20. 決めた道
年末の慌ただしい時期に駆け足で展開されたあかりの虐め問題は、終業式を迎える直前に一旦の終息を見せた。
あかりと京子、双方の保護者が了承のもと、第三部の学年保護者会では匿名の形で虐めの事実があったことを報告された。紀代が読み上げる予定だった手紙を校長が「被害生徒の保護者から預かった」という形で読み上げたそうだ。
――いじめ、というやわらかなひらがな表記に騙されてはいけません。
虐めなどという曖昧な言葉を隠れ蓑にしてはいけません。
加害者が私たちの子にしたことは、恐喝罪であり器物損壊罪であり、そして、モラル・ハラスメント、精神的な暴力行為です。
見て見ぬ振りをする傍観者の生徒さんに加害意識はないでしょうが、間違いなく傍観者も加害者なのです。
なぜなら、自分が被害を受けないために今虐められている人を盾にしているからです。
保護者の皆様におかれましては、仕事もあり各ご家庭の事情もあってご多忙とは存じます。
ですが、子供たちのこの時間は一度きりだけです。
大切なこの時期のお互いの子が、身体だけでなく、心も健やかに育って欲しい。そう願うのは私たちと同じだと信じております。
どうか各ご家庭で、お子さんと本日のことについて話し合いをしてください。
きっと子供たちにはうっとうしがられると思います。
ですが、大切なお子さんが次の被害者にならないために、新たな加害者とならないために、どうか日々大切なお子さんの様子を、他愛のない日常の会話から汲み取り見守って差し上げてください。
なにとぞよろしくお願い申し上げます――。
第三者に扮して保護者席で会に出席していた紀代曰く「手応えはほぼゼロ」だったらしい。同じく第三者として保護者席についていた本田議員が挙手をし、
「被害生徒さんの保護者さんに、くれぐれも胆に銘じましたとお伝えください」
と、あたかも他人事として感銘を受けたかのような持論を展開したそうだ。父親としての役目もまっとうしているアピールも忘れずに。
「なーにが“多忙なのは私も皆さん方のご主人と同じです。父親として、ぜひご主人にも保護者会に参加していただきたい”よねえ。迷惑そうな顔をして来たくせに」
紀代は心底うんざりした顔をして吐き捨てるようにそう言った。
学校側は、柴田や紀代が主張した「被害者加害者ともに個人を特定されるのは双方にデメリットしかない」という主張を受け入れ、停学処分の代案として打診したボランティア活動の案を受け容れた。京子の取り巻き女子四人は、黒崎と縁故のある福祉施設で正月イベントの準備や手伝いを冬休みいっぱい続けていたらしい。
「見事なくらい何もできない子たちだったよ。所長からかなり厳しく指導されていたから、少しは自分たちが甘やかされて来たことや、実は親から放置されていたことに気付いてくれているといいんだけどね」
逸美たちは他人の大人に叱られる経験は初めてだと言っていたそうだ。
「その場ではかなり陰で俺や所長の悪態をついていたらしいけど、最終日に所長から“よく頑張ったね”って言われた途端、みんなして泣き出しちゃって、所長がビックリしていたよ」
と黒崎が笑って話すから、きっと彼女たちは何かを得たと実感したのだろう。
「本人聴取のとき、逸美たちの親が、すごい怒鳴り声を上げていたり、ぶったりしていたんです。すごく怖くて驚きましたけれど、今思うと、私は叱ることと感情をぶつけることの違いを母から教えられていたんですね」
そう考えると逸美たちを少しだけ赦せる気がする、と言ったら、黒崎は小さな子を褒めるように「えらいえらい」とおどけた口調であかりの笑いを誘った。
あかりは表向き病気による長期欠席の扱いだったので、三学期からは病気が完治したという名目で登校した。
現実は現実でしかなく、フィクションのように万事解決のエンドマークを付けるのは難しいと思い知った。
あかりへの虐め問題は、保護者間で匿名にしたところで、クラス内では周知の問題だった。だからあかりが久し振りに登校すると、クラスメートたちは不穏分子を見るような目であかりを迎えた。挨拶をしてくれたのは田所と二宮だけだった。
「ほら、実際のところは三学期からもう受験対策スタートじゃん? みんなそれでピリピリしてるだけだって」
田所はそう気遣ってくれたが、あかりは彼らにまで余計な影響を与えるのを恐れ、あとでメッセを使って「学校ではもう話し掛けなくていいよ」とだけ送った。それきり田所たちを避けるようになってしまった。
京子への処分については、本田議員からの「家庭内で制裁を行なうので」という強い要望に学校側が屈した形になった。彼女は三学期の始業式に登校しなかった。担任の蔵木からはホームルームで受験対策で私立へ転学したとだけ伝えられた。それから一ヶ月ほどしたころ、田所が電話で「市内にあるエスカレーター式の私立高校へ転校が決まったらしい」と教えてくれた。その情報は彼の母親が井戸端会議の中で入手したそうだ。まだ田所自身は京子と接触していない話しぶりだったので、それとなく聞いてみれば、
『京子の親がまだ揉めているらしくてさ。そんな姿を見せられないって、おじさん方のばあちゃんが京子を春休みまで預かることになったらしくて、今は自分の家にいないんだって』
とのことだった。
「そう、なんだ。ねえ、田所くん、京子が今いるところの連絡先は知っているの?」
『うん、まあ。京子のおばさんに無理くり教えてもらった。帰って来いって言わないと帰って来ない気がして。でも、まだなんて切り出したらいいか解らなくて。謝らなきゃってことは解るんだけどさあ』
「多分、謝るとか、そういうことじゃないと思うの。京子はきっと、田所くんにだけは素の自分でいられたんじゃないかと思うのね。だけど私が転校して来たのがきっかけで、ちょっと在り様が変わってしまった、というか。田所くんに嫌われたと思い込んでいるんじゃないかと思うの。だから、もし田所くんが今言ったように思ってくれているのなら、それをそのまま京子に伝えるだけで彼女は救われると思うんだ」
『……それってさ、あいつに思わせぶりみたいなことにならん?』
「う……ぅん、どう、なんだろう」
『あ、まあ、いいや。そこら辺は林田よりもユウさんに相談しよ』
いつの間にか田所のユウに対する呼び方が「古川さん」から「ユウさん」に変わっている。
「仲、いいんだ?」
知らなかったその事実に妙な嫉妬を覚え、問い質す声がやけに尖った。
『や、あの人ンちって独り暮らしじゃん? 俺んトコは弟や妹がうるさくてさー。これでも受験生になるんで、ちょいちょい勉強部屋にさせてもらってる。なんなの、あの人。無防備だよなあ。俺がいても普通にガッコやバイトに行っちゃうの。居心地良すぎて何回か泊まっちまった』
(……合鍵……田所くんは持ってるんだ……)
知らずあかりの目が剣呑に細まっていく。口がへの字をかたどった。
『おーい、林田?』
「田所くんはユウさんのところに入り浸ってばかりいないで、もうちょっと女子ともお付き合いしてみたほうがいいよ。そんなんだからオトメゴコロが解らないのよ」
『はぁ!? なんでキレてるの?』
「キレてないです!」
『キレてるじゃん』
そんなやり取りをしたあと、あとで田所から愚痴られたユウに笑いながら叱られた。
「さすがに合鍵を渡すわけないだろ。欲しかったなら素直にそう言えばよかったのに」
ただし、お母さんからの許可をもらえればね、と、今ではすっかり定型文になった条件が付け足される。
「私、このごろすごく思うんですけど、ユウさんのその口癖って、お母さんへの気遣いというよりも私を子供扱いしているだけですよね」
虐めの発覚をきっかけに、ユウにはその程度のはっきりした意見は言えるようになっていた。半分本気だが半分冗談のそれを少しだけ気に留めて欲しいと思いながら、あかりは大袈裟に頬を膨らませた。
「だってまだ未成年じゃん。俺、まだ淫行罪で捕まりたくないもん」
「いっ、いんこ……な、何言ってるんですか! そもそも言いふらす気ですか!」
「ハニーのお母さんにはね」
「――ッッッ!!」
こんなやり取りばかりで結局いつもやり込められてしまう。だが、そんなバカみたいな他愛のないやり取りは、この上なくあかりを慰めた。
「で、学校、結局あまり行ってないんだって?」
ユウに忙しい時間を割かせてまで会う時間を作ってもらった本題を、彼のほうから切り出された。
「そう、ですね。それじゃあダメなのは、解っているんですけれど」
ユウとそんな話をしたときは、もう二月の半ばになっていた。
「蔵木先生は人気の高い先生だったから、先生が辞める原因になった私をよく思わない人もいますし。そう感じてしまう気持ちも解るし、なんとなく、行きづらくなってしまって」
学校では表向き、蔵木は家の事情で辞めたことになっている。だが実際は、本田議員がお家事情の露呈を回避するために、内情を知っている蔵木に何らかの形で学校を去るよう手を回した、という経緯らしい。
「先生は、私を恨んでいるでしょうか」
友人として今でも蔵木と交流のあるユウに聞きたかったのは、それだ。蔵木は今、ユウを介して黒崎に紹介されたフリースクールで来年度から教鞭を執る予定になっている。今は研修生として勤務しているらしい。黒崎からフリースクールへの再登校を打診されたときにそれを知ったのだが、蔵木に合わせる顔がないと感じて再登校の打診には首を横に振った。
「恨み言は聞かないな。心残りはあるみたいだけど」
少し困った笑みを浮かべたユウは、蔵木の近況を軽く語った。
フリースクールでは公立高校教諭時代のように、膨大な量の申請書類や報告書類の作成仕事はないらしい。その分、生徒への教育指導がきめ細やかにでき、学習以外の面についても生徒自身のために費やす時間が公立高校教諭時代よりも確保できているそうだ。一人当たりが受け持つ生徒の数も少なく、蔵木は「僕の目指していたのはこういう教育現場だったんだよ」と、嬉々とした表情で研修模様をユウに語るそうだ。
その一方で、退職した高校の生徒たちを見捨ててしまった後悔にも駆られるらしい。フリースクールの仕事に遣り甲斐を感じれば感じるほど、残して来た生徒たちが気になってしまうと零しているとのことだった。
「和馬っちがクラスの様子を話して慰めているみたいだけどねえ。今一つ教師としては頼りないヤツだよな、アイツ」
ユウはそう言って笑った。笑っているということは、自分が思うほど蔵木はネガティブになっていないのだろう。それがせめてもの救いだった。
「ああ、そうだ。蔵木が心配していたぞ。なんだったら登校できるまでの間だけでもフリースクールに来ればいいのに、って。私立は当然無理だろうし、公立も引っ越しが理由じゃない限り転学は厳しいだろう」
「そうですね。でも、もう少し落ち着いてからのほうがいいかな、とも思っています」
あかりはそんな切り出しで“落ち着かない”理由をユウに報告した。
学校での聴取会のとき、柴田と紀代が言っていた“結婚を前提に”というアレは、学校側に柴田の介入を許可させるための方便だったらしい。
「というよりも、私のためにお母さんが結婚詐欺をしたようなもので、あの件が一段落したあとでお母さんがまた断っちゃったらしくて。柴田さんの落ち込み方が尋常じゃなくて、お母さんを避けるみたいに仕事の鬼と化しているというか。お母さんも気に病むくらいならそのまま結婚しちゃえばいいのにと思うんですけどね」
「マジか……。最近は柴田さんと連絡を取る機会もなかったから知らなかった」
「それに、今一番お母さんの意識が向いているのは、引っ越しのことなんですよ」
「え? あの公団から出ちゃうの? 学校の転学を考えているから、とか?」
「いえ、学校の雰囲気も原因の一つではあるんですけど、それだけじゃなくて。お母さんは今回のことでほとほとあの町の雰囲気には懲りてしまったみたいです。相変わらず京子のお父さんやお母さんの顔色を窺って、こっちへの風当たりがキツイというか。挨拶も返さなくなっちゃったみたいです」
「うわあ……土着民が多い田舎独特の空気だな」
「ですね。お母さん、今は勤務先の病院近くのいい物件がないかって、休みのたびに私を連れ出しては不動産屋さん巡りばかりしています」
「てか、ハニー、転学は考えていないっていうなら、引っ越したら通学はどうするんだよ」
「その辺りの理由もあるからお母さんもフリースクールを勧めるんじゃないかな、と思っています。受験生になってからの転校は、先生方にとってもクラスメートにとっても、もちろん私にとっても授業の進捗状況が違っていたら負担が大きくなっちゃいますし」
「ハニーはそれでいいの?」
「私は卒業さえできれば。今の高校で卒業できる最低の範囲で登校はするつもりです。それにこれまでの成績でAO入試の突破はほぼ確実と言っていただけているから、単位さえ取れていればいいかなあ、って。あと一年で専門学校の寮に入るし、私としては、お母さんの都合のいい形が一番かな、と思っています」
「うーん……そっかあ……引っ越しちゃうのかあ……」
問題は山積していた。だが、もう泣き言は言わないと決めたのだ。
「ユウさんにそんな困った顔をされたら、話したことを後悔しちゃうじゃないですか。私はもう落ち込むだけ落ち込んだし、やらないでする後悔の痛さは骨身に沁みたんです。意外と楽観的に考えているんですよ。一つずつよく考えて答えを出そうと思っています」
あかりはもうあまり時間はないものの、前向きに考えていることをユウに伝えて、彼の杞憂を拭うように微笑んだ。
引っ越しシーズンに目ぼしい物件を見つけられず、結局あかりはゴールデン・ウィークを迎えたころになってもまだ公団住宅で紀代と暮らしていた。
ただ、四月からはフリースクールへ通うことにした。高校への登校を週に一度に留め、赤井や新しい担任と話し合いながらの学校生活を送っている。蔵木には大層喜ばれ、フリースクールには大歓迎されてほっとした。勉強の傍ら、学年の枠を取り払っての交流タイムで、以前イベントで一緒に遊んだ子供たちと遊ぶ。その時間はあかりにとって、かなりのメンタル・デトックスになっていた。
ゴールデン・ウィークが終わって一週間ほどが過ぎたころ、あかりの元へ一通の封書が届いた。
(……うそ……)
差出人は京子からだった。
慌てて自室へ戻って封を開ける。期待と裏腹に、封筒の中に入っていたのはたった一枚の便箋のみだった。
――去年、蔵木先生から手紙を受け取りました。
返事が遅くなったことは謝ります。
単刀直入に言います。
あなたのそういうところが大嫌いです。
被害者なら被害者らしく文句を言えばいいのに、そういういい人ぶるところが大嫌い。
田所くんのことだって、余計なお世話です。
余裕あり、って感じで、本当に感じ悪い――。
連なる文句を読み進めていくうちに京子の文字がぼやけていった。慌てて目をしばたたかせ、湧いたものを無理やり捻じ込む。
――両親の修羅場は一応決着がついたらしいので一応知らせておきます。
結局パパは婿養子でしかない、ということなんだと思いました。
弱い者を威圧して、強い者に媚びる、小さい人間なのだと、今回のことで目が覚めた気がします。
私はママと同じ女だから、ママの寂しさは解るつもりでいました。だから味方していたけれど、それは間違いだったと今は思います。
女だけど、その前にあなたの娘でしょ、と言ってもよかったのかな、みたいな?
田所くんにメチャクチャ怒られました。
あかりのせいです、絶対赦さない。
もう少しほとぼりが冷めて、ママやパパの監視の目がゆるんだら文句を言いに行きます。
今はまだ、文句の内訳を考え中。せっかちなことしないでください。連絡して来ないで。
今はその首を洗って、ガッツリ聞けるよう耳掃除もして、その鈍い頭をもう少し鍛えて、私が文句を言いに行く日を待っておきなさい。
京子より――。
「……」
再び京子の文字がぼやけて見えなくなっていく。こんな涙なら零してもいいだろうか。
「ふ……ぇ……ッ」
あかりはたった一枚の手紙を胸に抱いてうずくまった。
不器用な京子らしい尖った手紙。その文面に滲み出る、友達としてのストレートな本音。
きっとまだ心の整理はついていないのだろうけれど、本当に愛想を尽かしたのであれば、手紙を書いて投函するなんて面倒なことは、きっとしない。
この数ヶ月ずっとあかりの中に居座っていた靄が、流す涙で晴れていく。あかりはいつ来るか解らないその日を楽しみに日々を過ごすようになった。
週に一度の高校登校、ほかの平日をフリースクールで過ごし、週末にときどきユウと逢う。ユウはあかりの虐めに気付いたころから今年の初めまでその問題に時間を充てるため、バイトのシフトを減らしてくれていたらしい。その分を取り戻すかのようにタイトなシフトを入れていたので、大学の講義がないときはほとんどアパートで死んだように眠ってしまう。なのでデートなどという色気のある展開を望めるはずもなく、またあかり自身もそんなものは望んでいなかった。
ハードなスケジュールをこなす毎日で蓄積された疲労を一気に解消するかのように、ユウはあかりがいても堪え切れずに眠ってしまうことが多い。あかりはそんなユウの傍らでGIDに関する勉強をしたり、食事の準備をしたりして過ごす。そんな中でふと思った。
(これってほとんど通い婚、ってヤツよね)
とても清い交際をしているけれど。それがかなり物足りなくて不満たらたらなのではあるけれど。
相変わらず紀代は仕事と不動産屋巡りで忙しい。でもこのごろはあかりではなく柴田と連れ立って行くようになっていた。どうやらぎこちない雰囲気は解消されたようだ。
(柴田さんも仕事で忙しいのに、何をやっているのかなあ)
自分の周りにいる大人たちは、みんな不器用だと思う。
「……そうだ」
思わず声が出た。とてもいい案を思いついた。今すぐにでも紀代や柴田、それからユウにもその案を提示してみたいけれど。
(絶対、お母さんとユウさんが難関になるな)
柴田をそそのかして周到な根回しをしてから話そうと考えた。まずは紀代には内緒で柴田を誘い出すことから始めないと。それが済んだら、次はユウを陥落させるために、紀代とじっくり話し合わないといけないだろうと考えた。
ぐるぐると思考が巡り、あっという間に段取りが頭の中に構築されていく。それを一つずつ実行していく少し先を想像すると、楽しい。
「ん~……あ? あれ? どしたの? 珍しいじゃん。鼻歌とか」
考えていた構想をノートにメモ書きしていると、ベッドのほうから寝起きのかすれ声があかりにそんな声を掛けて来た。
「あ、起こしちゃいました。ごめんなさい。私、歌ってました?」
「うん。ハミングしてた。ハニーが歌ってるの、初めて聞いた。一気に目が覚めたわー」
いつの間にか鼻歌が出るほど上機嫌があからさまになっていたらしい。少し気恥ずかしいながらも、無自覚なだけでまだたくさんの知らないお互いがあると思うと、そんな小さな気付きにも反応してくれるユウの気持ちが堪らなく嬉しかった。
あかりは十月の中ごろにある連休を使って、夏休み中にユウの部屋でふと思い立った計画を実行に移した。
柴田と紀代、そしてユウ。多忙を極めるこの三人を一堂に集めるそれなりの無難な名目は、あかりの志望看護専門学校の合格祝い。AO試験を無事突破したので、あとは正式に願書を出せば合格通知が届く手はずになっている。
柴田には、ユウと援護射撃をするのでさっさと紀代の「あかりが成人するまでは」弁解を突破してくれと発破を掛けてある。そして紀代には、ユウが自分の性別適合手術後に襲うであろう心身の脆弱化を危惧して二言目には期間限定の交際だと牽制することを愚痴ってある。ユウには柴田へ発破を掛けたので紀代の背中を一緒に押して欲しいと伝えてあった。
昼食を兼ねた合格祝いの会場は、ユウの職場の人がお勧めしてくれた予約制の高級なレストラン。少々じれったさを感じる想定通りの会話が続いたが、久々に四人揃っての顔合わせにありがちなぎこちなさも、デザートがテーブルに並ぶころには互いの話す口振りが滑らかになっていた。頃合いを感じた柴田がまずは今日の隠し本題を切り出した。
「――それで、ですね。これは紀代さんとあかりちゃんに提案なのだけど」
(ダメだ。柴田さんってば、ものすごく、ぎこちない)
心の中でダメ出しをするも、ここであかりが差し出口をしたら、察しのよい紀代のことだ、あかりが柴田に言わせたとへそを曲げかねない。
「ええと、ですね。あと半年もしたら、あかりちゃんは学生寮に入ってしまうわけで、やっぱり紀代さん一人では何かとあかりちゃんも心配だろうと思うわけで」
(私にかこつけてどうするんですかー!)
叫びたい気持ちを堪え、ティラミスを口に運んで気を紛らせる。隣でこっそり肩を揺らして笑いを堪えているユウを恨めし気な目で一瞬だけ睨み、そっと肘で小突いて文句の代わりとした。
「何、柴田さん」
気色ばんだ声が真正面から。紀代が警戒態勢に入っている。
(この人、毎回プロポーズするたびにこんな感じなのかな)
快適な店内の温度なのに、こめかみに汗を浮かせる柴田の赤ら顔を見ているうちに、意地っ張りな紀代の相手をし続けている彼が段々と気の毒になって来た。
「あ、いや、その、ですね。よ、よかったら、うちのアパートで暮らせばいいんじゃないかな、と」
「はァ!?」
(お母さん、なんでそこでドスの利いた声になるのよ!)
ツッコミが追いつかない。焦れ焦れしているあかりとは正反対に、ユウは口に含んだばかりのコーヒーを噴きそうになって咳き込んだ。
「いやだからそのですね、僕はほとんど出張でいないので、紀代さんの好きに使ってもらえばいいかな、というか。ほら、僕のうちは資料室が要るからと思って無駄に3DKだったりするし、ですね」
「あのね、柴田さん。何度もお断りしているとおり、私はあかりが」
顔を真っ赤にしてそう言い掛けた紀代の言葉をユウが笑いながら遮った。
「お母さん、あかりちゃんはもう十八ですよ。メンタル面の自立はとっくに完了しているんだし、日ごろから生殺し状態の柴田さんが可哀想ってやきもきしているくらい大人ですから。お母さん自身の人生を考えてもいいんじゃないですか?」
ユウがそう言った途端、紀代が押し黙った。顔を真っ赤にしたかと思ったら突然俯いて、ティラミスをフォークでざくざくと刻み出す。
(ああ……食べづらくなるのに、勿体ない……でも)
相変わらずこういう方面になると、少女のように可愛らしいと思ってしまう。どうしてそこまで必死になって拒むのかは解らないが、それさえ解決すれば母も柴田の申し出を今度こそ受け容れるだろうと感じられた。
あかりは紀代の引っ掛かりをストレートに訊いてみた。
「お母さんの中で、何が物怖じしてしまう原因になっているの? 本当は柴田さんと同じ気持ちなのでしょう? お父さんへの操立て、とは考えにくいんだけど」
母の中ですでに過去の人になった亡父のことは、笑って話せるようになっていることからも解る。それも随分昔から。思い返せば柴田が母の勤務する病院へ入院したころからだ。だから多分、父との思い出を過去にできたのは柴田の存在によることが大きい。その確信はあるのに。
「……だって……そうしたら、あかりは、どこへ帰れと言うの?」
「え……?」
紀代はひとたび口にしたら、堰を切ったように今の在り様を変えたくない理由をとつとつと語り始めた。
「お母さん、あかりをおばあちゃんに育ててもらったことに後悔はないのよ。仕事に専念させてもらえたおかげで、経済的な理由なんかであかりの目指す将来を断念させて惨めな想いを味わわせずに済んでいるのだし。でもね、おばあちゃんが亡くなったとき、いろいろ落ち込んだし悩んだわ。お母さんはあかりの母親なのに、あかりの日常をほとんど知らないとか、あかりが一度も泣かないのはお母さんに気を遣って我慢しているからじゃないのかとか、全然母親をしていなかったんだと思い知ったんだもの。おばあちゃんが亡くなったことで初めて自分の心の帰る場所を失ったようにも感じたりして、すごくへこんだの。だからあかりが今回のことでお母さんにいろいろ話してくれるようになって、やっと母親になれたな、って嬉しかったのよ。これからはあかりが息抜きに帰って来れる場所になろう、なんて思っていた矢先だったのに、とか……柴田さんを傷つけるつもりはなかったんだけど、やっぱりあかりのことだから、気を遣うんだろうと思ったら、どっちかなんて選べないというか……巧く、言えないんだけど」
紀代の前に置かれているティラミスが、彼女の手によって可哀想なくらいフォークでぐしゃぐしゃに粉砕されている。
(うーん……すごく悩んでくれたのだろうし、今もすごく真剣に話してくれたのだろうけれど)
しまいには言い淀んでしまった紀代に対し、あかりは呆れ混じりの苦笑いを禁じ得ない。
これはユウよりも自分が最後の一押しをしたほうがよさそうだ。
自分の判断が間違っていないか確かめるように隣へ視線を移して小首を傾げると、ユウはやはり苦笑を浮かべたまま小さくこくりと頷いた。
「柴田さん」
柴田のほうへ向き直り、母の悩みを受け留めつつもくだらないと言いたげな笑みを浮かべる。
「母をよろしくお願いします。それから、気遣いとか遠慮ではなく、私がお世話になるのはやめておきます。柴田さんの家なのだから、どうか気を遣わずに帰って来てくださいね」
あかりのこの弁には一同がキョトンとした顔をした。
「紀代さんだけを、って、あかりちゃんはどうするんだい? 公団住宅を借りたままでは二重家賃になって不経済だし、何よりも女の子の一人暮らしなんて危ないだろう」
「あ、一人暮らしなんてわがままは考えていません。放っておくとプロテインを食事代わりにしてご飯を食べない世話の掛かる人がいるんです。専門学校へ入学するまでの間だけでも、ちゃんとした生活を叩き込まなくちゃ、と思う人がいるので、その人の部屋に居候させてもらおうと思っています」
と、なんでもないことのようにサラリと答え、隣の席を指差した。
「いっ!?」
腹が立つほど頓狂な声が隣から漏れる。紀代がぱっと表情を明るくし、目であかりに「よく言った!」と言いたげに嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あら、それは経済的効率的! ユウさんさえよかったらぜひよろしくお願いしたいわ。あ、家賃と光熱費は半分お支払いするから。それと、ユウさんのご両親にもご挨拶とお願いに上がらなくちゃ」
「ま、待って、待ってくださいあの」
「紀代さん!? あなた何言ってんですか!?」
常識人二名が粟を食ったような顔で狼狽えた声を上げた。
(まあ、予想どおり、かな)
あかりはそんなことを思いながら苦笑いを浮かべる。
あかりがクラスで何かと「変わっている」と言われていたように、紀代もまた考え方が一般的な人のように無難な考え方をしないチャレンジ精神旺盛な人だ。そんな母だからこそ相談できた面もある。
『なんだか通い婚みたいねえ。遊びのつもりならそこまで自分のパーソナル・スペースに他人を踏み込ませる子じゃないと思うけどなあ』
合鍵をくれないユウについて、信用してもらえていないみたいだと紀代に愚痴を零したとき、彼女が言った見解だ。交際を期間限定と遠回しに伝えて来る寂しさも紀代には正直に打ち明けていた。
『ユウさんなら信頼できるし、いっそ寮なんかやめて一緒に住んでしまえば? ユウさんのアパートからなら、自転車があれば学校まで通える距離でしょ。お母さんならそうするな。というか、お父さんと付き合っているころ、ぐずぐずしていてイラっとしたから、合鍵を強奪したんだったわ』
紀代の提案そのものも嬉しかったが、ユウの部屋でふと浮かんだ“通い婚みたい”という言葉を思い浮かべるとは思わなくて、そして何より、母がユウの期間限定発言の理由があかりを思うからこそだろうと口にしてくれたことが嬉しかった。紀代のこの発言があったから、心のどこかでユウの重荷になっているのではないかという不安が随分と軽くなった。今日この場でこの話を切り出す勇気を持てたのは、紀代のおかげでもある。
その紀代が、さらなる援護射撃をしてくれた。
「まあ、確かに普通は反対するところなのだろうし、思うところだっていろいろあるわ。でもね」
――人を別つのは、何も気持ちのすれ違いだけじゃないから、あかりには後悔して欲しくないの。
「私ね、夫とはちょうど今のあかりと同じくらいのときに知り合って、学生時代から交際を続けていて、若いし学生のくせに、という理由で結婚を反対されていたのよ。夫が就職三年目になって収入が安定したことと、彼の誠実さをおばあちゃんに解ってもらえたから、やっと結婚を許されたのね。それからすぐにあかりを授かって、家を買って、二人目が欲しいね、なんて言っていた矢先に、突然夫がいなくなっちゃったの」
紀代が父の事を「お父さん」ではなく「夫」と表現した。だから彼女が思うところを伝えたい相手は自分以外の二人に対してなのだろう。
あかりのそんな予測を肯定するかのように、紀代の視線があかりからその隣へ移ってゆく。
「だから夫を事故で亡くしたとき、夫と暮らした家にはいられないくらいに彼の死を受け入れられなかった。その家を手放しておばあちゃんの家に転がり込んでも、長い時間“ああしておけばよかった”“こうしておけばよかった”という後悔ばかりしていたのよ。今はあかりの母親をさせてもらっているから、昔以上に、親心は解るつもりよ。だからおばあちゃんも私のために結婚をなかなか許さなかったのだということは解るのだけど、それでもやっぱり、成人した段階で一緒になれていたら、もう少し一緒に過ごす時間があったのに、という未練だけはね、残ってしまうの」
紀代は意味ありげににこりと微笑むと、今度はユウから柴田へ視線を移した。
「それはもう愛情ではなくて、未練でしかないんだけどね。でも、そんな私を天国から見ている夫がやきもきしていたのかもしれないわね。だから夫が、デリカシーもなく夫の話を平気でしてしまう私のダメな部分も込みで、と言ってくれる人と出逢わせてくれたんじゃないかなあ。ただ、私はもういいオバサンだから、せめて母親としての後悔はしたくない、という気持ちも捨て切れなくて」
柴田は紀代からそこまで深い話を聞いたことがないのかもしれない。彼は難しい顔をして黙り込んでしまった。
「だけどね、ユウさんとあかりは、私と違って若いでしょう?」
紀代は寂しげな笑みを浮かべてユウに向き直った。
「オペやその後に襲う外科的内科的な身体の作り替えが当事者にとって高リスクなのは、あかりも私も知っているわ。でもね、その上で、あかりはこうしたいと強く望んでいるの。どうしてか解る? 一番の特効薬は“寄り添って一緒に戦ってくれる人がいること”だと当事者の人たちの話で知ったからなのよ。この子はおばあちゃんに育てられているから、今どきの子にしては慎重に考える子だし、一度こうと決めたらとても頑固。それは言い換えれば、それだけの覚悟の上で口にしたのだと私は解釈しているわ。ユウさんは、どう感じるかしら」
紀代は伝えたいことはすべて伝え切ったとでも言いたげな清々しい顔をして、話をまとめてしまった。
「あかりの将来を心配して、という理由以外で不都合があれば、そのときは遠慮なくこの子に引導を渡してあげてね。ユウさんの人生を巻き込むんですもの。ユウさんにだって、あかりと同じように自分の生き方を決める権利があるわ。それは私にも、それに柴田さんにも言えること。私はあかりを一人前の社会人として無事社会へ送り出すまでは母親優先でありたいし、柴田さんも私に振り回される必要なんてないわ」
紀代のきっぱりとした断言に続く言葉が誰からも発せられない。気まずい雰囲気を取り払うかのように、紀代がティラミスをようやく口にして「あら、美味しい」と大袈裟なほど明るい声で感想を口にした。
「お母さん」
「お言葉ですが」
あかりが短い時間でどうにか思ったことを言葉に置き換えて告げようとしたとき、ユウの声がそこに重なった。思わず隣を見れば、ユウも同じように驚いた顔であかりのほうへ視線を移す。その直前、彼の表情が少し険しくなっていたのを見とめた。反駁を示唆する切り出しからも、彼が自分と似たことを言おうとしていたのだというのは、なんとなく解った。
ユウがふっと表情をゆるめ、あかりに微笑み返す。
「お先にドーゾ。多分、同じことを言いたいんだろうから」
そんな言葉に背中を押され、自分の意見に自信が湧いてくる。
「あのね、お母さんは根本的な勘違いをしていると思うの。私が柴田さんと何年の付き合いだと思っているの? お母さんとそう変わらない時間、私も柴田さんを見て来たのよ? お母さんよりも友達が優先なんだなんて妬きもちを柴田さんに向ければいいのに、って前にも言ったでしょう? いつまでもお母さんが一番だなんて、そっちのほうが親離れできていなくて心配になるじゃないの」
スプーンから原形をとどめないほどぐしゃぐしゃにされたティラミスを口にし掛けたまま茫然とあかりを見つめる紀代に、苦笑交じりでそう告げる。その隣でみるみる瞳を潤ませ始め、ついには掌で雑に顔を拭い出した柴田を見て苦笑いが浮かんでしまう。
「もちろん、血を分けたお父さんをないがしろにしているつもりはないけれど、お父さんと過ごした時間より、柴田さんと積み重ねてきた時間のほうが長くなっているし、思い出もたくさんあるのよ。もうとっくにお父さんみたいなものじゃない。今更柴田さんに何を遠慮しないといけないのかな、と思っているんだけど」
ユウの穏やかで耳に心地よいハスキーボイスが、あかりに同意を示す補足を紡ぐ。
「お母さん、さっきも言いましたけれど、あかりちゃんは、メンタルの面でならとうに自立ができている子ですから。お母さんの言うとおり、確かにそれぞれに人生の選択を自分でする権利があるわけですけれど、言い換えれば、柴田さんにも、お母さんに振り回される選択権があるんじゃないですか? 例えばあかりちゃんの件や、今の不動産屋巡りのことだって、柴田さんが嫌々付き合っていると思います?」
ダメ押しのようなユウの突っ込みに紀代が押し黙る。みるみる瞳が潤み出し、堪えていた何かを足掻くかのように唇を噛んで、顔を真っ赤にして更に押し殺そうとする。
紀代の隣でまだ少しまつ毛が濡れたままになっている柴田が、
「これでも多忙な身の上なんでね。嫌々紀代さんに付き合う義務なんかないと思っているよ」
と、彼女にとどめを刺した。
「……っ」
母の声にならない嗚咽が息を呑むという形で小さく届く。
(もう、大丈夫かな?)
ユウに視線を投げて目だけでそう尋ねてみると、彼は少し困った笑みを浮かべて小さく頷いた。
「こっちのほうは、あかりちゃんと直接話し合って考えてみます。取り敢えず、先に出ますね。あとはお二人でごゆっくりです」
ユウがそう言って立ち上がり、あかりの背にそっと触れてあかりにも退散を促した。
「柴田さん、お母さん、お祝いの席をありがとうございました。門限までには帰るから、ちょっとデートして来るね」
背中を丸めて顔を覆う紀代は答えなかったが、何度も首を縦に振ってくれた。そんな彼女の背を撫でながら、柴田が「楽しんでおいで」と笑って見送ってくれる。
店を出た直後、ユウが苦笑いを浮かべたまま「お疲れさん」と言ってくれた。
「やっと子離れしてもらえたね」
「ですねー。やっと一つ肩の荷が下りました。ホント、お母さんも頑固なんだから」
駅に向かって並んでのんびりと歩きながら、大袈裟な溜息をつきつつ、答える。
「どこ行く? この時間だと映画も序盤が始まっちゃってるしなあ」
ユウが当然のように普通のデートらしきもので“誤魔化そうとしている”のを察し、あかりの笑顔が般若のような形相に変わった。
「何ナチュラルに全部問題解決って顔をしてるんですか。これから行くのはユウさんのアパートに決まっているでしょう? 私の荷物置き場を確保しなくちゃ。まずはクローゼットの部屋の片づけからですよね」
「はァ!?」
「だいたい、泊まりに来る人を誰でも拒まずな状態で、人様の荷物置き場になっていること自体がおかしいんですよ。田所くんにもゲームソフトを持ち帰ってもらわなくちゃ。何が勉強部屋よ。まったく」
「ちょ、待って、待って、その話は、ほら、お母さんのほうが落ち着いてからでも」
「そんな時間ありませんよ。こっちから押し掛けないと、ユウさんったら私に全然無関心なんですも……の……あれ?」
ざかざかと歩いていたあかりの足が止まる。振り返ると、並んで歩いていたはずのユウが俯いたまま立ち止まっている。
「……軽く、考え過ぎだろ」
数メートルほど後ろへ戻ってユウの前に戻れば、そんな低い声があかりを責める。
「軽く考えてなんかいませんよ」
あかりも負けじと低いテンションでユウの批判に反論した。
「俺に関わった人たちがどれだけ大変な想いをしているか、知りもしないくせに。拾い集めた情報や知識だけで知ったつもりでいるだけだろ。上っ面の俺しか知らないくせに」
カチンと来た。憤りと悲しみと、何よりも強く感じるのは、彼に辛酸を舐めさせた過去のトラウマを未だ引き摺る彼の小心を癒したいという強い想いと、愛おしさ。
「……それなら、上っ面じゃない、素のユウさんもあなたの隣でずっと見つめていきたいです」
行きたいとも生きたいとも取れる言葉を紡ぐとき、自分でも驚くほど気持ちがこもり、釣られて涙声になった。
「ユウさんの知らない部分、まだたくさんあるのは解っているつもりです。だけど、ユウさんだけが解っていないユウさんのことを、私はたくさん知っていますよ?」
行き交う通行人の人々が邪魔そうに、または奇異の目で立ち止まる二人を一瞥しては通り過ぎていく。そんな中、あかりは人前でも気にせずに彼の手を取って強く握った。
「人前でも、こうしてユウさんと手を握って一緒に歩きたいです、私。私は、私のためにユウさんのこれからを支えて行きたいと思っているんです。たくさんユウさんに支えてもらったから、ほかの誰かでは代理なんてできない、ユウさんが支えてくれたから、今の私が在るんですよ? 言っている意味が解りますか?」
――一緒に人生を歩んで行きたいと思う人の支えだから、乗り越えることができたんです。
「お母さんみたいに、若いうちにそういう人と出逢えた幸運に感謝してます」
あかりに両手を掴まれて顔を拭えないユウが、顔を真っ赤にして俯いたまま、小さな小さな嗚咽を漏らす。あかりは、この小心で泣き虫な人の“泣き処”になりたかった。
「いっぱい喧嘩しましょう? たくさんおんなじモノを見て、聞いて、一緒に嬉しいことやつらいことも分け合っていきたいです……お母さんに、私を紹介してもらえますか?」
少しだけ予定変更。あかりがそう言って小さく笑うと、ユウは黙って何度もうなずいた。そのたびに彼の零す涙が舗道の淡い桃色を濃いピンクに変えていく。午後の陽射しが彼の落とす涙を煌めかせる。
あかりは、彼の本質を表しているようにも見えるその涙がとても綺麗だと思った。しばらくそのまま見入り、彼が泣きやむのを退屈もせずに待ち続けることができた。
「……もう柴田さんのこと、グズグズしているなんて笑えないや。ハニーにプロポーズさせちゃった」
ユウが涙を乾かし、真っ赤な目ながらも笑みを浮かべる。
「――」
「!」
不意に彼の顔が耳元に近付いたかと思うと、願ってやまなかった一言を小さな声で告げられた。
「――ッ、はい……はい……ッ」
彼の決意を受け取ると伝える言葉が意図せず震える。まるで自信がなかったのに、その言葉をもらえた衝撃でユウの手を離してしまう。
往来のど真ん中だというのに、ユウに恥ずかしい想いをさせると思うのに、津波のようにいきなり押し寄せた激情をコントロールできない。
「よし、じゃ、まずはウチの実家から攻略すっか」
ユウは泣きじゃくるあかりの頭をくしゃりと一撫ですると、当たり前のように手を繋ぎ直してくれた。指と指を絡ませ合う恋人繋ぎが余計にあかりを泣かせる。
「は……い、はい……ひぃ……ッく」
伝えるのにどれだけ勇気が必要なのかを、あかりは身を以て知っている。だが、それを受け取るときの気持ちがこんなにも自制が利かないものなのかと、あかりは今また一つユウに教えられた。




