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第八十四話 再会 2


 ハスィーブから戻ったマコトは、時間より少し早目にやってきたカイスと夕食を取り、来客を迎えた。その間思い浮かぶのはサハルの表情だったり、言葉だったりで、うわの空のままで返事をしていた様に思える。客が帰った後もそんな調子でぼんやりとしていたマコトに、カイスは申し訳無さそうな顔をして、


『客続いてんもんなぁ……明日の朝はなんとかするから、ゆっくり休めよ』


 と、言ってくれた。はっと我に返り、大丈夫だと首を振ろうとしたが、マコトは少し考えて素直に頷く事にした。ナスルにもお礼を言わなければならないし、……サハルに対する気持ちを誰かに相談したかった。すぐに思い付いたのは同じ『イール・ダール』であるイブキ。サラでもいいが、逆に自分に近すぎてどうにも照れが入るだろう。年上の、 同じ立場であるイブキならきっと話しやすいに違いない。


(予定空いてるかな……?)


 基本的に来客の類は体調不良でシャットアウトしているから、いつでも訪ねて来て欲しい、とイブキは言ってくていた。しかしマコトの方が来客に追われ、部屋は隣同士だと言うのに、長老との会談以来顔すら合わせておらず王との謁見の場で久しぶりに顔を合わせたのだった。


(いつでも来てって言われたけど……つわりで体調悪い日もあるだろうし、サラさんに頼んで予定を聞いてきて貰った方がいいよね)


 祭りも三日後に控え、多忙を極めるカイスは、マコトに別れの挨拶をすると、慌ただしく部屋を出ていった。それからすぐに夕食を取り湯浴みを済ませたマコトは、ソファで膝を抱えながら小さな窓から見れる空を見ていた。


『今日も星が綺麗ですよ』


 落ち着いた低く穏やかな声が蘇って、マコトは、抱えた膝に顔を埋める。


「……ちゃんと見たいなぁ」


 サラは祭りの衣装の打ち合わせ中で、席を外している。迷子になって以来、サラが側にいない時は代わりに別の女官が控える事になっており、今もサラより少し年嵩の大人しそうな女官が別の部屋で待機していた。


「あの、少し外に出てもいいですか」


 寝具を整えていたらしい女官は、愛想良く笑って頷き、部屋から出ると、外にいるであろう護衛に何か二言、三言言って、マコトに頷いて見せた。


「どちらへ」


 そこにいたのは、当然ながらナスルである。左手に巻かれた真新しい包帯につい視線が向かうと、ナスルは、それを追い掛けて小さく呟いた。


「……この程度の火傷は、魔法では癒す程のものではありません。気になるなら包帯を外しますが」


 包帯を覆う様に右手で掴んで見せたナスルに、マコトは慌てて首を振る。

 せっかくの治療を無駄にする訳にはいかない。


(でもちゃんと行ってくれて良かった)


 心の中でほっと胸を撫で下ろして、マコトはナスルを見上げた。幾分気持ちも軽くなった気がする。


「どこへ行くつもりですか」


 丁寧ながらも愛想の無い言葉に、微かな苛立ちが交じっている気がして、少し怯む。やはり夜の散歩は警備に良くないのだろうか、と、不安になったが、どうしてもマコトは星空が見たかった。少し 迷いながらマコトにしては珍しくはっきりと口を開いた。


「――星を見たくて」


 この世界に来て一番初めに心を動かされたのが、満天の星空だった。それは異世界に来た現実を穏やかに知らしめてくれたものだ。また見たい、と何かの拍子 に話した自分の言葉をサハルが覚えていてくれた事が嬉しかった。


(……それに、多分ナスルさん付いて来てくれるだろうし……ちゃんと、お礼言えたらいいな)


「星ですか」


 どこか呆れた様な口調で、ナスルが反芻する。


「あの、近くでいいんです。今日は星が綺麗だって聞いて」


 その言葉にナスルは小窓から空を仰ぎ、ああ、と頷く。今日は風も無い静かな夜だ。マコトに視線を戻すと、何か考える様にナスルの目が二、三度瞬いた。ややあってから。


「心当たりはありますか」

「え? ……いえ、特に」


 一瞬何の事だが分からなかったマコトは、首を傾げかけた。もしかして星が見える場所、と言う事だろうか。


「ついて来て下さい」


 そう言ってナスルは会話を切り上げると、マコトに背を向け、案内するように歩き出した。

 当然ながらマコトは王宮に明るくない。願っても無い申し出にマコトは、その後を小走りで追い掛けたのだった。





* * *




 離宮から離れて緑の多い整備された小道を抜けると、ナスルはマコトが想像していたような高い建物に向かわず、緑の繁った場所を抜け、大きく拓けた場所に出た。離宮からマコトの足で五分。思っていたよりも近く、これなら一人でも来れるかもしれない、と思う。何か覚える為の目印でも無いか、と周囲を見渡し、違和感に首を傾げた。


(あれ……ここ……)


 タイスィールが王に会わせる為に、連れて来てくれた場所に似ている。……いや、目を凝らせば少し先に東屋が見えるのできっと間違いない。前はすっかり日も落ち辺りは闇で、緑が生い茂った場所や建物の裏を通っていたので気づかなかったが、確かにここは大きく拓けていて絶好の観測地だった。


 しかし、あの時タイスィールと一緒に歩いた時は、もっと道順は複雑で時間が掛かったが、今日は五分と少しと言う所か。一体どういう事かと首を傾げて、ああ、と納得する。


(前は人目を避けてたって事だ……)


 今更ながら気付いて納得する。王と面会しようとすれば、きっと面倒な手続きがいるのだろう。だからタイスィールは、遠回りし人目の無い道を通ったに違いない。マコトとしても昨日の様な衆人監視の中で話すよりも、静かな場所で落ち着いて話したい。


「あの東屋の後ろから上に登れる様になっています。昔、兄に教えて貰いました」


 足を動かしたまま、それまで黙っていたナスルが前を向いたままぽつりと呟く。

 その声音は音の無い静かな夜だったせいもあっただろう、小さな声だったにも関わらず穏やかにマコトの耳に響いた。


(ナスルさん……)


 目の前にあるナスルの広い背中。手を伸ばせば、きっと触れる事が出来る距離。

 ふと、まだ幼いナスルがスェに手を引かれ星を見上げる姿が脳裏に浮かぶ。ナスルが、『昔』と言う位だから、恐らくスェが姿を消した十年以上前の事だろう。……星と聞いてすぐ思い付く位の、きっと大事な思い出の場所だった筈で、気まぐれにせよ、大して意味が無かったとしても、その気持ちが嬉しい。


 二人共、口を閉ざしたまま、東屋の入口を通り過ぎ、裏に回る。以前と同じ薄く膜が張ったような乳白色の結界で覆われており、ちらりと伺った中には誰もいなかった。が、ナスルは上からぶら下がった縄梯子の前でぴたりと足を止めた。


「誰かいるのか」


 警戒心を含んだ鋭い声に、マコトは驚いて頭上を見上げる。視線で後ろに下がる様に指示され、マコトが慌てて後ろに下がったその時、夜の闇にも輝くほど白い手が視界に映り、次いでひょいっと顔を出したのは、――意外な人物だった。


「王!」


 驚きに見開いたマコトに微笑み、王は覗き込むように体を乗り出し二人を見下ろした。


「ナスルか。それに『イール・ダール』まで」


 珍しく表情に出して驚いているナスルとは正反対に、王は涼し気な顔を出してそれぞれの顔を交互に見た。


「今宵は良い月だ。……二人の逢瀬を邪魔してしまったな」


 歌う様に長い袖を翻し、からかう口調でそう言った王に、ナスルは、はっと居住まいを正し、その様な事はありません、と少々憮然として呟いた。


「またお一人で散歩ですか。護衛はどうなさったんです」


 怒鳴りたいのを無理矢理抑える様な掠れた声は、相当憤っているのかもしれない。マコトが一人で迷子になった時も、あれほど騒がれたのだ。王が護衛を置いて行方知れずとなれば、大騒動になるだろう。


「タイスィールが非番でな。これ幸いと抜け出したのだが、まさかナスルに見つかるとは思わなかった」


 王は悪びれず様子も無く、一人で納得した様に、ふむ、と頷くと、すっと頭を引っ込めた。どんなにナスルが呼び掛けても、返事は無く、大きく吐き出された溜め息に、ナスルの苛立ちを感じた。


(抜け出して来たんだ……みんな探してるんだろうなぁ)


 会話から察するに、王の脱走は頻繁な様だ。ナスルを含め護衛である親衛隊は苦労しているに違いない。


(でも王様って、ストレス溜まりそう)


 たまの息抜きなら、許してあげてもいいのでは、と思うがやはり護衛の立場から見れば言語道断なのだろう。


 反応の無い王に、ナスルは梯子の一番下に足を掛け、掴むとマコトの方に振り返った。


「どうぞ。抱えます」


 手を差し出されて、マコトは一瞬固まる。もしかして、自分を抱っこして運んでくれるつもりなのだろうか。


「……一人で大丈夫です、よ?」


 さすがにそれは、と、首を振ると、ナスルは、距離を確かめる様に一度上を見てから、マコトを見つめ静かに口を開いた。


「分かりました。では上から引っ張ります」


 そう言うと、危な気無く何段か縄を抜かし、あっと言う間に駆け上がった。


(そんなに鈍くさく見えるのかな……)


 王と話をしているのだろう、頭上に見えるナスルの背中を見て、そう思う。運動神経は至って普通だと思っているし、学校での成績も五段階での三か四だった。


 ちょっと納得いかない気持ちで、マコトはナスルに続くべく、梯子の縄をしっかりと握り、右脚を掛ける。よいしょ、と心の中で気合いを入れて体重を乗せるとぐらりと大きく爪先が東屋の方へ傾いた。


(わ、……意外に難しい。縄梯子って普通の梯子とは違うんだ)


 バランスを取りながら慎重に上るが、どうしても足に力が入るせいで身体が大きく傾く。その結果腕に余分な力が掛かり、結構……いや、かなり苦戦した。


「高い所から降りられない子猫の様だな」


 上から降ってきた言葉に、顔を上げれば、王が心配そうに身を乗り出し、自分を見つめていた。隣に並ぶナスルも表情には出さないが地面から半端に浮いた手が、いつでも伸ばせる様になっている事を知らしめた。


(み、見ないで欲しい……)


 不格好であるだろう自分を想像して、マコトは顔が熱くなるのを感じた。一段一段慎重に登る。久しぶりに筋肉を使ったせいか、腕がぷるぷる震えている気がする。


「あと三段……っ」


 自分を励ます為に、そう呟いたその時、ふいに名前を呼ばれた。再び顔を上げて、ぎょっとする。ナスルの顔が息が触れる程すぐ近くにあったのだ。


「え……ぁ、わっ」


 そのまま伸びた手が脇に差し入れられ抱え上げられたマコトの両足は屋根の上とは思えない程、しっかりした床に着地した。


「有難うございます」


 スカートの裾はさほど長くなく、集落でとは違ってズボンも穿いていない。確かにあのまま登れば、最後は屋根に膝を掛けて上がらなくてはならず、二人の前であられもなく太ももを晒していただろう。


 ナスルに礼を言って、マコトは、改めてきちんと挨拶すべきだろう王に向き直った。


「何と言うのだろう。乳飲み子が初めて歩く瞬間を見守る親の心地を味合わせて貰った」


 妙に感慨深く頷かれて、マコトは何とも情けなくなった。……それほど、覚束なかったのだろうか。言い訳になるが、マコトは縄梯子なんて登った事も無かったのだし、そもそも縄梯子を動かさずに駆け上がっていく ナスルの運動神経の方がおかしいのだ。そう自分を慰めていると、ポンポンと、王は自分が座る傍らを二度叩いて、マコトに向かって微笑んだ。隣に座っても良い、と言う申し出だろうか。


 ちらりと横を伺うと、ナスルは微かに片眉を上げて、憮然とした口調で呟いた。


「どうして私を見るんです」

 ……馴れ馴れしくしたら怒られそうな気がして。


(とか言ったらさすがに失礼よね……)


 曖昧に笑って誤魔化す事にしたマコトは、ナスルの視線から逃れその言葉に甘えて王の隣に座った。

 そもそもさほど広くも無い場所に、マコトが座れる場所はそこしか無かった。


「おや、ナスルそれはどうした?」


 ふいに王がナスルの包帯を指さし、マコトはぎくりとする。何でも……おそらく、ありません、と続くであろう言葉を、マコトは「自分のせいなんです」と、強い口調で遮った。そんなマコトにナスルは、微かな戸惑いを見せて黙り込む。


 そんな二人を、どこか面白そうに見ていた王は、何かに気付いた様に小さく声を上げ手を打った。


「庇い合う、とは随分仲良くなった事だ。――うむ。ではどうだ。お互いそれで『おあいこ』と言うのは」

「……おあいこ、ですか?」


 話が見えず反芻したマコトに、王は頷いて見せる。


「ナスルの意地悪とその怪我だ」


 その言葉にそれまで黙っていたナスルが、一瞬目を瞠って王を見た。そんなナスルに王は苦笑する、が、思考の波に沈んでいるマコトは気づかなかった。


(おあいこ……そんなので良いのかな……?)


 マコトはナスルの真新しい包帯を見つめて迷う。願っても無い事だが、実際に痛い想いをしただろうナスルは、果たしてそれで良いのだろうか。


「ナスルさんは……いいですか?」


 傲慢ながらも、頷いてくれたらいい、と、願いながらそう尋ねたマコトにナスルは、やや迷った様に間を置き、ゆっくりと口を開いた。


「――では私も勝手を申します。前言を撤回させて下さい。……私を、許して頂けますか」


 思いがけない言葉にマコトは目を瞬かせナスルを見た。その表情は いつもと変わらない様にも、少し固くなっているようにも見えた。


 あの時集落で。――許さないで下さい、とナスルはそう言った。一体彼に何があったのか。


「謝罪を受け入れて……お許し頂けますか『イール・ダール』。――貴女を試した。申し訳ありませんでした」


 一体どんな心境の変化か、ナスルの意図が掴めないままだったが、マコトはナスルの気が変わらない内にと、勢いよく何度も頷く。――ずっと仲直りがしたかったのだ。まさか、こんなに早くにどうにかなるとは思わなかった。一気に肩が軽くなった気がして、嬉しさに顔が弛んだ。そして一人立ったままのナスルを見上げて、口を開いた。


「私も。あの、謝ってばかりでお礼言ってませんでした。鈴を取ってくれて有難うございました」


 ナスルはそんなマコトの顔をまじまじと見つめて、一瞬口を開きかけた、が、すぐに閉じた。しかし何か言いた気な眼差しにマコトは不安になって伺い見ると、ナスルはふいっと顔を逸らせた。


「……いえ」


 二人の脇で堪えるような忍び笑いが漏れた。マコトが顔を向けると、 マコトから影になっている角度でナスルを見ていた王は、口元に手を置き、くすくすと笑っている。

 ……今のやりとりで何か面白い事でもあったのだろうか、と首を傾げていると、ナスルが苦虫を噛み潰したような顔で「――王」と嗜めるように呟いた。


「若人は良い。そう思っただけだ」


 王はそう言うと、笑いを引っ込めて、マコトを見た。


「『イール・ダール』は、星を見に来たのだろう?」


 ナスルのどこか恨めし気な視線を感じ取ったのか、王は突然話題を変えた。とりあえずよく分らないが、マコトもそれに乗り、頷く。


「それにしても、ここ登れる様になってるなんて、気付きませんでした」

「ああ、梯子も土台も後付けだ。……危ないと言うのに柱からよじ登りおった娘がいてな、ここから見る星空が一番好きなのだと言っていくら注意しても聞かなかった」

「娘?」


 聞き返したマコトの言葉に、王は返事の代わりに穏やかに微笑んで頷いた。

 わざわざその人の為だけに土台と梯子をつけた。怪我をさせたくない程に大事な人だったのだろう。王は優しい、けれどどこか寂し気な笑みで、マコトもそれ以上は問わず、星空に視線を戻した。


 降り注ぐような数多の星は、終わりの無い世界を現している様で。足場が高いせいか、あの時見た空よりも広く、怖いほどだった。それでも目を逸らせない美しい夜空。


「……ああ、でも本当に綺麗ですね」


 いくら注意されてもよじ登った誰かの気持ちが分かる程に。


「そうだろう」


 王は宝物を自慢する子供の様に得意気に笑って、同じように星空を仰いだ。


 長い間潜めた想いは深く沈殿して、静かに少しずつ周囲を滲ませていく。悪意もまた同じなのだと気付く瞬間は、マコトのすぐ近くまで来ていた。






* * *








 悪い夢を見ているのかと思った。


 王のお気に入りの小さな庭にいたのは、王と、赤い髪の男と、黒い髪の少女。

 あの時と寸分違わぬ姿。星空に溶け込むような影が三つ。

 王と『イール・ダール』と親衛隊長と。


『ザキ』

『カナ』


『――アドル』


 仲良くお互いの名前を呼び合って、顔を寄せ合い笑う。

 黒髪の女の、その場所にいなければならないのは自分なのに。



 なぜ。


 なぜ。



 切り取った筈の光景は、ラナディアが一番憎んだ過去。


 悪夢では無く現実に『そこ』にはあった。


「――ッどうして……っどうして!」

「落ち着いて下さい! ラナディア様!」



 どうしてどうしてどうして


 あの子がここにいるの。

 あの子がいたら王はわたくしを見ない。


 ざわり、と風が揺れる。



 視界を覆ったのは自分の黒い髪。鏡で見るのも大嫌いなその髪色は、がんじがらめに自分を戒め、息が出来ない程に堅く縛るもの。



 ――その隙間から笑うあの子の顔が見えた。






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