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第七十九話 想い(ナスル視点) 2


 女神祭も本番が迫り、『イール・ダール』であるマコトを訪ねる客人が増え、否応なく護衛の数も増える事となった。配置を指示し、ナスルはマコトに一番近い扉の前へと付く。来客と来客との合間に背中越しに聞こえるのは、カイスとサラの賑やかな声、それに控え目に答えるマコトの声だった。


 マコトを訪ねる客人が増えた事で、カイスは、監視役としてほぼ入り浸っている。多忙な筈である彼は、今までの昼の仕事を夜に回しているのだろう。今朝顔を合わせた時には、濃い疲労感が漂っていた。


 ふいにサラが部屋へと続く扉を開けた。ちらりともナスルに視線を合わせる事も無い彼女はある意味とても分りやすかった。サラは自分がマコトにした事を許していない――マコトと話す機会でもあれば彼女は常に近くに控えており、物言いた気――というよりは敵意に近い視線を向けてくる。それは逆にナスルを酷く安心させた。


 それから暫くして、扉越しに声を立てて笑うマコトの声が耳に飛び込んできた。


 普段穏やかに微笑む事が多い彼女の、その珍しさに、思わず聞き耳を立てる。


 彼女がこんな風に笑うなんて、今まで無かった。


 ふっと、胸の奥に柔らかな――嫌悪感とは明らかに違う、感情が生まれる。 どんな表情をしているのか想像しかけすぐにその意味の無さに気付く。自分は彼女の楽しそうな笑顔なんて知らない。  ナスルは一度瞼を閉じると、壁から背中を離し、真っ直ぐに立った。


 それからぼそぼそと何か話す声が聞こえ、部屋を移したのか、笑い声も話し声もナスルには聞こえなくなった。




* * *





 夜も更け、等間隔に明かりが灯されただけの飾り気の無い廊下を、ナスルは自分の部屋へと向かっていた。

 これから少し仮眠を取り、護衛対象であるマコトが起きる頃、持ち場に戻る。


 その生活は、王の護衛時よりも拘束時間は弛く、否応なしにナスルに考える時間を与えていた。


 タイスィールの差し金としか考えられない提案に、王を盾に言質を取られ、マコトとの会話は否応無く増えた。必要最低限で済む言葉を返すのに、頭を巡らす事となり、精神的にも疲労が募る。


 甘えてはならない、と思う一方で、マコトの気遣し気な表情に惑う日々。

 それはそもそも一体何の為の、誰の為の罰だったのか――自分が頑なに彼女を拒むその意味が、分からなくなっていた。


 兵舎とはまた違う親衛隊だけの別棟。階段を通り越したその一階の一番手前の扉がナスルに与えられた部屋だった。近衛から親衛隊に上がった時に与えられた部屋は、専用の女官が付いていたが、必要最低限は立ち入る事の無い様に言ってあった。


 窓一つない廊下は薄暗く白い壁もどこか淀んで見え、胸の奥が重くなる。夜もすっかり更けており、時間が中途半端なせいで、誰とも顔を合わせる事なくナスルは部屋に辿り着いた。


「……」


 ノブに手を掛ける直前で、ナスルはすっと目を眇め、ピタリと動きを止めた。


(誰か――いる)


 部屋の中にある気配に気付き、息を詰める。音を無く静かに一歩下がり、様子を伺う。――恐らく一人。こんな夜更けに訪ねてくる様な人間に心当たりなどなく、また王宮に近いこの場所に侵入者など考えられず、また一介の親衛隊員でしか無い自分を狙うその意図も分からない。


 しかし。


(招かざれる客なら帰って貰おう)


 苛立ちを静めるいい言い訳が出来たかもしれない。微かに歪めた口元のまま腰元に穿いた剣の柄を握り締め、ナスルは壁に背中をつけてゆっくりと扉を開けた。


「よぉ、ナスル」


 既に明かりが灯されたナスルの部屋に、夜中には相応しくない大きな声が響く。その意外な声に、ナスルは驚きを押し隠し、今度は素早く部屋に入りと、すぐに後ろ手に扉を閉めた。


 さほど広く無い部屋の大部分を占める寝台に腰を掛けていたのは、自分の兄であるスェだった。しかも目立つ赤い髪を焦げ茶色に染めており、一瞬兄だと分からない程印象が違っていた。


「……どうやってここまで」


 思っても見ない人物の登場に、ナスルは掠れた声で呟き、スェの元へと歩み寄る。兵舎と言えども、ここはまがりなりにも王宮内である。忍び込んだ事が分かれば、いくらナスルが庇おうともそれ相応の罰が下るだろう。それに加えてスェは、出奔した元親衛隊隊長と言う複雑な立場だ。髪を染めて分かりにくくしているとはいえ、『イール・ダール』が揃うこの時期に姿を現したとなれば、嫌な方向に勘繰る連中も出るであろう事は想像に難くない。


「スィナーンに頼んだ」


 眉間に皺を寄せたナスルの心配をよそに、スェは飄々といつものように気障に笑って肩を竦めてみせる。気付けばその手にはグラスが握られており、寝台の足元に無造作に酒瓶が転がっていた。


(……隊長……)


 スィナーンは、ナスルが所属する親衛隊の隊長であり、タイスィールの後継である。隊長もまた残ったナスルを気に掛けてくれた一人であり、親衛隊に入ってからも時々、兄は元気だと教えてくれる事があった。そこから察するにもしや兄と連絡を取っているのではと考えた事もあったが、この口振りから察するに、やはり自分と再会する以前から付き合いはあったのだろう。


 そう思うと、目の前の人物に一言言いたい気持ちになる。前回は、思いがけない再会で慌ただしかった事もあり、事務処理以外は終始、近況報告で終わった。しかも別れてから気付けば一方的に自分が話しただけで、スェの事は野盗になった事と、その村の特産物でなるだろう細工物の話しか聞いていないのだ。タイミングよく時間もたくさんある。隊長の許可がある以上、見つかっても騒ぎにはならないはずだ。その辺りの事情を聞くのに、ちょうど良い。


「お前も飲むか?」


 立ちっばなしだったナスルに向かって、スェはグラスを高く掲げる。


「……結構です。明日も仕事がありますので」


 こんな時間にここにいるなら、分かっているだろうに、そう思いながらスェの言葉に首を振る。真面目だなぁ、と笑いスェは強く勧める事も無く、身体を移動させると、横に座る様に促した。

 ナスルは、上着だけ脱ぐと、椅子に掛け素直にスェの隣に並ぶ。


「仕事って嬢ちゃんの護衛か。……で、進展はあったか。なんか仲良いって小耳に挟んだけどな」


 ……どこから、仕入れてくるのだろう。特に最後の言葉が気にかかる。スェが王宮に入ったのは、昨日の今日では無く、もしかすれば『イール・ダール』に付いている所を見られていたのかもしれない。あるいは、スィナーンに聞いたのか、問い質したくなるし、そのあたりの事情も言いたくはないが下手に隠せばからかわれるだけだ。


 自分がマコトの護衛として王都で顔合わせをした時の会話を簡潔に述べれば、スェは声を立てて笑い、そのままシーツへ後ろ向きに倒れ込んだ。手の中のグラスは器用に水平に保たれており、なみなみと注がれた淡い琥珀色の液体は静かなままだ。


「ははっ! タイスィールは、イイ恰好しぃだなぁ。余裕ぶってっと足許掬われるって言うの分かってねぇ」


 何がそんなに可笑しいのか――ナスルが軽く睨むと、ひぃひぃ喘ぎながらスェは勢いを付けて身体を起こした。

 一滴も零れなかったグラスの中の酒を一気に煽り、口元を親指で拭った後、仕切り直したように口を開く。


「いやぁ若い奴等の恋愛話ってのいいな。お前も俺と同じ年になったら分かるよ」


 ……例えスェの年齢を超えたとしても分かる気がしない。久しぶりに会った兄は、幼い記憶の中の彼より些か不可思議である。



「……なぁナスル、嬢ちゃん可愛いだろ」


 不意に投げられた言葉に、兄弟の間合いで和らいでいたナスルの表情が固まった。


「健気だよなぁ。世界で一人っきりで投げ出されて、一族に利用されて、自分に出来る事探して、周囲に気を使って迷惑にならないように足掻いて自分の居場所探してる」


 淡々と紡がれる言葉のその一つ一つがナスルの胸に鋭い刺となって刺さる。

 ――もう聞きたくは無い。しかしそんな彼女に何をしたのかと、もう一人の自分が耐えず我が身を責め立てる。

 

「無視したって、お前が嬢ちゃんに冷たく当たった事実は変わらない。でもお前が分かりにくい奴になっちまったの、俺にだって責任はあるからな。背中押してやるよ」


 兄らしくない、――いや、兄らしいのか、それは慈愛に満ちた静かな口調だった。

 スェがスィナーンにごり押してまでここにやって来たのは、ナスルにこれを言うつもりだったのかもしれない――そう思い、ナスルは静かにスェの次の言葉を待つ。もう自分で考える事に疲れ切っていた。


「お前、嬢ちゃんに悪い事したと思ってんだろ?」


 悪い事? そんな言葉では済ませられない。唇を引き結び俯いたまま迷って、微かに首を動かした。


「なら、謝ればいいだろう」


 すぐに、続けられた言葉に、ナスルは絨毯に転がった瓶を見つめたまま、静かに口を開いた。


「私が謝れば、彼女は許さざるをえないでしょう」


 何度も身の内で繰り返した言葉を反芻する。許しを乞う資格すら自分には無い。だから、――だから。


「って言うか、お前。それ一番大事なの自分のプライドだろ」

「……違います……っ」


 苛立ちがそのまま言葉に表れた。

 彼女だって、スェの言葉が無ければ自分を許したくも無かったはずだ。本当なら自分の顔も見たくなかったろう。 だから必要最低限、自分は関わらないようにしていているだけで。


「どんな理由付けたって、今更自分が間違ってました、って謝るの恥ずかしいって、だけだろ」

「――そんな」


 重ねて続けられた言葉に、ナスルは首を振る。

 そんな事は無い――違う? ……果たしてそうなのだろうか。


 結局自分のプライドだけが大事だったのだろうか。 兄がいなくなり、王が全てだった。全てになった。だから兄が、王が、憎んだ筈の『イール・ダール』を憎んだ。それが強く生きる為の 理由だった。けれど。


「間違ってねぇだろうが」


 導いた答えを濃く重ねるような響きに、ナスルは呆然とする。

 自分は何て愚かなのだろう。結局兄と王を理由にし、『イール・ダール』を追い詰め、 それが無くなってからも、『申し訳無さ』を理由に許した彼女の優しさを――避けた。ただ彼女にこれ以上失望されたくなかった。


「あとアレだ。どんな感情でも自分に向けてて欲しいって言う、苛めっ子が、好きな子苛める理屈だ」


 兄の言葉は自尊心が崩れた乾いた心にすんなりと入って留まった。


 ――そう、なのかもしれない。


 確かにそれに近い事は心の底で思っていた。酷く身勝手な想いは振り返るのが辛いほど、醜い。そんな事は最初から分かっていたのに見えない振りをした。 子供なら許されるかもしれないその行為と感情は、実の兄に指摘されれば驚くほどみっともなくて羞恥心に身体が震えた。


「謝れよ」


 天啓の様な兄の言葉に、混乱したまま頷く。

 それが今一番しなくてはならない事の様に思えた。 



「まぁ俺も偉そうに説教なんて出来る身分でも無いがな」


 スェはふいに真面目な顔になり、自嘲するようにぽつりと呟いたが、ナスルが何か言うよりも先に立ち上がり、空になったグラスをテーブルの上に置いた。


「肝心なのは、お前が嬢ちゃんに何を求めてるかって事だ」

「求める……?」


 あれほど傷付けた自分が彼女に何かを求めるなんて、おこがましいにも程がある、

 自分は、ただ――。 


「嬢ちゃんに笑ってて欲しいだろ」


 あやふやだった想いは、その言葉で形になった。


 ――笑って。


 脳裏に浮かぶのは困った様な微笑みだけ。自分はそれしか知らない。 例えば彼女が今日カイスに見せたであろう微笑を自分が見る事は無いかもしれない。――自分になんて向けなくても良い。彼女が幸せに笑ってくれたら――ただ、それだけで。



 満たされる。





 スェはゆっくり立ち上がると、足元に転がっていた瓶をすくい上げた。そして、ナスルの顔を覗き込むと、ぷっと小さく吹き出した。


「お前さぁ……そんな顔する位なら意地張んなって」 


 昔の様に乱暴に髪をかき混ぜら、ナスルはされるがまま頭を揺らし、苦笑とも取れる微笑みを漏らした。眉間に刻まれた皺は消えていた。



 笑って欲しい。

 笑っていて欲しい。



 ――例え、隣にいるのが自分でなくとも。




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