16. 反動
あかりに対する虐め問題が第三者に知れたのは、夏休み明け間もない九月初旬。それからその対策に向けての動きは、周囲の人たちの迅速な対応があったおかげで半月弱とめまぐるしいほどだった。
だが、そこから先は、あかりの決心が何度も揺らぎそうになるほど長かった。
虐め問題を第三者に知られたことそのもの、そして京子たちにその認識があるという事実があかりの脅威になっていた。
黒崎が気分転換にと誘ってくれるサークルイベントは、文化祭や体育祭のシーズンの到来ということもあり、参加者の中に顔見知りの姿が散見されるようになった。それに気付いた途端、あかりは瞬間的に湧いた恐怖心に負けて、トイレやイベント会場から逃げてしまった。それが何度か重なると、黒崎たちに迷惑を掛けた罪悪感ばかりが増してゆき、気分転換だったはずのイベント参加が苦痛になってしまった。ユウや黒崎の説得に応えられない自分を不甲斐なく思いながらも、勉強を言い訳にイベント参加を辞退するようになっていった。
あかりは担任の蔵木に対しても、夏休み明けからは行事が重なる繁忙期になると予測がついていた。紀代の不規則な勤務形態や蔵木の状況も鑑みて、あかりは始めから蔵木の定期訪問を断り、その分メールで綿密な連絡を取り合うという形式を取っていた。
勉強は進学塾のネットを介した個人授業で補っていた。それでも蔵木はメールで定期的な学校の状況と気遣う言葉を送ってくれた。しかしあかりはそれに対して短い礼の言葉しか返せなかった。どうしても余計な手間を取らせている申し訳なさが先に立ち、最低限の対応に逃げてしまう。卑屈になっている自分を俯瞰で眺める自分がいる。それがあかりに悪循環をさせていた。
田所とは連絡を取っていない。柴田が「いつ誰が勝手に田所少年のスマホをいじるか解らないから、登録したあかりちゃんのアカウントを非表示にして、やり取りしたメッセージも削除そておくように」と田所に指示をしたと聞いたのからだ。柴田の指示は当然の自衛策で、あかりも理性では納得できることだった。田所を巻き込んで彼まで不登校になってしまったら、今以上に後悔するのは自明の理だから。だが、学校と繋がる唯一の、それも同い年の彼と話ができない状況は、次第にあかりの表情を翳らせていった。
その後の進展については、あまり知らされない。あかりへの配慮で秘密にしているというよりも、遅々として新たな展開が見られないから、というふうに感じられる。
「これ以上どうしようもないのは解っているけれど、三年一学期までの内申がAOの肝だと思うと、なんだか落ち着かないわね」
紀代がそんな愚痴を零しては、フリースクールへ正式な入所を打診する機会が少し増えた。何度か気持ちが揺らいだものの、紀代にはその意思がないことをやんわりと訴えた。
『逃げるだけじゃあ、本当の意味での解決にはならない』
ユウや柴田の言葉があかりをどうにか踏みとどまらせていた。
半月、一ヶ月と日が経つにつれ、不安ばかりが増していく。次第に前向きさやポジティブな考え方が薄れていき、ネガティブがそれに取って代わる。
(私、こんなに弱かったかなあ……みんなに心配や迷惑を掛けてばっかり)
まるで世界から取り残されてしまったような感覚で、学校に行きたいのに行けない、という現状が予想以上につらかった。あかりは膠着状態に近い日々を過ごすうち、次第に気分がふさぎがちになっていった。
皆が腫れ物に触るかのような接し方をする毎日で息苦しい中、ユウだけが変わらずにいた。
「こーら、何引きこもってンだ!」
紀代が心配そうな顔をして出勤する日が続いて数日ほど過ぎた平日の午前中、誰もいないはずのあかりの自宅に家族以外の怒声が轟いた。家事すらこなす気力がなくて自室で布団にくるまっていたあかりは、あり得ない人の声に飛び起きた。
(ユウさん!? なんで? どうやって?)
眠っている振りをして紀代の見送りすらしなかった。だが、彼女のことだから玄関の施錠をしていったはずだ。
「おーい、寝てるのー? 上がっちゃうぞー。お母さんから許可済みだし、ってか、鍵預かったー」
(ちょっ、お母さんってば一体なに考えてるのっ!?)
引きこもって寝ている場合ではない。髪は洗いざらしのまま寝てしまい、とんでもない状態になっている。部屋着は量販店で買った無愛想な上下のスウェット。こんなみっともない格好をユウに見られるなんて……。
あれだけだるかった身体が俊敏に動き出す。もどかしい想いで男子も顔負けなほど恥じらいもなく、ざかざかとスウェットを脱ぎ捨てる。あかりは急いで洋服ダンスを漁り、少しはマシと思える服を次々と取り出した。被る方が早いから、上はニットのセーター、下はストッキングを履いている余裕がない、とにかくジーンズ一択だ。
「スゲー物音がした。ウソ寝がバレバレ」
部屋の扉のすぐ向こうから笑い声がする。
(ほぁーッ!)
あかりは半ばべそを掻いた状態で慌ててジーンズを履きながら叫んだ。
「ま、まだ入っちゃダメー!」
「バーン!」
という声が返って来たきり、扉は閉まったままだった。大きな声と扉が開けられてしまうという焦りで固まったあかりに、扉の向こうから声が掛かる。
「もう開けても大丈夫?」
その問い掛けで我に返ると、急いでジーンズのファスナーを上げてからおそるおそる扉を開けた。
「な、何、やってるんですか」
問い質す言葉が咎める声音になる。自分で顔が赤くなっているのも嫌というほど判った。なぜなら、ユウがあかりの姿を見た瞬間絶句して、そのあと必死で笑いを噛み殺す変な顔をしたからだ。
「す……っげぇ……寝癖」
「!」
咄嗟に頭を押さえるも、時既に遅し。中途半端に癖のある太い髪が好き放題に毛先だけ跳ねている。まだ顔を洗っていないから目やにが付いているかもしれない。昨夜も泣きながら眠ってしまったから。
消えたい気分で頭を押さえたまま俯いて黙り込んでいると、頭上から心底可笑しそうな「ぶふっ」という笑い声が落ちて来た。
「なんだよ、それ。ご主人にお仕置きのゲンコ食らう寸前のワンコみたい」
そんな言葉と一緒にしなやかな手指が、頭を抱えたままのあかりの手にそっと触れた。
「スタイリングしてあげる。落ち着いたら呼んで」
「……へ?」
顔を上げたときには、もうユウはあかりに背を向けて居間のほうへ向かっていた。
気を落ち着けてから居間へ行き、ユウに髪をまとめてもらった。彼自身は短い髪なのに、随分と器用にあかりの髪を綺麗にまとめてくれた。両サイドを編み込んで後ろで括り、さらに後ろの髪と合わせて編み込んで、うなじより下の髪を普通に編んでゴムで留める。束ねた感じだとパラパラ髪が落ちることもなく、毛先の跳ねもほとんど目立たない。
「すごい。やってもらっている間、慣れた手つきだなあ、とは思ったんですけれど、思っていた以上に跳ねが目立たってない」
あかりが洗面台の鏡に向かって感嘆の声を上げると、その後ろのキッチンで冷蔵庫に寄り掛かって腕を組み、あかりの後ろ姿を笑って眺めているユウが鏡越しに映った。
「中一のとき初めて意識した同級生の女の子が、ハニーみたいな長くて綺麗な髪の子でさ。ほら、女子って体育のあととか、普通にそういうのやり合いっこしてるじゃん? 当時はまだ俺もただの“俺っ子”の女子にしか見られていなかったし、それを口実にその子と仲よくなりたくて。おふくろを練習台にしてメッチャクチャ練習した。意外と手がいつまでも覚えているものなんだなあ。我ながら巧くできた」
初めて意識した女の子。そのセンテンスがあかりの顔を曇らせた。
(みっともない。自分が恋愛に疎かっただけで、普通は中学で好きな人くらいいて当たり前でしょ)
ユウの死角になっているのを幸いに、鏡の中の自分に眉根を寄せて目を細め、自分自身の醜い嫉妬を叱咤する。潤み始めた目を何度かしばたたかせ、零れそうになったモノを無理やり引っ込めた。
「その女の子も喜んだでしょう。ユウさんって意外と器用なんですね」
満面の笑みで振り返る。ツッコミ待ちの憎まれ口で沈んだ気分を誤魔化した。
ユウは一瞬なんの感情ものせない表情になったが、すぐにばつの悪そうな苦笑いを浮かべ、
「実践のチャンスが来る前に、俺がメンタルおかしくなってできずじまいだった。てか、ちょっとは妬いてくれると思ったのに、つまんねーな」
と吐き捨てるように言って冷蔵庫から身を剥がした。その瞬間だけ俯かれてしまったので、彼が何を思いながらそう言ったのか、あかりは今一つ確信に至れなかった。
「よし、んじゃ、出掛けるぞー」
ふと湧いた不穏な気持ちが言葉にならないうちに、そんな提案をされて面食らった。
「え? でも私、あまり出掛ける気分じゃあ」
「高尾山登ろうぜ、高尾山。家の中にこもってばっかだと、そのうち本当に脳みそが腐るぞ。森林浴をしに行こう」
バイトさえ辞めてしまったあかりを案じた紀代が、ユウに気分転換を頼んで家の鍵を渡したらしい。出勤前に待ち合わせて今朝鍵を受け取ったそうだ。
頼まれたから。つまり、使命感とか、義務感とか、そういう類のもの。
(私、またわがままになっちゃっていたのか。何かしても、何もしなくても、結局誰かに負担を掛けちゃっているんだなあ)
そう感じてしまったら、ユウに逢えた嬉しさも半減した。
せめて笑って、大丈夫だと思ってもらわないと。そんな気負いがどうにかあかりに笑顔を保たせる。
「ありがとうございます。でもユウさん、大学やバイトは? もう十時を回っているし、今から登ってもすぐ下山しないといけない時間になってしまうんじゃないかしら」
あかりが遠回しに辞退を申し出ると、ユウはもう決定事項とでも言うかのように
「だってもう休んじゃったし。バイトもシフト入ってなかったから大丈夫。丁度いいじゃん、そのカッコ。弁当や飲み物も用意してあるし、汚れても大丈夫そうなブルゾンか何か着ておいで」
そう言って、あかりの返事も待たずに「車で待ってる」と出て行ってしまった。
「……行くしか、ないか」
日ごろバイトや黒崎たちのボラ活動の手伝い、その上サークルに大学と忙しいユウが、自分のために時間を作ってくれた。そんな嬉しさが二割ほどと、申し訳なさが四割。身体がだるくて知り合いに会うのが怖いから家に居たいという気持ちが四割。それでも、まだ問題が露呈していなかったころ程度には動こうという気になれた。
(ユウさんがいつもと変わらないから、きっと大丈夫)
そんな気がして、あかりは久し振りに運動靴に足を通した。
高尾山と言えばハイキングコースで、リフトやケーブルカーを使って気軽に登れる小さな山、という印象がある。
(なのに、なんでわざわざ……っ)
ユウが選んだコースは、1号路と名付けられている最も徒歩の距離が長いコース。リフトやケーブルカーは一切使わず、稜線に沿って舗装されたゆるやかな登山道を登って行くコースだ。
「お~い、未来の看護師さーん。そんなに体力なくてどうすんだよ。荷物持ってるの、俺だけだぜ?」
ものすごい意地悪な笑顔が、十メートルほど先からあかりの方を振り返って待ち受ける。挑発的なユウの笑みが、あかりの負けず嫌いスイッチをオンにした。
「私は元々インドア派なんです!」
きっ、と意地悪な笑顔を睨み返し、歩く速さを無理やりそれまでの倍にする。
「ユウさんみたいに、日ごろからっ……はぁ……筋トレで鍛えている人の、リズムに合わせて、登るなんて……っ、土台ムリ! なんですよ! 初心者に、合わせるのが、登山をする人の……はぁ……心得、なんじゃ……ないん、ですか……」
上がる息混じりの反駁を言い終えるころにはどうにか追いついたものの、終いには叫びがか細い声に代わっていた。
「おー、がんばった、がんばった。ここから分岐なんだけど、左ルートでいい? 左だとブナの樹があるんだ。ハニーにそれを見せたくって」
「え? あ、はい。ユウさんにお任せします」
前に一度登ったことがあると言っていたので、登山に不慣れなあかりはそう答えたが、仮に知った道だとしても同じように答えるしかないと思った。打診したときのユウの表情が、どこか必死に訴えているような気がして、楽なルートをなどとは言えない雰囲気だった。
とは言え、やはりハイキングコースなので、本格的な登山ほどの急斜面ではない。あかりの反駁を気にしたのか、ユウはペースをゆるめ、あかりの歩調に合わせてのんびりと温帯樹の並び立つ登山道を進んでいった。
「これが言っていたブナの樹。足許に気を付けて、幹に耳をつけてみな?」
ユウが登山客の目を気にするかのように周囲を確認したあと、登山道から少し奥まった場所に立つ一本の樹木を指差した。そして彼が先に鬱蒼と茂る低木の枝を掻き分けて簡易の導線を作り、あかりをその樹の下までいざなった。
「……」
言われたとおりにブナの幹を抱くようにして耳を幹に押し当ててみる。反対側からユウも同じように幹に耳を付けてブナの樹ごとあかりをやんわりと抱きしめた。
(わ……)
どくん、と心臓が高く打ち鳴らされた。それが次第に早まっていくのが、自分の心臓や首筋の脈を打つ感覚で判る。
(あ……れ?)
ドキドキしながら静かに耳をそばだてている内に、トクトクという音が二重奏を奏で始めた。
トクトク鳴らしているのは、あかりの脈。もう一つのシャン、シャン、という規則正しいリズムはどこから聞こえるのだろう――?
「聞こえた?」
「え?」
「ブナの樹が水を吸う音」
言われてようやくシャンシャンと鳴らす音の正体が判った。
「この音、ブナの樹から聞こえる水音だったんですか」
「そう。ずっと一定のリズムで落ち着いているだろう? 黙って聞いていると、記憶になんかないんだけど、母親の腹ン中で聞く音みたい。なんか、落ち着いたんだよね」
それきりユウが押し黙る。それに合わせてあかりも耳を澄ませ、ブナの樹の生きる音に耳を澄ませた。
シャン、シャン、シャン、シャン――。
目を閉じると、その音がより鮮明に聞こえる。そこにときおり野鳥の鳴き声が混じり、聞いているうちに、心が穏やかに凪いでいくが感じられた。
どれくらいそうしていただろうか。立っている膝が一瞬かくりとしてしまうような眠気を感じたころ、
「落ち着いた?」
という声が幹の反対側から聞こえて来た。同時にあかりの背に回されていたユウの手が離れていく。
「あ……はい。なんだろう? すごく、呼吸が楽になった感じです」
そんな会話を交わしながら、登山道に戻って山頂を目指す。相変わらずユウが先頭で、彼の表情は見えなかったが。
「知らないうちに呼吸が浅くなってるのが当たり前になっていたんだよな、きっと。高校ンときの俺も」
ユウが初めてこの山を登ったのは、高二のやはりこの季節、虐め加害者を殴って怪我をさせたために自宅謹慎中だったユウを黒崎がこっそり連れ出してくれたそうだ。
「それがこの山だったんだ。トランスジェンダーの仲間で集まる場みたいなのも耕ちゃんが見つけて来てくれて、俺をそういう場に連れ出してくれてさ。そういう人たちの話を聞いているうちに、俺はまだ恵まれているというか、耕ちゃんっていう理解者がいるだけラッキーだったんだな、って思った。マジ耕ちゃんには頭上がらないや」
ユウは顔を見せないまま、背中だけを見せてとつとつと自分の過去を語り繋いだ。
自分だけが世界から隔絶されて、存在を否定されていたと思っていた日々。男でも女でもいられなくて、自分を消したくて仕方のなかった毎日。
「俺はそういうの、全部耕ちゃんにぶつけてたんだよな。ガチでキレられて喧嘩もしたけど、一度も勝てなくて。だけど、あとで思い返して気が付いたんだ。耕ちゃんと喧嘩してるときは、鬱々したものが頭ン中から消えてたなあ、って」
それから、ブナの樹が生きようとして必死で地中の土を吸い上げる音に集中しているとき。
「登山道から外れたところで、誰にも注目されずに立っていて、なんかの役に立っているのかなんて俺にもブナの樹自身にも解ってなんかいないけど、とにかくただ必死に生きている、っていうか」
――生きてていい、と思った。
「ハニー」
不意にユウが立ち止まり、あかりのほうを振り返った。それに釣られてあかりの登山道を踏みしめる足も止まった。
「俺さ、生きててまだ二十年ちょいなんだけど、先のことなんて実際のところ、不安でいっぱいなこともあるんだけどさ。だけど多分、今が一番、生きててよかったー、とか、自棄って自滅しないでおいてよかったー、とか、思うんだ」
はにかんだ笑みが近づいて来る。それが次第にぼやけていく。彼が自分をなぜ連れ出そうとしたのかが解った気がした。
「好きな人が同じように想ってくれて、その人に何かしてやれることがあって、もしこの先ハニーと別々の道を行く日が来るとしても、多分俺にとって今の時間は一生の宝物になると思うんだ」
不吉な未来を口にするくせに、あかりの手を取ってくれる。また背中を見せた彼が、ゆっくりと先へ進んでいく。まるで立ち止まってしまいそうなあかりを引き上げてくれるとでも言いたげに。
「もっと、せめて俺の前では、肩の力抜いて、迷惑だの心配だのって気に病まないで、もっとわがまま言って駄々捏ねて、ちゃんと喧嘩もしようよ。敬語なんかじゃなくていいからさ。ハニー、朝だって妬きもち妬かせようとしても、ちっとも妬いてくれないし、文句も言ってくれない。なかなか時間を作れなくて逢えなくても全然ぶー垂れないし、自分から逢いたいってメッセの一つも飛ばしてくれない。俺の前でまで“いい子”でいようとしないでよ」
泣きそうな声が木々の葉がこすれ合う音に混じる。繋いだ手に力がこめられ、気後れしがちなあかりの本音を引き出そうとする。
「……も、やだ……死にたい」
口にした負け、終わりだと思っていた言葉が、漏れる。
「生きてるのがつらいんだよね、死にたいんじゃなくて」
ネガティブをふんわりと包んで溶かすような優しさで言い直される。繋いだ手がまた一つ、きゅっと強く握られる。絡めた指にも力がこめられ、生へ繋ぎとめるようにあかりの手を放さない。
「……怖いよ……」
しゃくり上げる声が、自分で聞いていてもつらかった。首に掛けたタオルで口や目を覆う。視界が見えなくなったけれど、繋いだ手の強さと確かさが、あかりに不安を抱かせなかった。
「……一人は、怖いよ……置いていかれちゃうのは、いや……」
ほかの誰よりも嫌われたくないからこそ言えなかった一言が、あかりの口からつるりと零れ落ちた。
「ユウさん……傍に、いて……お願い」
「お願いされなくても傍にいるよ」
当たり前のようにそう返され、嗚咽があからさまな泣き声に変わる。声にならない音が辺りに響き渡り、羽を休めていた野鳥たちが一斉に飛び去って行く。
行き交う登山客の何人かが訝る口調で声を掛けて来たが、あかりはそれに答える余裕もなく号泣し続けた。ユウが変わってフォローを入れてくれる。「初登山で感涙してるだけ」だとか「怪我ではないから大丈夫」だとか。中途半端な時間に登ったおかげで、さほど多くの人に奇異の目で見られなかった。それでもきっとユウは恥ずかしかっただろう。あかりがそう考えられるほどの余裕ができたときには、高尾山駅付近まで登り切っていた。
人の多い高尾山駅に着くころには、あかりの激情もすっかり落ち着いて、腫れた目を恥ずかしく思うくらいには理性が戻っていた。
それからは、普段と変わらない他愛のない話や、少しだけユウがキツかったころの昔話を聞いた。
知っている人が一人もいない平日の登山は、慣れない運動に体は疲れても、心は少しも疲れなかった。自然の空気を満喫し、ユウの持参した無愛想なコンビニ弁当に文句を垂れて「前もって言ってくれていたらお弁当を作ったのに」と言ったらユウに本気で悔しがられて笑ったり。
山頂から眺める景色は壮大で、自分の悩みがちっぽけなものに感じられた。下山したころには、山に何か重い物を全部捨てて来たような身軽ささえ感じていた。
自宅まで送ってもらい、少し名残惜しい気持ちで車から降りる。
「今日はありがとうございました。意外と身体を動かしていなかったから憂鬱になっていただけかもしれないですね。すごくいい気分転換になりました」
運転席側に回り込み、もう大丈夫と言う代わりにそう言って頭を下げた。それから頭を上げてみれば、ものすごいしかめっ面があかりの視線を受け留める。
「また敬語に戻っちゃってる」
ひどく残念そうにそう言われたが、そう簡単には変えられない。
「そんな急には無理ですよ。別に距離を取ってそうしているつもりじゃないんだけど、なんか、今更っていうか」
尊敬から始まったユウに、軽い口調ではなんとなく話せない。そんな気持ちをそのまま伝えると、彼はぽかんと口を開けたあと、途端に顔を真っ赤にした。
「それ、もしかして笑うトコ? ツッコミ待ちとか?」
「なんでですか」
「だって、俺、そういうキャラじゃないじゃん。多分ハニーより頭悪いよ? 耕ちゃんみたいにそこそこの大学に行っているわけでもないし、こんなんだから水商売にしか就けないと思ってるし、どこをどう見れば尊敬から始まってるのか意味不明なんだけど」
どうしてそこまで否定するのかと呆れるほど饒舌に、彼自身があかりの中にあるユウの人物像を否定するから。
「ユウさん、ちょっとだけ、目を瞑って?」
人には偉そうに高説を垂れておいて自分は自分を否定するユウが憎たらしくて。
「あ、はい?」
困惑をあからさまにした疑問符を付けつつ、素直に目を閉じるユウが、堪らなく愛おしい。それをちゃんと解っていて欲しいから。
「私の大切な人をバカにしないでください」
そんな苦言を彼の唇へ直接落とす。かなり恥ずかしくて、はしたないかな、などという不安も少し混じったけれど、あかりは初めて自分からユウに口付けた。
「ふぇ?」
ムードもへったくれもない音がユウの口から漏れる。ほんの刹那触れただけのキスは、あかりに“子供っぽい仕方だな”と思わせた。あかりは子供じみたそれにも、自分からしたということにも恥ずかしくなり、ユウが目を開けるよりも一瞬早く身を引いて彼に背を向けた。
「お、おやすみなさい! またメッセ入れます!」
振り返らないまま叫び、一目散に自宅へと逃げ帰る。
心臓が破裂するかと思うほど、脈が速いビートを刻む。足が棒になるほど疲れていたはずなのに、これまでにないほどの速さで階段を駆け上る。
途中の踊り場から、そっとゲストパーキングのほうを盗み見た。
(まだ停まってる)
よほど意外だったのだろうか。窓もまだ開けっぱなしの状態で、エンジン音も聞こえない。窓からわずかに覗く彼は、俯いたまま微動だもしない。
だがやがて窓が閉まり、エンジン音がかすかに響いた。それから静かに彼を乗せた赤い軽自動車がゆっくりと動き出し、門から公道へと滑り出していく。だがもうそれを見ても、寂しいとは思わなかった。
溜めてしまった家事を急いでこなし、久し振りに紀代の好きな和食で夕飯を調える。
その晩、あかりは久し振りに紀代へ笑いながら話をした。高尾山に連れて行ってもらったことや、ブナの樹の音に生命の躍動を感じた、という感動の話。ユウとのあれこれはもちろん話せなかったが、他愛のない笑い話を共有したりなどの楽しく過ごせた一日を語った。ほっとした表情の紀代を見て、「心配掛けてごめんね」と素直に、だが笑って謝ることができた。
紀代には少しだけ寂しい笑い方をされた。
「あーあ、やっぱりお母さんよりもユウさんの方が特効薬になったかー。お母さんもいい加減に子離れしないとねえ」
紀代はそれでも安心した笑みを浮かべたまま、美味しそうにあかりの作った夕飯を完食してくれた。
(あ……今夜は残さず食べてくれた)
紀代の食欲が戻っているのを感じ、あかりもまたほっとした。
それからのあかりは、少しだけ素直に紀代やユウに自分の我を主張するようになった。
紀代には、「学校へ早く行きたい」といじれてみたり、別のある日には「フリースクールでいい」といじけてみたり、そんな矛盾を口にして紀代と軽い口論になったりもした。だが、それによって自分の中の整理がつくことを初めて知った。吐き出さないと自分の中で澱のように溜まって腐る、ということが、過去形になってから初めて気付いた。
ユウにもひどく可愛げのない甘え方をした。口にこそしなかったホストというアルバイトに不満を漏らしたり、バイトを優先するんだ、と拗ねてみたり。彼はそんなあかりに悪いほうへ気遣うことはなく、ちゃんと理由を説明してくれた。納得のいく説明に自己嫌悪すると、いつでも「ありがと」と照れ臭そうに言う。
「伝えてくれないと、超能力者でもない限り解らないから」
言われてみればもっともな話だ。ユウはあかりがそうするのと比例するように、自分の主張もちゃんと伝えてくれた。喧嘩をしてはまた仲直りをする。仲直りという概念や方法を彼に教えてもらったようなものだ。少しだけ、京子との間にあるモノを解消することについても希望の光が見えてきた。
そして何よりもあかりを没頭させたのは、GIDに関する勉強だ。
ユウがどうしてもバイトを優先させざるを得ない理由は、性別適合手術の遂行にある。それがどれだけハイリスクなものなのか、そして、それを国内で行うのがどれだけ困難なことか、更には、女性が男性としての適合手術を行ったあとの心身の苦痛の度合いも初めて知った。
彼が二言目には期間限定つきのような諦めた物言いをする理由を痛いほど理解した。
(ホルモン投与が動けなくなるほどつらいなんて……それに、国内ではアフターケアなんて望めないじゃない)
彼は一人で性別適合手術の先進国へ行くつもりなのだと察しがついた。そして、生涯ホルモン投与し続けなくてはならない自分の身体に不安を覚えているのだろう。全部、一人で抱え込むつもりでいるのだ。
(勝手に一人で決めさせたりなんか、しないんだから)
こんなところで立ち止まっている場合じゃない。ユウにそのときが来たら、気持ちだけで役に立てるはずがないのだから。
今から自分ができることを。その第一歩はやはり勉強からだと思った。学校の虐め問題の膠着に一喜一憂している暇があるなら、その時間をユウの支えになる自分になるための学習期間にすればいい。
そこへ思い至ると、あかりの顔が自然と上向きになった。憂鬱とポジティブでアクティブな自分を行ったり来たりしながらも、あかりは少しずつ明るい先を思い描けるようになっていった。
心も勉強の頭も忙しくしているうちに秋が通り過ぎて行った。




