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13. 仲直り

 夜の落ち着いた時間が待ち遠しくて、あかりは夜の献立に随分な手抜きをした。柴田との電話連絡を終えてほかの家事をこなしていた紀代が居間に戻って来るなり軽く驚く。

「もうご飯できたの? ……って、お雑炊……と、焼き魚」

 あとはほうれん草のお浸しや黒豆など、出来合いの惣菜を並べただけだ。

「ごめん。ちょっと、早めに落ち着いた時間が欲しくて、手抜きしちゃった」

 半日とは言え仕事をして来た紀代には申し訳ないことをしているとは思うものの、せっかくの勇気がしぼまないうちにユウとコンタクトを取りたかった。あかりがそんな本音を零すと、紀代は一瞬だけ目を大きく見開いたが、

「そう。言われてみれば、ここ一週間以上彼の話題があかりの口から出たことがなかったわね。スマホも無事手元に返ったことだし、田所くんの件、彼に付き添いを頼むということでしょう? それなら直接あかりからお願いするのが筋だわね」

 と、深く追及せずに流してくれた。

 言われてみれば、ユウと知り合って間もないころから、友達親子のような一面もある紀代には毎日のようにユウの話をしていた。だからこそ初めて会う約束をした一ヶ月前も、紀代は多少の不安を抱きつつも了承してくれたに違いない。それくらい、林田家でユウの話題が出るのは日常だった。そんなあかりが彼の名前すら口にしないことに紀代が何かを感じなかったはずはない。

「……うん、そのつもり。柴田さんやユウさんがどれくらい情報や物証を集めているか解らないから、相談した上で時期を考えようと思う。そこは、お母さんの考えと同じ。心配掛けてごめんなさい。ありがとう」

 たくさんの意味を含んだ“ありがとう”を伝えると、紀代は大したことではないと言いたげに笑った。

「改めて何を言ってるのよ。孝行娘でかなり助かってるわよう」

「そ、そう、かな。でも、こんなに迷惑を掛けているし」

「あかりの意思でこうなったわけじゃないでしょ? それにねえ、あっという間に自ら命を絶ってしまう子もいるこのご時世よ? 正直、この一週間は気が気じゃなかったわ。お母さんが出勤している間にあかりが何かやらかしていたらどうしよう、って。ユウさんや黒崎さんたちのおかげもあるけれど、あかり自身が逃げる選択をしないでみんなを頼ってくれたからこそ、周りの人も手を差し伸べられるの。だからね、お母さん、あかりが強い子で本当によかった、と思っている。お母さんのほうこそ、ありがとう」

 あかりは、強い。

 その言葉がじんわりと心に沁み亘っていく。

「……」

 口に頬張ったほうれん草のおひたしが、やたら塩辛さを増していった。咀嚼できなくなってしまい、ハムスターのように頬が膨らんだまま、止まってしまう。

「――ッ」

 紀代はそんなあかりを見て、

「ちょっと~、年配の方みたいじゃないの。急に涙もろくなっちゃって。あかりらしくないわね」

 と言って、また笑った。笑い飛ばしてくれる紀代の優しさが余計にあかりの涙腺をゆるませた。


 洗い物を任せて早々に風呂をもらい、キッチンの冷蔵庫を開けたところで居間にいる紀代から声が掛かった。

「あかりー、出たの?」

「うん。お待たせでした」

「じゃあ、お母さんもお風呂もらおうかな」

 紀代が着替えを手に、キッチンへ顔を出す。その向こうに洗面室と風呂場があるので、冷蔵庫の中のドリンク類を物色しているあかりの後ろを通り過ぎる形になる。

「あ、そうだ」

 紀代がまるで今思い出したかのような声を出し、だが実はあかりの風呂上がりを待っていたとばかりに、画面が見える形であかりのスマホを差し出して来た。

「さっきから通知が鳴りっぱなしだったわよ。はい」

 紀代が言う間にも、またキロンと着信音が鳴る。


 ――通知

 古川優子(優人):何度もゴメン。これで最後にする。あと五分だけ待ってみる――


「うそ!」

 もう風呂上がりのドリンクどころではなくなった。

「やだもう! お母さん、どうして声を掛けてくれなかったの!」

 恩を仇で返す勢いでスマホを奪い取り、急いで着歴を確認する。

「え? だってお風呂場にスマホを持って行ったら湿度で壊れちゃうじゃない。やっと返って来たところなのに」

 紀代のそんな弁解を半分聞き流してすべての通知を見れば、電話着信とメッセージの着信件数があり得ない数字を叩き出していた。

「ねえ、名前だけ流れて来たのを見ちゃったんだけど、それ、ユウさんのことよね? 優人って?」

「わかんない。黒崎さんのデータをそのまま移植したから。あ、ちょっと待って、時間ないみたい」

「ああ、ゴメンごめん」

 紀代は苦笑交じりにそう言ってやっとバスルームへ向かっていった。電話着信はさておき、メッセージの内容次第で出掛ける準備もしなければ。まだ髪はタオルドライしかしていない。

 あかりは焦れる想いでLINE画面が起動するのを待った。


20:45

 ユウです。電話、出ないから。今、ちょっとだけいいですか。蔵木から連絡もらった、その件で。


20:58

 やっぱ、怒ってるかな(汗)

 蔵木から聞きました。

 まずは、ごめんなさい。

 あかりちゃんに誤解させました。

 俺は不快な思いをさせられていません。

 逆に俺があかりちゃんに不快な思いをさせたと思って、忙しいこともあったけれど、それを言い訳にして連絡することから逃げてました。

 蔵木から、あかりちゃんが俺を傷つけたと思っているらしいと聞いて、頭ン中がはてなマークだらけになって、混乱してるうちに、田所の件、俺の同伴を頼む、みたいな話をまくし立てられて、わけわかんなくなって電話しました。

 文字だけじゃあ伝えることにも限界があるから、顔を見てちゃんと話したいです。

 勝手だけど、これでもメチャクチャ勇気出してメッセージを打ち込んでます。

 萎えない内に行動に移せ!(笑)

 てなことで、今からそっちに向かいます。


21:14

 あかりちゃんちのゲストパーキングに到着。車から出て待ってみます。

 乗ったまま待ってると、そのまま逃げたくなりそうだから(笑)

 遠目から見て「あ、やっぱ無理だ」と思ったら、せめて帰れ、って連絡だけでもください。


「……」

 分割で送られた大量のメッセージを読み終えたあかりは絶句した。

 時計を見れば、現在時刻は十時過ぎ。このメッセージに綴られたユウの気持ちは一時間も前のものだ。ユウのアパートからここまでの移動時間やあかりの入浴時間を合わせ考えると、始めのコンタクトから一時間近く待たせている計算になる。

 とどめは、ついさっき届いた“最後”のメッセージ。


21:58

 何度もゴメン。これで最後にする。あと五分だけ待ってみる。

 なんか俺、またやらかした気がするwwwww

 あかりちゃんの都合を考えないで飛び出して来ちゃったw

 せっかくここまで来たから、あと五分だけ、宝くじ気分を味わわせてよw

 逢えたらラッキー、みたいな?w


 タイムリミットは十時三分、今はもう十分近く過ぎている――。

「――ッ!」

 あかりはスマホを握り締めたまま、そしてタオルを肩に掛けたまま自室に飛び込んだ。鞄を手に取り肩に掛け、勢いのまま部屋着で飛び出した。

「お母さん! ちょっと、ユウさんちまで行って来る! 帰りは送ってもらうから心配しないで!」

 入浴中の紀代に玄関口から叫び、

「えぇ!? こんな時間に? というか、あかり一人で外に出られ」

 その問いには、玄関から飛び出すという形で答える格好になった。


 まずは敷地内のゲストパーキングへ。そこにユウの車がなければ、そのまま駅へ向かうつもりでいた。

「はあ……はあ……」

 肩で息をしながら立ち止まり、一望できるパーキング内を見たがユウの車は見当たらなかった。

(いない……遅かった……)

 ふとゲストパーキングからの出入口になる西門を見れば、一台の車が左ウィンカーを点滅させたまま、公道を走る車が途切れるのを待っている。

 見慣れた、ちょっとかわいい小型の赤い軽自動車。ナンバープレートを見れば、あかりの記憶と合致する“I LOVE HONEY”の語呂合わせと同じ、10-82のナンバープレート――ユウの愛車のナンバーだ。

「待って!」

 届かないのに、叫ぶ。足が勝手に停車している車に向かって走り出す。あかりの必死な努力をあざけるように公道を走る車が途切れ、ユウの車がゆるりと左へ曲がり始めた。

「ま……っ」

 車ばかり目で追っていて足許に注意を払っていなかった。やっと門扉まで辿り着いたのに、公道へ出ようと左へ向きを変えた途端、あかりは門扉の導線となる溝に靴先を引っ掛けて盛大に転んだ。

「い……った……」

 呟く声が、くぐもる。子供のようにうつ伏せに倒れたまま身体を起こせない。顔を上げれば、きっともうユウの車が視界から消えている。そう思うと身体を起こす勇気すら出せなかった。

「う……うぇ……」

 せっかく勇気を出してくれたのに。ここまで来てくれたのに。自分も、あらん限りの勇気を振り絞って、この千載一遇のチャンスを逃すまいと頑張ったのに――。

「なに、やってんの?」

 不意に降って来たアルトのかすれ声に嗚咽を呑み込まされた。おそるおそる路面に肘を立てて顔を上げてみれば、呆れた微笑があかりの視線を受け留める。

「風呂だったから、返信がなかったのか。また俺、早とちりするトコだったんだな。コケさせてごめん」

 まるで沈黙を恐れるようにまくし立てた“彼”は、あかりの前でひざを折ったかと思うと、軽々とあかりを抱き起こした。

「あ~あ、髪、乾かしてなかったから、砂がついちゃった。なんつうカッコしてんの。思い切り部屋着じゃん。メッセ飛ばしてくれたら戻って待ったのに。あかりちゃんのドジっこ。焦ると考えるより先にすぐ動いちゃうんだから」

 くつくつと笑う優しい声が、懐かし過ぎて、嬉しくて。

「ユウさん!」

 傍の目や住人の目撃を気にする余裕もなく縋りつく。立ち去られてしまうのが怖かった。嫌われる前にちゃんと伝えてしまいたかった。

「ごめんなさい、私……ごめんなさい」

「へ? な、なに」

 狼狽えて裏返る声が余計にあかりを泣かせた。

「甘えてばっか……ユウさん任せばっか……ごめ……ちゃんと、話……聞いて……くだ」

「うん、解った。解ったから、ほら、取り敢えず、お母さんに許可もらってよ。着替えとか髪とか、ね?」

 なだめるユウの声が、どこまでもあかりを案ずる言葉と思いばかりで、泣ける。

 どこか兄妹のように見えなくもない二人の蹲る姿を、ユウの車の赤いテイルランプが淡く照らし続けた。




 待っているから一度部屋に戻って、あかりの家に邪魔をするなり、どこかへ出るなりの許可をお母さんからもらっておいで、と言うユウに多分初めて嘘をついた。

「お母さんからもう許可はもらってあるから、大丈夫です。帰りは送ってもらってもいいですか。そう言っちゃったし」

 今家に戻ると確実に外出のほうは禁じられると思った。あかりの家で、ということになれば、言いたいことの半分も伝えられない。

 母の存在が、今だけは、ちょっと、かなり、困り者。

 そんな風に思ってしまう自分に、少なからず自己嫌悪した。

「そっか。なら、俺は全然問題ないけど、そのカッコだとファミレスにも行けないな。うちでいい?」

「……お邪魔、したいです」

 そう答えるときに妙な間が開いた。あかりの心臓がバクバクと勢いよく脈を打ち始め、それが口から飛び出しかねない勢いだったので、つい返事に間が開いた。


「えーっと、どこだったっけ。前にみさきが置いていった服があったはずなんだけどな」

 ユウのアパートに着くなり、彼はあかりの着替えを用意しようと服で溢れる隣の部屋を発掘し始めた。

「あの、ホントに大丈夫ですから」

「でも薄着だし、この一週間で急に夜冷え込むようになってるじゃん。湯冷めで風邪引くよ」

(なんか、うちのお母さんみたい)

 じれったさから知らずあかりの目が細まる。ユウのこういう一面は女性らしい心配りだと思わせる。男性と違ってストレートで実用的な優しさを表現できるという意味で。これが男性ならば抱擁だのなんだのという方向へ持って行くだろうに、という意味で。

(そこは女性として躾けられた部分、という、こと、かな)

 千々に乱れる思考があかりの中でいろんなことを考えさせる。男らしさや女らしさという概念から躾けられる諸々は、GIDにとって苦痛一辺倒なのだろうかとか、そもそもその“らしさ”分けが男女で分けるべきものなのだろうか、とか。

「あったー!」

 ユウが押し入れのかなり奥の方に何かを見つけ、歓声とともに数枚の衣類を引っ張り出した。

(ニットの服と……インナー? みさきさんの服がある、って、どういうこと?)

 クローゼットと化している部屋の入り口でなんとなく立ち尽くしていたあかりだが、ユウが取り出して広げ始めた衣類を見てふと気が付いた。

 みさきはユウがGIDであることを認識している。つまりユウを異性として見ているわけで、それはつまり、ひょっとして――?

 ものすごく黒い感情が渦巻いた。みさきはあかりにとっても頼もしく豪快な、大好きな姉貴分の人なのに。

「みさきのほうが少し背が高いし肉厚だけど、それほどサイズにずれはないでしょ。これ着ておいて。アイツ、こいつの存在を二年くらい忘れてるから」

 そう言って自分の言葉に受けて笑うユウだが、あかりは一緒に笑えなかった。

「……みさきさんにとって忘れちゃう程度の服を、どうしてユウさんが大事にとっておいてあるんですか」

「へ? だって、人のものを勝手に捨てたらダメでしょ」

 まったく悪気のない口調でみさきのシャツを広げてあかりにフィッティングするユウへ、あかりは剣呑な目を向けた。

「カーディガンだけなら解りますけど、パンツやシャツもあるってのは、なんだかお泊りグッズ一式って感じですね」

「ん? ああ、たまにうちの店へ遊びに来てくれるから、ラストまでいてそのままここへ泊まっていくことがあるよ」

「と、泊まる……何か、特別な人、みたいな空気が漂うんですけど」

「……今夜のあかりちゃんはアグレッシブだね。妙な疑いを持っているみたいだけど、みさきはビアンだよ? 知らなかった?」

 みさきの服をあかりに手渡しながら、ユウはさらっと爆弾発言をした。

「へ? び?」

「ビアン、レズビアン。SNSでやたらあかりちゃんに絡むから、内心ずっとヒヤヒヤしてた。ハニーちゃんの警戒度は絶対俺よりTスタのが低い、やべー、みたいな。初オフ前までは、お互いにカムアウト済な気楽な存在なのにライバルになるのか? みたいな複雑な心境で、だけど、みさきとはそういうのもぶっちゃけられる、っていう摩訶不思議な関係だったり――と、今ごろゲロってみる」

 ふざけた口調でそう言ったくせに、ユウからゆるい笑みが途端消え失せた。だからあかりも「茶化さないで真面目に話を聞いて」と言い返せなくて、黙り込んだ。

「今日、蔵木が余計なことを言ったみたいだけど、それを聞いて却って冷静になれた。蔵木って悪い人ではないんだけど、やっぱり結局はノーマルなんだよな。あかりちゃんを煽るのはいいけれど、そのあとを考えてない。その場の気持ちしか考えない。それはノーマルにとっては普通なんだろうけど、みさきみたいに開き直らない限り、LGBTにとっては無理なんだよな」

 淡々とそう告げるユウが、冷ややかな目であかりを見下ろした。見覚えのあるその冷たさにぶるりと身体が反応した。

(……先々週の、駐車場で私を見たときの目と、同じ……)

 人ではモノをみるような、疲れた微笑。あのときは、自分を蔑む瞳だと思ったが。

「そんな、絶望したみたいな目で、見ないでください。わざと自分を悪者に仕立て上げて、私に嫌われようとなんてしないでください。私の話を何も聞いていないうちから、勝手に解ってもらえていないなんて決めつけないでください」

 寂しさと腹立たしさと、そして増していく愛おしさ。それらがないまぜになってあかりの声を荒げさせた。

 手渡された服を床に捨て、ユウの襟を掴んで食って掛かる。

「一度好きになり掛けた子に理解してもらえなかったからって、もう誰のことも好きにならないなんて、逃げているだけじゃないですか」

「ちょ、なんでそれ」

 とツッコミを入れ掛けたユウの言葉を遮り、さらにまくし立てる。話を逸らす気満々の瞳に、玉砕の恐怖をねじ伏せて、挑む。

「GIDである現実から逃げることなんてできないのが解っているくせに。今の話、全部ユウさんに対する私の“好き”がライクっていう前提でしたり顔してお説教しているだけじゃないですか!」

 ひどく困ったユウの顔を見て怯みそうな自分を抑え、そして、異論ありげに眉根を寄せた彼の反応にも先回りして訴えた。

「無自覚だった私も悪いけれど、だけど私、何度も言いました! 伝えて来ていました! ユウさんのおかげでこの一年以上をやり過ごせて来たんだ、って。お母さんに感謝されました。自分から命を絶つ子が多い中、今までそういう逃げ方をしないでくれてありがとう、って」

 彼を困らせている。突き付けられるその現実に、とうとう声が震え出した。

「言っている意味が、解りますか? あなたは私の命綱なんです……」

 ユウを拘束していた手から力が抜け、彼を自由にしてしまう。身体が勝手にずるずると崩れ落ち、彼の足許にあひる座りでへたり込んでしまう。それでも、精いっぱいの気力と声を絞り出し、訴え続けた。

「あなたが男でも女でも関係ない、そう、言いました、私……あなたがあなただからって……、それじゃあダメなのかって……依存しちゃ、ダメなんですか……? 依存、されちゃ、ダメ、なんですか……? 私は、頼るばかりじゃなくて、ユウさんの、苦しいことも、解って欲しい、という気持ちも……分けて、欲しいです……」


 ――私は、ユウさんと同じ意味で、あなたが、好きです。


 やっと紡げた言葉は、あまりにも小さく、か細くて。彼にちゃんと届いているのかどうか不安にさえなるほど自信なさげなくぐもった声になってしまった。

「あかりちゃん」

 とても困ったような声が、あかりの名を呼んだ。俯いたまま顔を上げられないでいるあかりの前に、ユウがひざを折って向き合う気配を感じた。

「正直、すげえ嬉しいけど、俺、そろそろジェントルマンな自分でいることに限界感じちゃうんだけど」

 垂れた髪の隙間を縫って、しなやかな指があかりの頬に触れる。それがあかりの心臓を跳ね上げ、息を呑ませた。

「前にも言った気がするけれど、俺の頭の中は、あかりちゃんが幻滅していた田所と同じ、ゲスい男だよ」

 と挑発的な声で言われた。ユウの人差し指が頬を撫で伝い、俯いたまま固まっているあかりの唇の上で、止まる。

「真面目でお母さんが心配するような遊び方なんて知らない、清楚なお嬢さんが想像したこともないゲスいこと、いっぱい考えているヤツだよ、俺は」

 ぞわりと背筋に何かが走った。それは恐怖とは違う、初めて抱く奇妙な感覚。

「……解って、まふ」

 語尾がギャグになったのは、口を開いた途端にユウの指が滑り込み、噛んでしまいそうになったからだ。そんな意地悪が悔しいのに、なぜか抗えない。

「どうせ今その場だけでしょ? こっちが引き返せなくなってから、やっぱムリとか言われても、俺、犯罪者になりかねないくらい粘着なんだけど」


 ――いいの?


 心臓が破裂しそうだった。ゆっくりと言い含めるように細かく区切って囁かれる低い声が、言葉を紡ぐたびにあかりの呼吸を浅くさせていく。そんなユウは初めてで、優しさの欠片もない。なのに、それが不快ではなく、ある種のじれったさで歯痒い気分にさせられる。

「いい、れふ」

 口角から溢れそうになった唾液をユウの指先が、拭う。顔中がカッと熱くなり、恥ずかしくてさらに俯――こうとしたら、濡れた彼の指先があかりの顎を捉えて上向かせた。

「お母さんが悲しむよ? 先のない相手にそんなこと言って許しちゃうと」

「!」

 変わらない諦め切った瞳とかち合った。人の気持ちを弄ぶようなユウの態度が、あかりに沸点を越えさせた。

「お母さんのために生きているわけじゃありません。ユウさん、さっきから一度も言ってくれませんよね。私はちゃんと伝えました。ユウさんは私のこと、どう好きなんですか?」

「ど、う、って」

 怯んだ瞳に勝算を見た。ここぞとばかりに反撃する。

「結局そうやって、自分のことを後回しにするじゃないですか。お母さんの顔色を見たり、先々の事を考えたり、やってみもしないうちから、そんなのいくじなしです。私が不幸な顔をしていたら、お母さんだって悲しむに決まってるじゃないですか。私、今すごい不幸な顔してると思いますよ。だって、ユウさんがちっとも私の質問に答えてくれないんだもの。ユウさんは私のこと、好きじゃないってことですか? だからそんな意地悪なことばかり言うんですか?」

 訴えながら、引こうとした彼の手を掴んで引き止める。立ち上がって逃げようとした彼に思い切りしがみついた。

「私、一生分の勇気を使ってるんです。私もそろそろ限界です。ユウさんがいてくれると思ったから、学校でのことも乗り越えられる自信があったんです。お願いです。傍にいて……私が傍にいてもいいんだって、信じさせて、ください……」

 あかりは、ユウが自分ではなくあかりの将来や、彼に関わるせいで立ちはだかることになるモノたちの強さを憂いでいることが哀しかった。何もしないまま諦めて、独りになろうとしている彼の気持ちが哀しかった。

 そんな想いをこめて、もう一度、口にする。前のような無自覚ではなく、万感の思いを込めて告白する。

「私は、ユウさんが、恋愛の対象として、好きです」

 あかりの願いも虚しく、彼の首にしがみついた両の腕が容赦なくほどかれた。ぐっと両肩を掴まれ、距離を取らされる。

「――ッ」

 叶わない想いが哀しくて嗚咽が漏れそうになった。きゅ、と唇を噛んで堪えようとしたら、こつん、と額に彼の額が寄せられた。

「ハニー」

 久し振りにそう呼ばれ、とくん、と甘い音が胸の内から響く。

「俺も、ちゃんと……好きだよ」

 吐息と告白があかりの鼻先をくすぐった。彼の表情を見届ける暇もなく、柔らかな感触があかりの唇に、触れる。

「ん……っ!?」

 二、三度ついばまれたかと思うと、彼の手が再びあかりの顎を軽く引き、閉じていた唇を開かせた。

「ん……ん……っ」

 忍び込む舌に、おののく。いつ息をしたらいいのか解らないまま、苦しさでユウにまたしがみつく。

 強く抱き寄せる腕の力が、あかりを妙な気分にさせた。正月のお神酒で酔ったときのように、上下左右がくらくらと揺れる。

「……んぁ……ユ、ウさ……ま……んん……っ」

 一瞬解放された唇が、少し酸素を取り入れた途端、また塞がれる。

「……」

 夢心地の気分に、酔う。息苦しいほどの抱擁が、あかりに新たな涙を零させる。それはついさっきまで堪えていた悲しみから来るものではなく――。

 そのとき、あかりは初めて“濡れる”という感覚を知った。体の芯からこみ上げて来るその感覚が、羞恥をしのいで欲望のままにユウの唇を貪らせる。子宮の奥から溢れ出る感覚がざわりと全身を粟立たせ、あかりの秘所を湿らせる。

 服だらけの散らかった部屋に、永遠に続くかと思うほどの長い時間、淫靡な水音が響いていた。

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