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第七十三話 ハスィーブ


「おい、あれ……」

「黒髪の……間違いない」


 マコトは少し離れた場所で交わされる会話に、顔を俯かせ歩くスピードを上げた。サハルがいるハスィーブの部屋までもう少しです、と、案内を買ってくれたサラに励まされ、長い廊下を渡る。が、ひっきりなしに絡み付く視線に少々気後れしていた。


(意外に遠い……って言うか、やっぱり『イール・ダール』が出歩くのっておかしいのかな)


 廊下で出会う人は、文官らしき線の細い男性が主なのだが、擦れ違う人全てが端に寄り足を止め、マコトに道を譲ろうとする。ちなみに、伺うような視線と言葉だけで近付いて来ないのは、その後ろに続くナスルが、冷たい目で周囲を威嚇しているからだったが、生憎マコトは気付いていなかった。


(ドーラさん以外の『イール・ダール』にもまだ会えなさそうだし……)


 基本的に部屋から出ないマコトが、偶然他の『イール・ダール』に会う可能性は低い。隣は嬉しい事に顔見知りだと考慮されたのか東の『イール・ダール』であるイブキだったが、体調不良で遅れているとサラが顔見知りの女官から聞いてきてくれた。やはり身重の体に砂漠の旅は辛いのだろう。


 いくつか角を曲がると、壁の色が真っ白から、薄い水色に変わった。廊下に等間隔で備え付けられている明かりや扉の飾りも幾分落ち着いた物になり、それに比例して人影もまばらになる。


 磨かれた廊下の一番奥の部屋から出て来たのは、件のサハル。


 マコトを見とめると、軽く手を振り、ゆっくりと歩み寄ってくる。 見ると脇に帳面を二、三冊抱えており、予想以上に忙しそうだ。 張り切って朝から来てしまったが、もしかして忙しい時間だったのかもしれない。


「もう来て下さったんですね。おはようございます」


 サハルは短く挨拶を返すとすぐ近くにいた文官に手にしていた書類を渡した。

 彼は『イール・ダール』の存在に驚いた様な顔をしつつも、すぐにぺこりと頭を下げ、忙しそうにマコトの脇をすり抜けて行った。


「皆さん、頼もしい助っ人が来て下さいましたよ」


 サハルはマコトの手を取ると、開いたままの扉の前に立った。


「え―~っなんスか。頭が固いだけの武官はもうコリゴリ……っス、って……あ?」


 そこからひょいっと顔を出したのは、マコトと同じ位の青年だった。そばかすを浮かせた愛嬌のある顔立ちでマコトの姿を見とめるなり眉間の皺を深め、まじまじと見つめる。それからナスルを見て、サラを見てそしてまた最後にマコトを見てぱかっと 口を開いた。


「イイ『イール・ダール』……っなんでここに」


 びしっと人差し指を突き付けた青年に、マコトでは無く、サラの眉間に皺が寄る。そして不躾な青年に、穏やかな笑顔の上司から容赦のない拳骨が振り落とされ、その場に沈んだ。


「朝礼で言いましたよ。貴方が遅れるからです。遅れたなら遅れたで申し送りを誰かに尋ねるべきでしょう」

「ったぁぁあ……っだって、いっつもオレの仕事に関係無い話ばっかじゃないスかっ」

「同じ部署の話なのですから、回り回って貴方にも関係してきます。さぁ、まだ机に今期の決算の書類が残っているでしょう」


 そう言うとサハルは青年の背中を押した。遠慮の無い……まるでカイスとのやりとりの様な一幕に自然と肩の力が抜ける。


 マコトは小さく深呼吸すると、昨日作ったケーキを差し出した。


「あの、良かったら皆さんで食べて下さいね」

「おや、嬉しい。マコトさんの手作りですか。お茶の時間に頂きますね」


 問いよりは確信に近い響きの言葉に、マコトは、ええっと……と曖昧に言葉を濁した。

 慣れない器具に四苦八苦していたマコトと料理初心者のサラが、スムーズに進行出来る訳も無く、……恐らく黙って見ていられない位相当危うかったのだろう。


 早い段階でナスルの手を借りる事となり……むしろ自分と言うよりはナスルの手作りと言っていい。手際も良く目分量でマコトの知らない調味料を躊躇い無く入れて、あっと言う間に生地はオーブンの中にしまわれた。

 サラは無言で進めるナスルに文句を言ったが、マコトはその慣れた手付きとスピードにただ感心するのみだった。


「ナスルさんに手伝って……と、言うか作って貰ったんですよ」


 さすがに図々しく頷く訳にはいかない。とりあえず自己申告して見れば、サハルの目が意外そうに数回瞬き、視線がマコトの背後へと移動した。くすり、と小さく微笑んだサハルに、もしや言ってはいけなかったのだろうか、と後ろを振り向き――後悔した。


 最初を思い出させる様な眉間の皺。

 ――思いきり睨まれている。


(うわ……言っちゃ駄目だったのかな……!? お菓子作りだもんね。あんまり知られたくない事なのかも)


 マコトは純粋に凄いと感心したのだが、思えばお菓子である。積極的に 男性が作るものでは無いだろう。

 ……失敗した。せっかく少しは歩み寄れた気がしていたのに。


「……えっと、お茶の時間なんて、あるんですね」


 後で謝ろうと心に刻み、話題を変える為にマコトは正面に向き直りサハルに尋ねた。思惑を察したのだろう。 サハルはケーキを受け取り軽く頷く。


「ええ。適度な休みは効率を上げますからね。四時にお茶の時間を取っているんです」


 そこまで言うと、マコトの傍らに立つサラに視線を向ける。


「ではサラ、マコトさんはここで責任を持って預かります」


 そっと肩に手を置かれ引き寄せられ、てっきり一緒にお手伝い をするのだと思っていたマコトは少し驚く。サラも同様に驚いた様にサハルを見た。


「貴女も久しぶりに戻って来たのだし、色々準備や整理、挨拶に回らなければいけないでしょう。……マコトさんの為にもね」


(そっか……サラさん忙しいよね)


 言われて見れば確かに、サラはマコトの身の回りの世話をした後は、落ち着く事無く動き回っている。そんなサラに自分の我が儘に付き合わせるのは些か気が引けた。


(気付かなかった……。長年勤めてたって言ってたし会いたい人もいるよね)


「サラさん。私からもお願いします」


 マコトがそう言うと、サラは少しの迷いを見せた後、小さく溜め息をつき頷いた。


「分かりましたわ。マコト様。では夕刻に迎えに参りますわね」


 サラはそう言うと、よろしくお願いします、とサハル頭を下げ何度も後ろを振り向きながら元来た道を戻っていった。


「さてと、君はどうします?」


 残るナスルを見て、サハルは尋ねる。


「警護を任されている以上、離れる訳にはいかない」

「……あの、ナスルさんもお忙しいでしょうし、いいですよ?」

「ここで外されても仕事がありません」


 マコトが口を挟むと、ナスルは視線を落としそう答える。 ぶっきらぼうながらも普通に交わされる会話に、サハルは少し驚いた様に目を瞬かせ暫くの間を空けた後、再び口を開いた。


「では、君にもお手伝い頼みますね」


 にっこりと微笑むサハルに、ナスルは無表情のまま頷いた。


 サハルに案内され足を踏み入れたハスィーブの部屋は、机と膨大な書類が並んでいた。とりあえず 今部屋にいるのは八人。先程出てきた青年以外は、五十代、六十代の白髪混じりの男性で固められ和やかな雰囲気だった。 そのせいかここに来るまでに感じた居心地の悪い視線は感じず、マコトは心の中だけで ほっと胸を撫で下ろした。


 奥には本棚だらけの書庫らしき部屋。

 机の配置は変わっており、部署の長であるサハルの机は――下座。扉から一番近い場所にあった。聞けば剣を扱えるものはサハルしかおらず、その他の色々な事情と兼ね合わせてもこれが一番効率が良いのだと曖昧な 答えを貰い、マコトは首を傾げた。


 ……よく、分からないが、サハルがこういう以上何か意味があるのだろう。

 マコトに任されたのは、どこかの予算らしき数字の集計。


「はい。ではこちらをアーダに、ええ」


 そして、ナスルに任されたのは、各部署への伝達……言うなれば使い走りだった。しかし冷酷非道と噂されるナスルに直接手渡されれば、どの部署も受け取りを拒否する猛者などいる訳も無く、サハルは今まで拒否されいつまでも未処理の棚に収まっていた、督促状、補正予算その他諸々を全て彼に押し付けた。


 効果は思っていた以上にあり、一時間後には手ぶらで返ってきたナスルに、ハスィーブの老人達は涙を流して口々に礼を言ったが本人は顔を顰めるだけでされるがまま。老人達の細い両手を、力任せに振り払う訳にもいかず、その場に立ち尽くしていた。


「お疲れ様でした。さぁ次は、書庫の整理をお願いしますね」


 老人達から逃げる様に、報告に来たナスルにサハルは、部屋の一番奥にある書庫を指差し、リストを手渡す。

 その位置を視線で追ったナスルは、少し迷う素振りを見せた。


「大丈夫です。マコトさんの席はその書庫の前ですし、君からも十分見える位置です。元々この部屋に窓はありませんし、出入口は私の机を挟んで奥ですから」


 あらかじめ用意していたのだろうかと思える程、淀みなく説明をし、サハルはお願いします、とたたみかける。

 やや、納得いかない顔をしながらも、ナスルは一瞬マコトを見てから、分かった、と答えた。



「ナスル様、即戦力じゃないスか。サハル様の力で親衛隊から引き抜いて貰って下さいよ」

「そうしたいくらいですけどね。彼はきっと王の側を離れたがらないでしょう」


 書庫の中に納まったナスルを見て交わされるサハルとシリスの会話を聞き、そういえば、と集落で彼のゲルに泊まった時の事を思い出す。


『この命に代えてお守りする方だ』


 確かにナスルはそう言っていた。

 彼が主従関係を越えて王を大事に思っている事はマコトも知っている。もしかしくとも、今この瞬間も自分では無く、本来の仕事である王の護衛に戻りたいのでは無いだろうか。


(やっぱり私からナスルさんに護衛代わって貰う様に、王様に言った方がいいのかな……)


 しかし肝心の言い訳が思い付かない。理由も無しに切り出せば、ナスルに不満があるようだし、また罰を与えられても困る。 ちらりと背後の書庫を伺うと、ちょうどこちらを見ていたらしいナスルと目が合ってしまった。気まずさに曖昧に笑って視線を逸らした後、マコトは立ち上がりサハルの机に向かった。


「あの、お話中すみません。これ終わりました」

「っえ……ッ! ちょっはや……ッ」


 シリスは目を丸くさせ、マコトの手の中にある書類を覗き込む。何と言うかシリスの反応は、見慣れたクラスメイトの男子の様で、どこかほっとする。

 シリスからサハルへ書類は回り、書類をめくる。


「思っていた以上にお早い。それにきちんと日付順に並べて下さったんですね」

「見本に頂いたものが、そうだったんで」


 何気ない顔して頷いたが、かなり注意してチェックしたのは確かだった。


「有り難うございます」


 感心した様にそう言われれば、嬉しく無い訳がない。

 マコトは自然と緩む顔を慌てて引き締めた。


 ……そもそも目の前の彼は、人を誉める事が上手だと思う。気遣いはもちろんの事、頑張っていればそれだけ認めてくれるので、次も頑張ろうと思える。……理想の上司と言うのはサハルの様な人間を言うのかもしれない。


(そういえば料理も誉めてくれたっけ……)

 イブキの夫であるラーダに教わった基本的な料理。初めて朝食を作った時も、それはもう大袈裟だと思う程誉めてくれた。


「では、こちらの封書を開けて整理して貰えますか」


 机の隅に置かれていた封書の束を入れ物ごと手渡すと、慌てたように席に戻ろうとしていたシリスの首根っこを掴んだ。


「シリス。君が入ってきたばかりの時に使っていた担当者別の一覧表まだ持っていますか」

「え? あ、ちょっと待って下さい」


 自分の席に駆け戻り、がさごそと引き出しをひっくり返す。その慌ただしさに、マコトは苦笑したがサハルは眉間の皺を深めて溜息をついた。


 暫くして駆け戻ってきたシリスが持っていたのは皺くちゃの紙だった。 マコトは有り難うございます、と礼を言って受け取り、サハルの机の上の封書を取ろうとした、が、それよりも早くサハルが箱ごと浚った。


「封書よりこの箱が重いんですよ」


 どうやら席まで運んでくれるらしい。恐縮しつつもその後に続き促されるまま席に座った。


「引き出しにナイフが入ってますから、表の通り分けて貰えますか」


 シリスから預かった表を置いて頷く、がサハルは戻る様子を見せなかった。


 見られていると思うと緊張するのが人の性だ。引き出しを開けてナイフを取り出す。 ペーパーナイフと言うよりは普通のナイフそのもので、手に取ってみると細かな細工のせいかかなり重い。


 見よう見真似で刃を滑らせたその時、「あっ!」という、シリスの叫び声と椅子がひっくり返る派手な音が部屋に響いた。


「……っ」


 思わず顔を上げたせいでナイフの先が左手の親指をかすった。そろりとナイフを下ろすと、親指にぷっくりと赤い玉が浮かぶ。


「すみませんっそういや、ナイフ切れ味悪かったから交換した……って」


 あ、とシリスの表情が強張った。


「びっくりさせてすみませんっ! うわ、どうしよう……っ切ったんスよね!?」


 大丈夫です、とシリスに言ってから、マコトは手紙を見下ろす。


(……良かった。手紙に付かなかったみたい)


 ほっとしたその瞬間、ぐぃっとその手を掴まれ持ち上げられた。


「サハルさん……!?」

「気を付けて下さいね。シリス、君ももう少し落ち着きを覚えなさい」


 指先をより分けた親指をそっと咥えられて、一瞬、息が止まった。

 指の先にあたる固い歯。きつく吸われて、頭が働かないままじっと見上げていた。伏せられた 大地の様な柔らかな瞳が、ゆっくりと持ち上がり、目が合う。薄い唇の端が微かに上がった気がして そっと外された。


 指先は、切った時よりも赤く熱い。

 逃げる様に机の下に戻した指先を見下ろし、真っ白になった頭で必死に言葉を探した。


(な、何か言わなくちゃ……)


 いや、でも何を。……違う。言わなきゃいけないのはお礼だ。


「……なんスか。二人共いい雰囲気ですねー。なんだかんだとデキてんですか。『イール・ダール』も顔真っ赤だし、それってバリバリ意識してるんスよね」

「え」


 指から顔へと視線が動き、ばっちりと目が合った。顔に血が集まるのが分かる。


「ぅ……ぁ……ちが…ッ」


 恥ずかしい。

 サハルは怪我をしたから気遣ってくれただけで、勝手に一人で意識して勘違いしているようだ。

 視線を逸らした先に時計が見える。時間は四時を少し過ぎた所で、マコトは勢いよく立ち上がると、 サハルとシリスの間に視線を置き早口で捲し立てた。


「あの、四時だし、お茶の時間ですよね……っ私淹れてきます」

「……そうですね。お願いします」


 サハルの返事を聞くなり、マコトはくるりと身体を返し書庫の隣の部屋へと逃げる様に駆け込んだ。




「ひゃ~~耳まで真っ赤じゃないスか。『イール・ダール』」


 サハルの隣に並んだまま、台所に駆け込んだマコトを見送りシリスは隣を見た。


「シリス。君もたまにはいい事言いますね」


 口許を拳で覆い、嬉しそうに微笑むサハル。


「……色々頑張った甲斐がありましたかね」


 机に置かれたままのナイフを持ち上げて、使い込まれた自分の物と取り替える。


「や~オレ。タイスィール様も『イール・ダール』に求婚してるって言うから、うちの長なんて地味すぎて勝ち目ないだろーって思ってたんスよねーでも脈有りじゃないスか。良かったっスね」


 邪気の無い笑顔で答えたシリスに、なんだかんだと手を動かしながらも耳を大きくさせていた周囲が固まる。


 ……上司に向かって地味は無いだろ。地味は。

 しかしそんな生温い視線に、空気が読めないと定評があるシリンが気付く事も無く。


「……君の机の二番目の引き出しに溜まってる報告書、もう二、三日待ってあげようかと思ってましたけど、止めておきます。今日中に提出して下さいね」


 にっこりと微笑んだ上司に、シリスの笑顔が凍りつく。何故それを――と、口を開きかけた所で、サハルはより一層、笑みを深くした。


「っ……頑張りまっす……」


 ハスィーブに勤めて約二年。今までで一番その笑顔が怖かった、と彼は後に同僚に語った。




* * *



 逃げ込むように飛び込んだ台所は縦に細長い作業場のようだった。

 身体を支える様に作業台に手を置き、もう片方の手で胸を押さえる。心臓は耳のすぐ近くにあるのでは無いかと思える程、 うるさく鼓動を刻んでいた。 


(と、とりあえず、うん。……ちょっと、落ち着こう……!)


 大きく深呼吸しながら、そう自分に言い聞かせる。 頬を両手で押さえれば驚く程熱く、その事実にますます焦りが募って 視界まで滲んできた。

『それってバリバリに意識してるって事っスよね』

 そんな中でシリスの言葉が耳から離れず、ぐるぐると頭の中を駆け巡る。


(ああ……どうしてあんな事言うかな……)


 ……意識、している? 自分が?

 つまりそれは自分がサハルの事を男性として意識していると言うか、少なくとも第三者であるシリスにはそう見える訳で。


(ぅ……わぁ、恥ずかしい恥ずかしい……っ)


 自分がサハルを意識するなんて、おこがましいと言うか恐れ多いと言うか何やら申し訳無さが先に立つ。


(あれ、でも)


 違う。間違えた。彼は自分の事を好きだと言ってくれたから、迷惑では無いはず。


「……え……?」


 戸惑いが言葉になって口から零れ落ち、マコトは電池の切れたおもちゃのように、ぴたっと動きを止めた。


「……えっと……?」


 サハルは自分の事を好いてくれて、自分は彼の行動に狼狽えていて……。


「……」


 彼があの時、どんな顔をしていたのかなんて見る余裕も無かった。


(……っ違う! あんな事されれば誰が相手でも照れるから!)


 だから自分の行動は何もおかしくない。無理矢理そう思い込もうとしてうまくいかず、ますます顔は熱くなる。


「っ取りあえず今はお茶を淹れるのが先!」


 マコトはぶんぶん首を振り、ぐちゃぐちゃになった頭を強引に真っ白にする。……とりあえず考えるのは後だ。これではいつまでたっても顔の赤みが取れない。時間が掛かれば サハルはまた心配して様子を見に来てくれるだろう。出来れば落ち着くまで彼と顔を合わせたくない。


 赤みを引かせようと、クリーム色の天井に顔を向けパタパタと両手を振り風を送った。


「平常心……平常心っ」


 天井の染みを一つずつ数えながらぶつぶつと呟き続ける。その数が百を過ぎたあたりでマコトはようやく顔を元に戻し両手で頬を軽く 張って気持ちを切り替えた。そして、改めて自分のいる小さな台所を見渡す。小さいながらもよく磨かれた清潔な 作業台と洗い場、足元には水桶が置いてあり、壁と作業台との距離は横にならなければ擦れ違えない程の幅しかない。


 しかし。


(アパートの台所に似てる……)


 その狭さは妙にしっくりと身体に馴染み、居心地の良さを感じた自分の庶民っぷりに苦笑する。


(会社の給湯室って感じ、かな)


 実際に入った事は無いが、そんなイメージである。


 しかし、お茶の用意をすると言ったものの、勝手に棚やら引き出しを開 けていいものか――今更ながら迷っていると、給湯室の扉の向こうから 賑やかな足音が近づいてきた。開け放たれたままの入り口から飛び込んできたのは、マコトが台所に 逃げ込む原因となったシリスだ。


 マコトと目が合うとシリスは「手伝います!」と、引き攣った笑顔で言った。 その顔色は先ほどと比べて青白く、何故か入ってきた出入口をしきりに気にしている。さっきの今で気まずかったが、明らかに挙動不審であるシリスの態度の方が気にかかった。


(もしかして仕事が残っているのに、手伝いに来てくれたのかな……?)


 サハルがまたいつもの気遣いを見せてくれたに違いない、そう思いマコトは遠慮がちに口を開いた。


「あの、茶葉と器の場所さえ教えて頂ければ、一人でも大丈夫ですよ」


 マコトがそう声を掛ければシリスは、えっ! 大袈裟に声を上げ、ぶんぶんと顔の前で両手を振った。


「いえっむしろちょっと匿って欲しいというか。仕事してても背後からの視線が痛いと言うか」

「……匿う、ですか」


 聞き慣れない言葉をマコトが反芻すれば、シリスは、ひっと悲鳴の様な叫び声を上げ、さらに首を振ってマコトに詰め寄った。


「いやいやいや、すんません今の聞かなかった事にして下さいっ」


 ぺこぺこと頭を下げるシリスの行動は愛嬌のある顔立ちと相俟って実にコミカルである。シリスに先程の話題を引っ張る気は無いと分かると、マコトは気持ちを立て直し、話題を変える為に茶葉や器の位置を教えて貰った。


「有り難うございます。えと、シリスさん?」


 呼び方に困り無難にさん付けで呼び掛けると、あまり広くない台所の隣に立つシリスは、嬉しそうに笑った。


「オレこそ助かりまっス。休憩のお茶汲みは下っ端の仕事っスから」


 そう言って八重歯を見せる彼は、やはり親しみやすい。発言は多少気になるものの、彼はきっと堅苦しくなりがちなハスィーブの中ではきっとムードメーカー的な存在なのだろう。





「今日は涼しいし、バルコニーでお茶にしようって長が言ってますけどいいっスか?」


 マコトが淹れたお茶の第一陣を持っていったシリスは、空っぽになったお盆を手に台所に戻ってきた。


「ええ、大丈夫です。バルコニーって遠いんですか?」


 遠いならお茶のポットごと運んだ方がいいかもしれない、とそう尋ねれば、シリスはマコトが運ぼうとしていた第二弾の器が乗ったお盆を ひょいと取り上げた。


「結構重いっスよ。オレ入りたての時運んでる途中で溢してよく怒られたンすよねーなんでか、そんな時に 限って重要書類の上とかに。……あ、場所はすぐ隣っス」


 その時の事を思い出したのか、シリスは大袈裟に首を振り、 天を仰いで呻く。……片付けようとして被害を広げそうなシリスと 笑顔を浮かべたまま静かに怒るサハル……すぐに想像出来てしまったマコトの顔に思わず 笑顔が浮かぶ。


 有難うございます、と頭を下げればシリスは、いや別に大した事じゃ、と焦ったようにぶんぶんと首を振ってから、間を置き、あー……と呻いて口をもごもごと動かした。


 ぶつぶつと「相手が悪いから! オレ死ぬから!」と呟く シリスに首を傾げつつ、マコトは一口サイズに切り分けたケーキを持ち、彼の後に続いた。


 落とさないように足元を見ていたマコトは扉から伸びる影に気付き、顔を上げる。 給湯室の出入口にはいつのまにいたのかナスルが立っており、マコトが出ると組んでいた両腕を外し後に続いた。


(そっか、私の護衛だもんね)


 いつでも目の届く場所にいなくてはならないのだろう。ナスルも 書庫で仕事をしていた筈なのに、振り回してしまったかもしれない、と、謝ろうとして途中で止めた。


 彼はこんな事でいちいち声など掛けて欲しくないだろう。迷いながらも結局マコトは会釈だけし口を噤んだ。


 背中越しに確かな視線を感じ少し緊張しながらも、マコトは部屋を見渡した。

 バルコニーに出ているのはサハルのみで、他の文官は自分の机で休憩するらしい。マコトは小さな紙に一つずつ切り分けたケーキを手に机を回った。


「これはこれは……『イール・ダール』手みずからお作りになった菓子なんて、寿命が伸びますなぁ……」


 にこにこしてお茶を啜る温和な老人達に挨拶がてら配り、一言三言会話をかわす。そして全部配り終わった所で、マコトはサハルと自分そしてナスルの お茶を淹れバルコニーに出た。


 井戸とかろうじてその周辺に生えているのは椰子の木とサボテン。それに 小さな黄色い花が点々と無造作に生えており、建物と建物に挟まれ 柔らかな風が吹き抜けマコトのスカートの裾を揺らす。 あまり広くないせいもあるのだろう、華やかとは言い難いがどこかほっとする景色だった。


 備え付けられた小さなテーブルには穏やかな表情のサハル、それにいつのまにかやってきたのか、三日振りに顔を合わせる―― カイスが座っていた。長い袖を肩まで捲り上げ、うっとおしそうに足を組んでいる。不機嫌そうに裾を折っていた 彼だったが、マコトが近づいてくると、表情を和らげ体を起こした。


「カイスさん!」


 マコトの呼び掛けに、カイスは よ、と軽く手を振り椅子ごと身体をマコトの方を向いた。王宮という場所柄のせいか集落 にいた時よりも、やや落ち着いた袖や裾の長い衣装を身に纏っており 、黙ってさえいればやはり父である頭領とよく似ていた。


「こんにちは。こちらに来てらしたんですね」


 カイスは頭領の補佐として、一族の管轄である王都の西周辺の道路の 整備や来賓の出迎えなど祭りの準備で忙しくしている……と、タイスィールに教 えてもらったのは今朝の事だ。しばらくは顔も合わせる事も 難しいだろうと思っていたので、少し驚きつつも笑顔を返す。 きっと自分の事を心配して、忙しい中様子を見に来てくれたのだろう。


「おう、お前も元気そうだな」


 にっと笑ったカイスに、有り難うございます、とお礼を言って自分の分のお茶をカイスの前に置く。


 サハル、ナスルの分と机に置き、振り向いて後ろに立つナスルを見たが……いつのまにか彼の姿が消えていた。視線をさ迷わせたマコトに、サハルはああ、と頷いて立ち上がり、マコトの為に椅子を引いた。


「ナスルには用事を頼んだんです。すぐ戻って来ると思うので先に頂きましょう」

「そうなんですか?」


 では、わざわざマコトがお茶をここまで運ぶのを待ってくれたのだろう。 しかしここから給湯室まではほんの少しの距離だ。 そこまで神経質にならねばならない程、『イール・ダール』 の近辺は危険なのだろうか。


 お盆を机の脚に立て掛け、サハルにお礼を言って椅子に腰掛ける。

 その間、じっとマコトを見ていたカイスが、なぁ、と遠慮がちに声を掛けて来た。


「はい」


 珍しい態度にマコトは首を傾げつつ、カイスの方に身体を向けた。


「いや別にそんなかしこまらくていいって……ぁ~……、あ! 王宮広くて驚いたろ」

「はい。一人だと迷子になっちゃいそうですね」

「やりそうだよな~お前」


 カイスの言葉にマコトは控え目に笑って受け答えをする。サハルは口を挟む事なく二人の会話を穏やかに見守っ ていた。


(良かった……。カイスさんのおかげでサハルさんの事意識しないでいられる……)


 どうやらシリスは部屋の中でお茶を飲む様で、こちらに来る 気配は無かった。と言う事はカイスが来てくれなかったら サハルと二人きりだったのだろう。……本気で助かった。


 こっそりと様子を伺えば、彼は先程のやり取りなど無かった様にいつもと同じく穏やかだ。気まずいままに終わる事がなくて良かった。明日も手伝いに来る予定なのに来辛くなってしまう。


 頭領についてあちこち見回っているだけあって、 カイスの話題は尽きる事は無い。サハルの上手な相槌のおかげも あってお喋りも弾み、もうすぐサラの迎えの時間になろうとした時、よく響く朗らかな声が背中に掛かった。




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