12. 立ち向かう勇気、奮う勇気
一日一回だけ、ユウのLINEアカウントにメッセージを送る。
“こんにちは。スマホが無事返って来ました。同機種新品(嬉)やっと少し安心しました”
あかりはあんな別れ方をしたきりだったせいもあって、どう声を掛けようかと相当悩んだ。散々迷った末、結局初日はそれだけに留めた。五分も経たないうちにスマホを気にしている自分がいた。結局、その日にユウから返信が来ることはなかった。
“この火曜日に、ユウさんが熱を出して寝込んでいると黒崎さんから聞きました。その後、体調はどうですか?”
“あれから一週間、今日は土曜日です。ユウさんはお休みですか? それとも、バイトかな”
暇、遊んで、そう伝えてみようかとも思ったが、罪悪感と小心があかりに二の足を踏ませた。結局様子伺いのメッセージだけに留まり、そしてやはり返信がないままその日も終わった。
日曜には黒崎たちから福祉施設のイベントに誘われた。だが、ユウはやはり来なかった。
「ハニーちゃん、大変だったんだってねえ。ユウトは今日、その件で君の担任とデートだって」
みさきにそう言われたら、それ以上のことは何も言えなかった。
(わざとこの日に合わせて蔵木先生と打ち合わせることにしたのかな)
ユウは自分のことで奔走してくれているのに、それに不満を感じている自分がいる。そんな自分がわがまま過ぎて、その日のイベントは何をしたか覚えていないくらいに、心ここにあらずにまま終わってしまった。
どういう経緯からそう呼ぶのか解らないが、みさきは親しげに「ユウト」とユウを男性名で呼ぶ。それに嫉妬を覚える自分がとてつもなく醜くて、ユウに嫌われると思った。一度そう思ってしまうと、負の感情が止まらない。
その夜、あかりはユウにメッセージを入れられなかった。
翌週からは、静かに、だが確実に事態が動き出した。
紀代が午後一番で早退して来た。担任の蔵木が自宅を訪問したいと職場の病院に連絡が来たから、とのこと。紀代は事前に職場へ家庭の事情を話してシフト交代の協力など、同僚から一定の理解を得て根回しが済んでいたらしい。
紀代から聞いて初めて知ったのは、学校がアンケート調査を行なってくれたこと。この一週間のうちに柴田が教育委員会へ匿名の通報を仕掛けたのち、直接学校へ蔵木宛に取材申し込みの電話をする、という一芝居を打ったそうだ。蔵木が取材申し込みの件を報告したところ、肝を冷やした校長や主任教諭が蔵木に許可を出し、匿名のアンケート調査実施に至ったとのことだった。
「もちろん、まだあかりの名前は一切出ていない形で、思い当たることがあれば匿名で知らせて欲しい、といったゆるい形。でも、来ていただけるということは、何か収穫があったんでしょうね」
「待って? ということは、蔵木先生は柴田さんをマスコミの人として警戒してしまっている、ということではないの? お母さんの大切な人なのに、そういう悪いイメージがつくのは、私、なんか、すごく、嫌だな」
それではあまりにも申し訳ない。あかりにとって第二の父になる可能性が高い柴田が要らぬ誤解から不快な思いをする事態は、どうしてもあかりに罪悪感を抱かせる。
だが紀代は簡素な一言であかりの懸念を払拭した。
「ああ、その心配はないわ。ユウさんが仲介してくれた上での三文芝居だから」
久し振りにその名を紀代の声で聞いた。その気付きが彼女の心配りをあかりに知らせる。
返す言葉が浮かばず黙り込んだあかりを見つめ、彼女が独り言のように
「バイトや大学の単位を取るので忙しい様子なのに、蔵木先生の立場も柴田さんの立場も考えた上で対応してくれたのよ。ホント、ユウさんには感謝してもし切れないわね」
と言って小さく笑った。
夕刻、訪ねて来た蔵木を居間に通すと、彼はあかりが紀代の隣へ身を落ち着けるなり土下座の姿勢を取り、叫びに近い謝罪を口にした。
「申し訳ありませんでした!」
「せ、先生!?」
「一年も前にお母さんから知らせをいただいていたのに、僕の目が節穴だったせいでこんなに長い時間林田を放置して……挙句、ここまで追い込んでしまって、なんと詫びたらいいか」
しまいには嗚咽に近い涙声になっている。それにはあかりも面食らった。
(私、自分のことでいっぱいいっぱいだったけど……先生を、ここまで思い詰めていたんだ……)
学校のどこにも味方などいないと思っていた少し前までの自分を情けなく思う。同時に、その環境から離れてみて初めて解ることもある、という事実を、理屈ではなく心が実感した瞬間でもあった。
「先生、それは先ほどお電話で私が申し上げたでしょう。娘も私も、担任の先生がどれだけ忙しいか解っている、って」
紀代が割って入るも、蔵木は一向に折った身を上げようとはしない。
あかりが茫然と蔵木の丸まった背中を見下ろしていると、紀代が少し呆れた苦笑を零してあかりに事情を説明した。
「蔵木先生ね、この一年、ずっとユウさんと連絡を取っていてくれたらしいの」
「え?」
「ほら、あかりが一年のとき、お母さんが先生に学校での様子を尋ねたことがあると言ったでしょう? それを聞いてから、教師が見逃している部分は何か、って、虐めの被害者でもあったユウさんの見解を聞いて、対応しようとしてくださっていたのよ。もちろん、当時のユウさんはそれがあかりだとは知らないまま協力してくれていたのだけれど」
知らなかった。そして、虐めの現場を目撃されたときに言っていたユウの言葉が腑に落ちる。
『俺、蔵木とは在学中にいろいろあって、未だにときどき呼び出されてココに来ることがあるんだよね』
あれは、既に自分のためだったのだ――。
「蔵木先生……ありがとうございます」
「え?」
蔵木がようやく頭を上げてくれた。潤んだ瞳の脇でわずかに主張する、雛鳥の足形のような小皺に彼の涙が滲む。きょとんとした顔であかりを見つめる彼に、考えるよりも先に謝辞が口から飛び出していた。
「蔵木先生がユウさんと私を引き合わせてくれていたんですね。先生がユウさんに相談してくれていなかったら、ユウさんはきっと私のつまらない愚痴コメントなんか気にも留めていなかったかも知れません」
「え……?」
「私がユウさんと知り合ったきっかけは、地域限定の人だけがアクセスできるSNSだったんです。ユウさんのことだから、きっと蔵木先生の相談が心の片隅にずっとあったから、それが私かどうか解らないながらも私の愚痴コメントを見て声を掛けてくれたのだと思います」
ありがとうございました、ともう一度告げる。自分に都合の良い解釈かもしれないが、点と点が線で繋がったような気がした。
「先生が気付けないのは当然だと思います。それが今の虐めの在り様だとはニュースでもよく言われている通りですし。先生や母はよく私を褒めてくれるんですけど、本当はそれほどいい子じゃないんです、私」
ただただ蔵木の折った身を起こして欲しくて懺悔する。
小学生のころ、自分をターゲットにされるのが怖くて、虐められている子を見ても見て見ぬ振りをして来たこと。特別仲の良いわけでもない虐められっこを救うことで、自分がターゲットされて祖母や母に心配をさせたくなかったという自分への言い訳に終始していた日々。
中学のとき、京子と共に虐めを見過ごした。あかりは小学生のときと同じ理由から、京子は「対して仲のいい子じゃないんだし、嫌なら学校へ来なければいいのよ」と切り捨てたから、という冷たい理由から。
「京子はやっとできた友達だったから、それを叱ることができなかったんです。私も見て見ぬ振りをしていたし。今は、たまたま私がターゲットされたんだ、って。見て見ぬ振りをしていた自分の、これは因果応報というか、罰なんだ、と思う自分もいて……お母さん、思っていたようないい子じゃなくて、ごめんなさい」
身を起こしていく蔵木と反比例するかのように、身を前に折り曲げていく。目を逸らして来た過去の愚行を言葉に置き換えたことで、なぜ虐めの事実を訴えて助けを求められなかったのかを明確に自覚した。
「……ごめん、なさい……」
頬に垂れた髪が張り付いて気持ち悪い。醜い自分を嫌と言うほど感じて消えたい、とさえ思った。膝の上に載せた拳が悔しげに震え出す。
「……あかり」
隣から優しい、でも少し哀れみの混じった声が降り、濡れた拳がそっと包まれる。
「林田、よく、話してくれたな。自分がターゲットされるのを恐れるのは当然だと、僕は思う。君は君を助けもせずに傍観している人たちを、赦してあげることができるかい?」
正面から感情を抑える震えた小声がそう問い掛けて来た。
「……もし、その人たちが、傍観者でいる自分の立場に苦しんでいるのなら、悪い人ではない、と、思うから……赦すとか、そういう上目線な考え方は、できないですけど、元通りにはなりたい、と、思います」
「そうか」
蔵木のほっとした声に、ぱさりとちゃぶ台の上に落ちた小さな音が重なった。あかりがおそるおそる顔を上げてちゃぶ台を見れば、そこには数十枚にわたる紙の束が置かれていた。
「数人しか、それも疑わしいという程度の情報しか得られなかったんだ。被害者と思われる生徒の記述もない。それでも何人かは林田を指していると思われる生徒の不審な行動を知らせてくれたり、男子からからかいを受けているような報告もあった。その勇気を認めてやれるだろうか」
蔵木のそんな言葉を聞きながら、紀代と一緒に資料をめくる。アンケート用紙のコピーはところどころ塗りつぶされていたが、それは主任教諭の指示であり、蔵木にはどうしようもない部分だろう。
――いつも昼休みだと女子トイレの一番奥の個室が閉まっています。気味が悪いと思っていたけれど、もしかしたら閉じ込められているか何かなのかな、と思ったり。
――女子だけの教科になると雰囲気が悪くなる。なんとなく、そう感じるだけだけど。
――男子のエロ話ウザい。特定の女子の名前を出して不愉快な下ネタ話とかマジキモい。
――いつも教室にいない人がいます。授業には出ているけれど。それ以上はノーコメントです。
――虐めと関係あるかどうかは解りませんが、LINEの裏グループがあるみたいです。自分はハブられてるっぽいけれど。中学のときの同級生が「おまえも入ってる?」と聞いて来たから知りました。
誰も味方などいないと思っていた。自分とは無関係とも思える記述のほかに、そういった報告があることにまた涙腺がゆるむ。
「……じゅう、ぶん、です……解る、つもりです……文字、見たら、バレるかも、思ったら、これ、すごく勇気が要る……そう、思います……」
涙を見せたことに恥じ入る余裕すらなかった。
宝物のように資料の束を抱きしめてうずくまる。もう顔も忘れた遠い昔、自分が見て見ぬ振りをした虐められっ子の女の子に、心の中で謝罪を繰り返した。彼女は今この瞬間も、もしかしたら同じ想いをしているかもしれない。ただやり過ごせばいいのではない、と心が強くあかりに訴えた。
「林田、顔を上げよう? な?」
醜い自分なのに、優しい声が降って来る。
「次に勇気を出すのは、あかりの番ね」
紀代が過剰なくらい明るい声であかりを激励する。
「……うん」
あかりがゆっくり折った身体を起こして姿勢を正すと、蔵木は別のクリアファイルから一枚のアンケート用紙を取り出した。
「たった一人だけ、明確な回答を書いてくれた生徒がいた。これが誰か、判るかな」
差し出されたアンケートの回答用紙を読んだあかりの顔から表情が抜け落ちた。
――■■■■■さんが虐めのターゲットにされています。
教科書をカッターでビリビリにされてゴミ箱に捨てられていたり、配布プリントを隠されていたり、俺が知っているのはそのくらいですが、彼女はいつも教室にいられなくて休憩時間のたびにどこかへ消えてしまいます。
多分、虐めのターゲットにされた原因は俺だと思います。
みんなが口を閉ざしているのは、首謀者が■■■■だからだと思います。
俺もアイツの親が出て来るのが怖くて、今まで先生に言えませんでした。
先生にお願いがあります。■■さんに謝るきっかけを俺に作ってください。
■■さんから俺の名前を聞いてください。
先生が俺を呼んで結果を報告してくれたら、それが■■さんからの許可だと考え、自分で■■さんと連絡を取ります。
先生が責任を取らされないよう、学校の外でします。
だから全部、■■さんに伝えてください。
自分の口から■■さんに謝りたいです。
名前は黒く塗り潰されているが、当事者であるあかりに、それが誰なのか解らないはずがなかった。
ゴールシュートを決めるたびに、少し得意げな表情で皆の注目を受け留める笑顔。ちらりとあかりを盗み見ては、目が合うたびにニカっと少年そのものな満面の笑みに変わる、一時期ほんの少しだけ憧れていた、中学のころからの男子同級生――。
「……田所、くん……」
考えるよりも先に答えが口を突いて出た。あかりの手から、はらりと解答用紙が舞い落ちた。
「そうか、田所か。道理で古川が学校へ寄る度にグラウンドを眺めてばかりいたはずだ」
悔しげに蔵木が頭を掻きむしりながら、自分の鈍さを呪う言葉を口にした。
「あかり、焦る必要はないのよ? あかりが大丈夫と自分で決めたときに先生から田所くんに伝えてもらえばいいのだから」
うっかり口を滑らせたのが解ったからだろう、田所と何があったかを知っている紀代が、あかりの心情も計ってそんなフォローを入れた。
だが、思う。そして思い出す。
『悪い子ではない。かわいい、いい子よ』
『単純に、素直に、ガキだったというだけで、自分の気持ちをストレートにぶつけただけなんだ』
紀代やユウが口を揃えて田所に同情の余地を示唆した。それは、あの出来事があるまであかり自身が田所の人柄を客観的に正しく把握していたからだ。
「大丈夫。一人で会うのは、その、正直怖い……でも、田所くんにだけ勇気を出させて、自分だけ逃げているなんて、ずるいと思うから」
声が震えてしまったが、あかりは自分を追い込む勢いの速さで即答した。
大きく息を吸い、そして思い切り吐き出し切る。少しだけ心音のリズムが落ち着いた。対峙する相手は田所だ。まだ、京子との対峙ではない――大丈夫。
「そうか……解った。お母さん、本人の意向を尊重したいと思いますが、如何でしょう」
蔵木がまずはそう言ってあかりの意思を尊重した。母もそれに同意し、
「そうですね。娘の意思を考える前提ではありますが、柴田と三人で話し合って、時期的な面はもう少しお時間をいただきますが、それでよろしいですか」
と、再考の余地も与える答えを返した。
そのほか、フリースクールでの様子を報告したり、高校へは教員の間では共有された事案となったので、要望があれば各教科の担任が個人授業に訪問する意向があるなどの報告を受けた。
「では、夕食時の忙しい時間に長い時間お邪魔してすみませんでした」
蔵木は諸々のやり取りを終えて玄関先で靴を履き終えると、ある面で吹っ切れた表情で見送る二人に深々と頭を下げた。
「こちらこそ、お忙しい中を娘のためにありがとうございました」
そう返してお辞儀を返す紀代に倣ってあかりも頭を下げる。
「あの、一つ、不躾なことを伺いますが、古川から柴田さんが記者であることを学校には伏せておくようにと言われているのですよ。正直申しまして、柴田さんご本人とお会いするまでは、ネタにするつもりなのかと疑ったんですが、古川にしてもお母さんにしても、そういう危機感は抱いておられないようですし、その……どういった、ご関係なのかな、と。あ、いや、僕が彼をどこまで信用して話していいのか、という参考にできる範囲で構わないんですよ」
よほど切り出しにくかったのだろう、長い前置きの後に問われたその問いに、紀代は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をして絶句してしまった。みるみるピンク色に染まってゆく頬が、やはり羨ましいくらいかわいらしい。
あかりが思わずくすりと笑うと、蔵木がほっとしたようにあかりへ視線を移した。
「お、今日初めて笑った顔を見せてくれたな。なんだ、僕にも教えてくれよ」
と言うので、紀代が「ちょっと、あかり」と止めに入ったが、それを無視して
「柴田さんは私の父になる予定の人です。なかなかまとまってくれなくて困っているんですけど」
とストレートに答えてやった。
「へ? ち、お、え、あ、じゃあ、つまり」
「あかり!」
「柴田さんは私が年頃の娘だから母が心配するだろうし、とか、差別や虐めをテーマに啓蒙的な記事の取材ばかりしているから安月給だ、って、母のヒモにしかなれそうにないから、もうプロポーズを口にする度胸もない、とか」
「ちょ、あなた先生にしゃべり過」
「母は母で亡くなった父に操立てをして柴田さんからのプロポーズを何度も断っているんですけど、全然徹底できてないですし。どっちも素直じゃなくてグジグジ面倒くさいカップルなんです」
「だ、黙りなさいっ! も、先生、すみませんホントお帰りくださって大丈夫」
「先生からも何か言ってやってください。娘の心配事を一つくらい減らしてやれ、とか」
「あかりぃーッ!」
「あっははは、そうか。それなら全幅の信頼を寄せても大丈夫なんだな。それに、二人は林田の元気の素でもあるようだ」
そう言われて紀代と互いに我に返り、示し合わせたわけでもないのに顔を見合わせてしまった。
「先生、からかわないでくださいね。いい年をしてお恥ずかしい」
紀代は照れ臭そうにあかりから視線を逸らせると、俯いてぼそりと蔵木に釘を刺した。
「からかいやしませんよ。林田が今どき珍しいくらい真面目で誠実な生徒な理由をようやく理解できた気がします。柴田さんには、お母さんがヒモ扱いしそうにないほどお慕いしているとお伝えしておきますね」
「お伝えしなくていいです!」
とうとう紀代が逃げ出した。この手の話題になると少女に戻ってしまう母がやはり少し羨ましい。
「素敵なお母さんだね。学校の面談や参観では見たこともない素顔だな」
「はい。自慢の母です。だから、困らせたり泣かせたりしたくなかったんですけど」
そう思うとまた笑みが引っ込んでしまう。蔵木はそんなあかりの肩をぽんと軽く叩くと、
「門まで送ってくれるかな?」
と、話を聞いてくれる素振りを見せた。
ゲストパーキングに来たのは、ユウと後味の悪い別れ方をした一週間ほど前以来だ。
蔵木はマイカーのキーを鞄から取り出しながら、まるであかりに気遣うように目を合わせないまま率直に尋ねて来た。
「実は、古川が田所に妙なこだわりを持っていると感じていたのでね。今日の結果報告に同伴するかと打診したんだが、どうも様子がおかしくて。結局断られたのだけれど、彼と喧嘩でもした?」
ユウの名を耳にしてドキリとする。蔵木は何を知っているのだろうかと不安になった。
「先生、ユウさんのことを“彼”と言ってくれるんですね」
「ああ……まあ、古川のおかげで性同一性障害を知る機会に恵まれたしね。僕の担当教科が倫理なのは知っての通りだ。自分が如何に上っ面な教鞭を取っていたかを思い知らされたけれど、そのおかげで今受け持つ生徒たちにリアルな苦悩を伝えて考えてもらうことができている。古川には感謝と申し訳なさで頭が上がらないよ」
ガシャ、と車のドアの開く音がした。気配でしか蔵木の行動が解らないのは、知らず俯いてしまっていたせいだ。
「彼のGIDに関連することで、そんなふうに俯いてしまうのかな?」
やんわりと優しい問い方だが、教師として元教え子と現教え子の双方を案じる心情が滲んでいる。
「……古川が今日同伴するのを断った理由がね」
――でも俺、こんなんだし、あかりちゃんにうっかりカムアウトしちゃったんで、気味悪いだろうと思うし、やめときます。
「え……」
あまりにもあまりな理由を耳にして、あかりの顔が勢いよく上がった。見上げればそこには苦笑を浮かべた蔵木の顔が自分を見つめている。
「やっぱりな。林田がそんなことでこれだけ君に尽力している古川にマイナスなイメージを持つとは思えなかったんだよ。彼はちょっと極端なところがあるからね。何事につけてもオール・オア・ナッシングだ。いくら説教しても頑固で困る」
どこかで聞いたフレーズだ。
(あ……黒崎さん……同じこと、言っていた……)
ダメ押しのように蔵木が続ける。とても愛情に満ちた声音で。
「古川は自分にとってどうでもいい存在に容赦がないからなあ。田所には強引に協力させるみたいな怖いことを言うから、待てをさせているんだ。その代わり、自分が一度信じた相手にはとことん尽くす。僕にとっては田所も大事な受け持ちの生徒だ。柴田さんや僕では、言いたいことも素直に君へ伝えられないんじゃないかと思うんだよ。古川にファジーを学ぶ機会という意味でも、田所が少しでもありのままの自分で君と話し合う場にするためにも、それから、何よりも君自身が安心して田所と対面できる状況にするためにも、そのときには古川を頼りにしてもらう、というのは、無理だろうか」
蔵木が、ずっと連絡を取れなかったユウとの間を繋いでくれると言う。
あかりの視界がじんわりと滲み、慌ててまた路面と向き合った。
「できるなら、そう、したいです。でも、私がユウさんを傷つけたから、私からそんなお願い、できません」
「傷つけた? どうしてそう思うのかな。彼はそんなことは何も匂わせていなかったけど」
「私が、ユウさんに甘え過ぎて、彼が一番口にしたくないことを、無理やり引き出して、言わせました」
「口にしたくないこと……何か、と聞いてはいけないのかな」
「それは……言えません。ユウさん自身が口にしたくなかったくらいのことなのに、言えません」
「そうか、そりゃそうだな。ごめん。じゃあ、僕から古川に林田の意向を伝えてもいいね?」
「……」
厚かましい。
お願いしたい。
矛盾した二つの気持ちがあかりの中でせめぎ合う。
「ちょっと、教師の看板を下ろそうかな。数少ない古川の友人としての見立てなのだけど」
――アイツ、君のことが好きなんだろう。そして君はそれを知っている。
「!」
「どうだ、当たりだろう」
蔵木は絶句して目をしばたたかせるあかりを見て噴き出すと、「おかあさんをからかった罰だ」と言ってカラカラと笑った。
「ま、煽るのは教師としてどうかと思うけれど、アイツはそうそう君のお母さんを泣かせるような野暮をするヤツじゃない。というか、できないヤツだから。それは君も充分解っているだろう?」
早く仲直りをしなさいと言われた。それも、とても優しくて温かな、心からのエールの気持ちをこめて。
「林田、本当にありがとう。古川の友人として、心から感謝しているよ。この一年ほどで、アイツは随分といい笑い方をするようになった。君のおかげだとも知らずにね。それだけに、現状と僕の愚鈍さを申し訳なく思う」
少しでも早くまた学校に来れるよう整えるから。
「古川と個人的に付き合うのは何かと大変なことも多いとは思うけれど、これからも、できればよろしくな」
蔵木は、あかりの身に余るほどの厚意を述べると、静かにマイカーに乗り込んだ。
「……」
蔵木を見送るうちに、どんどん心拍数が上がって来る。胸の内からこみ上げてくるものが、あかりの顔をくしゃりとゆがませる。
強く、もっと、ずっと、強くなりたい。
こんなにもたくさんの人から支えられている自分を好きになれるくらいに。
「……強く、なりたいよ……」
敵は、虐め相手ではなく、自分だ。自分の中にある、弱い心。自分の醜さと対峙することのできなかった弱さと向き合わなくては。
それは、誰かを憎んだり恨んだりしてはならないという偽善だったり、これだけ自分を律しているのだから赦して、という甘えだったり、八方美人な一面のある自分を認められない弱さを許さないことだったり。
「……京子の行ないを赦さないことと、京子を嫌うことは、別」
嫌われることを恐れないでやる。私は、悪くない。
「京子を憎むことと、憎み続けることも、別」
あかりは想いを言葉に置き換えた。少しだけ、身の内から滾るものを感じる。
「めげないもん。全部、諦めるのは、やめてやる」
あかりは声にして、誰にともなく宣言した。踵を返して自宅へ戻る、その足取りは軽やかだ。
さっさと夕飯や風呂を済ませ、とにかくユウと連絡を取ろうと思った。嫌われる覚悟で、最後まで足掻いてやる。そんな勢いは駆け足に表れ、気付けば階段を一段抜かしで駈け上っていた。
早くユウの言葉を見たかった。違う、声が聞きたかった。
「お母さん、ただいま。先生、無事に帰ったわ。急いで夕飯を作るね」
玄関先で靴を脱ぎながらも奥の部屋へ向かってそう告げるあかりの声は、とても大きくてはきはきとした、昔の口調に戻りつつあった。




