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第七十八話 同郷


 昨夜遅かったせいか、少し遅めの朝食の食器を下げに行ったサラが、慌ただしく足音を響かせて部屋に駆け込んできた。普段から礼儀正しい彼女らしくない行動にマコトが目を丸くしていると、サラは息も整えないまま、マコトに笑顔を向けた。


「東の『イール・ダール』が昼頃到着なさるそうです!」


 マコトが心待ちにしていた、イブキの到着だった。



 それから暫くして、どこからか東の『イール・ダール』の到着を聞いていたらしいサハルから、今日はゆっくりと休んで下さい、との連絡があり、その気遣いと情報の早さに感心した。


(……まだかまだかって気もそぞろになっちゃうもんね……それに、サハルさん とちょっと顔を合わせづらいし)


 昨日あんな事があって王と話した事で、頭の中が少し整理された気もするが、それでも彼を見ればどうしても昨日の事も――必死で頭の隅に押しやった集落でのあの出来 事までも思い出してしまう。


『意識されているのが嬉しくて――』


 そう言った時の、彼の眼差しや、節 のある硬い指先、低く穏やかな、男性らしい声。それはどこまでも優しく甘やかで。


 触れられた部分は今も熱く、閉じ込めるように逃げないようにマコトは薄くなった腕の擦り傷に手を触れた。


 小さな溜め息を漏らし、きゅっと唇を噛む。

 朝も昼も夜も、彼の事が頭を離れない――もう、これは。



 視線が気になって慣れない仕事も失敗してしまいそうだと思う程、自分は彼を 意識しているのだ。

 拒絶されるのが怖い。信じて受け入れて、もし離れていってしまう事になれば 、その手に縋らない自信が無い。自分は酷く臆病で弱く、たった一人の家族を失った事で余計に、自分の殻に閉じ込もって大事なものに気付かない振りをする様になっていた。


 だからずっと不安だった。けれどサハルは――その不安すら見越して、自分をどこまでも気遣い、そして願いを叶える様に導いてくれる。


(とことん、甘やかされてる――)


 居心地が良すぎて喪失を恐れると、それ以上の愛情をくれる。ここまで守られて慈しまれて、彼を意識しない訳が無い。

 面映ゆいこの感情に名前を付けるとしたら、きっとこれが『好き』という事な のだろう。


 認めてしまえば意外な程、素直に納得出来た……が、未だその感情 には慣れない。自分はサハルの事が好きなのだ、と心の中で呟くだけで、羞恥心が胸を焼いて熱が顔に昇る。


(って言うか今更どんな顔をして言えば……)


 両手で頬を押さえて、俯く。

 サハルは困る、だろうか。いやでも彼は自分の事を好きだと言ってくれたのだ 。


(め、迷惑じゃないはず……)


 そうは思うが、今一つ自信が無い。告白して驚かれたら……いや、断られたら どうしよう。いやまさか昨日の今日で心変わりはさすがに有り得ない……と、思 うが。


(喜んでくれる、の、かな)


 そう気付けば、胸の中がふわりと暖かくなった。いつも、いつも優しくしてく れるサハルを喜ばせたい、それはずっとずっと思っていた事で、マコトの切実な 願いだった。優しくされる度に嬉しいと思う反面、寄りかかる事しか出来ない自 分が、酷く情けなくていたたまれなかった。


 喜んでくれるなら、笑ってくれるなら、少しでも早く伝えたい。


(……でも、改めてって、どのタイミングで言えばいいんだろう……)


 今更、だとか、いやそもそももしかしたら聡いサハルは自分の感情の変化にも 気付いてくれているかもしれない。そうだったらいいと思う。が、それはあまりに都合の良すぎる考えだ。



「マコト様どうなさいます? ……マコト様?」


 黙り込んでうんうん唸りだしたマコトに、サハルの伝言を伝えに来た女官と話し込んでいたサラが、眉を顰めてマコトを伺い見た。


「ぁ……っはい! いえ、えっと……お返事ですよね」


 その心配そうな視線に気付き、マコトは慌てて首を振る。


(伝えなきゃ……っ)


 やっぱり行きます――そう、言おうとして、ぴたっと口の動きが止まった。


(今……? 今日言うの!? いやでもそんな)


 再び黙り込んだマコトに、ますますサラは首を傾げる。


「マコト様、体調でも――」

「いえ全然っ、あの大丈夫です!」


 はっと我に返ったマコトは勢いよく首を振り、それから不自然な愛想笑いを浮か べた。


(だめだめ……っ今日は絶対無理……!)


 暫く葛藤したマコトは、そろりと顔を上げ、 耳を済まさなければ聞き取れない程の小さな声で呟いた。


「……あ……あの、じゃあ、今日はお休みします。あの、サハルさんに宜しくお伝え下さい……」


(私って本当……。でも、今日は……うん、昨日の今日だし!)


 心の中で言い訳がましく呟き、マコトは女官に昨日焼いた クッキーを預け、シリスに渡してくれる様に頼んだ。昨日差し入れにしようと作ったもので、お茶当 番の彼ならきっと配ってくれるだろう。




 イブキが到着するのは午後らしく、マコトはまるまる空いた午前中に、サハルに貸して貰った上着を洗濯する事にした。自分がやります、と渋るサラを説得し、お風呂場で丁寧に手洗いする。

 その間に、サラにラナディアの事を相談すれば、意外な程あっさりと「ああラ ナディア様にお会いになったんですわね」と軽く流された。ラナディアは王同様 、礼儀を重んじるタイプでは無く、いつも気ままにその辺りを散策しているらし い。


「少し……幼い方なのですわ。ですから、謝られても覚えてらっしゃらないと思います」


 確かに、彼女は女性と言うよりは少女と言う方がぴったりな雰囲気だ。

 サラが困った様に言葉を選んでそう説明したので、その話題はそこで終わった 。どこかすっきりしなかったが、王城に勤める女官と言う立場であるサラは、あ まり王族の事情を話す訳にはいかないのだろう。穿った聞き方をすれば悪口とも 取れる言葉は当然ながら禁止されている。これ以上問うのは可哀想だろう。


(そういえば王様も不思議な雰囲気の人だったな……)


 王と会った事は、あれからすぐに部屋に戻ったタイスィールが何も言わず散歩だと貫き通したので、マコトもそれに倣いサラには何も言っていない。


『もうタイスィール様ッ! マコト様はお疲れなんですわっそれなのにこんなに 長い間連れ回すなんて配慮が足りません!』


 これでもかと言うほど眉尻を上げ、自分より遥かに年上のタイスィールに食って掛かる。ほんの一ヶ月前には想像も出来なかった光景だった。


 そしてタイスィールはあっさりと謝罪し、延々と続く説教を立ったまま真面目に聞いていた。庇おうとしたマコトに、サラから見えない位置で唇に人差し指を置いたので、マコトは結局何も言えずに気まずい時間を過ごしたのだ。



(タイスィールさんが悪い訳じゃないんだけどなぁ……)


 水を吸って重い洗濯物の籠を離宮の三階にあるテラスに持って上がる。よく晴れた青空の下に干して一息付き、捲り上げていた袖を元に戻した。


 風が無くて良かったですわねぇ、と手本代わりに洗った自分の服を干していたサラに頷き同意する。 風のある中、生乾きのまま干せば、洗濯前よりも悲惨な状態になるだろう。


「もうそろそろですわね。お迎えするなら、着替えておきましょう」


 眩しそうに手をかざし太陽の位置を見てそう言ったサラに頷き、後に続く。石造りの狭い通路を通っていると、下働きの人間がぎょっとした様に目を見開くと慌てて頭を下げる。マコトは困った様に軽く会釈して通り過ぎ、長い廊下を渡って自分の部屋に戻った。





***





 イブキが到着したのは、すっかり日が傾いた夕方近くだった。


 ナスルとサラに付き添われたまま離宮の入り口で出迎えたマコトに大きく手を 振り夫であるラーダに支えられ……と言うよりは駆けない様にしっかりと腕を掴 まれイブキは膨れ面で歩み寄って来た。


 顔付きは以前と変わらない……が、少し顔色が悪い。しかしお腹の膨らみは遠 目からでも分かる位大きいと言う事は、赤ちゃんは順調に育っているのだろう。 マコトは笑顔を作って駆け出し、イブキとの距離を詰めた。


「お久しぶりです!」

「マコト久し振り! 会いたかった!」


 イブキの護衛にマコトの護衛も加わり、廊下に溢れた人間が庭に降りる。


 その真ん中に位置する事になった二人――特にマコトは東の護衛団の視線を感じ、一瞬遠慮する様に後ずさったが、イブキは慣れているのか気にしない 性質なのか、そんな衆人監視の中でも構わずマコトの首に手を回して抱きついた。


 女性らしい柔かな匂いとそれに反する様な消毒液の匂い。間違いなくイブキだ と、マコトも腰に手を回しつつお腹を潰さない様にと優しく抱き止めた。


「いつから来てたの?」

「一週間位前です。イブキさんは体調どうですか?」

「ええ、もう」


 大丈夫――と続けたイブキの言葉を遮ったのはマコトの後ろに控えていたナスルだった。


「既に部屋の用意は整っております。早く部屋の方へお入り下さい」


 ナスルがこんな風に口を挟むなんて珍しい。

 少し驚いて周囲を見渡し、納得する。確かに一つしかない出入り口付近で、人通りがある以上護衛としては守りにくい場所なのだろう。


 そんな事を思いながらマコトは、頷いてイブキの身体から手を離そうとしたが 、それを止める様にイブキの手に力が篭った。


「イブキさ……」


 とりあえず部屋にと続けかけたマコトの言葉を遮り、イブキはマコトを抱き込んだまま、吐き捨てた。


「うっさい。黙れこのブラコンが」


 しん、と周囲が静まり返り、マコトを含めたおそらくそこにいた全員が固まった。

 ――今なんて。

 廊下の両側に立っていた護衛が、顔を引き攣らせてぎぎぎっと音がするぐらい 不自然な動きでナスルを見つめる。


 釣られるように振り向いたマコトだったが、ナスルの表情は――意外にも変わらなかった。


「……仰る意味が解りかねます」


 凍りついた空気の中、最初に口を開いたのは当事者であるナスル。


「あっそ」


 イブキも同じく抑揚も無い淡々とした口調であっさりと答え、鼻を鳴らす。

 ……確かに『ブラコン』と言う言葉は、彼には伝わらないだろう。


 むしろ伝わらずに良かったと思うが、その前の「うるさい」も相当感じが悪い 。

 一体何故イブキがこんな事を言い出したのか。確かに周囲の『イール・ダール 』への態度に比べれば、愛想の無いそれではあるが、言い返したくなるほどキツイ口調でも無かった。


「行きましょう。案内はいらないわ。どうせ毎年一緒なんだし」


 固まったままのマコトの腕を組み、無言のままイブキはずんずんと 離宮の廊下を進む。


「えっと……ナスルさんは私の護衛なんです」


 腕を引かれたままマコトはとりあえずそう声を掛けてみる。


「知ってる。まさかアイツまでマコトの婚約者候補なんて夢にも思わなかったわ」


 歩くスピードを少し緩め、しかしイブキは前を向いたままそう言った。その 口調は先程と同様硬く、マコトは返答に困る。

 イブキとナスルは仲が悪いのだろうか。恐らく間違いは無いがその理由は一体何なのだろう。


「知り合いなんですか」

「何も言わずに睨まれるだけの関係よ。まぁ売られた喧嘩は買う主義だしね」


「睨まれる?」


 マコトはイブキの言葉を反芻し、首を傾げかけたが、 すぐにその理由に思い至った。イブキもまた『イール・ダール』 なのだ。イブキに対してもナスルは自分と同じ様な感情を抱いているのだろう。


 ふふふ、と妙に渇いた笑いに、後から追い付いてきたラーダが、呆れた様に溜め息をついた。


「お前が先に『あの方』を睨むからだろう」

「嫌いなのは嫌いなの。あいつの顔を見るだけで虫酸が走るわ。悪阻ぶり返したら頭の上に吐いてやる。あーもう王都なんて来たくなかったのに」


 イブキの顔がふいに歪む。泣く――と一瞬思ったが、眉を吊り上げてそれを誤魔化すように顰め面を作る。


(イブキさん……?)


 先程から彼女の態度は可笑しい。頭ごなしに他人の事を毛嫌いする様な人では無い。体調の悪さを差し引いても彼女らしくないと思う。しかしそんな彼女がそれほど嫌いな人間とは、一体誰の事だろう。


「王、だ」


 マコトの表情を察したのか、それともイブキが名前を出す前にと気遣ったのか、ラーダが屈みこみマコトの耳元に囁いた。


 意外な人物の名前にマコトはラーダを見返すと、目が合ったラーダは困ったように肩を竦めて、イブキへと視線を流した。


(イブキさんが王様を嫌い?)


 マコトは昨日会ったばかりの王の姿を思い浮かべる。

 不思議な人だったけれども、綺麗で穏やかな優しい人だったと思う。イブキと王との間に一体何があったのだろうか。


 ……気にはなるが、そっぽを向いて黙り込んだイブキから察するにきっと触れて欲しくない話題なのだろう。

 マコトは少し考えて笑顔を作ると今度は自分からイブキの手を取った。イブキの体温は以前より少し高く温かい。


「部屋バタバタしてるでしょうし、落ち着くまで私が泊まっている部屋に行きましょう。昨日焼いたクッキーがあるんですよ。甘さ控え目の『向こう』仕様です」


 マコトの言葉に、イブキは一瞬驚いた様に目を瞬いた。それからすぐに 眉を寄せて、あー……と天井を仰ぐ。

 そして首を傾げたマコトに向き直り、ぱんっと勢いよく両手を合わせて頭を下げた。


「ごめん! 到着して早々人の悪口とか感じ悪かったわ! ナスルはムカつくけど、敢えてあたしが喧嘩売る場面じゃなかった! 気遣わせてごめん」


 一気に話し頭を下げたイブキに、マコトは慌てて首を振った。


「あの、頭上げて下さいっ」

「いい。駄目な大人は反省するべきだ」


 静かにそう言ったのは、隣にいたラーダだった。


「……分かってるわよ。……じゃ、遠慮なくお邪魔させて貰うわね」


 顔を上げたイブキは頬を膨らませる。 しかし先程とは違い目元は照れたように赤くマコトはほっと胸を撫で下ろした。

 イブキは後から追いついてきたサラに案内されマコトの部屋へと歩いて行く。

 その後に続こうとしたマコトの肩を軽く、ラーダが叩いた。


「悪いな。体調が悪いせいもあるが、必要以上に一族が干渉して来てな。仕事も止められてずっと部屋に篭ってるのが相当辛いらしい」


 困った様に笑ったラーダは、軽くマコトの頭を撫でた後、イブキを追い掛けた。

 確かにイブキは活動的な女性だし、そんな人が一日中部屋に引き篭っているのは辛いだろう。自分だってする事の無い部屋の中でじっと しているのは苦手だ。


(王都が嫌いって……やっぱり王様がいるからかな?)


 けれど、あの泣きそうな怒っているような複雑な表情。

 何かあるのだろうが、お日様の様な明るいイブキにあんな表情は似合わないと思う。


 仲直りすれば解決すると言う簡単なものでは無いだろう。

 この世界でおそらくたった一人の同郷人。……マコトの心の拠り所である彼女には笑っていて欲しい。

 可愛い赤ちゃんを抱いたイブキが微笑んで、ラーダがそれを見守る様に傍らにいて。


 ――それはきっと自分の理想だから。



「『イール・ダール』」

「……あ」


 ぼんやりと考え込んでいたマコトは、 背中から掛かった声にはっとして顔を上げた。


「ナスルさん」


 振り向けば、すぐ後ろにナスルが立っていた。


「部屋に」


 それだけ言うと、ナスルは促すように顔を動かした。

 見れば前を歩いていた三人も振り返ってマコトが追いつくのを待っている。


「すみません……!」


 マコトは慌てて三人の後を追いかけた。



* * *



 サラを先頭にマコトに用意された部屋に入った三人はそれぞれソファに腰を落 ち着けると、それぞれの近況を語り合った。


 もちろんナスルとのいざこざや野盗の事は話していない。妊娠中の人間に敢え て話す事でもないし、過ぎた事だと言っても余計な心配を掛けるのは嫌だった。サラも同じだったのだろう、口を挟む事無く時々振り返るように目を細めてマコトの話を聞いていた。



 イブキはと言えば、オアシスでマコトと会った後、問答無用で一族の集落に強制送還されたらしく、ひたすら退屈な日々を過ごしていたらしい。


 少し顔色が悪いと思われたイブキも、どうやら車酔いならぬ輿酔いだったらしく、お喋りをしている内に目に見えて血色が戻ってきていた。


 サラが淹れたお茶をすすりながら、イブキはテーブルの上のクッキーに手を伸 ばす。


「……ん、おいし~、これ位なら美味しく食べられるわ」


 イブキの言葉にマコトは顔を綻ばせる。

 確かにこの世界のお菓子は基本的に日持ちする事を目的にしているだけあって、焼き菓子もケーキの様なパンもこれでもかと言うほど砂糖が使われている。ハスィーブへの差し入れ用とは別に自分用に作った甘さ控えめのクッキーは、予想 した通りイブキの口に合った様だ。


 子供の様に目を輝かせ、イブキは次々に口に運ぶ。

 それを最初はびっくりした様に呆けた顔で見ていたラーダだったが、イブキの指が四つ目に伸びると自分も籠に盛られたその内の一つを取り、真面目な顔をし てクッキーを観察し始めた。そしておもむろに口に運び、味わう様に何度も噛み締めると 、うむ、と頷く。


「なるほど、レナの実を」


 欠けたクッキーを再び観察し始めたラーダに、マコトは曖昧に笑う。

 ちなみにレナの実は、向こうの世界で言うところのアーモンドの様な木の実で、試しに少し炒ってから小さく砕いてクッキーの生地に混ぜてみたのだ。


 向こうの世界のアーモンドクッキーと同じく香ばしくなって食感も軽い。ハスィーブでも好評でよく頼まれるお菓子ではあるが……。


「ラーダさん。あんまりちゃんと見ないで下さいね……」


 ラーダは元宮廷料理人であり、言ってしまえばプロである。

 そんな人に自分が適当に作ったお菓子を見られるのはやはり恥ずかしい。


「いや、謙遜するな、うまいぞ。イブキの食欲が落ちているからな。……ふむ。卵を入れているのだな。日持ちはしないが……後で作り方を教えて貰ってもいいか」


 呟く様なラーダの言葉に、マコトは微笑ましくなって、笑顔で頷く。面識の無い『イール・ダール』であるイブキに少し緊張していたらしいサラも、同じ様に 表情を和らげ、微笑んだ。一見強面だかラーダは優しく――そして妻想いなのだ。


 あくまで真面目なラーダにイブキは耳を赤くさせながらも、聞こえない振りを通し、目の前に置かれたカップを両手に持って息を吹き掛けた後、口に含んだ。


「ん、おいし―。サラちゃんだっけ? 有難う」

「いえ、お口に合って良かったです」


 そのままソファの後ろに控えていた サラは、控えめにそう答えて頭を下げた。

 一緒にソファに座れば良いのに 、と何度か誘った事があるが、食事の時以外にサラがマコトと同じ席に座った事 は無い。王宮にいる以上女官としての最低限のけじめなのだと言われてしまえば 、マコトも無理強いは出来ず、結局これが部屋にいる時の基本となってしまった。


「それにしてもごめんね。午後一に着くはずだったのに、随分待ったでしょう? 」


 お腹も気持ちもすっかり落ち着いたらしいイブキは、一度ハンカチで手を拭い て仕切り直すと、申し訳なさそうに眉を寄せマコトを見た。


「大丈夫です、特に予定もありませんでしたし」


 今日と言う日に限っては、正直サハルと顔を合わせずに済んで助かったと思う。

 ふいにぽんと浮かんだ顔を慌てて打消し、膨らんだイブキのお腹に視線を置く。


 すぐに妊娠しているのが分かる程には大きく、まだ三ヶ月経ったか経っていないかと言う所にしては少し大きい気がする。


(確か……奥さんは、五ヶ月位までお腹全然わからなかったなぁ)


 元の世界でのアルバイト先の奥さんを思い出す。


(個人差があるって言うもんね……)


 そういえば、あの時、臨月だったと 言う事は、とっくに生まれているはずだ。……見たかったなぁ、と心の中で呟き 、店長夫婦の和やかな笑顔を思い浮かべる。


 マコトの視線に気が付いたイブキは、ああ、と言う様に自分のお腹を見下ろし た。


「このお腹ね~大きくなったなぁって思うでしょ?」


 ホラ、と手を置くと、ぺたん、と萎む。どうやら胸の下の切り替えのプリーツがお腹を大きく見せていたらしい。


「『イール・ダール』が懐妊なんて、おめでたいから、強調しなきゃいけないらしいわ。布を巻いてもっと大袈裟に! なんてジジイもいたのよ。苦しくて育つモンも育たないつーの」


 顔をしかめてイブキは傍らのクッションを抱え込む。そのやりとりを思い出し たのか眉間には深い皺が刻まれていた。


「大変ですね」


 ぐったりとソファの背もたれに体重を掛けたイブキにマコトは心から同情する 。そもそも悪阻で体調が悪い時期にここまで来るのも一苦労だっただろう。


「マコトは……随分と可愛らしいと言うか……。子供っぽいわね」


 ふと気付いた様に身体を起こし、上から下までマコトの服装を見たイブキは首 を傾げて見せる。

 まさかタイスィールの趣味じゃ……と、せっかく戻った顔色を悪くさせたイブ キに、マコトは苦笑しながら、自分の姿を見下ろした。


 今日は淡い桃色のワンピースで裾野広がったデザインだ。髪も一つに束ねられ ているが、高い位置に括られ大きな飾りがついている。確かにマコトの年齢か らすれば子供っぽいだろう。その上、袖の無いガウンの様なものも羽織っている ので体の線が全く分からない。


「……皆さんの優しさなんですよ」


 幼く見える様に、と続けると、それだけで諭い彼女は気付いた様だった。


「そっか、やっぱ気付かれちゃったか」


 同じ部屋にいたラーダは無言のまま、サラだけが意外そうに目を瞬かせてイブ キを見る。マコトがイブキにだけに本当の年齢を打ち明けていたのが意外だったのだろう 。少し拗ねた様に唇を尖らせたサラにマコトは苦笑する。


「……うん、まぁ。でも良かった」


 そう頷いたイブキはまた表情を変え、今度は服装ではなくマコトの顔をまじまじと見た。その表情はどことなく嬉しそうだ。


「何がですか?」


 意味ありげなイブキにマコトは、首を傾げて尋ねる。イブキは勿体ぶるように 間を空けた後、ラーダと顔を見合わせ笑顔を作った。


「いや、可愛い顔して笑ってるから、安心した」


 にっと猫のように笑ったイブキの思いも寄らない言葉にマコトはますます首を 傾げた。


(可愛い顔……?)


 思わず両手で顔をぺたぺた触りだしたマコトにイブキは、口許に手を置いて吹き出す。続いてラーダも苦笑し、マコトはますます首を傾げた。


「いや、うん……。なんか楽しそうで良かったなーって。慣れない世界で気の利 かない男共に苛められてなくて良かったわ」


 最初は軽く、最後は染々とした口調で言われて、マコトはようやくその意図を察し少し照れた様に顔を伏せた。


「……イブキさん」


 嬉しい。きっと別れてからも自分の事を気にかけてくれていたのだろう。優しい言葉にマコトは嬉しくなったが、そういえば言わなければならなかった事を思い出し、一呼吸置いてゆっくりと口を開いた。


「可愛いかどうかは頷けないですけど、皆さんに良くして貰ってます。……後、 ちゃんとオアシスの占有権も聞きました」


 オアシスで一緒に水浴びをした時の、途切れた言葉の続き。タイスィールが口止めしたのかイブキがそうしよう と黙っていたのかは分からないが、彼女ならきっと気にしてくれていたはずだ。


「えっ……あー……そっか。ごめんなさい。黙ってて」


 驚きに目を見開いた後、イブキは、深い溜息をつき、視線を手に持ったままのカップに落とした。


「……イブキさんが謝る事じゃないですよ」


 おそらくあの場所で聞いても、マコトは猜疑心を深めるだけで、きっと素直に受け取る事は出来なかったはずだ。野盗に拐われ危機に晒されようやく気付く事 が出来た彼等の優しさ。今になって思えばあれすらも結果的には、良かったのかもしれない。首を振ったマコトを見たイブキは、目元を和らげてカップを机に戻すと、静かに続けた。


「あたしが言うより、当事者に聞く方が良いと思ったのよ。タイスィールに聞いた時には、落ち着いて暫くしたら話すって言ってたし」


 確かにその通りだろう。マコトも野盗の一人に告げられた時、せめて本人達の口から聞ければ――と、正直恨めしく思った。イブキも彼等も何も好き好んで隠 していた訳では無い。今なら彼等の葛藤も苦しかったに違いないと素直に思う事 が出来る。


「――そう言えば、北のイルとヨルに会ったと聞いたが」


 しんみりとした空気を変えようとしたのか、それまで黙っていたラーダが、長い足を組み換えながらマコトを見た。


「あ、はい。鞄を持ってきてくれたんです」


 他の一族なのに、誰から聞いたんだろう、と思っていると、イブキも身を乗りだし話題に参加する。ニムの話通り東の一族の中でも美形で有名らしく、サラも加わり、その容貌について一通り盛り上がった――と言っても当事者であるはずのマコトは ひたすら相槌を打つだけだったが。


「で、かばんって? どこかで落としたの?」

「あ、いえ。こっちに来た時に落としたらしいんです。向こうの世界の学生鞄と……あと卒業証書とスケジュール帳とか、大したものじゃないんですけど」


「へぇ、なっつかしい~! ちょっと見たいかも」

「見ますか?」


 顔を輝かせて頷いたイブキに笑ってマコトは立ち上がる。王都に滞在する日程 がはっきりと分かっていなかったので、学生鞄を含めた私物は、この部屋に全て 運んである。


 どこにしまったかな、とマコトが首を回した瞬間、控え目なノックの音が部屋に響いた。サラがすぐに立ち上がり扉を開け、その向こう側にいたのは、イブキについていた女官だった。イブキと目を合わせたラーダは視線だけで頷き、ソファ から静かに立ち上がり女官の元へと歩み寄る。暫く言葉を交わした後、ラーダは 振り返りイブキに声を掛けた。


「イブキ。部屋に頭領が挨拶に来るぞ」


 その言葉にイブキは、げ、と呻いて 机に突っ伏す。そして恨めしそうな上目遣いで戻ってきたラーダを見た。


「……あーもーメンドイなぁ。体調不良で無理って言っといて」

「到着早々、隣に遊びに行く程体調がよろしいようで結構、だと。早く戻らんと、これ幸いとここまで乗り込んでくるぞ」

「あの狸ジジイならやるわね」


 イブキが諦めた様にラーダが差し出した手を取って立ち上がる。

 それほど嫌な相手ならここにいてくれても構わないと思うが、『イール・ダー ル』である自分に東の頭領が直々に挨拶、となるとマコトの一存で決めて良い事 でも無いだろう。結局口を挟む事も出来ず、少し余ったクッキーをサラに頼んで包んで貰い、お土産として渡す。


「じゃ、マコトまたね。ごちそうさまでした」


 ぱちん、と両手を合わせてイブキは深々と頭を下げる。ここでは見ないその仕草を久しぶりに見たマコトは、ほんのりとあったかい気持ちになる。


「……はい。お粗末様でした」

「うわ、懐かしいわね」


 しみじみした口調で返したマコトに、イブキもまた嬉しそうに笑い、二人で顔を合わせると同時に吹き出した。


「あ、また鞄とか手帳見せてね。プリクラとかまだあるのかしらねー」

「ありますよ。そんなに集めてた訳じゃないですけど」

「ははは、楽しみ」


 にこにこ笑いながらマコトは扉の前まで見送った。

 ラーダの影になった廊下は最後の『イール・ダール』の到着のせいか人通りも激しく、扉の横にはいつものようにナスルともう二人が直立不動で立っていた。今度はイブキもそん な彼をちらりと見ただけで何も言わず、ラーダに伴われて出て行く。


 ナスルの表情はやはり動かない。


(仲直り、は、イブキさんと王がしなきゃ無理なのかな……)


 知らず知らずにナスルをじっと見つめていたらしい。


「何か」


 真っ直ぐ前を向いたままのナスルの唇が動き、マコトは慌てて謝ると、逃げる様に部屋に飛び込んだ。





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