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14. 覚悟

 ユウは先に自分を立て直すと、みさきの服をもう一度あかりに手渡し、

「あったかいものでも淹れておく」

 と言って逃げるようにクローゼットの部屋から出ていった。

 部屋の扉がこれでもかというほど大きな音を立てて閉められたあと、あかりの全身から力が抜けた。

(……なんか、いろいろ……ビックリした)

 自分のクソ度胸にも、自分の中に突如湧いたあんな激情にも。それから、初めて見たユウの強引なまでの激しさも。

「……き、着替えよ……」

 思い出したら、また妙な火照りが顔や下腹に再燃する。あかりはなかなか拭い切れない熱を払うかのように、汗ですっかり湿ってしまった自分のTシャツやハーフパンツを脱ぎ捨てた。

 みさきがレズビアンだったとは気付きもしなかった。スキンシップが多めの人だな、とは思ったものの、そこにいやらしさは感じなかったし、知った今でも彼女に対する嫌悪感は皆無だ。ただ、自分の無知さ加減にはかなり呆れ、猛省と自己嫌悪がチクチクとあかりの胸を刺していた。

(私、もうちょっと医学や看護関連の本ばかりじゃなくて、恋愛小説やドラマも見よう。知識だけで患者さんの信頼を得られるわけがないよね……はぁ……)

 自分の鈍さを痛感した。ユウから聞いたみさきの開き直り論を聞いて、彼女の開き直りはいわゆる“ケロイド傷”なのだと思うと、哀しかった。

 傷つき過ぎて、そしてあまりにも傷が深過ぎて、跡は残ってしまっているのに神経がもう死んでいる。だからどこか感覚が麻痺している、そんなイメージだ。

 みさきは意識した女性に深入りすることなく、性愛に特化して走ってしまうらしい。ちょっと押してダメならすぐに引いてしまう。ステディになった相手にも心は許さない。最後に立ちはだかるのは、世間の差別や偏見によって二人の在り様に齟齬が生まれて喧嘩が増えていく日常。互いに疲弊した末、交際の終幕を迎えるのが毎度のことだから、らしい。

『だから初オフのときにハニーがどんな子かを実際に感じて、“ありゃ遊べるタイプの子じゃないから、私は引くわー”って、あっさり譲る宣言された。それはそれでなんかムカついたけど。最初からテメエのもんじゃねえだろ、みたいな?』

 ユウは心底腹立たしげにそう言ったあと、はっとした顔をして「あ、引くってドン引きって意味じゃなくて諦めるって意味だから」と慌てて弁解していた。保護欲をそそって欲情しない、という意味だそうだ。それはそれでどういう顔をしていいのか解らなくて、つい俯いてしまったが。

「もっと、優しくなりたいな」

 みさきのシャツのボタンを留めながら、自分の心にそれを留める心づもりで音にする。

 ユウの周りの人は、みんな優しい。黒崎もみさきも、そして蔵木も。そこに自分も加えてくれるとユウが言ってくれた。ならば、それに相応しい自分でありたい。心からそう思った。ユウの周りに優しい人が集まるのは、彼自身が優しいから。類は友を呼ぶ、というやつだ。彼の俗称、優人という名の由来を聞いてはいないけれど、なんとなくそういう人柄からそう呼ばれるようになったのだろうと自己完結した。


 紀代に黙ってこんな夜更けにユウのアパートを訪ねたのは、決してソッチが本題だったから、というわけではない。

 そこは互いに解っているので、あかりが着替えを済ませてクローゼットの部屋を出るころにはユウも完全に思考の切り替えを終えていた。

 先日の土曜日、ユウは黒崎のボランティアサークルのメンバーと一緒に早朝のクリーン活動に参加していたらしい。そのとき黒崎の同期で田所の先輩に当たる知人を介して田所と接触したそうだ。

「クリーン活動って言っても、地域の大人たちと公園や集会所の掃除をするだけなんだけど、その地域が若い世帯の多い地域でさ。参加率が低くて町会長さんが頭を抱えていたから、若世帯が子供を遊ばせられるイベント、みたいな形で、大人はクリーン活動をしてからイベ参加、子守も兼ねて田所やその先輩たちがキックベースの陣頭指揮を執る感じで小学校の校庭で遊ばせてた」

 黒崎の采配でユウもキックベースの担当になって、田所と多少の会話を交わしたそうだ。

「サッカー繋がりから学校の話を聞き出してみたりしたんだけど……アイツ、これから県大会出場って時期なのに、退部したんだってさ」

「え……」

「三年の先輩たちを県大会まで進ませる手伝いができたから、もういい、って言ってた。でも、すごい心残りがある、って顔してた。多分、アイツなりに自分を罰しているのかな、って、思った」

 まだハニーに未練があるのかな、と呟いた横顔は、嫉妬と不安と、そして田所への同情も混じった複雑な心境を滲ませていた。

「……未練、というか、私が逃げ出して、それきりだから。罪悪感とか、後ろめたさとか、そういう、未練とは違う気持ちから、じゃないかな、と、思います」

 田所をとても傷つける答え方をしたから、と返すあかりもまた、どんな表情で告げていいのか解らなくて、ユウの顔を見ては言えなかった。

 あかりが田所との話し合いを早急にしたい意向を伝えると、ユウは少し不機嫌そうに異論を唱えた。

「なんで? 焦ることはないってみんなも言ってるじゃん。いざ目の前に立ってみたら、協力を仰ぐどころか話にもならなかった、なんてことになれば、余計に向こうの反感を買うだけだし」

「だから、ユウさんには、傍にいて欲しいんです」

 彼の心配や心遣いが泣きそうなくらい嬉しいという気持ちを添えつつ、あかりはユウの制する言葉をやんわりと止めさせた。

「散々泣いて、怖いばかり言って、みんなに心配や迷惑を掛けたけれど、私、気が付いちゃったんです。母譲りの強がりが手伝って、自分が勝手に一人で抱え込んでいただけだったんだな、って。随分始めのうちから、ユウさんをきっかけに、実はすごくたくさんの人に支えられていたんですよね。学校の外にも世界はあるんだということを感じさせてもらえていたから、ニュースで報じられている虐め被害者の人たちのように、思いつめて死を考えるなんてこともせずに今日まで来れていると思うんです。だから」


 ――少しでも早く、少しでも多く、たくさんの人からもらった優しさを、次の誰かへ恩送りしたい。


「でないと、せっかくもらった優しさが、私の中で依存とか甘えとか、そういう悪い形にどんどん腐っていってしまうと思うから……巧く、言えないんですけど」

 あくまでも自分のためであり、自分の意思である。そう解ってもらえるように話したつもりだが、少し不安が残った。

 ユウはしばらく呆れた顔をしてあかりを凝視していたが、やがて大袈裟なほど深い溜息をつくと

「田所には頼みごとじゃなくて、アイツを吹っ切れさせてあげる、ってこと?」

 と、あかりに確認を取るような訊き方をした。

「はい。彼の罪悪感を利用して、協力を強要する形にはしたくないんです。だから、彼の罪悪感を取り除いてからお願いをしたいと思っています」

「ふぅん。取り除くって、どうするの?」

「それは――」

 あかりが自分の考えた方法をユウに告げると、彼は蒼ざめていいのか赤くなっていいのか解らない、と言わんばかりに一瞬で表情をくるくると変え、

「そ、え、だって、それはマズいっしょ! 完全に次のネタを渡すようなもんじゃんか!」

 と必死の形相で反論した。だが、それはあかりにとって想定済みの反論だった。

「お母さんが、田所くんは悪い子じゃないと言っていました。ユウさんも彼と接してみてそう思ったんでしょう? なら、私も彼の善意を信じようと思います。サッカーを辞めたと聞いたら、余計に確信を得たというのが正直な感想です。協力、してもらえますか?」

 ユウも覚悟を要することだと思ったので、誰よりも先に彼に話し、了承を得たかった。

 迷う瞳があかりを見つめ返し、しばらく言葉を失っていたが、彼はふっと表情を和らげると、

「なんか、そういうリアクションって初めてだから、どう返していいのか解らないけれど……ありがと」

 そんな言葉であかりの案を受け容れてくれた。

 時期は、まずあかりが紀代に伝え、それから柴田と打ち合わせた上で決めよう、ということになった。


 帰りの車の中でスマホのマナーモードを解除した。途端に鳴り響く着信音にビクンと大きく肩が揺れる。

「も、もしもし、お母さん? ごめんなさ」

『やっと電話に出た! 返事も聞かずに飛び出して! 心配するでしょう!』

 泣きそうな怒声があかりの鼓膜をつんざく。その声は運転しているユウにも筒抜けで、隣から「うわ、まさか」と、あかりを咎めるような呻き声が聞こえた。

「ごめんなさい。でも、行き先はちゃんと伝えたし、帰りの心配もないって言ったのに」

 そんなあかりの声を遮るように、ユウがステアリングを握ったまま大声で

「すみませんでした! 許可を得ているとばかり、勝手に俺が勘違いしました!」

 と、がなる。

『ユウさん、もしかして運転中?』

「うん。今、送ってもらっているところ」

『だわね。彼ならそんな場合でもない限り、受話器の向こうで叫ぶわけないか』

「うん」

『まったく。何ユウさんに嘘をつかせているの。押し掛けるにしても、その道中で何かあったらどうするの。お母さんはそれを心配していたのよ。無事でよかったわ』

「あ、そか……ごめんなさい。駐車場でユウさんと合流できたから、なんともなかったの。やっぱり連絡を入れておくべきだった。本当にごめんなさい」

『解ればよろしい。まったく、たまのことだから今回は水に流すけれど、二度目はないわよ』

「はい。心配掛けてごめんなさい。もうすぐ着くから」

 紀代がユウの人となりを解ってくれていることがありがたかった。「娘が迷惑を掛けたお詫びをしたいから顔を出してと伝えてちょうだい」という伝言を締めの言葉とし、紀代は一旦通話を切った。

 それをそのままユウに伝えると、今度はユウからお説教を食らった。

 思い返せば、紀代からもユウからも、叱られたのは初めてかもしれない。わがままを言ったことは悪いと思ったが、それを赦してくれる人に囲まれている自分を再認識すると、口角が自然と上がっていくのを抑えられなかった。


 家に着くと、ユウは紀代が二人を出迎えるなり身体を真半分に折り曲げて

「夜分にあかりちゃんを連れ出してしまい、ご心配を掛けてすみませんでした!」

 と深く謝罪した。面食らったようにぽかりと口を開けた紀代を一瞬見とめてから、あかりもおずおずと頭を下げる。

「返事も聞かずに飛び出して、ごめんなさい。連絡もしなくて、すみませんでした」

 ユウが頭を上げないので、あかりもなかなか頭を上げられない。正面から

「無事だったのだし、始めからユウさんと一緒だと判ってさえいればここまで心配しなかったわよ。あかりはともかく、ユウさんはそんなに恐縮しないで?」

 と優しい声が降ったことで、ようやく頭を上げることができた。あかりだけ紀代からコツンと軽いゲンコツを頭に食らった。

「玄関先で立ち話もなんだし、上がって。学校関連の話だったから、あかりも飛び出したんでしょう?」

 察しの早い彼女に感謝しつつ頷く。

「あ、いや、自分、すぐ帰りますから。田所へ早めに協力を仰ぎたい、という話だったんです」

 ユウは靴を脱がずに本題へ入り、簡単にあかりの意向を代弁したあと、母子で相談の上、紀代が了承するなら柴田へ連絡を頼みたい意向を告げて帰っていった。

 居間へ腰を落ち着けてから、あかりの思う所を一通り紀代に伝えた。

「――だから、田所くんがサッカー部を辞める以上のことをする前に、きちんとけじめをつけて、彼が負い目を持たない状態でお願いをしたいと思って。田所くんとのことはきっかけに過ぎないのだし、それと京子のしていることとは別問題だと思うの。二人きりで、というのはまだちょっと怖いけれど、ユウさんが付き添ってくれるなら、心強いかな、と思って。私、考えが甘いかな」

 紀代は眉間に深い皺を寄せてあかりの顔をじっと見つめたまま話を聞いていたが、ちゃぶ台に肘をついて疲れたように顔を覆うと、

「……うん、あかりの考えに異論はないわ。田所くんがはっきりとあかりのノーを聞いて割り切れるなら、ね」

 含みのある彼女の言い方に不安を覚え、あかりは問い返した。

「どういう、意味?」

「あかりは確信があるのね。田所くんが割り切れる、っていう」

 不意に顔を上げてあかりの目をまっすぐ見つめる紀代の瞳の色に、ぎくりとした。

「あ、る、つもり、だけど」

「その根拠は?」

「……」

 ユウもあかりも、紀代には概略しか伝えていない。「田所のしたことと虐めの件は別問題。だからその負い目を抜きにして考えて欲しい」と伝えるとしか言っていない。

「あかり、唇が少し腫れてる」

「!」

 ストレートに紀代の疑念を口にされ、咄嗟に口許を手で隠してしまった。しまった、と慌てて手を下ろしたが、もう時既に遅し。自分の顔色が変わったのは紀代の顔を見れば一目瞭然だ。疚しさから、ついまた顔を伏せてしまった。

「母親を舐めてたら、ダメよ」

 そんな短く冷静な声があかりの心臓に突き刺さった。

「あ、の」

「覚悟はあるの?」

「覚悟?」

「そう。覚悟。ユウさんは聞くまでもないわ。どれだけ辛酸を舐めて来たか容易に想像できるもの。あなたが押し切ったんでしょ」

 紀代はそう言って苦々しげに、だが、それでも一応笑みらしき音を伴ってあかりを問い質した。

「……」

 ただ俯くことしかできなかった。はしたない自分をあっさり見抜かれ、それを蔑まれているように思えたからだ。だが、俯いたあかりへ続いた言葉は、意外なものだった。

「ちょっと、若いころのお母さんを思い出しちゃった。お父さんとのときは、お母さんからプロポーズしちゃったのよね。お父さん、いつまでも意気地のない人だったから」

「え……?」

 懐かしむ柔らかな声に釣られ、自然とあかりの顔が紀代に向いた。

「お父さんってば、優しいことと弱いことを混同しちゃうじれったい人でね。お人好しな人だったから、いつだって同僚に利用されては仕事の功績を同僚に持って行かれちゃうような人だったの。なかなか出世できない自分を弱いと思い込んでいた。だからプロポーズもなかなかしてくれなくて、ホントじれったかった。お父さんの上司の方がプロポーズしてもいい年収ってどれくらいだろうかと訊かれた、なんて教えてくれたおかげで、勢いのままお母さんからプロポーズしちゃった。養ってやるわよ、って」


 ――全部受け容れる覚悟は、あるの?


 紀代の言わんとしていることが、心の奥深くまで刺さった。彼女の懸念していることも、何もかも見抜いていることも、そして、自分のことだけでなく、ユウの心も案じている、という彼女らしい優しい気持ちも。

「……うん。お母さんを巻き込んでしまうことがたくさんあるとは思ったけれど……覚悟を、決めたから、伝えに行ったの」

 打ち明ける声が震え、紀代を見ていた目線が下がる。普通に考えれば、親心が反対を述べるはずだ。それを受け容れる気がない自分を間違っているとは思わないが、紀代を悲しませると思うと顔を見ては言えなかった。

「そう……なら、お母さんも腹を括ろっかな」

「!」

 思わず顔が上がる。その先にあったのは、迷いのない紀代の笑顔。

「ま、ユウさんなら信用できるわ。今夜も堂々と顔を出して来たということは、親に顔向けできないような真似はしていないようだしね」

「おっ、顔、向け、って」

 狼狽えるあかりを見つめる目は、あくまでも、明るい。

「柴田さんに、あかりとお母さんの意向を伝えておくわ。彼がユウさんにアドバイスをしてくれるでしょ。伊達にトランス・ジェンダーの取材をして来ていたわけじゃないから」

 紀代はそう締め括ると、あかりを慮ったのか「先に寝るわ。おやすみ」と言って自分の寝室へ立ち去った。

「――ッ」

 声を殺して、ごちゃまぜの想いを、流す。

 ばれたら反対されると思ったから、言えなかった。紀代を悩ませると思うと心苦しくて言えなかった。そう思ってしまうことがユウに対して申し訳なく思い、欲張りな自分を汚いと思いながらも紀代に伝えることができなかった。覚悟を決めたのは確かなのに、具体的な行動を先延ばししようとしている自分を嫌な奴だと思いながら帰宅した。なのに。

「……が、と……おか、あさん、あり、が……」

 優しさに溢れた一日が、またあかりを泣かせる。

 誰もいないひっそりとした居間に、長い時間あかりの嗚咽が漏れ続けた。

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