18. 決戦の日
三部構成で行なわれる保護者会及び当該者への事情聴取は、休日を利用して一日がかりで行なわれた。
生徒がまだ一人もいない学校へ柴田や紀代、そしてユウと久し振りに足を踏み入れた。あかりは焦燥を滲ませた校長や教頭の言葉から、初めて自分が知らなかった周囲の人の動きの一部を知った。
「この度は学校の管理不行き届きで御足労いただく事態に至り、誠に申し訳ございません」
低頭平身の校長から発せられた謝罪のあとに教頭が言葉を続けた。
「私ども教員も一丸となって今回の問題を調査しましたところ、柴田さんからご提供いただいた情報とほぼ同じ調査結果が出ております。あかりさんがまた元気に登校できるよう徹底指導して参りますので、いずれは正式に娘さんとなるあかりさんのためにも、どうか報道機関への情報提供は」
「当然、僕もマスコミの注目を集めてあかりの精神的負担を増やす気は毛頭ありません。ただし相手さんの出方が今以上にあかりの負担を増させるようであれば、あかりの特定が不可能な形でそれなりの対応をすべきだろう、という考えもないではありません。その場合につきましては、改めて学校側にもご相談の上、ご理解とご協力を、と考えております」
穏やかな声で紡がれた柴田の言い回しは、情報を得てリサーチに当たる報道記者としてのそれではなく、一人の保護者として怒りを感じつつも、報道陣としての冷静な判断を自分に課して私情を抑えに抑えた結果の落ち着いた声音のように感じられた。校長や教頭はただただ水飲み鳥のように頭をぺこぺことさせるしかない。
(正式に……じゃあ、お母さん、やっと柴田さんのプロポーズを?)
柴田の言葉を受けて思わず紀代を見ると、彼女はほんのり頬を赤らめて小さくこくりと頷いた。
柴田と紀代は校長室で待機している学年主任の教師や担任の蔵木と五人で最終的な打ち合わせを行うとのことで、校長や教頭とともに校長室へ向かった。あかりは個別聴取の場にいないほうがよいだろうと判断され、ユウに付き添われて生活指導室へ案内された。
生徒指導室であかりを待っているのは、この一週間、毎日あかりの自宅を訪ねてカウンセリングをしてくれた赤井カウンセラーだ。彼女は三十代後半とは思えない若々しさで、初日などは本題に一切触れることなく、あかりの好きな本やコミック、小説など趣味の話に終始したのだが、それに軽々とついて来れる人だった。カウンセラーという職業に対するお堅い印象を覆すのは充分な濃いキャラクターで、ユウのときにもカウンセリングをしたと聞いたときは妙に納得した。短時間の交流にも関わらず、あかりの中で彼女に対する信頼は一気に膨らんだ。
「おはよう、あかりちゃん。お、古川くん、お久し振り。ますます男に磨きが掛かったわねえ」
軽い口調と好戦的な微笑があかりとユウを出迎える。今日も相変わらず赤井は名前通り真っ赤なスーツの上に白衣をまとい、ずり落ちた銀フレームのシャープな眼鏡をついと上げて二人を見つめた。
「赤井センセも相変わらずで。その様子だと、あかりちゃんが同席しても心配ない、っていう判断をしている感じ?」
「ま、そんなところね。学校サイドから聞いていた話より随分自分を立て直せているから、正直ほっとしたわ。昨日あかりちゃんにも“意外とタフよね”と話したところなの。キミの初動の対応が功を奏したんだろうな、と思うと、内心悔しいわね。私の仕事を取らないでよ」
「取ってねーし。元々この子がタフってことだろ。お母さんが芯の強い人っぽいし」
「確かに、当時のキミよりよほどメンタルがタフだわ。まさか加害者に寄り添う目的で自分も聴取に立ち会いたい、なんて言い出すとは思わなかったのよねえ。ホント、キミよりよっぽどしっかりしてるから、却って別の意味で心配だわ。あかりちゃん、こんなへたれでいいの?」
「え……えっと」
「どうせ俺はジコチューでしたよ。てか、揉めかねないネタブチ込んで話を逸らすの、やめてくれる?」
「あははー。何よ、自信ないの? あかりちゃんは真っ赤になるし、ホント、カワイイわねえ、二人とも」
あかりは二人の会話があまりにも気さくだったので、そこに自分の知らない時間の存在を感じて軽い疎外感や嫉妬を覚えた。だが早々に本題を切り出したユウの配慮にも気付いたので、赤井の言葉をゆがめて解釈することなく素直に対応することができた。
「赤井先生、その許可はもらえるんでしょうか」
問題の深刻化を恐れる学校側に反対されるのでは、と危惧していたので尋ねてみたが、赤井は挑発的な笑みを穏やかな微笑に変えてあかりへ視線を移すと、
「蔵木先生とご両親さまに感謝することね。我が子が傷つくことを恐れて、本人の意思を無視して守り一辺倒になる親が多い中、蔵木先生も親御さんも、あかりちゃんの強さを信じているから校長先生たちを説得する、って。今ごろ校長先生たちにチャットログの資料をやっと見ているころよ。あんな決定的な証拠を早々に出しれたら揉み消されかねないからね。蔵木先生が古川くんの意見を取り入れてくれてよかったわね」
「そう、だったんですか。あの、ありがとう、ございます」
自分の見えないところで思っていた以上の配慮が張り巡らされていることを知ったあかりは、礼の言葉がわずかに震えた。怖気づいていられない、改めて自分へそう言い聞かせた。
「お礼はご両親さまや蔵木先生に伝えてね。彼らはどんな事態になっても最後まであかりちゃんを支援しようと覚悟を決めてくれたからこそ、そういう対応をしてくださったのだから。それと、がんばって来たこれまでの自分をあかりちゃん自身が褒めてあげてね」
と温かなエールを送ってくれた。
「さて。あかりちゃんとしては、本田京子さんにあることないことを吹聴した取り巻きの加害者四人の動機は明確なので同席するのは遠慮したいのよね。彼女たちの親御さんとの話し合いはご両親さまにお任せする、ということで、私たちは聴取する校長室の隣、三年職員室で待機していてください、と蔵木せんせいから仰せつかっているわ。そこなら隣の会話も聞こえるし、今日は休日だから出勤されている先生方も中央職員室での職務なんですって。ほかの人が入って来る心配もないし、ま、気楽に行きましょ」
赤井が発破を掛けるように覇気のある声で号令を掛ける。ドキドキと高鳴る心臓があかりに息苦しさを感じさせたが、きゅっとブレザーの襟を握って息苦しさや鈍い痛みに耐えた。
(ハニー、悪人探しがしたいわけじゃない、ってこと、忘れるなよ。何を聞いても自分を責めないこと)
赤井の後に従ってユウと並んで廊下を進む中、彼がそっとあかりの耳もとへそんな耳打ちをした。
初心を思い出す。知りたいのは、誰が悪いかではなく、何が悪いかを認識すること。
(……そう、人じゃなくて、行ないよ。それが相手に伝わりさえすれば、きっと、大丈夫)
紀代や自分が加害者の保護者たちに責められるのではないか、という不安が少しずつ融けていく。紀代は、賢い。柴田も言葉に想いを乗せて綴るのが仕事の、言ってみれば意思伝達のプロなのだ。
ブレザーの襟を掴んでいた手から、少しずつ力が抜けていった。そんなあかりを見つめるユウが、くしゃりといつものように軽くあかりの頭を撫でる。あんなにも高鳴っていた心臓の音が次第に落ち着きを取り戻していった。
あかりの側が両親――柴田は“近い将来の父親”という位置づけになるが――揃って聴取の席に参加しているのに対し、加害女子四人のうち、両親揃っての参加は一組しかいない様子だった。事態を重く捉えていなかったらしい保護者たちの動揺は、隣室の職員室で事の次第を聞いていたあかりたちにもまざまざと伝わって来た。
四人の母親は全員、京子の母親の取り巻きだ。京子を金づるにしていたことを知った母親たちは、悲鳴に近い怒声を上げて娘を口汚く罵ったり、頬を叩く鈍い音も聞こえたりして来た。ただ一人父親として赴いていた男性が、大きな震える声で紀代に「申し訳、ございませんでした!」と述べた詫びの言葉や、紀代の「親御さんの謝罪が欲しいわけではありません」と述べる毅然とした応答が聞こえた。
あかりは自分の肩を抱き、椅子の上に体育座りをしてそれらを聞いていた。
「大丈夫?」
ユウが案ずる声でそう問い掛け、そっとあかりの肩を抱く。
「……大丈夫、です。亜由美たちのほうが、きっと、つらいと、思うから」
あかりは紀代にぶたれたことがない。いつだって悲しげな顔をして眉間に皺を寄せ、あかり自身が反省する点に気付くまで懇々と言葉で諭したり気長にあかりの言葉を待つ人だ。感情のままに子を殴るような人ではないから、あかりはそんな親を持つ人の気持ちが想像できても理解はできない。ただ、行ないの善し悪しはさておき、自分が苦しい立場に立ったとき、親までが自分にネガティブな感情をぶつけて来たら、それはどれだけ痛いのだろう――そう思うと、自分の選択が彼女たちを傷つけている気がして居た堪れなかった。
「彼女たちとも一度だけ話したのだけど、自己肯定感が薄いのよね。ゆがんだ形でしか親の注目を引かせられないというか。だから彼女たちの中で、親の関心をこちらへ向けたいという根底にある無自覚な欲求と、悪事を知られたくないという表層の想いとの矛盾で苦しんでいるわけだけど、それはあかりちゃんが負うべきものではなくて、本人とその保護者が負うべきものだから。そして、彼女たち自身が自分と向き合ってそういう自分を認めて受け容れるしかない、ってこと」
あかりの肩が震えていることに気付いたのか、赤井はそう言ってやんわりとあかりの罪悪感を否定した。
長い時間、複数の激情に駆られた大人たちが怒鳴る声と、それを制する先生たちの声、柴田が反省の色を見せなかったのであろう早百合を名指しで恫喝して教え諭す声が続いていた。物の落ちる音や壊れる音も何度か聞こえた。それからしばしの静寂のあと、蔵木に呼ばれたあかりは、赤井やユウに見送られておそるおそる校長室へ足を踏み入れた。不貞腐れた顔や泣き腫らした顔の加害者たちは誰一人あかりを見ようとはしない。
「いろいろすいませんでした」
「ごめんなさい」
「これからはもうしません」
「もうあんなことはしないから、学校に来てください」
棒読みで感情のこもっていない謝罪を聞いても、まったく心は晴れなかった。千登勢の父親が「その言い方はなんだ!」と、千登勢の頭をボールのように鷲掴みにして無理やり千登勢の頭を下げさせた。
「いたぁい! ご、ごめんなさい。スミマセンでした! もう教科書を破いたり水を掛けたりしません! だから赦してください!」
誰に向かって赦しを乞うているのだろう。
俯瞰でぼんやりとその様子を眺めながら、あかりは一つだけ、どうしても四人に伝えたいことを口にした。
「もう、いいから。ただ、京子をお財布扱いするんじゃなくて、ちゃんと、友達でいてあげて、ください」
自分に投げられた暴言をそのまま四人に返す。引っ越して来たばかりの中学生のとき、あかりは知り合いが一人もいなくて孤独だった。京子は取り巻きが大勢いたにも関わらず、そんなあかりに声を掛けてくれた。この土地に不案内で困り果てるたびに、京子が一緒に付き合ってあちこちの店を教えてくれた。自分からどう声を掛けていいか解らずにいたら、友達の中へ引き込んでくれた。そんな京子は、どこかで自分が彼女たちに財布扱いされていることを自覚していたのではないかと、あのチャットログを見てから考えていた。だから、それがたった一つの、彼女たちに願うこと。
「京子も私たちと同じ、普通の、ただの女子高生だから……ちゃんと、対等に、友達として、付き合ってください。私には、もう関わらないでいいですから」
ぽかんと口を開けて、呆れたようにあかりを見つめる彼女たちへそう念を押した。
校長から彼女たちとその保護者へ、後日会議で審議の上、改めて処分について連絡することなどが伝えられた。同時に、午後は第三部として保護者会を体育館で行なうことも通達された。だが彼らは正面玄関から出て行き、そのまま学校を去っていった。例え加害者名を公表されることなく経過だけを報告されるとしても、おそらく自分たちが顔色を変えずに保護者会へ参加するのが精神的に厳しかったのだろう。校長室の窓から彼らの背中を見送っていた紀代が、
「あの人たちには伝えるべきことを伝えられたから、逃げてしまうことを赦してあげられるかな」
と呟いた。「加害者の親であることは、別の意味でつらいものなんでしょうね」と物憂げに漏らす紀代に少なからず共感した。
「……うん」
まだ、あかりは親になったことがないから、母の想いが解らない。だからそんな短い相槌を打つことしかできなかった。
第一部の聴取が終わると、一度全員が校長室へ集まった。校長たちからテンプレートな謝罪の言葉や今後の対応を述べられ、赤井の質問に答える形で自分の今思う所などを教師たちや自分の保護者たちに伝えた。
「そう……じゃあ、あかりさんは本田京子さんとは、親抜きで話をしたいのね?」
「はい。多分、京子は周りの目を意識したら本当の気持ちを話せない子だと思うから」
「先生方、林田さんに柴田さん。あかりさんとしては、京子さんは先の四人のスケープゴートにされたのではないかという認識でいますし、問題の経過などについての説明と京子さんへの聴取のあとは、当事者同士が隣の職員室で、という形でいかがでしょう?」
赤井のその打診には、校長よりも先に柴田が同意の声を上げた。
「ぜひそうしていただきたい。ちょっと、付随する別件で本田さんには確認したいこともありますし。今日同席してもらった古川くんにも、保護者同士の話し合いに参加してもらいたいと思います」
それには校長や教頭、主任教諭が訝る表情を浮かべた。
「確認したいこと、ですか? それはどういったことでしょうか」
「それは、そのときに」
「うーん……大変申し上げにくいことではありますが、本田さんはお父さんがこの町の町会議員でして。無論、私どもも精いっぱいの対応をさせていただきますが、力及ばない部分もあろうかと思います。ですから、その、事前にその確認事項というのもこちらへあらかじめお伝えくだされば。正直なところ、先ほどのような直前の情報提供というのは、どうにもこちらが対応するのに冷静さを欠いてしまいまして」
そんな校長の弁解じみた反駁は、柴田の温厚でありつつも決して退く気がないと訴える簡潔明瞭な一言で却下された。
「学校に責任を問うような内容ではありませんよ。ご安心ください」
何か含みのある自信ありげな柴田の表情が気になった。紀代と反対隣に座るユウに目で疑問を投げ掛けると、彼は答える代わりに寂しげな笑みを浮かべ、それをあかりの問いへの答えとしているかのようだった。
それから三十分ほどの時間が過ぎたころ。
「いらっしゃったようですね」
窓から正面玄関を見下ろしていた校長がぽつりと呟いた。蔵木が京子とその両親を出迎えるため、急ぎ足で校長室を出て行った。
校長室の中央にコの字で並べられた会議用の簡易テーブルの一辺にあかりと紀代、そして柴田が、隣接する一辺に校長と教頭、学年主任教師が本田一家の到着を待つ。ユウと赤井は隣の部屋で待機していた。
「失礼します。本田京子さんとご両親がお見えになりました」
ノックとともに蔵木の声が聞こえ、校長の「どうぞ」の声を合図に全員が起立した。
「この度はお忙しいところ御足労いただきまして」
校長は明らかな萎縮の色合いを漂わせて京子の父、本田議員に深々とお辞儀をした。教頭もそれにならって身体を真半分に折り曲げる。あかりはそのとき初めて京子の両親を見た。
爽やかな藍色のスーツの襟に議員バッジを煌めかせる本田議員の表情は憮然としていて、学校や紀代に異論を唱える気満々という表情をしていた。
強固の母親も夫の藍色に合わせた濃紺のスーツに身を包んで入念な化粧も施しているが、気色ばんだ表情までは隠せないでいた。
両親の後ろに控えている京子は俯いているので、表情は見えなかった。だが、いつもまっすぐ前を見て堂々とした表情を見せる日ごろの京子からは想像もできないほど、肩を落とした覇気のない立ち方をしていた。
本田議員はあかりや柴田、紀代がいるテーブルの一辺を一瞥すると、校長に再び向き直って、
「学校側へは妻を通じて、娘の教育は妻に一任しているとお伝えしたはずですが」
と、まずはクレームを述べた。
「子供同士の喧嘩に丁寧な対応をしていただいていることについては感謝申し上げますが、何分父親というのは仕事に忙しくて、母親ほど我が子の日常を熟知しているわけではない。聞けば林田さんのご家庭は母子家庭だそうじゃないですか。却って私の同席は林田さんの娘さんにとっても複雑な想いをさせるのではありませんか?」
慇懃無礼な本田議員の言葉は、あかりにさえそれが遠回しなこちらへの批判だと推し計れるほど彼の不快感を剥き出しにして放たれた。
あかりの頭が自然に下がっていく。本田議員の不快はある意味で至極まっとうだ。柴田や紀代も仕事を持っている身の上なのだから大きな負担を感じているはず。
自分がユウに泣き言さえ言わなかったら――そう思い掛けたときに、柴田が口を開いた。
「あかりへのお心遣い、大変恐縮です。が、どうぞお気遣いなく。まだ諸々の手続きが終わっていないので学校への連絡が遅れておりましたが、私、こういう者でして」
柴田は校長と代わって本田議員の前に立ち、名刺を差し出して自己紹介をした。
「あかりの母親との結婚に伴い、あかりとも養子縁組をする予定にしております、柴田と申します」
「ほう……それはそれは。おめでとうございます」
侮蔑をこめた本田氏の上っ面な祝辞と、母を舐めるように下から上へと見定める好色な視線は、あかりの背筋をぞっとさせた。だが彼は柴田の名刺に視線を戻した直後、明らかに表情をこわばらせた。
「ご職業はフリージャーナリスト、ですか。どういった方面を?」
途端に柴田を見る本田の視線に険しさが増した。だが柴田はそれに怯むことなく、相変わらずの温厚な笑顔を保ったまま、
「主に差別問題に取り組んでいます。性差、人種、今はあかりという存在を意識し始めたからか、家族による要介護者や児童のネグレクト問題、それから巷でも何かと騒がれている学校や企業内の虐め問題など、差別や選民意識が潜在している問題を取材して啓蒙的な記事を書いています」
それをどう解釈したのか、本田氏の表情がさらに険しさを増し、
「なるほど。ですが、さすがにこれから家族になろうという人たちを飯のネタにすることはないでしょうね?」
と、牽制とも取れる言葉を返した。
「もちろんです。私は多くの虐め被害者や傍観者の子供たちを取材して来ました。少ないながらも加害者の子が内心を打ち明けてくれたこともあります。我々は悪人探しをしたいのではありません。私どもは保護者として、あかりの意向を尊重したいだけです。この子は、京子さんと腹を割ってきちんと話をし合い、自分の至らない部分は直したい、京子さんに自分からも要望を伝えたい、と言っております。本田先生におかれましても、今日は議員バッジの存在を忘れ、一人の父親として京子さんの思うところに耳を傾けていただければと考えております」
一見冷静なやり取りを交わしていると感じられる中、突然の甲高い声が二人の会話に割って入った。
「ちょっと、あなた? 柴田さんと仰ったわね。それは、本田や私が京子の言い分を聞いていないということですか? ちゃんと事情を聞いていましてよ? 理不尽な言い掛かりをつけられたのはこちらなんですけど」
「妙子、よしなさい」
「まあまあ、本田さんのお母さん。皆さん、立ち話もなんですし、どうぞお掛けになってください」
蔵木が皆をそう促すと、一瞬校長室を包んだ緊迫の雰囲気がほんの少しだけゆるんだ。
両家が互いに対面する形で座ると、蔵木が本田夫妻に資料を手渡した。
「始めの資料は、京子さんと何かにつけグループ行動をしている女子生徒四名のLINEのログです。二部目のほうは、その四人に京子さんが参加している別のグループチャットのログになります」
蔵木の説明を話半分といった表情で聞きながら、本田夫妻は身を寄り添わせてその資料を読み始めた。
あかりは京子の親よりも京子自身のほうが気になった。蔵木が説明した瞬間、明らかに顔色が変わった。
(京子は、解っているのね)
露呈したら糾弾されるようなことをしたという自覚が彼女にはある。文字通り血の気を失って真っ白な顔色になった京子の瞳が次第に潤んでいくのを見て、あかりは漠然とそう察した。
「直接京子さんが関与しているのは、二部目の資料です。実はつい最近入手したばかりでしたので、学校へも今朝提出したばかりなんですよ。事前にご報告できなかったことはお詫びいたします」
詫びる気持ちのない淡々とした柴田の言葉が、やけに大きく校長室全体に響き渡った。
本田夫妻の表情が、手渡された二部目のチャットログの資料を読み進めるうちに強張っていく。
「林田さん、これはむしろ、うちの娘があなたの娘さんから金銭をねだるという被害を受けていたということの証拠ではないのですか」
そう言われてあかりの肩がびくりと上がった。そんな事実など一切ないのに、怒りに震える男性の低い声と威圧感はあかりを委縮させる。反駁しようにも唇がわななき、あかりは何一つ述べることができなかった。
「いいえ。そのログに書かれたことはすべてグループの子たちが作り上げたデタラメの報告です」
紀代はあかりとは真逆の毅然とした態度で、背筋を伸ばしてまっすぐ本田議員の目を見据えたままはっきりとそう断言した。
「うちはご存知の通り母子家庭ですから、何かとマイナス評価で見られがちだという自覚がありますので、人並み以上に節度や倫理については厳しく育てて来たつもりです。祖母に育てられた一面もあるので、不器用なくらい生真面目な子です。自分よりも京子ちゃんと親しいグループの子らの目を盗んで、京子ちゃんだけにどうこう、などということができるほど器用ではありません」
本田夫妻は紀代の言葉を引き攣った笑みを浮かべて聞いていたが、
「こちらも人の親ですから、我が子を信じたいお気持ちは解りますよ。ですが、親は盲目とも申します。高校生ともなれば、親には見せない別の顔、というものも持っているものではありませんか?」
と嘲笑混じりに異論を唱えた。紀代も、そして柴田も本田議員の言葉に動じなかった。そして柴田が小さな声で「あかりちゃん、すまないね」と呟いた。
「え?」
あかりのその問い掛けを、その場にいた誰かが受け止めることはなかった。
「本田さん、情報提供者は、そちらのログを提供してくれた子だけではありません」
柴田はそう言うと、おもむろに鞄からタブレットとノートパソコンを取り出した。
「こちらの録画映像をご覧いただけば、京子さんを恐喝していた事実などない、と納得していただけるかと思います」
あかりが“録画映像”という言葉にはっとして顔を上げれば、真正面で京子が同じ顔をしている。次の瞬間、彼女の怯え切った瞳が一瞬だけ別の感情を宿し、きっ、とあかりを睨み付けた。自分でも顔から血の気が引いていくのが判った。京子の咎める視線から逃げるように柴田へ身体ごと向きを変え、あかりは柴田をとめようと口を開いた。
「柴田さん、やめてください。どうして柴田さんがその動画のことを知っているんですか」
訊かなくても本当は解っているが、そう問わずにはいられなかった。ユウはあの当時、この動画を消したと言っていたから。
柴田は淡々とタブレットとノートパソコンを繋ぐ作業を続けたまま、
「古川くんに嘘をつかせたのは僕だから、彼を責めないでやって。本田先生の仰る通り、親は我が子がそんな悪事を働くはずがない、と、とかく盲目になりがちだ。京子さんにとっては不本意だろうが、なぜ彼女がこういう行動を取ったのかを親御さんに考えていただくために、これを見て事実を知っていただくことが必要なんだよ。京子さん自身のためにもね」
と、あかりだけでなく京子にも諭すように語った。向かいの席からガタンと椅子の倒れる音が轟いた。
「何が私のためよ!」
京子の怒声にはっとしてあかりも立ち上がり、柴田の操作する手を止めようと彼の反対側へ回った。
「柴田さん、お願い、それだけは」
「あかり!」
紀代の厳しい一喝に驚き、一瞬あかりの動きが止まった。
「こちらです」
柴田がノートパソコンの画面を本田夫妻の方へ向けてそう言った。
「京子、自分に非がないと思うなら座りなさい。見苦しいぞ」
本田議員が京子を低い声で制した。
「パパ、あの」
「座りなさい!」
その会話を最後に、校長室に不気味な静寂が居座った。皆が注目するノートパソコンから京子やその取り巻きたちの声が響いた。
『諭吉一枚も持ってないの? しょぼ』
『まあ、ぼっちだとそんなものでしょ。交際費を持ち歩く必要がないんだもの。あかりぃ、銀行に付き合ってあげるわよ。買い物はそのあとでOK』
ユウに現場を見られたときに交わされた会話が無慈悲に流されてゆく。京子は巧みに直接的な言葉を避けて発言しているが、周囲の言葉とその映像そのものから、あかりが恐喝されているのは明らかだった。パソコンに繋がれたスクリーンには、学校の裏門前で勝手に財布から金を抜き取られている様子が鮮明に映し出されていた。
『パスワード、忘れちゃったんだ? それなら学生証を借りていくわね。事情を説明してリセットしてもらえば、中身なんてソッコー確認できちゃうし』
明らかな違法行為を京子が口にする。あかりは全身から力が抜けてしまい、柴田と紀代の間でへなへなと座り込んだ。
「この動画を撮影していたあかりの友人が私に託してくれたのですが。こちらが、あかりの鞄から抜き取った京子さんのメモです」
本田がそう告げて本田議員の前に近付き、メモを差し出しているようすが視界の隅に映る。あかりの耳に柴田の声が怖いほど冷淡に響いた。
(抜き取られて、いたんだ……失くしたのかと、思ってた)
机上のやり取りはあかりの位置からは見えない。紀代が椅子から身を落とし、あかりの肩をそっと抱いてその席へ座らせた。顔を上げることができなくて、俯いたまま辛うじて座る姿勢を保つ。勝手にはらはらと涙がこぼれた。
(どうしよう……もう京子と、元のようには、戻れない)
そんな諦めに近い絶望があかりをずっと俯かせていた。
「……妙子。このメモの文字は、京子の筆跡に間違いないのか」
地を這うような声が京子の母親に確認を取る。俯いたあかりには、正面に座る本田一家の行動は解らなかったが、京子の母がなんらかの反応で夫の問いに正しい答えを示したとあかりに伝えるピリピリとした雰囲気に包まれた。
「あなた、きっと京子にもそれなりの理由があるのよ。私もこれは今知ったばかりで」
「おまえが知っていたかどうかという問題ではない!」
決して慣れることのない男性特有の腹の底まで凍らすような大声があかりに肩をすくめさせた。
「京子、おまえは自分の立場を解っているのか。おまえのしたことは犯罪なのだぞ。パパの仕事を認識しているのか。我が家から犯罪者を出していいと思っているのか。こんなことが町民の皆さんに知れたら」
「本田先生、そこまでです!」
本田議員に負けない大きな声が校長室いっぱいに轟く。間近で柴田の張り上げる大声を聞いて、ますます身を縮こまらせた。
「始めに申し上げたはずです。一人の父親として京子さんの思うところに耳を傾けていただきたい、と」
柴田のその言葉に続いて紀代が京子に優しい声で問い掛ける。
「京子ちゃん、一人で秘密を抱え続けているのはつらかったよね。お母さんの秘密を知ったのはいつからなの?」
まるで予想もしていなかった紀代の言葉で思わず顔が上がる。真正面には青ざめた顔で激昂して立ち上がった本田議員を見上げて絶句する京子の母が、その隣で頬を涙で濡らしたままぽかりと口を開けて紀代を見つめている京子の姿があった。
「京子、言いなさい。ママの秘密とはなんだ」
「あなた、私から話しますから、とにかくお座りに」
「おまえには聞いていない。京子」
聞いているだけで胸が痛い。京子のか細い声が、あかりに彼女の激しい葛藤を知らしめる。それほどの大きな秘密なのだろう。
「……パパ、ごめんなさい。ママとの約束だから、言えません」
京子がそう言った瞬間にほっとした笑みらしきものを浮かべた京子の母親に、あかりは強い嫌悪感を抱いた。それは紀代も同じだったのか、あくまでも京子に語り掛ける。
「口止め料をお母さんからもらっているから、約束を守ろうと思っているのかしら」
一瞬、校長室が無音になった。あかりがそっと周囲を見渡すと、柴田と紀代、そして蔵木以外の全員がぎょっとした顔をして京子の母を凝視していた。
「京子ちゃん、そんなときこそ、あかりを頼りにしてくれたらよかったのに。あなたのお父さんほどではないけれど、これでも私だって仕事柄いろんな方とお付き合いがあるのよ。あかりからあなたの悩みを聞いていたなら、あなたが傷つかない形でお母さんとお話もできたでしょうに」
「ちょっと、林田さん、何を仰って」
「妙子、おまえは自分の娘に、金で口封じなどという愚かしい教育を施していた、ということか」
「え、そ、そんな、口封じ、だなんて」
「本田先生、悪者探しではないと申し上げたはずだと何度言えば解るんですか」
「君、確か柴田さんと言ったね。勿体つけずに今この場で話したらどうだね」
「お言葉ですが、そういった親御さんの振る舞いが京子さんを家庭内で孤立させたのではありませんか? 自分の子の筆跡すら解らない、娘に重い秘密を打ち明けて口封じをする、それらについて親として考えていただきたいと申し上げているのです」
「な、んだと」
「まあまあ、本田先生も柴田さんも、まずはお掛けになって落ち着いてください」
「私は落ち着いている! その上でいわれのない誹謗中傷に対して苦言を述べているんだ!」
「そ、そうです。とんだ言い掛かりです。人の家庭のことを調べていたということですよね? あることないことを言って本田を困らせないでください!」
「お母さんも落ち着いて」
「落ち着いてますよ!」
議題が錯綜し混乱を覚える中、パン、と両手を打つ大きな音が本田夫妻の会話を止めた。
「今回の問題に付随する話ではありますが、ここから先は少々学校側から切り離して話し合うべき内容となります。校長先生、勝手を申し上げて恐縮ですが、先生方には一度ご退席いただけないでしょうか。本田先生のご意向を確認したら、互いの娘の虐め問題も含めて先生方にもご報告いたします」
柴田がそう言って場をまとめると、紀代が蔵木のほうを見て、
「蔵木先生、娘たちをよろしくお願いします。それと、ユウさんは今からお話することの関係者ですから、彼を呼んでいただけますか」
と指示を出した。
「はい。解りました。じゃあ、本田、林田。取り敢えずは隣の職員室へ行こう。赤井先生に報告をしたら、生徒指導室で親御さんの話し合いが終わるのを待つとしようか」
ひどく重たい雰囲気の中、蔵木が大袈裟なほど明るい声で二人を促した。
蔵木は先ほどの柴田や紀代が述べた話にも驚いていなかった。彼は恐らく仔細を知っているのだろう。ユウの友人という側面もあるのだから。
本田が苛立たしげな声で蔵木を引き止め、校長や教頭も慌てふためいて蔵木を諫めたが、柴田が一言本田議員に対し
「未成年の子供に聞かせる内容ではないので、と言えばご理解いただけますでしょうか」
と述べた途端、押し黙った。本田議員が一瞬銀バッジの存在を忘れた表情に変わり、例えでなくガクガクと震え出した彼の妻を見下ろした。
「妙子、柴田さんの仰っている意味が、おまえには、解るか?」
力のない本田議員の呟きを耳にしながら校長室を出る。あかりは初めて京子よりも一歩先に進んで蔵木の後に従った。堪えようのない涙に唇を噛んで俯く京子を見たら、彼女に文句を言ってやるという気が萎えてしまった。
それほどに彼女は追い詰められて憔悴しているように見えた。




