第七十七話 王
ナスルと共に部屋に戻ったマコトを迎えたのは、サラだった。
「お帰りなさいませ」
しかし彼女は何も言わず、いつもの様に礼儀正しく頭を下げて微笑む。食事の 用意をしますね、と続けたサラは、やはりサハル同様マコトを責める気は無いらしかった 。
(自分の方が年上なのに……)
その気遣いにマコトは真っ直ぐに駆け寄ると、自分より少し低いだけの少女の 頬をそっと撫でた。マコトの突然の行動に驚いたサラの目が見開かれる。
触れた頬には、ほんのりとまだ熱が残っている。目が赤くないのは、きっと冷 したのだろう。おそらくマコトが気に病まない様にと。
「……心配かけてごめんなさい。怒られたりしませんでしたか?」
暫く頬に触れられた手を見つめた後、くしゃりと顔を歪ませたサラは、ゆっく りと首を振った。
「大丈夫ですわ。マコト様こそ大丈夫ですか? 迷われて不安だったでしょう。 ……申し訳ございません。謝らねばならないのは私の方です。私が出ていった時 に他の女官に部屋に付いているよう頼むべきだったんです」
そんな、と言い返したマコトの言葉をサラはいつになく厳しい口調で遮った。
「早く戻ろうと裏手にいたナスルにも声を掛けませんでしたし、本当に私の手落ちです。ああ、マコト様も誰かに何か」
「いえ、私は……っ」
「お互い様と言う事にしておけばどうだい?」
押し問答になりかけた所で、艶やかな声が二人の会話を割った。
「タイスィールさん」
声のした方を振り向けば、艶やかな長い髪を一つに束ねたタイスィールが扉の 前に立っていた。
「悪いね。何度かノックしたんだよ」
タイスィールはサラに向かって肩を竦めて見せる。勝手に部屋に入ってきた不 躾さを非難しようと口を開きかけていたサラは、バツが悪そうにそのまま唇を引 き結ぶ事となった。
「君達はわりと似た者同士だね。お互いの性格はよく知っているだろう? その辺で切り上げないと夜が明けるよ」
諭す様な口調でそう言い、タイスィールは二人の傍らに歩み寄る。
マコトとサラはお互いを見やって――苦笑した。確かに自分も譲らないし、サラもそうだろう。
「分かりました」
「分かりましたわ」
二人が同じタイミングで返事をすると、タイスィールは、小さな子供にするように両手で二人の頭を撫でた。サラは子供扱いが嬉しくないとでも言うよう口をを尖らせ、マコトは少し照れたようにはにかむ。
空気が和やかになった所で、サラが思い出した様に時計を見て飛び上がった。
「いけない、もうこんな時間ですわ! すぐ夕食のご用意致します!」
そう言って部屋から出ようとして、思い出した様にタイスィールを見た。
「タイスィール様お食事どうなさいます?」
「いやいいよ。お気遣い有難う。お茶だけ頂けるかな」
「分かりました。では少しお待ち下さいませ。先に食事の用意をしてきます」
サラは二人に軽く会釈し、部屋から出ていった。
慌ただしく去ったサラを見送ると、タイスィールがマコトをバルコニーの先の 庭園へと誘った。
「散歩ですか?」
意外な言葉にそう聞き返せば、気持ちの良い風が吹いているよ、と 窓から見える夜空を仰ぐ。
サラが向かった厨房は別の建物なので、用意が整うには 少し時間が掛かるが……だからと言って散策を楽しめる程の余裕は無い。
(もしかして何か……話でもあるのかな)
通気性を高める為に、部屋と部屋とを繋ぐ扉の下は三センチ程隙間が空いている ので防音性は全く無い。意識的に声を潜め無ければ、 部屋での会話は扉の前に立つ護衛に筒抜けだろう。
「――そう。少し散歩に行ってくる。護衛は私が付くから大丈夫」
マコトが了承すると、タイスィールはきちんと扉の向こうのナスルにそう声を 掛けた。扉を締めマコトと目が合うとにっこり微笑む。……これは間違いなく今 日の事は耳に入っているのだろう。
(……もしかして、その事なのかな)
そう思い付き一気に気が滅入るが、思えば誰にも――責められていないのだ。
自分を庇ってくれたナスルの事がタイスィールの耳に入っているとすれば、この部屋から出なければならない理由も分かる。
そもそもこの世界の人間は、自分を甘やかしすぎるのだ。タイスィールにくらい、ガツンと叱られるのもいいかもしれない。
(……それにしてもタイスィールさん見るの久しぶり)
連日ハスィーブに通っていたせいか初日に一緒に朝食を取ってからは、タイスィールと顔を合わせる事は無かった。慣れない環境で見知らぬ 人間が多い中、顔見知りがいるだけで心強く、それ故に少し寂しいと思っていたのだ。
(そういえば……ハッシュさんとサーディンさん元気かなぁ……)
彼らが旅立ってから一ヶ月近く。ハッシュは今までに何度か手紙を送ってくれていた。いつも自分を気遣ってくれる言葉で始まり、そして彼の学生生活が垣間 見える内容で自分の学生時代を思い出し懐かしく思う。
サーディンは音沙汰が無いが、彼を模した猫の人形を四六時中持っているせいか、あまり離れている感じがしない。何よりも彼ならどこでもやっ ていけそうな気がする。……あくまでマイペースに。
少しの緊張を紛らわせる為に、マコトは差し障りの無い話題を探し、口を開いた。
「あの、暫く見ませんでしたけど、お忙しかったんですよね?」
「ああ、ナスルの代わりに親衛隊の穴を埋めているからね」
そう答えたタイスィールがマコトに手を差し出す。 気付けばバルコニーから庭に降りる階段の前だった。
「あ、ありがとうございます」
そっと手を乗せたマコトにタイスィールは微笑んで、ゆっくりと降りていった。
(ナスルさんの代わり……。相変わらず忙しい人なんだよね)
そんな人に時間を割かせ説教をさせる自分が不甲斐ない。
マコトは小さく溜め息をつき、ちらりとタイスィールを伺った。
朧に浮かぶ月で夜空は暗く、部屋から漏れる明かりが点々と道を示す。
マコトが想像していた以上に広い庭らしい。しかしタイスィールは迷う素振りも 無く奥へ奥へと向かう。その動きは散策をする者の早さではなく、 マコトはやはり何かあるのだと、確信を深めた。
「……ぁ」
その速度に逆らう様に、羽織った上着が滑り落ち砂の上に落ちた。それを目に止めたタイスィールは、一旦立ち止まり、マコトが手に取るよりも先にそれを掬い取った。
「……サハルの、かな?」
「あ、はい……ショールを忘れたので貸して頂いたんです」
どうして分かったのだろう、と首を傾げながら受け取ると、 軽く叩いて砂を払う。
自然と俯くと、ふっとその時の事が脳裏に蘇り顔が熱くなる。
(……ああ思い出すな思い出すな)
心の中で自分に言い聞かせていると、マコトの手の中の上着をじっと見つめていたタイスィールが、それを指さし小首を傾げた。
「そうだ。夜にサハルと会う約束があるから返しておこうか」
「え……あ、いえ。洗ってお返ししようと思って……」
(しまったなぁ……なんで着てきちゃったんだろう)
もう日は落ちたし、借り物をいつまでも着ているのも悪いだろう。そう思ってそれを軽く畳み腕に掛けようとした上着を再びタイスィールが取り上げた。つまんだそれを見て、ふむ、と頷く。
「肌寒くなって来たよ。着ていた方が良い」
返事をする間も無くすっぽりと上着を被せられ、マコトは目を瞬いた。そして 、手を通すよりも先に、――足が、宙に浮いた。
「っ……」
気付けばマコトはタイスィールに子供の様に抱え上げられていた。高い視界に 一瞬くらりと目眩がし、傾いた背中をタイスィールの大きな手が支えた。
「タ、タイスィールさん……ッ!?」
お尻にしっかりした硬い腕を感じ、マコトは顔を真っ赤にさせた。
「うん、あまり遅くなるとサラに悪いからね。急ごう」
抵抗しようと服の袖から急いで腕を出す、が、その瞬間を狙った様に タイスィールが駆け出した。咄嗟に安定感を求めてタイスィールの首に 手を回してしまい、余計に顔が近付く。
(近い近い近い……!)
タイスィールの美形っぷりは、心臓に悪い。久しぶりだったせいか心の準備が出来なかった せいか、――いやもうともかく心臓が痛い。
そもそも一体どうしてこんな事になっているのか。散歩などでは なくどこかに向かっているのは確かだが、先程の会話から察するに 抱き上げて運ぶ程急いでいたとは思えない。
「あのっ急いでるなら自分で走れますから……!」
「大丈夫だよ」
近い場所でそっと囁かれて、頬に吐息が当たり肌が粟立つ。
確かにマコトが手を回した事で、タイスィールは右手を空け 左手だけでマコトを抱えて危な気なく走っているので、落とされるとは思ってはいないが、 羞恥心が大丈夫では無い。
降ろしてください! と口を開こうとして舌を噛みかけて 慌てて口を噤む。そんなマコトに構わず、タイスィールは駆けながら ちらりとマコトを見つめた。……何かを含んだ色の付いた眼差しで。
「……マコトはもう少し太った方が良いね」
「……え? ……っきゃ」
突拍子の無い言葉に、マコトは思わず声を上げバランスを崩しかけ、慌てて体勢を整える。しかしタイスィールはいきなり何を言い出すのか。
相変わらずタイスィールの足は止まらず、凄いスピードで進んでいる。これはもう諦めて大人しくしていた方が、早く目的地に到着し開放されるかもしれない。しかし。
(……太った方がいい、って軽いって言う事?)
サハルにも言われたが向こうの世界で言えば標準だし、この世界の人間とは骨格が違う気がする。
……どちらかと言うと年頃の乙女らしく、もう少し痩せてみたいとこっそり思っているのはサハルには内緒だ。……もし かすると、胸が減るかもしれないから。
首を傾げたマコトに、タイスィールは艶やかに微笑んで抱え直す為に右手を腰 に回した。
「この辺り……あまり華奢だと壊してしまいそうだし」
少し持ち上げられ長い睫の下から乞う様に見つめられた後、一呼吸空けてマコトは目を瞬かせ、そして。
「……はぁ」
と、何とも気の抜けた言葉を返した。
(壊れる……? 何か持ってたっけ?)
思い当たるのは、肌身離さず身に付けるようにしている鈴とサーディンから貰った人形だが、それとはニュアンスが違う気がする。そもそも自分が太ろうが痩せようが関係無いだろう。
意味か分からない、とばかりに首を傾げたマコトに、タイスィールは、彼らしくなく、噴き出すように笑い出した。俯いて肩を揺らし、くっくっくと喉の奥で笑 いを収めた後、先ほどとは打って変わった爽やかな表情でにっこりと笑った。
「いやいい。分からないなら。勘ぐり過ぎたようだ」
くすくす笑い続けるタイスィールに、マコトは首を傾げたがスピードを 上げたせいで再びその首周りに齧り付く事となった。
暫くして広場らしき場所に出て、タイスィールは何か探す様に周囲を見渡す。 そして真正面に位置する東屋に目を止めると、マコトをゆっくりと降ろした。
「君に会いたいと仰る方がいるんだ」
耳元でタイスィールはそう囁き、促すようにマコトの肩をそっと押した。
「何も言わずにこんな所まで連れて来て悪かったね。お忙しい方で時間が取れるかどうか曖昧だったし……少し人目も避けたくてね」
(人目を避けなければならない人物……?)
何か話があるとは思っていたが、その相手がタイスィールでは無いという事は考えもしなかった。
促されるまま、その相手がいると思われる場所に向かって 目を凝らせば、東屋 の中の闇がゆらりと動き、一つの影を生んだ。
(あの人……)
長く伸びた手に招かれて、マコトはタイスィールを見る。
――大丈夫。
安心させる様にタイスィールが微笑み頷いたのを確かめると、 マコトはゆっくりと東屋へと足を向けた。
一歩ずつ歩み寄ると共に、男も近づいてくる。 腰まである長い髪に、まず目がいった。そして驚きに目を見開いたまま マコトは足を止め男を凝視した。
闇に混じり、細い月の細やかな光に照らされた部分だけが柔らかな軌跡を描く 。――その髪色は自分と同じもので。
紹介されずとも分かる。
彼は間違いなく――。
「王様……」
ぽつりと呟くと、男は――いや、王は肯定する様に 穏やかな眼差しで微笑んだ。線の細い女性の様な面差しで、どちらかと言えば 親しみやすい顔立ちだった。だが、やはり滲み出る気品…… とでも言うのか風に解れた長い髪を耳に掛けるその仕草すら、 優雅に見える。
よくよく見ればやはり血縁関係があるだけあり、その面差しはアクラムによく似ていて、聞いていた年齢よりも遥かに若く見えた。
(この人が王様……)
一番始めに動いたのはタイスィールだった。地面に膝を付き低く頭を下げる。その動作にマコトは、はっとしてタイスィールに倣い膝を付こうとした。が、そ れを王は穏やかな声で制止した。男性にしては少し高い涼やかな声だった。
「良い。君は『イール・ダール』だ」
「……ぁ……はい」
マコトは中途半端に折った膝を、迷いながも、ゆっくりと戻し立ち上がる。
膝をつく必要は無いと昼間同様分かってはいたが、そうせざるを得ない何かを目の前の王は持っていた。
立ち上がったマコトを見届けてから、王はその後ろに視線を流す。
「タイスィールも楽にしてくれて良い。――少し、二人にしてくれないか」
突然の王の申し出に、自然と身体が強張る。 穏やかな人と聞いているし、顔を合わせた印象も同じだが 話した事の無い――まして王なんて天上人と二人きり で話をするなんて、心臓がいくつあっても足りないだろう。
立ち上がったタイスィールは、王の言葉に笑顔のまま「では、東屋の外にいます」と言葉を返した。
目を離したくはないので、と付け足したタイスィールに、王は口許に手をやり、上品に笑った。
「それはどちらなのだろうな」
「どちらも、ですよ。王」
肩を竦めたタイスィールは、先程と同じ様にマコトの手を取り、東屋の入り口までエスコートする。
よく分からないが、どうやらタイスィールは目が届く場所に いてくれるらしい。マコトは心の中でほっと胸を撫で下ろした。
「この東屋はね、ちょっと変わった結界になっている。姿は見えるが声は聞こえないんだ。身体に害は無いから安心していい」
タイスィールは、その長身を屈めると耳元で囁く様に付け足した。
「苛められたら気にせずに出ておいで……ここにいるから」
その言葉に、マコトは驚いて顔を上げた。
(苛められるって……王様に?)
その理由を尋ねるべきか迷い、マコトはきゅっと眉を寄せタイスィールを見上げた。その視線の先でタイスィールはマコトの手を一瞬強く握り、僅かに眉尻を下げる。
「……そんな顔をしないでくれるかい。手を放したくなくなる」
「え……あ、すみません……?」
タイスィールの言葉にマコトは反射的に謝る。……これは理由を尋ねてはいけないと言う事なのだろうか。
「タイスィール……私が忙しいのは、お前がよく知っているだろう」
既に東屋に入った王がそんな二人を見て、呆れがちに呟く。
どうやら幸いな事に、今の忠告は王の耳には届かなかったらしい。いくら信頼されていそうなタイスィールでも 咎められれば不敬罪になりそうな発言だった様に思える。
タイスィールは溜息を一つつくと、マコトの手をそっと離した。そのままマコトは王に促され東屋に足を踏み入れる。
よく見れば薄い膜の様なものがうっすらと透けて見え、イブキの所で張って貰ったものとは違い特に手応えも当然破る事も無く、マコトは目を瞑ってそこを通り抜けた。
(あ、温かいかも……)
一歩中に入れば砂を孕んだ夜の冷たい風も感じない。風を防ぐ効果もあるのだろうか。外観同様丸く作られた壁に椅子がぐるりと備え付けられており、 柔らかなクッションが立てかけられている。王に勧められるまま その中の一つに腰を下ろすと、王はそこより一人分離れた場所に落ち着いた。
「ナスルだけではなく、タイスィールも君を困らせているようだ」
困ったように笑って、王はその涼やかな眼差しをタイスィールに向け、マコトも釣られるようにそちらを見た。
既に背中を向け周囲を伺っていたらしいタイスィールはすぐに気配を感じたのか、振り返り、やや困った様な微笑みを返し軽く会釈した。
「いえ、どちらかと言うと……私が迷惑ばかり掛けていると思います」
マコトも会釈し、会話も聞こえないのに見つめていては気になるだろう、 と、視線を膝の上で組んだ手の中に落とした。
今日の迷子は特にそうだ。ナスルは汗だくになって探してくれたし、何も言わずに サラとの仲裁に入ってくれたタイスィールだって気に掛けてくれた筈だ。
(……あ、もしかして王様に直々に怒られるのかな……)
ふと思い付き、その可能性の高さにぎくりと心臓が跳ねた。
緊張していると、タイスィールを見ていた王は木の机の両肘を置いた。 ゆっくりと手を組んだその上に尖った顎を乗せ、薄い唇を開く。
「突然騙す様に呼び出してすまなかった。ナスルの事で話したい事があったのだ」
「ナスルさん、ですか?」
予想もしなかった人物の名前に、マコトはそのまま繰り返した。
そんなマコトに王は苦笑し、穏やかな眼差しのままマコトに 向かってどこか茶化す様に小首を傾げて見せた。
「ナスルは手強いだろう?」
手強い――確かに、彼をそう称していいかもしれない。 タイスィールのお陰で大分歩み寄ってくれてはいるが、それでもナスルから話しかけられ会話らしい会話をしたのはお菓子作りの一件のみ。嫌われているのだから 仕方が無いとは思うが、もう少し歩み寄ってくれてもいいのでは、と思う事もある。
そこまで考えて、はっとする。
もしやナスルが、今日の事を王様に直談判でもしたのだろうか。 その上で自分の護衛から離れたいと。
自業自得――砂の地面にめり込む程の勢いで落ちかけたマコトだが、 王はそんなマコトに気付く様子も無く夜の闇に視線を流し口を開いた。
「既に知っていると思うが、アレは人間嫌いだ。しかし君の事だけは『優しい方』と言ったのだよ」
想像もしなかった言葉に、マコトは目を瞬かせた。
ナスルが自分を優しい……? まさか、そんな筈が無い。
目の前の貴人は何か酷い勘違いをしているに違いない。 しかし目の前でそれを否定するには彼の目は真面目過ぎた。 マコトは口を挟む事も出来ず、肯定も否定もせず黙ったまま耳を傾ける。
「あの子は不器用で頑固で……一途なのだ。時々哀れになる位。彼は君 に辛く当たったと聞く。……私が許してやってくれと言うのは筋違いだと思うが ……あまり悪く思わないでやって欲しい」
淡々とした口調で告げられ、王は全てを知っているのだ、とマコトは確信した。
(ナスルさんは王様のお気に入り、ってタイスィールさんが言ってたっけ……)
「王様は……ナスルさんの事、大事にしてらっしゃるんですね」
マコトの言葉に、王は一度瞼を閉じ、唇の端を吊り上げた。綺麗な、そしてどこか寂しい微笑だった。
「……あの子には負い目がある。幸せになって欲しいのだ。あれの兄の分も」
そこまで聞いてマコトは、はっとした。――彼はまだ知らないのだろうか。ナスルが兄と再会した事を。そして今同じ王宮内にいる事を。
マコトは口を開き掛け、そしてすぐに閉じた。
ザキは『スェ』と名前を変え、今や野盗の頭領である。弟であるナスルが王に 何も告げていないのもきっとその辺りの事情だろう。
「しかし君も同じだ。『イール・ダール』も勿論幸せになって貰いたい。無理矢理、ナスルをけしかけるような真似をしてすまなかった。全ては私の我侭だ。タイスィールにも随分嫌味を言われたのだよ」
最後だけは軽い口調で言い、目の前のタイスィールに視線を流す。今度はその広い背中は振り向かなかった。
「……あの、私もう怒ってません。仲直りしたって思ってます」
とりあえず今は、ですけど、心の中でそう付け足す。ナスルは どう思っているにせよ、自分の気持ちはそうだ。
「そうか」
王は少し安心した様に細く長い息を吐いた。
――王は自分とナスルを結ばせたかったのだ。
そう気付いてようやく、嫌がるナスルを護衛に付けた思惑が分かった。
これだけ心を砕いてくれた王には悪いと思うが、こればかりは有り得ないと思う。今までの事を知っているのなら、王もその可能性は薄いと感じるはずだ。
むしろ嫌がるナスルに無理強いして、これ以上ナスルに嫌われたくない。
「他の候補者に気に入った者はいるのか?」
マコトの想いが通じたのか、王は少し間を空けると、話題を変える為かそう尋ねて来た。
「気に入る……」
傲慢な言い方だと思う。自分が『気に入って』しまえば、相手には拒否権も無いだろう。
出来れば愛し愛されたい――そう思って、マコトは一瞬違和感を感じ首を傾げた。
(あれ、……何だろう……)
その答えを知ろうと自然と眉間に皺を寄せたマコトだったが、王が黙ったまま自分の返事を待っている事に気付き、慌てて口を開いた。
「あ、あの……その」
しかし後に続く言葉は声にならなかった。
暫く沈黙が続き、マコトは胸の中のもやもやを吐き出すようにぽつりと呟いた。
「……分からないんです」
それが本音。
好きだと言ってくれる人はいる。サーディンを合わせてもいいなら三人も。
「分からない?」
「……ずっとお世話になっているので、役に立ちたい、と思ってます。でも」
「役に立ちたい、か、なるほど」
王は真面目な顔でふむ、と頷く。
どうやら思った以上に真面目に考えてくれているらしい。
しかもその仕草が見た目とは違い年相応で、とてつも無い違和感を感じさせた。王なのに存外気さくな人柄なのかもしれない。身に纏う 威圧感も気にならなくなり、いつのまにか緊張も消えていた。
しかし王に恋愛相談をするなんて、自分位のものだろう。そう思うとなにやら申し訳ないようなおかしな気持ちになってくる。
王は暫く首を捻っていたが、何か思いついたように手を打った。
「では、その後は?」
「その後、ですか?」
マコトは王の言葉を反芻した。
「役に立って、借りを返して対等になりたいのか? それとも感謝して貰いたい? 後は能力を誉めて貰いたい? 君がいてくれて良かったと求められたい?」
王の言葉にマコトは、一瞬の間を空け、困ったように笑った。
「全部、かもしれません」
内緒話を打ち明けるように呟く。
王は、マコトが心配した様な呆れた顔をする訳も無く、それどころか楽しそうに目を細めて笑う。
「それはまた貪欲な」
「……今言ってて私もそう思いました」
王に釣られてマコトも笑顔を作る。
「……サハルは幸せ者だな」
その笑顔を見て、王はぽつりと呟く。それを耳聡く拾ったマコトは瞬時に顔を真っ赤にさせた。
「えっ……っあの、どうして分かったんですか……っ」
確かに最初はともかく最後は――何となくサハルを想像して言っていた気がする。
声を上げれば、王は笑みを刻んだまま、マコトの上着を指さした。
「それはハスィーブに支給される官服だ。今の時期あまり身に着ける者はいないがな」
なるほど、だからタイスィールも服を見るなり、サハルのものだと気付いたのか。……しかし それならやはりこれは大事な物では無いのだろうか。
マコトは頬を押さえて俯く。冷たい手が気持ちいいという事はかなり赤くなっているのだろう。
(やっぱり私、サハルさんの事気にしてる?)
自問自答してみるが、やはり答えは出ない。いや、どちらかと言うとその先の答えを見つめるのが怖かった。
「ああ、すまない。少し話し込んでしまったな」
王が東屋の外に視線を流し、ゆっくりと立ち上がった。見れば、タイスィールの 他に護衛らしき人間が入り口で膝を付いていた。王は鷹揚に頷いて見せると、 マコトに向き直り、手を差し出した。
「ナスルをだしに私が楽しませてもらった。感謝する。ではまた」
穏やかに別れの挨拶をした王にマコトは別れの言葉を迷った。
さようなら、は長い別れの様だし、少なくとも三日後にはまた顔を 合わせる事になる。そもそも別れの言葉は好きでは無い。 しかし目上の人に相応しいような言葉はすぐに思い付かない。
「あの、私も楽しかったです。……おやすみなさい」
迷った末に紡いだマコトの言葉に、王は少し驚いたように目を瞠った。おかしかっただろうか、とマコトが不安になるよりも先に、王は表情を和らげ、マコトに一歩近づいた。
「おやすみ。良い夢を」
ふわり、と額に口付けられ、今度はマコトが驚く。
タイスィールに声を掛けられ、ようやく我に返ったマコトは、まだほんのりと 熱が残る額を押さえた。
不思議な人――マコトは彼にそんな印象を持った。
*
マコトが東屋から出ると、がさり、と奥の茂みが揺れた。
タイスィールはマコトを背に庇い鋭く声を掛け、少しぼんやりしていたマコトははっと我に返った。
(え、……なに……?)
「誰かいるのか?」
時間を空けず飛び出すように出てきたのは一人の女官だった。
サラと同じ揃いの女官の服を着ているが、マコトは見た事の無い顔で――華やかな美人だった。
「君は……」
「ラナディア様のお付のイルディと申します」
礼儀正しく、女官はまずマコトに向かって綺麗にお辞儀をし、タイスィールに向き直った。
(ラナディア様って、今朝会った……)
もしや近くにいるのだろうか、と、タイスィールの影から周囲を見渡すがそれらしき姿は無く、がっかりする。 勝手に花園に入った事を、出来るだけ早く謝ってしまいたかったのだ。
「……ここには何の用で?」
警戒を緩めたマコトとは反対に、研ぎ澄まされた鋭い声でタイスィール は女官に尋ねた。そこでマコトは違和感に気付く。
「申し訳ございません。ラナディア様の小鳥が逃げ出しまして、それを探しているのです」
「鳥? そう言えば近衛にも要請があったが……風きり羽は切っているのだろう。まだ見つからないのか?」
――そうだ。タイスィールの口調がいつもと違う。
どんな時でもタイスィールは声はどこか甘いのに、今は研ぎ澄まされた 刃の様だ。どこかで聞いた――そう思い、集落でナスルと対峙した時だと 思い出す。
「はい」
自分ならきっとこんな声を向けられれば、恐ろしくて腰が引けてしまいそうだ。しかし女官は、その美しい表情を動かす事もなく、問われた事に淡々と答えていた。
「……分かった。もう良い。行け」
「失礼致します」
女官はまたマコトに丁寧すぎる程の礼を一つ残し、ゆっくりと背中を向け去っていく。小さくなっていくその背中をタイスィールは、何か深く考え込むような眼差しで見送った。
「あの、小鳥いなくなったんですか」
沈黙が続き、その気まずさに耐えかねたマコトは、おそるおそるそう尋ねてみた。
振り返ったタイスィールの表情は、既にいつもと同じものになっている。 マコトはほっとし、こっそりと胸を撫で下ろす。
「まさか一緒に探そうなんて言わないでくれたまえ。……サラがきっと鬼の様に 怒っているだろうしね」
「……っあ」
最後の言葉にマコトは飛び上がる。
そう言えば、食事の支度をして貰っているのだ。すっかり冷めた料理を前に困っているだろう。迷子になって 心配させたばかりなのに、それはあまりに申し訳無さすぎる。
「は、早く帰りましょう!」
慌てたマコトが駆け出そうとすると、タイスィールはにっこり笑って跪く。
「承りました。お姫様」
大袈裟なタイスィールの言葉に眉を顰めつつマコトは、早く行きましょう、と再び促そうとして、言葉を止めた。タイスィールの顔がぎりぎり自分の顔に近づき、息を呑む。至近距離でにっこりと笑ったタイスィールは 再びマコトを――抱え上げた。
「……って、どうしてまた抱き上げるんですか……!」
肩を押して離れようとするが、頑丈なタイスィールの身体はびくともしない。
「だってこうした方が早いだろう。うん。役得役得」
タイスィールは駆け出し、静かな闇にマコトの叫び声がこだまする。
……ついでにその十分後には、怒り狂ったサラの怒号も離宮中に響き渡った。




