第八十一話 護る(サハル視点)
サハルは宴会場の人込みを縫う様に足早に進んでいた。
しかし数歩進まない内に声を掛けてくる顔見知りの多さに、サハルは初めてハスィーブの長官としての立場が煩わしいと思った。しかし顔には出さずに仕事とは無関係な話題になるとさりげなく切り上げ会釈をして立ち去る。
そんな事を繰り返して、ようやくサハルは『イール・ダール』に用意された席に辿り着いた。下座の方へ視線を流し、ふっと肩の力を抜く。
「……間に合いませんでしたね」
空っぽになったソファを見つめて、誰に聞かせるでもない呟きを溢す。
酒宴を良い事に群がるであろう各部族への対策にマコトを酒宴の早い段階で退室させる事は、一族での話し合いで決定され王にも了解を得ている。サラやナスルの姿も見えない以上、マコトは既に部屋へ戻ったのだろう。
直接口にはしないが、マコトはきっとこういった華やかすぎる席が苦手だろう。今頃は、自分の部屋の中でほっと胸を撫で下ろしサラと他愛ない会話に花を咲かせているかもしれない。
東の『イール・ダール』であるイブキが王都に到着した翌日から来客が続いたせいで、マコトのハスィーブ通いはぴたりと止まってしまった。元々、ただの手伝いだと言ってあったのに、それだけに留めるのに、彼女は優秀すぎたのもあったのだろう。所属する文官達は年甲斐も無く、整理作業が面倒だの要領が悪いだの、あげくの果ては華が無い、潤いが無いと事あるごとに口にし、八つ当たりと しか言い様の無い恨めし気な視線を向けてくる。
『早く来ないっすかねぇ……』
つい出してしまったマコトの分のカップを見下ろし、一人ごちたシリスに思わず頷きそうになった自分に苦笑したのは、まだ二日目の事だ。
同じ空間に、――振り返ればそこに彼女がいる、と言う状況は、恋する男にとって僥倖だったのかもしれない。年甲斐も無く毎日が楽しくほんの少し――身だしなみに気を配る様になった。マコトが視界に入る度に心臓が穏やかに、時に激しく鼓動を刻んだ。
特に最近は。
『……からかってますよね』
耳まで真っ赤にさせ伺う様に自分を見る少女が、可愛くて仕方が無い。
おそらく男性経験の無いマコト。衝動のままに突っ走って傷つけたくない。怖がらせたくない。逃げ道は必ず用意して、追い詰める前に示しておく。彼女は人一倍傷つきやすく――性質の悪い事にそれを隠すのが上手だから。
――ずっと、守っていきたい。
そんな事を考えながら迎えた今日。
久しぶりに見たマコトは緊張しながらも元気そうで、サハルは安堵しながらも、少し寂しいと感じた自分に少し呆れた。
王の謁見で緊張するマコトに話し掛けるのは憚られ、あまり会話らしい会話は出来なかった故に、少しでも話せるなら、と挨拶回りもそこそこに戻って来たのだが。
時間はまだ夕方に差し掛かったばかり。顔だけでも、と自然に足がマコトの部屋に向かいたがるが、小さく苦笑しサハルは部屋とは逆方向にある中庭に身体を返した。マコトなら疲れていてもきっとサハルも迎え入れてくれるだろう。それが分かっているからこそ余計に憚られた。
人混みを避ける様に廊下へと足を向け、鮮やかな華々が咲き誇る庭へと視線を向ける。今日は風が無く、沈む夕日は鮮やかに全てを同じ色に染め上げていた。
星が綺麗な夜になりそうだ――そう思って、会い損ねた少女を思い浮かべる。
マコトは今日の空に気付いているだろうか。
『向こうの世界じゃ、星はあんまり見えないんですよ。……今日も見れないのかぁ……』
この世界に来た初めての夜に、満天の星空を見たというマコトは、風の強い夜に靄がかった空を見て、残念そうに呟いた。普段よりも幼いその口調は、微笑ましく愛らしくて抱きしめたくなる程。だからこそ本音なのだと分かった。それ以来サハルは 夜空を見上げる事が日課になった。
瞬く星が当たり前だったサハルにとって、一月に一度は見られるその風景は、さして珍しいものでは無い。しかし、彼女の傍らで一緒に見る星空は、きっとまた違う感想と感情をサハルにもたらすのだろう。
(……ハスィーブの屋上、西搭のテラス……)
星を見るなら、視界を遮らないように高い場所が良いだろうか。それともここの裏手にあたる小さな中庭で見るのも、風情があって良いかもしれない。心当たりを徒然と上げて、他にもあるかと周囲を見渡すと、建物と花垣の間で女官と話し込んでいるタイスィールを見付けた。甘言を囁く様に顔を覗き込まれているのは、派手な顔立ちの女官だった。ふいに目が合い、女に向けるものと同じ華やかさでにっこりと微笑まれる。
(またあの人は)
慣れた光景にサハルは、軽く会釈するに留めた、が、少しの違和感を感じ、少し離れた場所で様子を伺う。
女官を口説くタイスィール……それは以前ならよくある光景だった。そう、マコトの候補者に上がる以前は、だ。マコトの事を諦めたのならサハルにとって諸手を上げて歓迎すべき光景であるが、有り得ない事は、謁見の時に見たマコトに対する視線だけで分かる。
それに。
タイスィールは娘に一言、二言言ってからこちらへと歩いて来た。残された娘の少し物言いた気な視線に、サハルは苦笑し、会釈すると、娘も渋々と言った風にお辞儀をして賑やかな広間へと、戻って行った。
「……ラナディア様の女官ですね」
女官にしては些か華美すぎる装飾はそれだけで、旗印のようなものだ。久し振りに見る親衛隊の制服を彼らしく少し崩したタイスィールは、小さく笑って肩を竦めた。
「少し気になる事があってね」
「奇遇です。私もですよ」
サハルの言葉に、タイスィールは、おや、と片眉を釣り上げた。構わずサハルは続ける事にする。わざわざ危ない橋を通り王宮にやってきた『彼』の事を聞くのにいい機会だろう。
「スェ殿が王宮にいらっしゃってる事はご存知でしたか?」
「――ここに?」
目を見張り、聞き返してきたタイスィールは、少し意外な気持ちで視線を返した。 何かと耳悟い彼の事だから当然ながら、その情報をとっくに掴んでいると思ったが、思えば、王都に到着してから、ずっと王の側にいたのだ。一番に避けるであろう人物と考えればタイスィールが知らないのも不思議では無い。
「ええ、マコトさんの顔を見に来たと仰ってました」
何か思い当たる事でもあったのか、タイスィールは、顎を撫でてふっと軽く笑った。
「あの人の行動は昔から掴み所が無かったからね」
確かに同意見だ。しかしそれは望んだ答えでは無い。
「『イール・ダール』を恨んでいると言う事は?」
サハルは迷う事無く単刀直入に聞いた。以前のナスルと同じ様に、マコトを傷付けるのでは無いか。彼は『イール・ダール』のせいで、全てを失ったと言っても過言では無い。少しでも危険性があるならばマコトから彼を遠ざけたいが、当の本人がスェを気に掛けている。淡い恋心などでは無い事は確認済みだが、それがまた苛立ちを掻き立て、気になる上に気に入らない。
タイスィールは、少し困った様に眉尻を下げ、白い壁に背を預けて腕を組んだ。
「それは無いよ。どう見たって彼のマコトを見る目は、……どちらかと言うと我々に近い」
彼らしい艶やかな視線を含めた笑みに、サハルは嘆息する。
……そう、確かに自分も感じていた。だから頭から排除する気にならなかった。それに、確かに好意と……それを超える、また違う感情も垣間見える。懐かしそうな柔らかな視線は前の『イール・ダール』を見ているのだと予想しているが、それだけにしては、スェはマコトを気に掛け過ぎている。
『お前ら後で後悔しても知らんぞ』
そして、何より謎解きの様な最後の言葉が引っかかる。
それは何に対しての後悔か。それが示すのはスェに対しての慇懃無礼な自分の態度。最初は一族で引き受ける事になった装飾品の取引の事だと思ったが、それにしては聊か冗談がすぎるし、既に事は彼の手は離れ、村の職人の一人である代表者が立っている。
「鍵となるのは『イール・ダール』かな? 直接聞いたら、『悪くない秘密』だとも、世代交代だとも言っていたよ」
「……引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、中途半端な言葉しかくれないなんて性質が悪いとしか言いようがありませんね」
八つ当たりも兼ねたサハルの呟きに、タイスィールも同意する様に低く笑った。
「それで、貴方は? わざわざ女官をたらしこんで何を調べているんです」
「人聞きが悪い」
面倒事は避ける性質のタイスィールが、関係を切った筈の女官に声を掛けるなど、面倒な事をする理由は、情報収集以外考えられない。
大きく肩を竦めたタイスィールは、それでも笑みを刻んだまま、サハルを見た。
「でもいいタイミングだ。君も少しマコトの身辺に気を配って貰えないか。ラナディア様が何か企んでおられるかもしれない」
「ラナディア様……」
意外な人物の名前にサハルは、そのまま口の中で反芻する。王の第二夫人――何度か公式行事で顔を合わせた事があるが、自分よりも年上だとは思え無い程、無邪気な少女の様な人だった。
「ああ、これは親衛隊の中ではわりと知られた話だが」
そう前置きしてタイスィールは静かに語り始めた。
「十年前、『イール・ダール』が身を投げてから、王は一方的にラナディア様を避け始めた。理由は、知られていないし想像でしか無いが、王に想いを寄せる『イール・ダール』をラナディア様が邪魔に思っていても不思議は無いからね。『イール・ダール』の自殺に関わっているとの噂が流れた事があったんだ」
「噂ですか」
「そう彼女がどんな風に関わっていたのかは分かっていない。身を投げた背中を押したのが言葉だったのか、その華奢な手だったのかは分からないが、王がそれ以来ラナディア様を避ける様になったのは確かだ」
「王も『イール・ダール』に好意を寄せていたと言う事ですか」
意外な気持ちでサハルはタイスィールに問いかける。十年前の『イール・ダール』の悲劇は、本人の独り善がりの想いが全てを引き起こしたのだと言われている。王も憎からず思っていたとなれば、世界の批判を全て引き受けた『イール・ダール』、そして取り残されたスェがあまりにも理不尽である。
それに、その件で、一概にラナディアだけを責めるのは聊か不平等だろう。
彼女は幼少の頃から王の夫人候補として王宮に上がっており、貴族の中でも地位が高い深窓の姫君ならとくに、結婚式を控えた自分を差し置いて結ばれもしない 『イール・ダール』と、例えば……恋仲にでもなっていたとしたら、耐え難い事だったろう。
「しかし何故今更? 『イール・ダール』と言えども先の『イール・ダール』と彼女は違うでしょうに」
そう言ってから同じような言葉を聞いたと思う。ああ確か、ハッシュがナスルに対してそう言ったのだ。あの時自分は何と答えただろう。
「想いが強すぎると、時に凶器となる。それに王もマコトに関心を持っている様だ」
最後の言葉に、サハルの眉がぴくりと釣り上がった。明らかに王の評価が下がった瞬間だった。
「気を付ける事にしましょう。――ナスルには?」
「迷っている、と言うのが本音かな。王は彼にその辺りの事を言いたく無いようだしね」
……王は人格者だと思っていた。功績だけ見れば賢君だと言ってもいい。
ハスィーブの長官である自分はある程度言葉を交わす機会はあった。彼の声はいつも穏やかでその若々しい見た目とは裏腹に酷く老成していた。 それでも自然に人を落ち着かせる様な柔らかな雰囲気があり、サハルも少なからず、ああなりたいと思う所があった。
「アクラムにでも聞くべきかな」
肩を竦ませたタイスィールにサハルは首を振る。
「生憎一昨日から行方不明です」
イブキが到着したその日に、先見の出来るアクラムへ使いをやったが、部屋はもぬけの空だった。付きの部屋の女官に尋ねればよくある事らしく、行き先は大神殿だと言っていた。ここから丸一日掛かる距離だ。軽装で出て行った事からすぐに戻るだろうと言っていたが、あれから三日音沙汰も無い。
何か大事な事を忘れているような微かな不安に、サハルは空を仰ぐ。
ゆっくりと沈んでいく太陽と、静かに蒼く染まっていく空を見て想うのは、やはり彼女だった。




