11. 依存する日々
その夜、あかりは紀代から逃げるように自室へ閉じこもった。紀代は何か言いたげな顔をしてあかりを目で追ったが、何も言わずにそっとしておいてくれた。
スマホが壊れてユウと連絡のつけようがない状況を、ある意味で不幸中の幸いだと思った。自分の気持ちばかりが優先されてしまって抑えられなかった。もしスマホが壊れていなかったら、ユウの気持ちも考えずにメッセージを送り続けていたかもしれない。弁解、自己弁護、そんな言葉にまみれたメッセージなど、ユウに一層幻滅されるだけだ。頭では解っているのに、気持ちがそれについていってくれなかった。
「……っ、……ぇ……」
あかりは声を殺して泣いた。これから先の毎日が怖くなった。何を支えにその日一日をやり過ごせばいいのか、SNSを通じて長い時間ユウに支えられて来たあかりは、今更別の方法を思い付けなくなっていた。
それはやはり、依存なのだろうか。
好き、と表現されるたくさんある種類の中の、ユウと合致する何かではないのだろうか。
そもそも、ユウは依存だと言い切った。ふわりと気持ちを浮き立たされて、その直後叩き落とされた。
意地やプライドがあかりを泣かせているのか、純粋にユウを想って悲しくなっているのか、あかり自身が解らなくて、ただぐちゃぐちゃになった負の感情が小さな子供のようにあかりを泣かせていた。
翌土曜日、紀代は急なことだったのに、休暇を取ってあかりを外へ連れ出した。二人で父と祖母の墓参りに行き、その足で久し振りに母方の親戚の家まで足を向けた。
紀代の兄に当たる伯父の妻は、紀代の学生時代に友人だった人だ。紀代は紀代なりにオーバー・フロー寸前だったのかもしれない。
「あかり、伯父さんたちに相談してもいいかな。お母さん、あかりの逃げ場所を確保しておきたいと思うの」
紀代の仕事は看護師だ。看護師という職種がどれだけ急な休みや長期休暇を取りづらいハードな職場環境なのか、あかりなりに心得ている。ましてや母子家庭、転職はまずあり得ない選択だ。紀代の年齢的な面でも、また紀代の生きる指針を考慮した上でも。母子ともに悔やむことになるのは火を見るより明らかだからこそ、母はそんな打診をしたのだろうと思った。
「うん……心配を掛けてばかりでごめんね。ありがとう」
あかりの承諾を聞いた紀代は、心からほっとした顔をした。それだけ負担を掛けているのだと思うと、本当は伯父や伯母、従兄弟にも知られたくはない、などというわがままは言えなかった。
伯父や伯母も、我が子のことのように憤慨して話を聞いてくれた。
「あかりも悪い意味で紀代に似ているからな。一人で頑張る必要のないところでまで頑張ろうとするから」
「そうよ。ここならあかりの通学区とは違うから、知り合いに会うこともないしね。啓太や博美には当然、私たちから話すなんてバカはしないわ。でも、あの子たち、あれでも一応あかりよりはちょっとだけ人生経験の多い子たちだから」
「そうだな。心細くなったり不安になったら、同世代だからこそ打ち明けられる部分もあるだろうし、あかりさえよければあの子たちを頼りにしてやってくれ」
「そうそう。特に博美は妹が欲しかったくらいだから、お姉さん気取りで親身になってくれるとは思うわよ」
「ありがとう、ございます。滅多に顔を出さないのに、こんなときばかりすみません」
伯父や伯母に感謝の気持ちはあるものの、それ以上に、一人では何も解決できない自分が情けなくて、とても恥ずかしかった。
紀代は週が明ける月曜日まで仕事を休んだ。そして学校へは病欠との連絡を入れ、蔵木と個人面談のアポイントを取っていた。事情を伏せた状態で、体調不良を理由にしばらく休ませる意向と、休学中に配布されるプリントや教材関連を自宅へ送って欲しいとお願いするためだ。
『蔵木先生には、療養中のあかりを親戚の家に預ける、ということにしておくから。お母さんの留守中の電話にも出なくていいからね』
学友に届けさせるのを制する対策としての、担任への直談判だった。
休学には診断書が必要だから、と、午後は紀代の勤務する総合病院のメンタルヘルス科を受診した。実際のところ心身症の傾向が出ているわけではないので、疑いという形での診断書になったが、ここでもやはりやむを得ず現状を話すことになった。だが医師はあくまでも医師であり、過剰な同情めいた心情を仄めかしたり、興味本位で仔細を尋ねて来たりすることはない。また、医師はあかりの十七歳と言う年齢も考慮したのか、紀代に診察室から出るよう言ってくれた。そのおかげで紀代の気持ちを考慮する気兼ねを感じることなく、医師に今の状況や、外に出るのが怖くて震えることや電話の音が怖いこと、一人でいるのが不安になる、どうやり過ごせばいいか、そんな不安を自然と口にすることができた。眠れないとき、不安があまりにも酷いときの頓服薬として安定剤を処方された。それがあるというだけで、とても安心している自分に驚いた。メンタルヘルス科の受診は初めてだが、想像していたより特殊な診療科ではないと実感した。あかりは将来就こうとしている仕事の道を考えた上でも、今回の受診はよい経験を得る機会になったと少しだけ前向きに受け止めることができた。
紀代が出勤した火曜日の午前中に、黒崎が訪ねて来た。慌てて玄関の扉を開けると、彼は申し訳なさそうに頭を掻きながら、
「ハニーちゃんの連絡先へ電話やメッセージを送っても返事がないから、なんだか心配になって」
と苦笑いを浮かべた。
「すみません。前のスマホを先週末に壊してしまったんです。お母さんから解らない電話は取らないよう言われているから、ということもあるんですけれど、それ以前に私自身が怖くって。うち、ナンバーディスプレイの契約をしていないから」
「あー、そっか。修理はどのくらい掛かるの?」
「えっと、日曜日に手続きをして来たときは、二、三日で直接自宅へ同機種の新品が届くから、と言われました」
「じゃあ、明後日か。その日、スマホが届いたら連絡をくれる? 俺のデータをハニーちゃんのスマホに移植しよう」
黒崎はそう言うと、見せたいところがある、と言ってあかりを外へ誘った。
連れていかれたのは、黒崎がボランティア活動をしているフリースクールだった。
「お母さんへ話す前に、まずはハニーちゃん自身が自分に合う場所かどうか、ハニーちゃん本人に見てもらうほうがいいかと思って。来年には受験が控えているのに学校へ行けない状況ってのは不安じゃないか? それに、誰かと過ごすほうが一人で家にこもっているより気分転換にもなるしね」
フリースクールへ向かう車中で黒崎にそう言われ、また泣きそうになった。それでもどうにか涙を堪えられたのは、相手がユウではないからだ。それを自覚すると、また鼻の奥がツンと痛くなった。
黒崎の紹介というフリーパスのおかげで、スクールの職員や利用者が快くあかりを受け容れてくれた。この夏の花火大会で初めて会ったポン少年もいた。
「あ、ハニーさんだ」
彼がそう言って嬉しそうに駆け寄ってくれた。それに釣られて彼より小さな子供たちまで集まって来た。
「ハニーさん? アキラくんはあかりさんをそう呼んでいるの?」
女性職員がにこにことポン少年――アキラの目線まで身を屈めて尋ねた。
「うん。クロちゃんお兄ちゃんの友達の友達で、ネットを通じて知り合ったんだよ。すっごい美味しいお弁当を作れる人」
そんな面白おかしい紹介に、黒崎や職員、あかりと年齢の近そうな利用者は笑い、アキラと同世代の子供たちは「いいなー」と彼を羨むような感想を漏らした。
「今日は突然来ちゃったから、次に遊びに来るときは作って来るね。先生たちにアレルギーのある子がいるようならダメなものを聞いておくから、楽しみにしていてね」
その日、フリースクールにいる間だけは少しだけ明るい気分で過ごすことができた。でも、やはりいるはずの人がいない、という穴は塞ぎ切れなかった。
(黒崎さんが一緒なら、彼の手前、顔を出すくらいはあるかな、と思ったのに)
結局、あかりがフリースクールで過ごしている時間のうちにユウが訪ねて来ることはなかった。
帰り道の車中で、黒崎からどきりとする誘いを受けた。
「ハニーちゃん、このあともう少し時間があるなら、ユウの見舞いに付き合ってもらえないかな。アイツってば、知恵熱で寝込んでんの」
そう言ってくつくつと笑う黒崎のその言葉から、やっとユウが顔を出さなかった理由を知った。彼の様子から大事に至っているわけではなさそうだとは判るものの。
「あの、知恵熱って」
「あ、そっか。ハニーちゃんはナース志望だから、知恵熱と言ったら本来の意味に受け取れちゃうのか」
そのとき初めて、ユウが寝込んでいることや、症状が倦怠感と熱だけでほかに苦しい状況ではなく、実家から彼の母親がアパートに赴いて大学のゼミへ行こうとする彼を止めるくらい元気ではあることを知らされた。
「まあ、そんなわけで今日は俺が代行でハニーちゃんの気分転換のお相手という役得をもらえたんだけどね。慣れないことをしたから知恵熱が出た、って本人が言っていたんだ。突っ込んだらスルーされちゃったんでどういう意味かは解らないんだけど、ちょっと笑い方が昔に戻っちゃってるふうに見えたから気になって。ハニーちゃんの顔を見たら、少しは元気が出るかなー、と思ったんだ。時間の方はイケるかな」
何も知らない様子の黒崎が、あかりのイエスを確信した口振りでもう一度問うて来る。だが、あかりはそれに答えられなかった。
「……」
いつも通りに振る舞わないと黒崎が怪訝に思うと解っているのに、その“いつも通り”がどうだったのかを思い出せない。あかりの視線が勝手に膝へ落ち、垂れた髪で顔を隠そうとする。
ぐるぐると頭の中で踊るのは、もしユウの部屋を訪ねたら浮かべるであろう彼の表情と冷たい言葉。
“へえ、どのツラ下げて来たかと思えば”
くすりと冷たい笑みを宿し、蔑む目で見下ろす顔。
“今は自分のことで精いっぱいでしょ。こっちの心配までする必要はないよ”
そう言ってあかりを連れて来た黒崎に御門違いな批判の目を向ける気がした。
「ハニーちゃん? どうした?」
「……行けません……ユウさん、余計に体調を、悪くしちゃうと、思うから」
ずっと歯を食いしばって押さえていたのに、黒崎に答えた途端、再び震えが歯をカタカタと鳴らさせた。はっとしてまた慌てて口を閉じるが、聡い黒崎がそれを見逃してくれるはずもなく。
「もしかして、ユウの知恵熱の原因って、ハニーちゃん?」
「……かも、しれないです。解らないけれど」
「何があったの、って、聞いたらダメなのかな」
黒崎の問い方は興味本位のそれではなく、ただの友人に対するものとは格段に違う、家族に近い情が滲んでいた。それはユウに対する気持ちだろうと思う。だからこそあかりは、ただただ俯いて無言を保つことしかできなかった。
「うー……ん。まあ、じゃあ、取り敢えずユウの方はおばさんがいるから大丈夫だろうし、飯でも食いに行こう?」
理性は黒崎の申し出を断れと強く訴えたが、あかりの中にある甘ったれな部分が顔を覗かせた。
「……はい。ありがとうございます」
紀代の帰っていない暗い自宅に独りぼっちでいるのが怖かった。
ユウがいつでも繋がってくれるから頑張れると思っていたのだ。だけど、そのユウとはもう会えない。
誰でもいいから黒崎、というわけではない。もっとずっと、狡くて小賢しくて汚い幼稚な策略だ。
(黒崎さんの言葉なら、伝言すれば、伝えてくれるかもしれない)
謝罪の言葉、お礼の言葉、そして、逢いたい、という気持ち――。
あかりの中に、プライドも意地も見栄も捨てて、そのためなら何にでも縋る勢いでユウを取り戻したがっている自分がいた。
てっきりファミレスかファーストフード店にでも行くのかと思ったのに、黒崎があかりに案内したのは個室のある居酒屋だった。
「あの、黒崎さん? 私は未成年だし、黒崎さんも運転しないといけないのに、いいんですか?」
座敷仕様の店先でためらいがちに靴を脱ぎながら遠回しに辞退を申し出てみたが、黒崎に
「うん、別に食うだけでも店は利用できるよ。オーダーを見れば飲んでないことが一目瞭然になるし。だから店の人が事前に運転する人ですよね、って俺に確認したでしょう?」
「あ、あれは、そういう意味で訊かれていたんですか」
「そういうこと。あかりちゃんは小さなころから母子家庭だと聞いていたから、こういう店は来たことがないだろうなあ、と思って。意外と家族連れも利用しているんだよ。個室だからチビっこが騒いでもあまりほかの客の迷惑にならなくて気楽、ということで」
「そうなんですか。知らなかった。確かに、こういうお店は初めてです」
そんな会話をしているうちに掘りごたつ席の一室に案内された。
黒崎が一通りの一品料理をオーダーし、あかりはオレンジジュース、黒崎はウーロン茶で乾杯をした。料理がすべてテーブルに並べられるまでは、今日のスクールでの印象を述べたり次のイベントの誘いを受けたり、といった無難な話で時間が過ぎていった。
「今回で二度目、なんだよね」
黒崎がイカの塩辛を摘まみながら、ぽつりと意味ありげに視線を逸らしてそう言った。
「え、チヂミが、ですか」
あかりはたった今話題にしていたチヂミを頬張りながら、てっきりそのことかと思い、思ったままを口にした。
「待って、さすがにそれはない。あかりちゃんの初めてなのに、自分が二度目なんて善し悪しの分別が付かないものを勧めたりはしないよ」
黒崎は少し空元気のような笑い方をしてあかりの言葉を軽く否定すると、「ユウが俺に隠し事をしたことがね」と付け加えた。
「……」
どう反応していいのか解らなくて、結果的に無言でチヂミを咀嚼し続ける。
「ユウってさ、元々アルトの声ではあったけど、あそこまでハスキーじゃなかったんだよね」
「そう、なんですか」
「中二の夏休みのとき、親が仕事で留守にしている昼間に家からビールを持ち出してさ、一人でカラオケボックスに行ってその酒を飲みながらシャウトしまくったらしい。それをほぼ一週間ぶっ通しで」
「そう言えば、中学高校のときは荒れていた、って、言っていました。そのことですか」
「かもね。バカだよなあ、すぐバレるのに。よく補導されなかったと思うよ。どうしても病院へ行くのを渋るから、って、おばさんが俺に説得を頼んで来てさ。そのとき初めて、声枯れの原因が夏風邪じゃなくて潰したからだって判ったんだ」
中学生とは言え、まだ精神的に幼かったユウは、黒崎に八つ当たりしたそうだ。
「“耕ちゃんばっかりズルい、なんで俺は耕ちゃんみたいになれないんだ”って。始めは、意味が解らなかった」
黒崎やユウの弟は何も文句を言われないのに、自分だけが「俺」と自分を称すると両親が小言を言う。
黒崎はパンツの制服なのに、自分だって感覚は黒崎と同じなのに、どうして自分だけスカートでなくてはいけないのか。
「いつまでも声変わりしない、体育の着替えが嫌だ、いっそ男みたいな見た目になれば、周りも認めてくれるんじゃないか、って、それで喉を潰そうと思ったらしい」
それが常軌を逸脱した発想だと気付かないくらい、当時のユウは思い詰めていたそうだ。
「でも、どうしてそこまで自分を追い込んでしまったのか、までは、最後まで口を割らなかったんだよな。ただ、多分ちょっと普通じゃない、という危機感を持っちゃったんで、俺が自分なりに調べてみたんだけど、そこは俺もまだ高校生のガキだったし、限度があってモタモタしていたんだよね。喉の件でアイツが自分を傷つけてから一年くらいしたころかな。受験生になって、そういう意味でも大変な時期だったんだと思う。また自傷みたいなことをして救急で運ばれて」
「自傷、って……自分を傷つけること、ですよね。リスカ、とか」
「うん。んー……ちょい、言いづらい話ではあるんだけど」
――ユウのヤツ、自分の胸が膨らんでいくことが気持ち悪過ぎて、切り落とそうとしたんだ。
「……え……?」
あかりの脳裏に古い記憶が蘇る。
『あかりと三つしか違わない子なのよ』
『私が性同一性障害について学んでいたら、もっと適切な接し方ができていたかもしれないのに』
『勘違いしちゃいけないよ。紀代、あなたはその子の親でもなければ友達でもない』
『でも、私がちゃんと男の子として接していたら、胸を果物ナイフで切り落とそうなんて』
苦しげに眉根を寄せる祖母の顔と、子供のように祖母へ取り縋って泣きじゃくる紀代の後ろ姿を思い出した。
「あ、の」
喉が、カラカラだ。それはチヂミの塩辛さから感じるものではなかった。
あかりはどくどくと高まり始めた心臓と気持ちを落ち着けようと、オレンジジュースを立て続けに口に含んで飲み下した。
「そのとき、入院した病院って、どこですか」
黒崎は一瞬きょとんとした表情になったが、記憶の糸を辿るような遠い目をしたあと、
「ええと、隣の市の救急指定の、なんとか中央なんとか、総合病院だったと思う。あかりちゃんなら知っているかな。俺は病院と縁がないからその程度にしか覚えていないけど」
(F崎中央厚生病院だ……お母さんが勤めている、ところ)
思い掛けない接点に、特別な何かを感じた。
「あの、その後、ユウさんは、無事退院したと言うことですよね。当時、看護師さんのこと、何か恨み言とか、言っていませんでしたか?」
「え? 恨み言? っていうか、え? どういうこと?」
「多分ですけど、救急で運ばれて病棟へ移ったとき、担当した看護師は母だったんじゃないかと思うんです」
「……え、うそ」
「私が六年生の秋でした。母が夜中に帰って来て――」
あかりは当時見聞きした祖母と紀代の会話を黒崎に伝えた。黒崎はあかりに「ユウから聞いたことはないんだよね?」「お母さんが看護拒否したわけじゃなかったんだ」などいくつか尋ねたあと、しばらく考え込むように腕組みをして押し黙った。
「それ、ユウには内緒にしておこう。多分それ、間違いなくハニーちゃんのお母さんだ。あの人にも八つ当たりをした、って、落ち着いてからすごく後悔していた」
ユウが病室で二度目の自傷に至った引き金は、紀代が言った「お母さんが命懸けで産んでくれた身体なのだから、粗末にしたらお母さんが悲しむわよ。同じ母親としてお母さんの辛さを考えてしまう」という言葉だったらしい。
「たった二日で一気に白髪が増えて目の下がくまで真っ黒になってしまったおばさんを見て、初めて入院当時の看護師さんが言った言葉を実感したらしくてね。それまでは自分の辛さにしか気が行ってなくて、解りもしない奴が偉そうに説教するな、と……まんま、それを看護師さんにぶつけちゃったらしいんだ」
そう言って苦笑する黒崎の目は、「もう終わった話だから」と告げていた。
「その看護師さんへの罪悪感が、ユウをこっち側に戻してくれたと思うんだ。それはアイツも自覚しているんだと思う。その看護師さんを病棟で見掛けなくなってからすごく気にして、ステーションへ聞きに行ったら、たまたま異動になっただけだから、と言われた、って当時は言っていた。“俺のせいかな”って随分と気にしていてね。それから自傷はしなくなったんだ。胸の傷もあの声もなかったことにはできないけれど、あれが自戒になっている感じ」
「そう、だったんですか……でも、精神的に参っていたユウさんはともかく、どうして母ほどのベテラン看護師が今のユウさんを見てそうと気付かなかったんだろう。そんな鈍い人じゃないはずなのに」
「ああ、だって当時はまだ二次性徴が見られ始めたばかりの子供顔だったから、見た目は今以上に普通の女の子だったよ。だから無理もないと思う」
女の子そのものなユウの姿。あかりにはユウのそれがイメージできなかった。どこか中性的で、でも少し男性寄りの表情をする、という印象の人。さばさばとした爽やかな笑い方をする、優しい垂れ目の……“男の人”だ。
「お母さん、もしかして、今でも気にしているの?」
と問われ、あかりは自分の思考から我に返った。
「あ、はい。それ以来、今はICU担当なんですけれど、そちらの勉強と同時にメンタルケア関連の勉強も独学でし続けています。患者を追い詰める看護師なんてあってはならない、って」
「そか。お母さんには、伝えてもらえる? ユウにはナイショだけど、って条件付で」
「はい。ありがとうございます。ユウさんは知らないほうがいいんですね」
「うん。自分を律する原動力になっているのは、ハニーちゃんのお母さんへの罪滅ぼし、といったところだから」
「……ホントに、自分のことより人のことばかり考えちゃう人ですね……」
「まあね、臆病者になっちゃったから。そもそもあんなバカをやらかした原因が、初めて恋愛という意味で意識したのが女の子だった、という事実に自分でショックを受けたみたいで。その子は虐めには加担しなかったけれど、ユウを気味悪がって傍観者に徹していたから、嫌われることにものすごい恐怖感を持つようになっちゃったんだよね。万人に好かれようなんて土台無理な話なのに」
「でも……解る気は、します。敵意を向けられるだけでも自分の存在を疑わしく感じてしまうのに、それ以上にあれもこれも、とか。もし私が同じ境遇に立っていたら、あんな風に優しく人に笑い掛けることなんてできない気がします」
「……俺は理解するのに、数年は掛かったなあ。ハニーちゃんほどユウに共感してくれる子はいないのに、どうして君が見舞うと“ユウさんが余計に体調を悪くしちゃう”と思ったの?」
「!」
唐突に車中での会話を蒸し返され、思わず視線が黒崎に向かう。
「ユウは俺にとって、弟みたいなものなんだ。俺、一人っ子だから、すごくアイツが大事なんだよね。またアイツのあんな姿を見るのは辛いんだ。あのバカは隠すだけ隠して、少しずつ内側から壊れていくヤツだから、外面を取り繕えているうちになんとかしてやらないと、怖い。自分が勝手にコンプレックスに陥っているだけのくせに、GIDのせいにするんじゃない、って何回説教しても解ってくれなくて、正直、ちょっと、キツい」
頬杖をついて柔らかく笑んでいる黒崎は、口調こそ穏やかで、あかりに何かしらを強制する圧迫感もなかったが。
「もしあかりちゃんも俺に近い受け容れ方をしてくれているのなら、ちょっとだけ協力してくれると助かるんだけどなあ」
(情報交換しなさい、という、こと?)
目を逸らすことさえ許さない黒崎の強い瞳が、あかりにそう思わせた。
かなりの時間と、相当の羞恥と、あらん限りの勇気を振り絞って、週末の夜、駐車場でユウと交わしたやり取りを黒崎に話した。
「それは……なかなか……ハニーちゃんもユウに負けず劣らず自分のことには鈍感だね」
それが黒崎の第一声だった。ほとほと呆れたような苦笑を零し、でも大切な弟分を傷つけたことに対してはそれほど怒ってはいないように見えた。
「……すみません……私が、甘え過ぎました。依存、と言われて、初めて自分で思っていた以上にユウさんへ寄り掛かっていた、みたいで」
「っていうかさあ、依存の何が悪いんだろう。恋愛もある意味で依存関係でしょ」
「へ?」
あかりにとってはあり得ない軽さで、笑いさえ交えて黒崎がそう言うから、変な疑問符が口を突いて出た。
「俺、中学のときから付き合っている彼女がいるんだ。で、その子が広汎性発達障害なんだけどさ。ずっとみんなから“グズ”ってバカにされていて、可哀想だからってフォローしているうちに、なんとなくお互いに、まあ、そうなったんだけど。例えばこの間の花火大会のとき、本当は彼女も一緒に行く約束をしていたんだ。でもね、彼女は自分のことに夢中になると、約束をすっぽかしちゃうくらい集中しちゃう。すっごい腹立つんだけどね、だけど、本当にしょんぼりとして、今にも泣きそうな顔をして、“またやっちゃった、ごめんね”とか、言うわけよ。泣くもんか、って必死で堪えてるのが解っちゃったりすると、全部萎えちゃうの。“気にすんな”って言っちゃうんだよね。すっぽかされたムカつく気持ちも、コイツ将来どこでも都合よく使われるんじゃないかって不安も、ぜーんぶ、“ま、俺がなんとかすればいっかー”みたいな」
黒崎はそう言って、その大切な彼女を思い出したのか、心から可笑しそうにくつくつと笑った。
「でもね、俺がそうやって上目線な物言いをすると怒るんだ。“私だって耕ちゃんの役に立てるときも、たまにだけど、あるんだから”って、ムキになるの。言われて初めて気付くんだよね。ボラ活動で心無い人が知的障害の子を指差してひそひそ話しているのを見た瞬間イラっとしていると、さりげなくその知的障害の子に近寄って行って、そのウザいおっさんたちから遠くへ引き離していってくれる、とか。俺が今すべきことはムカつくことじゃなくて、その子の心を守ることだったんだよな、なんて気付かされたりするんだ。彼女も心無い人の言葉でたくさん傷ついているから、そういうところは目端が利くんだよね。俺が一方的に彼女の負担を背負っているわけでもないし、彼女が俺の拙い部分をフォローしてばかりでもない。お互いにそれを負い目だとは思ってないんだよねえ」
一聞すればノロケにしか聞こえないその話だが、黒崎が何を伝えたいのかは、充分過ぎるほどに理解できた。
「依存にも、いろいろあるんですね。言い方、とか」
「俺の持論だけどね。依存ってネガティブなイメージがあるけれど、要は支え合いでしょ?」
「はい」
少しだけ、ほんの少しだけではあるけれど、気持ちが楽になる。
あかりは氷のすっかり融けたオレンジジュースを口に含んだ。さっきまで味などあまり解らなかったのに、今は酸味がほどよく喉を刺激する生ジュースだと判る。その程度には、気持ちの余裕が生まれた。
「スマホ、早ければ明後日には返って来る、って言っていたよね?」
黒崎がヒントのように問う形でアドバイスをくれる。
「はい。届いたら、少しでも早く連絡先のデータを移させてもらいたいので、黒崎さんの連絡先をもう一度教えてもらっておいてもいいですか?」
「もちろん。明後日は予定を開けておく。そのときに今度こそ彼女も紹介するよ」
「ありがとうございます。楽しみにしています。でも、あんまり羨ましがらせないでくださいね?」
「どうかなあ。ハニーちゃんがじっとしていられないくらいには、イチャコラしてやろうかなあ」
「黒崎さんのそういうところ、きっとユウさんに影響していますね」
「そういうところ?」
「優しい顔して意地悪言うところ」
「げ」
お互いに笑う余裕ができた。そんな自分にほっとする。それは黒崎も同じだったようで、「じゃ、そろそろ帰ろうか。お母さんが心配するよね」と、お開きの宣言をした。
それから二日後にスマホが手元に戻り、連絡先の一覧も取り敢えずはほぼ元通りになった。だが、もうユウと交わしたやり取りは二度と眺め直すことはできない。
(悔やんでも、もう手遅れだよね。せめて無駄な経験にはしないようにしよう)
あかりは「そのうち」などと後回しにせず、その場で都度バックアップを取るようにした。
だが、ふと不安になる。
スマホのバックアップはできるけれど、人との繋がりにバックアップ機能は、ない。
「……」
再び手に入れることができたユウの電話番号を見つめているうちに、その文字がぼやけて見えなくなった。




