第七十六話 鈴と楽園 2
「お先に失礼します」
五時を少し過ぎ、机の前に立った少女は、いつもの様に丁寧に頭を下げた。
真っ白な項が露になり、その拍子にサハルが肩に掛けた上着がずれ落ちる。マ コトが慌てて押さえるよりも先に立ち上がったサハルがその端を掴み、華奢な肩 に羽織らせた。
やはり彼女に自分の服は大きいらしい。初めて会った時にも同じ光景を見て、面映ゆくなったのを覚えている。まだ二月ほどしか経っていないのに、それが随分前の事の様に思え、サハルはその頃から少しずつ変わっていった少女に微笑んだ。
「あの、洗ってお返ししますね」
持って帰っていいですか、と首を傾げる彼女の頬は未だほんのりと色づいている。その原因である事が――嬉しい、と思うのは些か彼女に対して無神経だろうか。
「置きっぱなしにしていた服ですから、どうかお気遣いなく。新しくしようとしていたので処分して下さって結構ですよ」
ハスィーブが外回りに出る時の防寒用の上着だ。ここで引き取っても良いが、その庇護欲をそそる白くか細い肩が他の文官達の目に晒されるのは許しがたい。
男物の外套では年頃の少女としても気になるだろうに、自分の身勝手さに気付く事無く、マコトは困った様に眉を寄せて、とりあえずお預かりします、と曖昧な答えを返した。
「……そうですか。ではお疲れ様でした。明日も宜しくお願い致します」
きっと彼女はきちんと洗うなりなんなりするつもりなのだろう。しかし必要ない、と言った手前彼女は自分の上着をどうするのだろうか。……きっとその処分に困るに違いない、そこまで予想がつき、サハルは苦笑して頷いた。
「はい。では失礼しますね」
マコトはほっとした様に頷き、両手でぎゅっと上着の襟元を握った。
――その手に、触れたい。
繋いで守って慈しんで。きっと己の腕の中で微笑む彼女に、自分はきっと朝も 昼も夜も惜しみ無く愛情を注ぐのだろう。ただの夢想か、未来になるか――未だ 分からない。
サハルはいつもの様に穏やかに微笑んでマコトを見送った。
何もしないでいるのが一番辛いのだと、そう言った彼女の言葉は本心だった。 暇さえあれば誰かに声を掛け、仕事を引き受ける。計算が得意で書類整理も丁寧、よく気が付き、その上仕事も早いのは嬉しい誤算だった。少し頑張り過ぎる所 もあるので、サハルが声を掛け、適度に空気を抜く。それは何もマコトだけでなくハスィーブに所属している人間全てに対しての配慮なので煩わしいと思う事は無い。
愛想は良いがサボりがちなシリスのいい意味での競争相手にもなるし、何より彼女の雰囲気が場を和ませる。好好爺の仮面の下で、出る所に出ればサハル顔負けの狡猾な話術を披露する老人達も、どうやら彼女を気に入っているらしく、孫の様に可愛がっているのが分かる。
(願わくば――このままハスィーブにいてもらいたいんですけどね)
人気が無い為年齢層が高く若さゆえの興味本位の視線も無く、本宮より離れて いる故に他部署の文官もこの場所に滅多に来る事も無い。そして何よりも自分が ずっと見守っていられる。
サハルは溜め息をつき、椅子に深く腰掛けた。
恐らくそれは叶わぬ願いだろう。
今回のハスィーブの手伝いも、長老達を説得するのに随分骨を折ったのだ。前の『イール・ダール』の事件と頭領の『イール・ダールの望みは出来るだけ叶えるように』との言葉が無ければ、いくらサハルでも叶わなかったのだろう。
「よっ! サハル」
溜め息を区切りに仕事を再開しようとしたその時、出入り口から長い影が伸びた。気付けば随分部屋が暗い。定時はとっくに過ぎ、残っていたシリスに明かり をつける様に指示してから、慣れた様にサハルは机の前の椅子を勧めた。
言われるまま腰掛け、何か――いや、誰かを探してきょろきょろ周囲を見渡すカイスに、サハルはペンを置き、カイスを見た。ちょうどいい。彼には聞きたい事があったのだ。
「マコトさんは今しがた戻られましたよ」
「え」
とりあえず間違い無いであろう探し人の名を上げれば、拍子抜けした様に、カイスは椅子の背にもたれ掛かった。
「あー……そっか」
顔を戻したカイスは明らかに残念そうに頷きそうになって、途中ではっと気付 いた様に首を振った。
「いやっ、別にちょっと説教しようかと思っただけで!」
一体何の言い訳なのか、本人はとっくに気付いているだろうに、集落での自分 の告白が思っていた以上に歯止めとなっているらしい。
「彼女なら反省してますから、大丈夫ですよ。寧ろ気にし過ぎて無いと良いんですけど」
自分のちょっとした悪戯に、少しは気を紛らわせてくれただろうか。彼女は良い意味でも悪い意味でも真面目すぎる。あのまま放っておけば必要以上に気にするのは、想像に難くない。
「そっか……そうだよな」
同じ結論に達したのだろう。納得したように頷いたカイスの表情が僅かに曇る。そして忙しいのだろう、勢いよく膝に手を置くとすぐに立ち上がりかけた。そんなカイスをサハルが呼び止める。
「カイス。ナスルとマコトさんの間に何かあったかご存知ですか」
「ナスル?」
「ええ。最近になってあの二人少し距離が近くなりましたよね。今日私がマコトさんの話を聞こうとしたら、反省はしてる、なんて庇ったんですよ」
サハルの言葉にカイスは目を目を瞬いてから、すぐに顔を顰めた。
「そりゃあ、らしくねぇな。……文句も無く張り付いてる理由は、サラに聞いた。マコトがナスルに『命令』したらしい。無視せずに普通に喋れって」
あまりにも『らしくない』単語にサハルは少し考えてから顔を上げた。
「タイスィールの入れ知恵ですね」
サハルの言葉を肯定し、カイスはぼそりと独り言の様に呟いた。
「あいつは何考えてんのかサッパリ分かんねぇよ」
……そうだろうか。
王の命令である以上、ナスルをマコトの護衛から外す事は出来ない。タイスィールはかつての彼からは想像出来ないほどマコトを 気に掛け、慈しんでいる。少しでも彼女に過ごしやすい環境を与えたかったのでは無いだろうか。恐らくそれが出来るのは王にも覚えがめでたく、ナスルにとっても元 上司であるタイスィールだけである。
しかし、仮にも求婚している相手に他の男との橋渡しをするなんてカイスには考えられないのだろう。どうせならマコトから ナスルを引 き離したいと思っているはずだ。しかしそれでは根本的な解決にならない。マコトがどんな道を選ぶにしろこの世界にいる限り一年に一度の王都の滞在は逃れられず、王の護衛をしているナスルと顔を会わせない訳にはいかない。
しかしそれよりも引っかかるのは、ナスルのマコトへの態度の軟化――いや変化、と言った方が正しいかもしれない。
今朝ハスィーブに飛び込んで来たナスルは、さほど広く無い部屋を見渡すと、サハルに何も 言う事無くその勢いのまま踵を返そうとした。額に浮かぶ汗と、ぎゅっと引き結 ばれた唇。ふいに噛み締めたのは焦燥感に違いない。明らかに狼狽したその姿は、冷酷無慈悲な王の親衛隊と呼ばれる 普段の彼からは想像も出来ないものだった。
行方不明だった兄が戻った。……ただそれだけが原因だとは思えない。考えられる可能性としては――自分が恋慕う少女。
「……今更なんだよ」
ポツリ、とカイスが呟いた一言に少なからず同意しそうになって苦笑した。
彼がマコトにした事は忘れていない。マコトが許しても、忘れても、自分は覚えている。目の前の幼馴染も恐らくそうなのだろう。
サハルは慰める様に丸まった背中に手を置いた。




