第七十五話 見えない未来
「……ん……」
誰かの話し声に、マコトはゆっくりと瞼を押し上げた。
寝起きの気だるさから首だけ動かし窓の外を見れば、 視界に広がるのは鮮やかな青では無く、白みがかっ た優しい色だ。まだ日が昇って少しと言う所だろうか。
耳を澄ますがマコトを気遣ってか、寝室の向こうで交わされる会話は、 ぽそぼそと囁く様なもので内容は聞き取れない。
こんな朝早くから誰か来ているのだろうか、と考えマコトは寝台から立ち上がると目を擦り軽く手櫛で髪を整えそっと扉を開いた。 視界に飛び込んできたのはサラの小さな背中、そしてたくさんの色の洪水だった。
「ですから、まだお休み中ですっ」
噛み付く勢いで仁王立ちし、恐らく寝室に続く扉を死守するサラ。そしてその向こうに久しぶりに見るアクラムの姿があった。マコトに気付いたのだろう不機嫌に寄せられていた眉間の皺が浅くなる。
「……起きた」
アクラムの呟きに、サラは、え、と叫び声を上げて振り返る。とりあえず、おはようございます、と頭を下げたマコトに慌てて同じ言葉を返した。
「ああっすぐお召しかえの衣装ご用意致しますわ……っもう、アクラム様のせいで段取りが遅れましたっ」
プンプンと肩をいからせてサラはアクラムを睨みつけてから、小部屋に入っていく。サラが移動した事で一気に広がった視界。部屋を見渡し、目を見開く。
白と青と黄色、それに鮮やかな朱色。壁一面と部屋の至る所に、さまざまな小さな花が咲き乱れていた。花束ならタイスィールから貰った事があるが、それも砂漠の大地では手に入れる事すら難しい、とサラが言っていた事を思い出す。
「えっと……このお花は……」
アクラムが口を開くその前に、サラは衣装を手に小部屋から戻ってきた。あらかじめ用意していたらしい。
「アクラム様が持ってきたらしいです。私が朝食の用意を取りにいっている間に入り込んでらっしゃったみたいで!」
ああやっぱり。半ば予想していた答えにマコトは苦笑いし、衣装を握り締め悔しそうに唇を尖らすサラをとりなし、アクラムの元へ歩み寄る。寝着のままだが、マコトの感覚で言えば丈の長い白い ワンピースであり集落で着ていたものと変わらないので羞恥心は無い。それにアクラムなら気にする事は無いだろう。
「アクラムさん、お久しぶりです。お花、えっと……私に、ですよね? 有難うございます」
アクラムの眉間から完全に皺が消え、マコトを見つめるその瞳が少し和らぐ。
部屋中に敷き詰められてはいるが、花一つ一つが小さいせいか香りはきつくない。タイスィールから貰った花は、一輪でも咲き誇るような華やかで大きいものばかりだったが、アクラムが用意したものは野草の様な小さなものが多かった。
マコトはすぐ側の机の上に飾られた小さな花びらを指先でそっと撫で、可愛い、と 顔を綻ばる。
その瞬間、アクラムは珍しく口角を持ち上げ、サラは苛立たし気に舌打ちする。どちらもマコトからは見えない角度で、前者は無意識、後者は意図的である。
「それにしてもアクラム様が花だなんて、よーく思い付かれましたこと!」
悔し紛れにサラは、何か汚い手を……と付け加えて、アクラムは少しバツが悪そうにふっと視線を逸らした。
「……以前タイスィールに言われた。女に贈るなら花だと」
なるほど、タイスィールなら言いそうな言葉である。
「嬉しくないのか」
ちらりと伺う目線で問うアクラムにマコトは首を振った。量と早朝の不法侵入を 差し引いても……いや、むしろそれすらアクラムらしく、 自分の為を思って用意してくれた事が嬉しいと思った。
「いえ、嬉しいです。本当に有り難うございます」
白い花弁を指先で撫で、マコトはアクラムに笑顔を向けた。しばらくして。
「喜んでくれたなら……嬉しい」
アクラムはぽつりとそう呟くと、マコトが驚く程幼い少年の様な無邪気な顔で微笑んだ。
その珍しいどころか初めて見る彼の屈託の無い笑顔にマコトはおろかサラも驚き、言葉を失う。しかしすぐに我に返ったのはサラだった。 少し悔しげに唇を噛み締め気を取り直すように、こほん、と咳払いし、口を開く。
「でもこんなにたくさんの花どうなさったんです? 花と言えばラナディア様ですかしら? 分けて頂いたんですか!」
叫び声にも近い強めの口調に、アクラムは笑顔を消し、少し鬱陶しそうに眉間に皺を作った。
「……ぁ、王の……」
マコトも我に返り、思いがけないアクラムの表情に不躾ども言える程じっと見つめていた照れ臭さも あってサラの会話に乗る。
確かサハルに聞いた二人目の王妃だったか。まだ若い少女の様な女性だと言っていたが、その中身も花を愛でるのが好きな 愛らしい女性なのかもしれないらしい。
「……違う。あそこの花は好きではない」
「え?」
謎掛けのような言葉にマコトは首を傾げる、が、 アクラムはそれ以上何も言わず黙ったままだった。そんなアクラム に呆れた様な溜息を付きサラが口を開いた。
「ラナディア様が花園を持っているんですわ。国中の花を集めて、 庭の一角に魔法を掛けて保存しておりますの。私も一度お客様のお供で見せて頂きましたけどとても綺麗でしたわ」
何を言ってるのかしら、とでも言いた気な胡乱な目でサラはアクラムを睨む。 そして名案を思い付いたに両手を打った。
「そうですわ! ここからそれほど遠くありませんのよ。 機会がありましたら王かラナディア様にお願いして是非一緒に見に行きましょうね」
砂漠の中の花園――対照的な単語にマコトは興味を惹かれ素直に頷いた。
それから、マコトは一時寝室に戻り、衣装を―― と言っても今日は来客の予定は無く、ハスィーブの手伝いなので、動きやすい装飾が最低限に控えられたワンピースに着替えた。 しかし、集落にいた時に着ていたものとは違う上質な糸で織られたものだ。
やはり白を基調としたデザインに裾と袖に黄色の花の刺繍があり 、腰の所に外から分からない様にポケットがあった。
そこに、キーホルダーとサーディンから貰った鈴を 入れて、支度は完了である。
(ポケットのある服って少ないし、首から吊るす方がいいかな?)
母の形見、お守りの為とサハルにもしもの時に必要だから、と肌身離さず付ける様にはしてるが、 服によっては苦労する事もある。たくさんの貰いものの中に丁度いいチェーンがあっただろうかと 頭の中を浚いつつ、アクラムが待つ部屋へと戻った。
今日はアクラムがいるからと、ナスルは離宮の一つしかない出入り口で守りを固めているらしい。意外な事にナスルの代わりになれる位、 腕が立つのだと、サラは憎々し気に呟き、マコトは苦笑いした。どうやらこの二人はあまり気が合わないらしい。
「お待たせしました。お茶でも淹れますね」
「私が淹れますわっ」
主人の手を煩わせるなんてとんでもない、 とばかりにお茶の用意がしてある場所に向かおうとしたサラに、マコトは首を振った。
「サラさん、申し訳無いんですけど、ハスィーブに伝言頼んでいいですか?」
「え? ……ああ、そうですわね。連絡しておきませんと」
王との会談までさしてやる事も無いマコトは、毎日ハスィーブに顔を出していた。大歓迎ですよ、とサハルは微笑みシリスを含むその他の面々も同じ様に頷いてくれたので、その言葉に甘えていた。通い始めてから既に四日目。今日突然遅れれば きっとサハルは心配するだろう。
最初の言葉で察したらしい、サラは一度頷いたが、アクラムを見て眉を寄せた。
「大丈夫ですよ」
苦笑しつつ、マコトはサラの心配に気付き首を振る。何度も彼とは二人きりになっている。 何でもまっすぐに受け止めすぎるアクラムは、言葉さえ気をつければこちらが構えるような行動はしないし、 何となく彼の行動パターンは予想がつく。まだ不安そうなサラに大丈夫ですよ、と繰り返して、半ば無理矢理送り出した。
「それにしてもお元気でしたか?」
マコトの問い掛けにアクラムは、こくりと頷く。いつのまにかその前には、マコトの為なのだろう軽い朝食が用意されており、 その隣には、杏を干して砂糖をまぶした甘い菓子が籠に盛ってあった。その量は籠に入りきらないほど 山盛りで、アクラムはせっせとそれを摘んでいた。自前なのか離れの女官に用意させたものなのか……。首を傾げつつ マコトは自分の分の朝食をつまみながら、胸いっぱいになりそうだ、とさり気無くそこから視線を逸らした。
「えっと、王宮に滞在されてるんですよね?」
アクラムが西の一族に降嫁された現王の姉の息子だと知ったのは、 集落を出発して暫く経った頃だ。村では無く王都へ、しかもナスルの護衛付き……それを不思議に思い尋ねた結果に驚いた。 しかしよく考えてみれば、アクラムのフードの下から溢れる髪の色はマコトと同じ漆黒。 サラからも大陸では珍しいと聞いていたのに、 むしろそれに全く気付かなかった自分に呆れた。
マコトの問いに、またこくりとアクラムは頷く。それからしばらくして。
「何か聞きたい事は無いか」
と、いつかも聞いた言葉を紡いだ。
そう確か……まだ集落の、初めてアクラムにお菓子を渡した時だった。 今ならあれはアクラムなりの気遣いだったのだろうと分かる。 ……ああ、そんな初めから彼は自分の事を気にしてくれていたのかと 嬉しくなった。
「大丈夫です」
マコトがそう言うと、アクラムはまた間を空け、 そうか、と呟いた。しかし何故か――その眉間に深い皺が刻まれる。
(えっと……何か質問した方が良かったのかな……)
そう思ったマコトは、少し考えてから顔を上げた。
「あの、やっぱり、一つ質問しても良いですか?」
「構わない」
予想は当たっていたらしい。即座に返ってきた答えにマコトは笑いを噛み殺し、神妙な 顔を作ってみせた。
「アクラムさんから見て、王ってどんな方ですか」
「……王」
マコトの言葉が意外だったのか、アクラムはぽつりと呟き、 考える様に黙り込んだ。
「はい、三日後にお会いできるんですけど。だからどんな方なのかと思って」
サハルからは人徳者だと聞いていたし、それ程気難しいイメージ は無いが、血の繋がりがあるアクラムから見れば また違う一面があるかもしれない。それにマコトからすれば一番分かりやすい『偉い人』だ。前もって人となりを 知っていた方が会談の時の緊張も和らぐかもしれない。そう思って 尋ねたのだが、アクラムはむっつりと黙り込んだまま動こうとしない。
それ程難しい質問だったのだろうか、と、思った所でようやくアクラムが口を開いた。
「王と『イール・ダール』は結ばれない」
「え? ……あ、はい。知ってます」
こくり、と頷くとアクラムは指先で転がしていたせいで、ぼろぼろになった干菓子をようやく口の中に放り込んだ。
「ならいい」
はぁ、と間を置きマコトが頷く。
何だろう。若干方向性がずれた気がする。
「あの、私王様みたいな……身分のある方と話した事が無くて……上手く喋れるか、とか失礼が無いかとか心配なんです」
意味合いが通じてないのだろうと、細かく言葉にすれば、アクラムはようやく納得したらしく、鷹揚に頷いて大きく膨らんだ袂から、水晶を取り出した。
「見てやろう」
さほど大きく無いそれを手の中に納め無造作にテーブルに転がし、中を覗き込む。
「……占いですか」
そういえばマコトがこの世界に現れた時も、 アクラムの占いで場所を特定したと言っていた。なら、その信憑性は高いかもしれない。
むっとアクラムの眉間に皺が寄る。思わずソファから身を乗り出したマコトだったが、よく磨かれたその水晶をいくら見つめても、湾曲した自分の顔が見えるだけだ。 ややあって。
「……見えない」
ぽつりと呟いたアクラムに、マコトは首を傾げた。見えない未来。即ちそれは。
「……もしかして私、死んだりします?」
もしここにサラがいれば卒倒するであろう事柄を恐る恐る尋ねると、アクラムは水晶を見下ろしたまま首を振った。
「そういう訳ではない。その類いの気配は感じられない。しかし」
言葉を途切れさせて、アクラムはくるりと視線を動かした。そして最後にマコトにぴたりと視線を止め、「分からない」と呟いて立ち上がった。
「司祭に聞きにいく。邪魔をした」
そう言い残すと長いローブを翻し、扉に向かう。
「え、あ、はい。……あ、お花有難うございました……!」
よほど思い詰めているせいで聞こえないのか、アクラムは振り返る事無く扉を開けるとそのまま出て行った。
「……行っちゃった……」
(占いが出来なくなったって事……?)
山程摘まれたお菓子の山は未だ高いまま。病的とも言える甘味大好きな彼の性格を考えれば、余程の非常事態なのかもしれない。
広すぎる部屋でマコトは一人、アクラムが出ていった扉を暫く見つめていた。




