろ知りたいよ。でなきゃ、俺、いつになってもヤツへの恐怖から逃れられないよ……。
「…………」
喉、渇いたな。
ふらふらする頭を叱咤しながら、俺は立ち上がってドアを開けた。
よかった、下ではまだ父さんも母さんも起きてるみたいだ。さすがにまだ十一時だもんな。
同じ屋根の下に目を醒ましている人がいるだけで、こんなに気持ちが安らかになるんだ。いつか愛が夜行性だった頃のことを思い出しながら、俺は物音を立てないようにそっと部屋を出て、階段を下りていった。ちょっぴりで構わないから、水を飲みたくてさ。
父さんと母さんは、何やら話し合いをしているみたいだった。最初は俺、そう感じた。
でも、近寄って行くに従って、それが話し合いどころか言い合いになっていることに気付いた。
話がきちんと聞こえてきているわけじゃないから、文脈は知らないけど。このタイミングであんな口論になるネタがあるとしたら、やっぱりまぁ、俺だよな……。入院費のこととかだったらイヤだな、なんて思いつつ、いけないと分かっているけど俺は聞き耳を立てた。階段の途中で息を潜めながら、話の内容を掴もうとしたわけだ。
だって好奇心には勝てなかったんだもん。面白そうじゃん、ああいうの!
「──君はいつもいつもそうやって言うけどな」
まず聞き取れたのは、父さんの声だった。
あれ。声が酔ってない。夕食の時にあんなに飲んでたのに、聞こえてくる声はもうすっかり醒めてる。
さては風呂でも入ってきたのかな。そんな印象を抱いたのと、母さんのしゃくり上げるような呻き声が階下から響いてきたのは、同時だったような気がする。
「──だって……だって……!」
「──僕だって、君の気持ちは分かってるよ。そりゃ言いたくないだろう。でも、いつか必ず伝えなきゃいけないことなんだぞ。どうしてもっていうなら、僕の口から真実を……」
「──駄目! あなたは何も分かってない、私は自分で言うのが嫌なんじゃないのよ! そのことそのものを話したくないの……!」
「──だから前にも言っただろ、いつまでそうやって誤魔化してる気でいるんだ? 君が思ってるよりあいつは……友慈はもう、大人だ。受け止めるかどうかを決めるのは僕らじゃない、友慈本人なんだぞ!」
「──あなたこそよ、友慈の何が分かってるっていうの!? 私は分かる! 毎日のようにあの子のもとに通っていれば、あの子がどんな気持ちで日々の暮らしに耐えてるのかなんてすぐに分かるわ!」
待って。待ってよ。二人ともいったい何の話してるの。
父さんの声はどことなく湿ってるし、母さんに至っては泣いてるし。予想外に険悪な階下のムードに、俺はその場で氷のように固まっていた。
“真実”。“誤魔化す”。小説の中みたいな物騒な言葉が俺の心の奥にそっと潜り込んできて、これ以上は聞かない方がいいって囁いてくる。聞かない方がいい、さもなくば不幸になるぞって。予感と言った方が近かったかもしれない。
だけど俺は動けなかった。動かなかったんじゃない、動けなかったんだ。
「──いい加減にするんだ! 君がどう想像しようが、僕がどう想像しようが、そんなのは友慈本人には何の関係もないんだぞ! 友慈には現実を知って、受け入れて、それをもとにして未来を決める権利がある! もちろん聞かないのも友慈の自由だろう、だがそれだって、聞くか聞かないかを本人に諮ってからの話なんだ──」
激昂した父さんの声を遮るように、母さんは叫んだ。
「──聞く聞かないをどうやって選ばせればいいって言うのよっ!? 『友慈、あんたの余命はあと一ヶ月もないみたいだけど、そのことを聞きたいか』って聞けばいいわけ!? そんなの、ほとんどそのまま事実を話したのと同じじゃないっ!!」
その時、俺の頭にフラッシュバックしていたのは、いつか母さんが車の中で俺を前にして口にしていたことだった。
──『親はね、大切な子どものことは、何でも知ってるものなのよ』。
そう言ってたよね、母さん。同じ親なんだから、父さんだってそうなんだよね。
気がついた時には俺、階段を音を立てながら降り始めていた。
とん、とん、とん。
階段に反響した足音は、きっと父さんと母さんのところにも聞こえていたに違いない。二人の話す声がいきなり止んだ。
けど、そんなのはもう、どうでもよかった。俺は夢遊病にでもかかったみたいに、ふらふらと階段を降りきってリビングに出た。
ああ。二人とも俺を見てる。母さんなんか完全に目が引きつってるよ。俺は化け物かよ。
ま……化け物、かもしれないよな。『余命破りの野塩愛』の隣で、今日までずっと生き延びてこられたんだから。
「母さん、父さん」
俺は尋ねた。
自分でも自分のものに思えないくらい、暗くて、掠れて、今にも消えそうな声だった。
「“余命”って、何……? どういうこと……?」




