第七十二話 在り方
ドーラを見送った後、マコトは少し早目の夕食を取り、備え付けの浴場で簡単に汗を流すと、そのままベッドに入った。
西の村よりも大きな寝台に落ち着かなく暫くごろごろしていたが、やはり旅の疲れが出たのか気付けばすっかり眠っていたらしい。
甲高い鳥の声。
それは集落でも村でも聞いた事が無く、城の庭で飼っているという賑やかなそれが王都初日の目覚ましとなった。
(よく寝た……やっぱり私って図太いのかな……)
大の大人が五人は眠れそうなベッドの真ん中で、腕を組み伸びをする。
実際、王との面会は三日後とサラに伝えられていたので、 緊張するには聊か先過ぎた。
隣の小部屋に控えていたらしいサラに支度を整えて貰った所で、扉の外で夜中から護衛に立っているのがタイスィールだと聞き、マコトは支度を終えるとソファから立ち上がった。
「挨拶して来ますね。あの、タイスィールさん朝食に誘いたいんですけど、食事の用意って増やせますか?」
「そう仰ると思いまして用意してます」
どこか誇らし気にサラは微笑む。マコトは、読まれてるなぁ、と苦笑しながら有り難うございます、とお礼を言って、そっと扉を開けた。
「やぁ、おはよう」
壁にもたれかかり、長い足を組んでいたタイスィールの、寝起きには眩しい笑顔に、マコトはぎこちなく笑みを返す。
「お疲れ様です。良かったら朝食一緒に食べませんか?」
マコトの申し出にタイスィールは、艶やかな笑顔で、ぜひ、と身体を起こした。
(そういえばタイスィールさん昨日、見なかったなぁ……)
西の村での護衛はずっとタイスィールだったが、昨日は朝からその姿を見なかった。
サラと給仕係らしき女官がテーブルに三人分の食事を並べていく。
トマトの様な酸味の強い匂いがして、鍋を覗き込めば、ポトフの様な豆のスープだった。
(美味しそう……)
大体が保存食だった集落の食事と比べれば、西の村も食材が 豊富だと思ったが、王宮はもう一つ輪を掛けて豪華である。 朝から揚げ物は少々荷が重いが、その鶏肉も干し肉とは明らかに違う柔らかさがあった。
(もしかして今朝の……食用だったりするのかな)
今日の目覚ましを思い出し、自然と手が止まると、同じく席に着いていたサラが、お口に合いませんか? と、気遣わし気に首を傾げたので、マコトは慌てて首を振った。
「いえ、美味しいです。その……タイスィールさんは今朝こっちに来られたんですか?」
誤魔化すように話題を変える。器用にフォークだけて鶏肉を削いでいたタイスィールは、顔を上げて、いや、と首を振った。
「昨日だよ。朝早く出発した頭領とカイスの護衛に回されたんだ。挨拶も出来なくて悪かったね」
「いえ、私は大丈夫です。でも護衛って……」
カイスも剣が得意だと言っていたし、頭領にはいつも護衛が付いていたはずだ。その上タイスィールも加えられたと言う事は、何かあったのだろうか。
「カイスはともかく、頭領は敵が多いからね」
疑問がそのまま表情に出たのだろう、タイスィールは肩を竦めてそう付け加えた。
そういえば、西の集落の方に迎えに来た時もたくさんの護衛を連れていた。
マコトの脳裏にカイスをからかっていた気さくな頭領の姿が掠める。カイスとの掛け合いの親しみやすい 部分しか見ていないが、決して少なくない一族を纏められる程の人物だ。見た目通り穏やかなだけではあり得ないだろう。
「マコト、君に報告があるんだ」
食事も終わり、サラがお茶を淹れた所で、タイスィールは改まった口調でそう切り出した。
少し困った様なタイスィールの表情に、何かある事を察したマコトは、顔を上げ砂糖を掻き回していたスプーンを置いた。
「君が王宮に滞在している間の護衛の事だが」
「護衛、ですか?」
「……こちらに滞在する間だけですが、『イール・ダール』には専任の護衛官が付くのです。多分、親衛隊の方だと思われますが」
同じくサラも嫌な予感を感じ取ったのか、眉を顰めてタイスィールを見た。
「引き続きナスルに任されたそうだ」
「っ私は反対ですわ!」
鼻息荒くサラは立ち上がり、タイスィールを睨む。意外な言葉に驚いたものの、自分の代わりに反応してくれたサラのおかげで、 マコトは少し気持ちを落ち着ける事が出来た。
(……ナスルさんも、きっと嫌なんだろうな……)
ナスルが自分の護衛を希望する訳は無く、おそらく、上司か王からの従わざるを得ない命令に違いない。
『決して私を許さないで下さい』
固い、感情を押し殺した様なナスルの声を思い出し、小さく溜め息をつく。
このままで良い訳が無い。しかしどれだけ考えてもマコトには良い解決策が思い付かない。
ふと、顔を上げてタイスィールを見る。
……元上司だと言っていた彼に、相談してみるのもいいかもしれない。
マコトは、噛み付く勢いでタイスィールに反論するサラを宥めてから、静かに口を開いた。
「ナスルさんの事、どうすればいいのか分からないんです」
それだけの曖昧な言葉だったが、タイスィールには通じたらしい。
タイスィールは、にっこりと微笑むと、トン、と指先でテーブルを叩いた。
「簡単だよ」
その意外な言葉の意味をマコトが問い返すよりも先に、タイスィールは言葉を続けた。
「命令すればいい」
「命令って……」
反芻しマコトはサラと顔を見合わせる。
「睨むな、無視するな、質問には答えろ。自分の意見を言え、ただし穏やかに……こんなものかな。今までの仕返しとして結構無茶な事言ってもナスルならやってくれるよ」
それはつまり。
「無理矢理って事ですよね」
自然とマコトの眉間に皺が寄る。タイスィールの提案は自分が求めているものとは、真逆のものの様に思えた。
「いや、意地っ張りで頑なナスルにはそれが一番楽なんだよ」
「そうでしょうか」
分かる様な分からない様な。ただ、ナスルの真面目であろう性格を考えれば、真っ向から否定出来ない気もする。加えて。
「マコト様……っいい考えですわ! 私もタイスィール様に賛成です。護衛と言えば側仕えも同然。主従関係ですものっ無理難題ふっかけて反省させてやりましょう!」
サラがかなり乗り気である。
そんなサラにタイスィールは苦笑しながら「ほどほどにね」と上司らしい一言を付け足し、マコトに向かって艶やかな笑みを向けた。
「でもあまり仲良くはしないように。……妬けてしまうからね?」
手にしていたカップをマコトの目線まで持ち上げ、側面に指を滑らせ、そっと口付ける。その意味ありげな仕草と艶やかな声に、いたたまれなくなったマコトはゆるゆると明後日の方向に視線を向けた。
* * *
「『イール・ダール』様」
入れ違いに入って来たのは、本宮の女官だ。 顔見知りらしいサラが応対すると、自分より少し年上らしい少女は、 ほっとしたように小さく息を吐いた後サラにそっと耳打ちした。
「マコト様。護衛の方が挨拶に伺いたいと仰ってますが」
扉の外に立っているだろうナスルに聞かせるつもりなのか、 サラは格式ばった棘のある口調でマコトに報告した。
マコトと、心配だからと食事を終えた後も残っていたタイスィールは 顔を見合わせ苦笑した。
「ナスルさん」
迎えにいったサラの後に入って来たナスルに、マコトは小さく頭を下げた。
その顔からスェに殴られた傷が、綺麗に消えてる事に気付く。あれだけ派手に 殴られてまだそれほど経っていないことを考えれて少し不思議に思ったが、 おそらく一度だけ見た魔法――と呼ばれるもので治したのだろう。 注意深く見つめてもその痕は見つからず、マコトは心の中でほっと胸を 撫で下ろした。
ナスルはタイスィールがいる事を女官に聞いていたのか、表情も変えずに軽く目礼しその前を横切った。
マコトが座るソファから少し離れた場所で、静かに膝をつく。
「王の命により、引き続き護衛としてお仕え致します」
(……そういう関係でしか、ナスルさんとは付き合えないのかな)
彼とも出来れば、他の皆と同じように話したい。少なくとも祭りの間はずっと一緒なのだ。……努力をしてみるのもいいかもしれない。多分この機会を逃せば接点も無くなり、もう彼と顔を合わす事もなくなるだろう。
「……宜しくお願いします」
遠慮がちに言葉を返せば、ナスルは微かに眉間に皺を寄せたがすぐにその表情を消す。
……もしかすると断られると思っていたのだろうか。 いや、彼にしてみれば自分から断られた方が波風を立てずに辞退出来る良い機会だったのかもしれない。
(でも……私は)
「……」
屈んだまま静かに自分を見上げるナスル。その赤い瞳には、自分が映っていた。
兄を裏切った『イール・ダール』ではなく確かに今、自分を見ている。 それがマコトに勇気を与えた。
「……私に仕えるって、言ってくれましたよね?」
「はい」
ナスルは温度の無い平坦な声で肯定する。
「ナスル。マコトの言う事は絶対服従。王に誓えるかい?」
口を挟んだのはそれまで黙っていたタイスィールだった。
組んだ膝の上で頬杖を付き、しかし軽い態度とは裏腹にその視線は真剣にナスルを射抜いていた。
「はい」
再び間髪置かずにナスルは頷く。
マコトが確かめる様にタイスィールを見ると、彼はゆっくりと頷いた。
ややあってから、マコトも口を開く。緊張で唇は少し乾いていた。
「では命令です。――許させて下さい」
一息に吐き出してマコトはナスルを見下ろす。
一瞬の間の後、きつい視線がぶつかったが、マコトは負けじと睨む様にナスルを見つめた。
「私、あんまり怒るの得意じゃないんです。すごく疲れるんです。少しの間でも、出来るなら普通にお喋りして貰いたいです」
「……何を仰って」
「おや、マコトの言葉は絶対だと王に誓った所では無かったかい。反故にするなんて随分安っぽい忠誠心だね」
弾ける様に振り向き、タイスィールを睨む。しかし何も言わない所を見るとやはりここで反故する言葉は王への忠誠心を揺るがせるものだと感じているのだろう。
「駄目ですか」
半ば騙してしまった形になったナスルに一瞬申し訳無くなったが、マコトは念を押してそう尋ねた。
暫くの沈黙の後。
「……了解、致しました」
苦虫を噛み潰した様な表情でナスルは、頷いた。
この部屋に来て明らかに彼が表情を動かした瞬間でもあった。
タイスィールは口元に手を当て笑い声を立て、サラも少し清々したとばかりに仏頂面ながらも鼻を鳴らす。 その場の空気が居たたまれなかったのか、ナスルはすくっと立ち上がるとマコトに背中を向けた。
「ナスルさん、どこに……っ」
「部屋の外で控えております」
そう言って歩き出したナスルのマントを立ち上がったマコトが思わず、といった仕草で掴んだ。びたっと足を止めたナスルが、「何か」と振り向く事無く言葉を放つ。
(えっと……何か)
特に用事があった訳では無い。
しかし、もう少し話をしたかったのは確かだ。
「あ、……あと、この前の『ダッカ』って言うお料理教えて貰えませんか……?」
思っても見ない言葉だったのだろう、ナスルの目が一瞬見開かれたがすぐに逸らされた。
「今ですか」
「い、いえ……っあのお暇な時でいいです……」
それは命令じゃなくお願いです。
ぼそりと呟いたサラの言葉に、タイスィールが苦笑し、耳まで赤くなったマコトの横顔を穏やかな表情で見つめていた。
* * *
マコトに用意された部屋の隣は、控えの女官、つまりサラの部屋であり、そこには簡易ながらも小さな台所が備え付けられていた。
その小さな台所に足を踏み入れたマコトは、その真ん中にでん、と構える石釜を見て歓声を上げた。
事の起こりは一時間程前。ナスルを残しタイスィールは仕事があるからと部屋から退出したのと入れかわりに、サハルの遣いだと言う女官が文を手にやって来た。その内容は、もしお暇なら明日からでもハスィーブに手伝いに決ませんか、と言うもので、一言も発しないナスルとそんなナスルをじとっと睨んでいるサラとの、重苦しい沈黙に耐えていたマコトは、是非、と返事を言付けた。
そして、何か差し入れでも、とサラに相談した所で、この台所の存在を知ったのである。
台所に入るなり天井まで突き抜けた煙突の石釜らしき物体の周囲を、マコトは興味深く見て回る。
(これ、間違いなくオーブンだよね!? お菓子のレパートリーが増える……!)
いつもメニューに苦心していたアクラムのお菓子。
オーブンさえあれば簡単なクッキーやケーキならレシピが無くても作る事が出来る。
そこまで考えてはっとする。……違った。もうアクラムにお菓子を作る必要は無いのだ。習慣とは恐ろしい。
(……そういえば、アクラムさんも王都に来てるって言ってたっけ……)
ナスルと共に既に一週間以上前に王都入りした筈だ。ナスルならどこにいるか知っているだろうか。
さほど広くない台所の扉付近で、立っているナスルに、ちらりと視線を向ける。
タイスィールの機転のお陰が、王の忠誠心故か、ナスルは必要最低限ながらもこちからが尋ねれば、きちんと答えてくれるようになった。戸惑う様な間は確かにまだ存在するが、存在自体を無視されている頃から比べれば大した進歩である。
「調味料も一通り揃っているみたいですわ」
サラは棚に並べられた瓶を指差し、マコトに報告する。確かに作業台の端に小さな瓶が十数種類並んでいた。
下の戸棚からは小麦粉や、初めて見るドライフルーツらしき乾物が出て来る。麻の袋に入れてあった木の実をそっとかじるとアーモンドの様な味がした。
(材料揃えなくても済むかも……)
バターもありドライフルーツもあるなら簡単なパウンドケーキが出来るだろう。ただ――。
「サラさん、これ使った事あります?」
マコトは石釜を指差しそう尋ねる。予想通りサラは、申し訳無さそうな顔をして首を横に振った。
「厨房から人を呼んできましょうか。どちらにせよ火種を入れて貰わなければいけませんし」
サラの言葉にマコトは慌てて首を振る。歴代の『イール・ダール』の来訪により厨房はいつも以上に忙しいはずだ。つまらない事で呼び出す訳にはいかない。
(でも火種入れて貰ったとして、何度位になるんだろ……調節できたりするのかな)
目の前にあるのは雰囲気のある……言い方を変えれば原始的なオーブンだ。正直使いこなせる自信は無い。
ふと周囲を見渡してフライパンが並ぶ場所に見慣れないものを見た。ふた付の分厚いフライパン。手にしてみるとずっしりと重い。
「サラさん、これ何ですか?」
「え……ああ、タンティですわ。あ! それも小さな石釜と呼ばれてます。小さなお菓子ならそれでも焼けますわ」
なるほど、きっとこのフライパンごと火に掛ければ、石釜オーブンと同じように焼きあがるのだろう。
調味料の入っている小瓶の蓋を一つずつ開けて匂いを嗅ぐ。
甘いもの、鼻にツンとくるもの……サハルに分けて貰ったものは分かるがそれ以外はさっぱりだ。
(この黄色いのカレーっぽいなぁ……これで鶏肉煮込んだら美味しそう……)
向こうの世界でお馴染みのメニューを思い出し、瓶を元に戻す。
その隣の瓶を手に取るとシナモンの様な甘い匂いがした。
(これ使えそう……)
それを手に取り作業台に置く。
サラが探しだしてくれたバターと鍋を用意し、卵を出した所で、ナスルがじっと自分を見ている事に気付いた。
……睨んでいる、とは違う。何やら物言いたそうな表情で、何となくアクラムを思い出した。こちらの方が明らかに仏頂面ではあるが。
「……えっと、何か……?」
間を空け、気のせいでは無い事を確認して、マコトは勇気を出して質問した。
無視されるかと思ったが、タイスィールの言葉が効いたのか、ナスルはやや迷う様にゆっくりと口を開いた。
「お菓子を作られると仰っていましたが……」
固い口調の言葉に、マコトは一瞬身構えた。何かナスルの不興を買う事でもしただろうか。
(もしかして甘いの嫌いで、匂いも嫌だとか……?)
ナスルは護衛だ。四六時中張り付かなくてはいけない事は想像に難くない。
身を縮ませたマコトを見てナスルは小さく溜め息をつく。そして作業台まで歩み寄ると、先程マコトが手にしていた小瓶をつまみ上げた。
「……それは『レスェ』。匂いは甘いですが、辛味が強いので菓子には向いていません」
呟く様な小さな声だった。差し出された小瓶を反射的に受け取り、まじまじと見下ろす。
動こうとしないマコトに、ナスルは少し焦れた様に手の中の小瓶を指差した。
「舐めてみますか」
「……え、あ。いえっ」
どうやら固まっていたのを信用していないと思われたらしい。マコトは慌てて首を振りそれを元の場所に戻した。
……ナスルから話し掛けてくれたのは、初めてなのでは無いだろうか。
しかも黙っていても良かったのに、自分が失敗しないように教えてくれたに違いなく。
「あの……教えて下さって有り難うございます」
自然と弛む頬のまま、礼を言えば、ナスルは罰が悪そうに視線を泳がせ沈黙した。しかし出ていく様子は無い事から、このままお菓子作りを見守ってくれそうだ。
(……うん)
何だかやる気が出た。
気合い十分。マコトは用意した材料を見渡し腕の袖をまくった。




