第八十二話 懐古
砂を孕んだ風が、丸く切り抜かれた吹き溜まりで綺麗な螺旋を描く。
不自然な程押し茂った花園の奥には陽光も届かない。その中央の椅子に身体を預け瞼を閉じていた。
胸のすぐ上で手にしているのは、花弁の大きな白い花。
花嫁が誓いの言葉を交わした後、結い上げた頭に挿して貰う祝い花だった。
穢れなき無垢な花嫁を現しているというそれは、年頃の少女なら誰でも憧れるものだった。もちろんかつてのラナディアも。
「可愛いらしい方だったわね」
目蓋を閉じたまま独り言の様に呟いたラナディアに、斜め後ろに控えていた筆頭女官でもあり彼女の幼馴染みでもあるイルディは、同意も否定もせず、ラナディアの肩に薄手のショールを静かに掛けた。
その肌触りの良さにラナディアは身繕いする猫の様に肩を竦めて頬を擦り寄せる。
「もうそろそろ気付いたかしらね?」
子供染みた嫌がらせは、彼女の心を少しでも傷つける事が出来ただろうか。
――久しぶり、とすら言えない程、数年振りに王に呼ばれて心が踊った。『イール・ダール』の前で、なんて、何と言う幸運だったろう。
なのに。
『――何をしていた?』
麗しい王から発せられた言葉は、身を切り裂いて、その視線はまるで嫌悪でしかない物を見るようだった。
『『イール・ダール』に手を出す事は許さない』
また。
またその名前。
耳鳴りの様な微かな水音が、すぐ近くで聞こえる。身体の中を流れる血が、沸騰するように熱くたぎって、堪えるように閉じた目蓋が真っ赤に染まった。
――そこからは覚えていない。きっと、イルディがいつものように庇ってくれたのだろう。
あのお優しかった王は一体どこに行ってしまわれたのか。
そしてどうしてまた現れたのだろう。
彼女は確かにオアシスに身を投げて死んだはずなのに。
彼女がいなくなったら、王はまたあのお優しかった王に戻ってくれるだろう。
当然の様にそう思っていたのに、久しぶりに向けられた瞳は、あのときと同じ嫌悪と憎しみで彩られていた。
いくら考えても、自分が劣るものなんて何一つ無かった。王の側に上がるべく叩き込まれた全てを持っても何の役にも立たない。ラナディアが王の元へと上がったのは、まだ十四歳の子供だった。三つ離れた王はまだ子供だったラナディアに優しくしてくれた。名門の大貴族の娘であったが、一族には出ない筈の髪色のせいで父親に嫌われていたラナディアには、彼しかいなかった。優しく穏やかな世界は三年続き、それが、十年前、カナと呼ばれた『イール・ダール』が現れた事で――壊れた。
だから。
憎々しい気持ちで、初めて髪を染めて王の寝室に忍び込めば、彼は私を唯一の宝物の様に自分とは違う名前を呼びながら一晩中抱きしめてくれた。――それは甘く幸せで残酷な時間。
「――髪を染めるわ」
「三日ほど前にも染められたと思いますが」
ラナディアは手にしていた花弁を握り締める。花弁が砕ける音をうっとりと聞いていた。
「だめよ。ほら、もう銀色になってるわ」
人差し指で長い髪をつまんでイルディに見せる。
――きっと王は私を見ててくれるだろう。
彼女と同じ髪型、仕草、幸いな事に、地味で暗いと大嫌いだった瞳は、角度によっては黒にも見える。 何もかも同じになれば、また王は自分を見てくれるかもしれない。
それはラナディアの日課でもあり、日常だった。
――けれど、気にかかる事がある。
自分を見て驚く様な懐かしむ様な複雑な表情をした『イール・ダール』。少女は、あの『イール・ダール』とよく似ていた。そして王が彼女を見るその眼差しも。
「『イール・ダール』なんて来なければ良かったのに」
砂を孕んだ風が綺麗な螺旋を描く。
その真ん中で花びらは踊り――蟻地獄に落ちる蟻の様に足掻いて、そのまま掬われる事なく、冷たい地面へと落ちた。
今度こそ渡さない。
どんな事をしても。




