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第八十三話 途切れた音 2(ナスル視点)

 半歩前を歩くマコトとナスルの姿は、王都に来てからは見慣れた光景だった。


 しかしいつも、サラがマコトに話し掛けるので、こんな風に静まり返ったまま歩くと言う事は少ない。微かに聞こえる広間の喧騒以外は物音も無く、普段歩いている女官の姿も無く――静か、だった。


 しかし違和感を感じ、ナスルはマコトの肩越しに周囲を伺いながら、その答えを探るべく思考を巡らせていた。


「この辺りですよね」


 広間の喧騒が微かに届く。中庭に足を踏み入れたマコトが、振り返った拍子にその違和感が一気に膨らみ、そして気付いた。


 ――音。


 マコトが歩く度に微かに耳に届いていた鈴の音。最初は確かに耳障りだと感じていたのに、ころころと鈴が擦れ合う小さな音は幼気な少女にぴったりと合っていて、いつの間にかそれが彼女の足音だと認識する程に慣れてしまっていた。


 落とし物とは、おそらく『それ』なのだろう。確信を込めてナスルは口を開いた。


「鈴で宜しいですか」


 ナスルの言葉に、マコトは、あ、と小さく声を上げ口を押さえた。


「すいません。言ってませんでしたね。猫の形をした鈴なんです。二匹くっついていて。……あれ、でもどうして」

「……いつも鈴の音が」


 当然ながら首を傾げたマコトに、少し間を開けてナスルは短く伝えた。


「ああ! そうなんですか。凄い、ですね。私でも聞こえない事多かったのに」

「こちらでお待ち下さい」


 感心した様に大きく目を瞬いたマコトに、ナスルはふい、と視線を切り庭の一角にある椅子を勧めた。視線を追いかけたマコトは少し困った様に眉を寄せ、首を振った。


「私も探します」


 むしろ申し訳なさそうに、眉尻を下げたマコトに、ちりっとナスルの腹の奥に苛立ちが生まれる。自分は、彼女の護衛でもあり、『命令』を受け遂行する事が仕事である。こうして何か頼む事に、そんな顔で自分を見る必要なんて無いのに。


 どう言えば伝わるかと、無言のままじっと見下ろせば、零れそうな程大きな瞳が揺れて密に生え揃った綺麗な睫毛が何度か瞬く。

 喉の奥から奇妙な音が鳴り、ナスルはそれを誤魔化す様に口を開いた。


「分かりました。私はこちらを探します」

「はい!」


 嬉しそうにマコトの表情が緩む。それを苦々しく思いながら、ナスルはその場から少し離れて砂と緑が混じった地面に視線を落とした。




* * *




 それからほどなくして太陽は傾き始め、僅かばかりの橙を蒼い夜が浸食を始めた。短く呪文を唱え手の平に明かりを灯す。


 腰を上げて少し離れた場所にいるマコトの様子を伺えば、始めた時と同様中腰で、熱心に地面を見つめていた。その横顔は真剣そのもので、耳に掛けた肩まである黒い髪が一筋柔らかそうな頬に掛かる。その必死さによほど大事なものらしい事が分かった。


 ――『謝れよ』


 兄の言葉が追い立てるように響く。


 突然のお茶の誘いはナスルにとっては、都合の良い申し出だった。


 兄のおかげで、ようやく自分の心の裡が少しずつ整理されていく。謝罪する自分の変わり身の早さを、今更な謝罪を少女は笑うだろうか。それでも良いと覚悟してきた筈だったが、その時を引き伸ばすような降って沸いた失せ物探しに、少なからずほっとしたのは事実だった。


「仕事が終われば」と、不意に見る事になった笑顔に時が止まった。ああ、これが見たかったのかと、想ったのと同時に、奇妙な居心地の悪さを感じ、その場から逃げる様に離れた。あの時の自分の感情は不可解で、未だによく分からない。


「少し剥げた白い猫の鈴なんです。もう一つは木の人形で」


 小さな人形――本来なら十八である彼女が持つ小物としては些か幼い。それに彼女は何となくあまり物には固執しない種類の人間だと思っていたので、ナスルはこうも必死で探すマコトを意外に感じていた。


 背中を向けたマコトが中腰の不安定な体勢のまま近付いてくる。その後ろに突き出た石を見つけ、ナスルは音も無く駆け寄ると腕を取って引き寄せた。


 あっさりと胸に倒れ込んできたマコトの軽さと柔らかさに、込み上げたのは罪悪感と眩暈。


「わっ、……あ」


 目を白黒させていたマコトは、すぐに身体を起こし、振り返って元の場所に視線を落とす。

 石を見とめると、「有難うございました」と慌てて頭を下げた。昼に見たあの笑顔ではない。恐縮した少し固い表情だった。


 ――また。

 膨らむ苛立ちを誤魔化すべく、ナスルは口を開いた。


「それほど大事なもの、ですか?」


 人形を象った鈴――としか聞いておらず、普段から身につけ、身分もある『イール・ダール』が地面に這い蹲って探すものの送り主に興味を覚えたのは確かだった。離宮のマコトに与えられた部屋の一角には、一族や一族外の有力者からの贈答品が積み上げられている。その中の一つに違いないが、そこまで大事にするなら金か宝石が埋め込まれた高価で煌びやかな装飾品なのかもしれない。


「えっと……あの、木彫りの猫はサーディンさんが作ってくれたんです。それと……」


 少し言い辛そうにしたマコトの言葉に、ナスルは一瞬聞き間違えたかと思うほど驚いた。


(あのサーディンが?)


 サーディンがマコトを気に入っていのは、集落での会話で分かってはいた。同じように王宮に詰めていてもそれほど顔を合わす機会は無かったが、少しでも一緒にいればサーディンの人となりはよく分かった。退屈と面倒を嫌う人騒がせ男。自分の楽しみの時間を割いて人形を掘るなど、想像も出来ない。


「向こうの世界から持ってきたもので、家の鍵についていたキーホルダー……いえ、飾りなんです。母とお揃いだったから、他には無いし形見みたいで」


 途切れ途切れに呟く言葉は少し照れ隠しも入っている。


 ふと、少女の母親を想像してみる。ナスルの母親は父親と共に幼い頃に亡くなっており、その顔は全く覚えておらず、寂しいと言う感情は無い。一般的に考えれば、きっととても心配しているのだろう。母親だけでなく彼女には向こうの世界で家族がいたはずだ。ここまでまっすぐ素直に育ったのは大事に愛情深く育てられた証拠だろう。


(……二度と会う事は無いだろうが)


 心の中で呟いた言葉は、酷く冷めており、それが小さく積み重なっていく苛立ちを静めた。


「――あ」


 下から聞こえた微かな呟き。


「ごみと一緒に捨てられてるって事は無いですよね」


 マコトの視線を追い、庭の花壇の向こう側に視線を合わせる。塀の囲われた焼却炉には珍しく煙が立ってる。もう既に日は沈みかけてしかも今日は酒宴もある。今は風が凪いでいるが煙が広間にいく事も可能性も下働きの人間なら承知しているだろうに。


「行ってみますか?」


 違和感を覚えて尋ねれば、マコトも同じ事を思ったのかすぐに頷いて駆け出した。

 焼却炉の前に膝を落とし、マコトを下がらせ、取っ手に手を掛ける。


「――あれ……!」


 ナスルの背中から中を覗き込んでいたマコトが小さく呟いたのが分かった。確かめる様に顔を近付けたマコトにナスルも炎が踊る炉の中に目を凝らす。

 火の真ん中で銀色に光るモノが確かにあった。


「……ぁ……」


 呟いた彼女の顔が泣きそうに歪み始め――、ナスルは勢いよくその炎の中に手を突っ込んだ。


 肉が焦げる匂いがし、マコトの悲鳴が上がる。埋まっていた煤ごと拾い上げてすぐに手を引くが、空気が入ったせいか追い掛ける様に、一際大きな炎が拳を甞めた。


 ――熱い。


「ナスルさん……っ」


 膝を付いたまま呆然と煤で汚れたナスルの手を見つめていたマコトは、驚きに目を見開いたまま視線を上げた。


「どうぞ」


 焦げて赤黒く晴れ上がった掌に乗っていたのは、少し黒くなった鈴の猫二匹。

柔らかい布で拭けば煤は落ちるが、一緒に塗装も剥げてしまうだろうか。


 どうすべきか、と考えていたら、その上から上擦った声が落ちてきた。


「ひ、やしましょう……っ」


 彼女からは想像出来ない力強さで、手首を掴まれそのままぐぃっと引かれた。

 ナスルは少し驚いて身体を引かれる前に起こし、マコトを見下ろした。

 色の無い顔で自分の左手を見ているマコトに、ああ、と納得する。


「大丈夫です。左手ですから」


 安心させるように紡いだ筈の言葉に、マコトはくしゃりと顔を歪ませた。


「水、で冷やしましょう」


 夜の暗さでも唇を噛み締めたのが分かった。、視線を彷徨わせ、水場を見つけると「早く」とナスルの手を掴んだまま駆け出した。


 井戸の傍らにある瓶を見つけて、マコトはナスルの手を突っ込む。少々乱暴な程のその仕草に、ナスルは痛みよりも驚きを感じていた。正直に言ってしまえばこの程度の軽い火傷など痛みの内にも入らないのに、何故彼女はここまで心配するのだろうか。


 汲み置きしていたせいか、井戸の水にしては生温い。しかし太陽が沈み冷たい外気が忍び寄る今この瞬間には、ちょうど良かった。ちくちくした痛みが遠ざかっていくのを感じながら、赤くなった自分の手が沈む水面を見つめる。ぽつり、と何かが落ち水面が丸く波紋を描いて揺れた。


「ご、め……んなさい……!」


 掠れた声に顔を上げると、ナスルの正面にしゃがみこんだまま、マコトが泣いていた。

 はらはらと流れ落ちる涙は、手を浸している水面に飲まれるのが惜しまれるほど透明で、とても――綺麗だった。

 なぜ彼女が泣いているのか――そう考えてようやく納得した。この火傷を気にしているのだろう。元の場所で待っている様に伝えるべきだったか、火かき棒 を探せば良かったのか。しかしあれ以上燃えては小さな鈴などすぐに溶けてしまっていたはずだ。


 自分の選択は間違ってはいない、そう結論付け、ナスルは再び口を開いた。


「泣き止んで下さい」

「ごめんなさい、痛いですよね。ごめ、んなさい……」


 涙腺が壊れたように涙が零れる。彼女が泣いている所を初めて見た。自分が手ひどく裏切ったあの時さえも彼女は泣かなかったのに。彼女は。きっと。


 他人の為なら惜し気もなく涙を流すのだろう。――今。この少女は自分を想って泣いているのだ。

 それは不思議な感覚だった。申し訳ないような罪悪感と、泣き止ませたい焦燥感と、そして微かに――嬉しいような。甘やかなその感情は、今は消えている火傷の様な疼痛にも似ている。


 かといってこの状態のままではさすがに気が咎める。

 しかし、はらはらと零れ落ちる涙を止める術を自分は知らない。

 泣かせるつもりは無かった。大事な鈴だと思ったから拾った。笑って欲しかったのに、結局は泣かせてしまった。



 どうして自分は少女を笑わせる事が出来ないのか。



 ――泣くな。



 祈るように想う。



「……すぐ治ります。だから泣かないで下さい」


 空いた右手が一人で動いた。小さな頭を抱き寄せる。艶やかな黒い髪からは甘い香りがした。

 込み上げた何かを、ぐ、と堪えてナスルはマコトの頭を出来うる限りの優しさで撫で続けた。





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