第七十一話 絡みつく微笑(ナスル視点)
汗ばんだ身体を夕暮れの冷たい風が撫でて冷やしていく。
太陽は一日の最後の光を赤く変え、白を基調とする壁や床を同じ色に染め上げていた。
久しぶりの王との剣の稽古は、前回同様心安らぐ楽しい時間だった。心地良い疲労感に柱に凭れかかり目を瞑って身体を休めていると、ふと、瞼の裏に映っていた朱色が黒く塗り潰された。
「――あら、起きていたのね」
逆光は影をかたどるだけで、その表情は見えない。
声の高さから察するに若い女である事は間違いなく、伸ばされた手は白く今にも折れてしまいそうな細さで、その指が届く代わりに細かな刺繍が散りばめられた長い袖がさらりと頬に触れた。それは微かに触れただけでも分かる滑らかさで、お揃いのお仕着せを着た女官などでは無い事を幼いナスルにも知らしめた。
すぐに飛び起き、両膝を付いて額を床に擦り付ける。
王は何も言わなかったが、いつも難しい顔で自分を睨むお付きの人間からは目上の人間を見ればそうしろと、厳しく言われていた。
――ああ、こんな事なら、やはりさっさと帰れば良かった。
稽古を終え、『渡したいものがあるから』と、引き止める王に頷き中庭に残されたのが少し前。
一人で残される事に不安を感じつつも、断る事が出来なかったの、自分ももう少し彼と一緒にいたいと思ったからなのだろう。
兄が失踪してから一年。
自分を取り巻く環境はがらりと変わり、周囲の人間は手のひらを返した様に自分に冷たくなった。その中で唯一変わらず、――そして手を差し伸べてくれたのが王だった。
兄と同じ何事にも変えがたい愛情を注いでくれる王。 嬉しくない訳が無い。
しかし。
王といる自分を周囲の人間が、苦々しい表情で見ているのも肌で感じていた。
――あいつの兄が、と。
「お稽古は終わったの?」
女は不自然な程の親しさで歌うように問う。
間近で見れば女は少女と言っても差し支えない程、若かった。
肩口で切り揃えられた髪が冷たさを増した風に揺れる。記憶に焼きついた長い黒髪は、ナスルにとって憎くも愛しくもある。しかし、同じ黒髪でも彼女は、同じ性別だったせいか敬愛する王よりも――彼の『イール・ダール』を思い起こさせた。
――誰だ。
飲み込んだ言葉は、胃の辺りをちりりと痛くさせた。
ナスルの表情を見る様に女は膝に手をやり、身を屈ませる。赤い唇がゆっくりと引き上げられた。
「貴方、実の兄に捨てられたのですってねぇ」
幼い子供の様に小首を傾げて、吐き出された言葉は、ナスルの息を止めた。心の奥底の見えないように隠していた柔らかな部分に爪を立てられたかの様な、鋭い痛み。
――違う。あの優しかった兄は自分を捨てたのでは無い。
きっとどうしようも無い事情があったはずで。
だから。
悪いのは。
見つめた目の前の女は、いつのまにかオアシスに消えた、あの『イール・ダール』となっていた。
「――……」
自然と漏れたナスルの呟きに女は満足そうに笑ったその瞬間。
「何をしている」
全ての音がかき消され切り取られた中庭に、 ひやりとした固い声が響き、砂の上に音も無く砂糖菓子が散らばった。
* * *
宿舎の自分の部屋で、ナスルはゆっくりと瞼を押し上げた。
開け放たれたままだった窓からは、明けたばかりの空が細い月をくるんで夜を押し流す。始まりの太陽が柔らかな日差しを注ぎ、日除けすらない部屋の中を満たそうとしていた。
「――朝か」
掠れた声で呟き、くしゃりと前髪をかきあげる。
随分と昔の夢を見た。
幼い自分と、……あれは、誰だったか。
寝起きのぼんやりした頭で、考える。
あの頃、自分に嫌味を言った人間は決して少なくなかった。王都では、王族に憧れ黒髪に染めてる女も珍しくなく、しかし衣から察するに位の高い女だった事は間違いない。王族の誰かかもしくは貴族の娘か――考えてその数と、心当たりの多さに首を振った。……今更昔の事を思い出しても時間の無駄だ。
しかしそんな悪意から、自分を救う様に現れたのは、あの頃唯一の守護者であった王。
『――何をしている』
その声の冷たさは、夢現をさ迷う様に麻痺した自分を我に返らせたが、次の瞬間には背中に冷たい汗が流れていた。振り返り王の視線の方向を確かめて、自分に向けられたものでは無いと分かり、幼い頃の自分はただ胸を撫で下ろしただけで、それからは気にも止めなかったが。
……今思い返せば、自分を庇うにしても厳しい視線だったと思う。
いつも穏やかな王のあれほど冷たい表情を見たのは、あれが最初で最後。
それ故に、記憶の彼方へ埋もれていたが女が発した言葉は、その姿を忘れても、呪縛となり身の裡に深く根を張った。
身体を起こし、まだ早いものの支度を整える。
訓練所で素振り位は出来るだろう。
『イール・ダール』に護衛の挨拶に向かうのは朝食後。
あれから何度も機会を伺ってはいたが、王に事実を伝えようとする度に、一族の事が頭に霞め結局は沈黙する事となった。
……彼女が自分を見て何というのか、想像すら出来ない。
拒絶し続ける自分にさすがに優しい彼女も眉を顰めるだろうか。 いや、おそらく彼女はこちらを見透かすような静かな瞳できっと受け入れるのだろう。
ちくり、と胸が痛む。先程とは似て非なる痛みだった。
――足が重い。
身支度を整えたナスルは、開け放たれたままだった窓を締めると、一度瞼を閉じた。
瞼の裏に映るのは、困った様に控えめに微笑む少女の姿。自分はそれしか知らない。
ナスルはゆっくりと瞼を押し上げ、過去の感傷ごと振り切る様に 部屋を後にした。




