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第六十七話 記憶の欠片


「……気持ちい―……」


 ちゃぷん、と肩まで浸かったお湯の中で手足を伸ばす。

 うっとりと瞼を閉じたマコトに、後ろで控えていたサラは手にしていた手拭いの影でくすりと小さく笑った。


「念願の湯浴みですものね」


 控え目に口を挟んだサラに、マコトは肩越しに振り返ると、照れた様に小さく肩を竦ませる。

 集落の生活は、あまり生活環境に拘らないマコトにとってさほど苦では無かったが、唯一慣れなかったのが、三日に一度あるか無いかの水浴びだった。


 砂漠の大地。じっとしていても汗が吹き出すこの環境で、風呂に入れない――いや、汗を流せない状況は思っていた以上に苦痛だった。


 マコトの為に用意された住居は、自分の感覚で言えば豪邸、サラの感覚で言えば、もう少し広くても良かったですわねーと言う規模のもので、正直足を踏み入れる、最初の一歩がなかなか出なかったのだが、その内装と言えば、マコトの意向を酌み、一部の客室と客間になる広間以外はごくシンプルな作りで、配慮してくれたのだろう頭領とサラに深く感謝した。


 それに何より嬉しかったのは、この浴室である。

 宴が終わったその日に、その存在を知り、次の日はサラに勧められて朝から使わせて貰ったのだ。

 そして集落に着いてから四日目となった今では、朝目が覚めて、湯に浸かるのがマコトの日課となっていた。


 村での生活は、――この屋敷に限定すれば慣れてきたとは思う。

 厨房には四十を少し過ぎた男の料理人とその下働きらしい少年が一人。マコトの身の回りの世話を女官が、サラを合わせて三人でどちらも上品な五十代の女性である。


 昨日の午後に紹介され、それぞれ挨拶をかわした限り優しそうな人物で、皆それぞれ『イール・ダール』として敬意を払って接してくれているのが分った。出来れば もう少し気さくな関係でありたいのだが、出迎えられた時の熱狂を考えれば昨日の今日では無理な話だろう。それぞれ少しずつ歩み寄って行く事が出来ればいいと思う。


 話が出来るかもしれないと、楽しみだった西の『イール・ダール』は二人。残念ながら、一人は八十二歳の高齢であり一日中ベッドに臥せっていて、マコトがここから出られない以上会う事は難しいらしい。残る一人も 普段から王都に居を構えているらしくこちらも残念ながら会う事は出来なかった。


 宴の話通りタイスィールは昨日の朝には村に戻っていたらしく、夕方に挨拶がてら尋ねて来てくれた。護衛の一人に加わり、屋敷の空いている部屋に泊まり込むと言っていたので、出来れば一緒に朝食を取りたいと頼んだ。


 ちなみに屋敷で働く他の人にも、声を掛けたが丁重に断られてしまったので、朝と夜一日二回の食卓を囲むのは、一人では寂しいと口説き倒したサラとタイスィール、時々遊びに来るニムである。


 朝食が終わった後、タイスィールに相談してみよう、と決めた所で戻っていたらしいサラが声を掛けた。


「マコト様。今日はどうなさいます? また市場にでも行きますか」


 用意する着替えを選ぶのだろう、手拭いを置いて立ち上がったサラに、マコトは少し迷う様に口を閉ざす。

 ややあって。


「……今日は止めておきます」


 と、控え目な笑顔を作った。


「分かりました」


 サラは静かに頷きつつも、少し困った様に眉間に皺を寄せる。その表情に、マコトは気まずそうに肩を竦ませ、そのまま口元ぎりぎりまでお湯の中に潜った。


(うーん、バレてるかな……)


 実は到着した次の日に、頭領自ら村の中を案内してくれたのだが、訪れる場所全ての人間が手を止め、自分が通り過ぎるまで頭を下げてくれていた。


 向けられる視線も好意的ではあるがその数が半端なく、どこに行っても緊張して見物所の話では無かった。また手を止めて仕事を中断させて頭を下げ続ける人々が多く、その事に罪悪感を感じ賑やかな市場も作業所も早々に引き上げた。


(でも、私が『イール・ダール』って言うよりも、あれは昨日のメンバーが悪かっただけだったような……?)


 現頭領に次期頭領であるカイス、タイスィールに、賑やかなニムとサラに十数名の護衛がずるずると続く。むしろこの一団に目立つなと言う方が無理だ。


 ……恐らく、フードを目深に被り、一人で行った方が余程目立たないはず。


 将来的な目標は、完全な自立。祭りが終わるまでには一人で市場に行って、買物が出来る位にはなりたい。

 マコトはこっそりと心の中で目標を掲げた。





* * *




 湯あみを終え、衣装を携えた部屋に戻れば来客を知らせる鐘が鳴った。暫くしてから部屋に入って来たのは一日一回は顔を見せに来るカイスで、まだ少し湿ったマコトの髪を見ると、入り口近くで足を止めた。


「わ、悪い」


 居心地悪そうに視線を逸らせ、後ろ頭を掻いたカイスに、自分の髪をタオルで乾かしていたマコトは小さく首を傾げた。その拍子にポタリ、と水滴が膝の上に落ちる。


「あー……俺、隣で待ってるわ」

「あ、お風呂、じゃなくて、湯浴みしてたんです。もう出たんで大丈夫ですよ? サラさんも、すぐ戻って来ると思います」


 もしや今から入ると勘違いさせてしまっただろうかと思ったマコトは、慌てて引き止めたが……カイスは、一度ちらりとマコトを見て何か言いた気な顔をした。


 一瞬の静寂の後、カイスは再び、うがーっと頭を掻きむしり、きっとマコトを睨むと、つかつかと足音高く歩み寄って来た。


 その勢いに目を見開いたマコトに構わず、椅子の背に掛けられていたタオルをひっ掴み、ばさっとマコトの頭に被せた。


「だあぁぁっ! さっさと髪を乾かしやがれこんちくしょう」


 がしがしがしっと、乱暴に髪を擦られる。その激しさにマコトが悲鳴を上げかけた所で、ドカッと何やら痛そうな音が部屋に響き頭の上から呻き声が続いた。


「何やってますのカイス! まだ入室を許可してませんしっそもそもそれは私の仕事ですッ」

「ってぇええッ……ってかコレかなりやばいだろうっ!」


 床に転がった壷の欠片を見て、カイスは顔を青ざめさせる。驚いたのは、その質量と値段両方だ。


「請求書は勿論カイスに回しますっ! そんなものより、そんな扱い方でマコト様のお美しい髪が傷んでしまう方が大問題ですわッ」


 鼻息荒くマコトに駆け寄ったサラは、カイスを突き飛ばし、その位置を確保する。


「ちょっ危なっ」


 ガラスの欠片に足を突っ込みかけたカイスの抗議を綺麗に無視し、サラはマコトの頭に乗せられたままの手拭いを取り去ると脇に置き、透明の瓶から香油を自分の手に落とした。それを両手で擦り、マコトの髪に伸ばしていく。丁寧に櫛梳り、満足したように一息ついた所でサラは再び口を開いた。


「カイス。まだマコト様のお支度も整ってませんのよ。出直すか別の部屋でお待ちなさい」

「あ、いいですよ。後、頭乾かすだけだし、何か用事があるんですよね?」


「……マコト様。お優しいのは美徳だと思いますが、些か無防備すぎます」


 カイスの代わりに答えたマコトに、サラは困った様に髪をとかす手を止め、眉を寄せる。


「無防備、ですか?」

「ええ、洗い髪と言うのは、一般的に男心にぐっとくるものです。しかも正式な配偶者でも無いのに、湯上がりのそんな無防備な姿をお見せするなんて」


 ……そういうものだろうか。

 マコトは内心首を傾げつつとりあえず、ごめんなさい、と謝る。それを受けて満足した様に頷いたサラは、律儀に欠片を拾っているカイスに声を掛けた。


「ほら、片付け終わったら、さっさと出ていって下さいませ」

「別にマコトがいいって言ってんだから、良いだろうが」


 猫の子を払う様に、しっしと手を動かしたサラにカイスは眉を吊り上げた。


「つーか、急ぎでマコトに聞きたい事あるんだよ。――マコト、これに見覚えあるか?」


 パンパンと手を払い、分厚い外套の下から取り出したのは、黒くて丸い筒だった。一瞬首を傾げたマコトだったが、すぐに思い当たりカイスからそれを受けとると、くるりとその筒を回転させた。


「……これ、卒業証書」


 黒い皮状に加工された丁度真ん中に印字しているマークは、マコトが三年間通っていた学校のものに間違いない。

 何かに急かされる様に、筒の蓋を引っ張り開けてみたが、中にある証書は――。


「……ない」

「あーやっぱ中に何か入ってたんだな。っていう事は、お前のモンで間違いないな?」


 マコトの呟きを拾いカイスは、マコトの正面から少しずれた長椅子に座り込んだ。

 少し迷ってマコトは頷く。黒い筒の蓋を元に戻し、マークが記載されたざらりとしたその表面を無意識に撫でた。


「北の一族の奴等が今来ててな。多分それの中身と、黒い皮の箱みたいな物を持ってた。お前のオアシスで見付けたらしい」


 長い足を乱暴に組み、その上に頬杖を付く。

 黒い革の箱……もしかしなくとも鞄の事だろうか。そう思い付く。そう、あの日は……卒業式だったから、特に何を入れていた訳では無い。


「それを、直接お前に渡したいって面会を申し込んで来た。多分、お前の顔見るまで渡すつもりは無いだろう。で、どうする?」

「え?」


「会うか会わないか、どうするって事だ」


 そう問われて、マコトは迷う。

 提示されたものは、この世界で唯一のマコトの私物である。三年間使った学生鞄には色々思い出も詰まっている。卒業証書も今となっては大事なものだと思える。


 けれど、カイス……いや西の一族の総意としては、自分は他の部族と接触しない方が良いに違いなく。

 答えが出ずなかなか言葉を発っしないマコトに、髪を整え終わったサラは心配そうに顔を覗き込む。そんなマコトの様子をじっと見ていてカイスは、ぽんっと自分の膝を叩き、立ち上がった。


「……っよし。じゃ、一時間後、連れてくる。立会人は俺と女官連中と護衛何人かでいいな」


 そのまま扉に向かおうとしたカイスをマコトは慌てて引き止めた。


「あ?」


 足を止め肩越しに振り返ったカイスにマコトは、立ち上がり駆け寄ると、カイスはきちんと向き直って「なんだ」と促した。


 ややあってから、


「……あの、いいんですか?」


 伺う様に見上げたマコトに、カイスはさりげなく視線をはずす。照れ隠しだと分かる程度の乱暴さで、なんだよ、と繰り返したカイスに、マコトは思いきった様に口を開いた。


「私、他の部族の人と会わない方がいいんですよね? なのに大丈夫ですか?」

「……大事なモンなんだろ? 卒業証書っつってたし……大体中身抜いて渡すなってんだよな」


 それらしく顰め顔を作ってマコトに視線を向けたカイスだったが、その途中で不安気なマコトの顔を見て、表情を和らげ苦笑し、身長差故に丁度良い位置にあるマコトの頭に手を乗せた。


「つーかお前、西の一族選んでくれたんだろ……また、後悔したくないし」


 らしくなく口の中でゴニョゴニョと呟いたカイスだったが、その頭をぐいっと自分の胸へと抱き寄せた。そして少し屈んでマコトの耳元で囁く。


「――ちゃんと、信じてるから」


「カイスさ……」


 驚いたマコトが顔を上げる前よりも早く、カイスは頭の上に置いたままだって手を動かし、乱暴に髪の毛を掻きまわした。

 その突然の暴挙に悲鳴を上げたのは、マコトではなくサラである。


「きゃああっマコト様のお髪がぁぁっ!!」


 今度こそ、文字通りサラに叩き出されたカイスの背中を見送りながら、マコトはくしゃくしゃになった髪もそのままに、小さく微笑んだ。




* * *



「ちょっとちょっと! 北のイルとヨルが来てるって聞いたんだけど!」


 カイスが出ていってから暫くして、怒鳴り込む様にニムが部屋に入って来た。


 ノックも無しに突然入ってきた彼女に、マコトは驚いて手にしていたカップを落としかけ、慌てて両手でしっかり握り直した。会談だからと隣の衣装部屋で支度を選び直しているサラも何事かと駆け戻って来た。


「ど、どうしたんですか?」


 部屋の中に入ってもその勢いは衰えず、駆け寄って来たニムに、マコトは目を瞬かせながらそう尋ねる。サラはと言えば、そんなマコトを庇う様にニムの前へと立ちはだかった。


「あっサラ! アンタのが詳しいわよね! あの兄弟がここに尋ねて来るって本当!?」


 あっさりと標的を変えたニムに、マコトはほっとしつつも、繰り返される兄弟らしい人の名前に首を傾げた。

 北の、と言う事は、先程カイスが言っていた使者の事なのだろうか。


「マコト様の落とし物を届けに、北からのお客様は来ると聞いてますけど、その二人だとは聞いてませんわ」


 どうやらサラもその人物を知っているらしい口振りだ。ニムはサラの言葉を聞くと嬉しそうに目を輝かせた。


「マコト宛の客なら、やっぱり二人で間違いないじゃない! やっぱり長老のゲルに入っていったの二人だったんだ」


 いつにないニムのはしゃぎぶりに、マコトはますます首を傾げる。自分が関わってるらしいし、事情を聞くべきだろうか。


「あの、その二人って北の人なんですか?」

「そうよ。二人とも美形で有名なの!」

「西の候補者達にはいない系統の男性を持ってくる辺り、本気具合が分かりますわね……」


 真面目な顔でそう返すサラに、ニムはがらりと表情を変え大袈裟に溜め息をついた。


「あんた枯れすぎ。そりゃ王城勤めのアンタからしたら、美形なんて珍しくも無いんだろうけどさ~……あ、マコトは楽しみよね!」


 言葉の途中でぱっとめまぐるしく表情を変える彼女にマコトは苦笑する。それを肯定だと思ったニムは、うっとりと両手を胸の前で組んだ。


「マコトが結婚するまでは、目の保養ね~眼福だわ」

「……どういう事ですか?」


「もう鈍いわねぇ。まだ結婚しない……ううん、出来ないあんたに、自分の一族で一番の男前を会わせて、あわよくば引っ張りこもうって魂胆よ」


「ぇっ……ぇえ!?」

「北だけじゃないわよ~きっと。何だかんだと他の一族も理由付けて会いにくるだろうし、その間あんまり見る機会の無い他の一族の男前を見るいい機会よねぇ」


 寧ろそんな事の為にわざわざ自分を尋ねて来る相手が気の毒である。しかもきっと頭領や上の地位の人からの命令で逆らえないはずだ。そして多分、今日来た彼らもそんな立場の二人であることは間違いなく、マコトは呻く様な溜め息を漏らした。


「もう、アンタ初代の『イール・ダール』の如く、気に入った男片っ端から旦那にしたら?」


 じゃあ、毎日が目の保養よね、とエキセントリックな発言にマコトは今度こそ絶句し固まった。


「もうニムったら、そんな身も蓋も無い。そんな慣習があったのは十代目までですわ。大体、一婦多夫制なんてもう大陸の端でしか聞きませんわよ」

「……あ、あるんですか?」


 言葉が遅れたのは、イップタフセイ……その単語をなかなか漢字に変換出来なかったからだ。


「ええ、やはりこの大陸に女性は少ないですから」


 明らかに引き攣った顔をしたマコトに、サラは話題を変えた方が良いと判断したらしく、ぴしっとニムにその細い指を突き付けた。


「ニム! カイスは一体どうしたんですか」


 呆れた様に口を挟んだサラにニムは、一瞬間を置きにっこりと笑った。


「それはそれこれはこれ」


 ……強い。

 何の躊躇いもなくそう言ってのけたニムに、マコトは年頃の女子としての心意気を見た気がした。


「楽しみね~二人とも北で一、二を争う美形って言われてるのよ」


 ……あそこまでカイスが譲歩してくれたのだ。今更会いたくないなんて、口が避けても言えない。


 着替えを促すサラになすがままになりながら、まだかまだかとご機嫌で窓を見下ろすニムに、マコトは少々恨めし気な視線を送った。






* * *





「北のイルと申します。この度はお会い出来て光栄です」


 長い口上を終え、イルと名乗った人物は、目映い金髪に、陽光をたくさん浴びた若 葉の様な明るい緑色の目をしていた。砂漠の住人とは思え無い程、肌の色は白く 整った優し気な面立ちを引き立てていた。


「こちらは私の兄のヨルです。我々二人ともお会い出来る事を楽しみにしており ます」


イルに紹介され、静かに頭を下げたのは上から下まで黒い衣装で身を固めたヨルだった。 西の一族で一番背の高いカイスよりも頭一つ分高く、その存在感は大きい。

ニムが言っていた通り、イル同様顔の造作は整っており、分厚い外套にくるまれているが、肩に担がれた大剣から察するに、その身体はきっと鍛え抜かれたもの であろう。


 サラと護衛が控えているその前のソファにカイスとマコトが座り、机を挟ん だその対面に二人が座っている。


 血が繋がっているとは思えない対称的な兄弟に見つめられ、マコトは言葉に迷ったが、接し方を指示された訳では無い。心を落ち着かせる為に小さく深呼吸し 、ゆっくりと口を開いた。


「マコトと申します。落とし物を届けに来て下さったみたいで、有難うございます」


 まずはお礼を。

 ぺこりと頭を下げたマコトに、イルは人好きのする笑みを浮かべて首を振った 。


「いえ、お届けが遅くなって申し訳ありません。何度も会見を申し込ませて頂いているのですが、こちらの頭領に中々お許しを頂けなくて」

 形の良い柳眉を下げて、控え目に微笑む。庇護欲をそそるその表情は、本心から来るものか演技なのか……どちらにせよ、大多数の異性を虜にするだろう。現 に後ろに控える女官二人は、少しばかり非難がましい視線をカイスへと向けている。

「落とし物って最初から言いやがれ……っ」

 背中に刺さる視線を感じるのだろう。ぼそり、とマコトにだけ聞こえる声で呟いたカイスに、色々大変なんだな、と思う。

 村に戻って来てから、サハルが抜けずっとあちらこちらに走り回っているカイスが気の毒に思えてくる。


「さて、せっかくのご縁ですし、我々に貴女のお名前を呼ばせて頂く事をお許し頂けませんか」


 すぐに本題に入るのかと思ったが、そうでは無いらしい。突然の申し出に、何 か深い意味でもあるのだろうかと、返事に迷う。別に名前を呼ばれる位、どうっ て事は無いし、むしろ『イール・ダール様』と呼ばれるよりは、そちらの方が有 難いが。カイスの意見を聞こうと視線を向けると、物言いた気に自分を見ていた 。


「マコトの好きな様に」


 任せる、と言うニュアンスで呟かれたそれに少し不安を覚えたが、特に心配していた様な深い意味は無いのだろう。


「はい。……じゃあ、名前で」

「有り難き幸せです。では、マコト様……ですね」


 口に馴染ませる様にマコト様、と何度も繰り返され、何となく恥ずかしくなる。出来れば、様付けは止めて欲しいのだが、彼らは他の部族である。これくらい の隔たりがあった方がカイス達は、安心するかもしれない。


「聞き慣れませんが、響きが綺麗ですね。それに賢王と名高い王の真名アドルと同じ意 味だとは、やはり貴女は『イール・ダール』になるべくし」

「で! 品を見せて貰おうか」


 このまま放って置けば、いつまでも本題に入らないだろうと思ったのか、カイスはいつにない不躾さでイルの言葉を遮った。対するイルは、気を悪くした様子も無く、「失礼しました」とカイスに笑顔さえ向けた。


「では、こちらになります」


 部屋の外に控えていた護衛を呼び、きらびやかな宝石が嵌め込まれていた箱を持って来た。

 ……もしや、あれに入っているのだろうか、とマコトの背中に嫌な汗が流れる 。


 自分があの時持っていたのは……鞄、卒業証書、それにサーディンが取り返してくれた猫のキーホルダー。こんな風に、高そうな箱に入れて貰う様なものでは無い。


 いたたまれなさに箱から視線を反らしたマコトに気付かず、イルはマコトの目 の前に箱を置き、上蓋を開けた。


「マコトの物で間違いありませんか?」

「……はい」


 中を覗き込み頷くと、マコトは手を伸ばし、ざらざらした革の表面をなぞる。


「マコト。中身もちゃんと確かめた方が良い」


 そう言われて、マコトは一度イルを見た。どうぞ、と頷いたのを見届けてから 、マコトは鞄の取っ手を握り締めて、箱から取り出した。

 友達のお土産である小さな人形がついたファスナーを引っ張り、中を覗き込む 。卒業式だったので、ハンカチとティシュ、それにスケジュール帳、筆記用具… …大体覚えていた通りだ。鞄を一旦隣に置き、箱の中身を覗き込む。


 しかし。


「……黒い筒の中身が無いようだが?」


 筒の形状でおおよその形は分かったのだろう。小首を傾げたマコトに代わり、カイスが口を開いた。


「ああ、実は私も先程気付いたのです。集落の方へ忘れてしまったようですね」


 不快さも露に、イルを睨む。イルは掴みきれない笑顔を浮かべたまま、いえ? ととぼけた様に小首を傾げた。


「この……ッ下手な冗談はよして貰おうか!」

「あの! 卒業証書の事ですよね」


 拳を握り締めた立ち上がろうとしたカイスを引き止めるべく、マコトはその服の裾を引いた。決して強い力では無かったが、カイスはその手に視線を落とし、 何か言いた気な顔をしたが、そのまま唇を引き結びむっつりと黙り込んだ。


「ああ、そうですね。確かに何かの証明書の様でした。縁に金の細かな細工がある立派なものでした。さぞ大事なものでしょうに、お渡し出来なくて申し訳ありません」


 心から申し訳無さそうにイルは、マコトに向かって深く頭を下げた。窓から差し込むきつい日差しが反射し、艶やかな髪を輝かせる。


「わざとだろうが」


 多分、こうしてずるずると顔を合わせる機会を作り、ほだして行こうと言う思惑なのだろう。確かに自分が落としたらしい荷物の中では一番価値がありそうなものだ。


 ならば。

 少し意地が悪いかな、と思いつつもマコトは静かに首を振った。


「特に必要ありませんので、そちらで処分して下さって構いません」


 マコトの言葉に、イルもカイスさえも驚いた様に目を見開いた。


「……いや、お前大事なモンなら無理しなくても」


 自分の態度の悪さにマコトが遠慮したのだと思ったのか、カイスは体ごとマコトに向き直り、窺うようにマコトを見る。


「そうですよ。そちらの世界の事はよく知りませんが、これだけ立派なものです し、思い入れもあるでしょう」


 二人の力の籠った説得に、マコトは心の中で首を捻る。……確かに高校生活の 三年間の集大成とも言えるが、この世界において何の役にも立たないだろう。それに思い入れで言えば、スケジュール帳に書かれた友人からの寄せ書きの方が強 い気がする。


「三年間で学んだ事はそれなりに頭に入ってますし……それこそ貰ったばかりの 紙切れでしたから」


 控え目に微笑んだマコトに、イルは初めて表情を崩した。完全に虚をつかれた ――そんな表情は、完璧すぎて近寄りがたい雰囲気を一変させ、彼を少し幼く見 せた。


(もしかして、イルさんて私とそう変わらない年齢かな……?)


 あまりにそつがなく、落ち着いているので年上だと思い込んでいたのだが、案外違うのかもしれ ない。



 それぞれ複雑な表情をして静まり返った部屋の静寂を破ったのは、それまでずっと黙っていたヨルだった。


「――イル。お前の負けだ」


 そう言うと分厚い外套の下から筒を取り出し、机の前に置かれたままだった黒い筒に視線を落とした。


「それの中身だ」

「兄上!」


 差し出されたそれにマコトは手を伸ばす。折れない様に配慮したのだろう。きちんと封がされていた。


「マコト様。謀ろうとしたご無礼をお許し下さい」


 イルよりも低くそれでもよく似た声に、やはり兄弟なのだと思う。両の拳を机に置き潔くよく頭を下げたヨルに倣い、イルも「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。


「いえ、有難うございます」


 カイスはきっと甘い、と思っているだろう。それでもあっさりと許す事が出来たのは、彼らが思っているよりも自分の中で卒業証書が軽かった事もあるが、このまま黙っていれば済む事を告白し、謝罪してくれたからだ。


 それからは、ヨルが他愛無い質問をし、マコトが答えるという問答が繰り返され、カイスも何か思う所があったのか、イルの時と違い喧嘩腰に口を挟む事をしなかった。 また、最初は黙っていたイルも、特産物や北でしか見られない小さな動物など、世間話の中にマコトが興味を持ちそうな話題を盛り込み、その結果カイスも巻き 込んでのお喋りに発展し、最初に比べて随分和やかな雰囲気で会談はお開きになった。



「――また、近い内にお会い出来るのを楽しみにしております」


 マコトの手を取るとヨルはその大きな身体を屈めて唇を落とした。


「では、これをお会い出来た記念に」


その後ろで控えていたイルに差し出 されたのは、手に持つのも憚れる程、豪華な首飾りだった。


「受け取って頂けねば、私は村に入る事も許されません」


 躊躇するその様子に、イルは首を傾げて哀れみを誘うような瞳でマコトを上目遣いに見た。

 ――この短期間でマコトの性格をきっちり把握していたらしい。


(こ、困る……っけど……)


 助けを求める様にカイスを見れば、いつのまにかすぐ側でマコトを支えるような位置にいて驚く。首飾りを凝視してい たカイスはじとりとイルを睨んだ。


「待て。この真ん中の、魔石だよな。通信用の」

「はて、どうだったでしょうか。頭領から預かっただけですから」


 こっそりと『イール・ダール』と直接連絡を取ろうと企んだのだろう。

 細工を凝らし、周囲に小さな宝石が散りばめられ、魔石独特の色を隠している辺り、計画性を感じる。


「それは貴重なものを。西の『イール・タール』引いては我が一族への贈りものだよな? 」


 ふん、と鼻を鳴らしたカイスに、イルは大袈裟に肩をすくませた。


「それは何とも。直接頭領に確かめにいらしてはいかがですか?」


 あくまで頭領からと素知らぬ顔で嘯くイルに、カイスはわざとらしい程、大き な溜め息をつき、その宝石を受け取るようにマコトに促した。

 手の中にあるそれは、驚くほど重たい。魔石らしきものに散りばめられた石も小粒ながら輝いていて、それを結ぶチェーンも――まさかこれは金では無いだろうか。


「綺麗ですわねぇ」


 うっとりした様に呟いた女官に、マコトはいっその事パスしたくなった。

 綺麗――というならサハルから貰った首飾りの方が、これよりは小振りで軽く落ち着ける色合いだ。


 サハルの穏やかな笑みが脳裏に浮かんで、マコトは小さく溜息をつく。もしここに彼がいれば、 一杯一杯になってる自分に気遣ってこの手の中の首飾りを早々に引き取ってくれるに違いない。




 二人を見送った後、マコト達は応接間へと場所を変えた。緊張の為、乾いた喉をサラに淹れて貰ったお茶で潤していると、どたどたと派手な足音を立てて、ニムがやってきた。


「かぁっこ良かったわよねー!」


 きっとこっそりと窓から覗いていたのだろう。興奮 した様に頬に両手を当てたニムに、サラとマコトは顔を見合わせ、苦笑した。


「おい、一応中も確かめとけ」


 そんなニムに小さく舌打ちしたカイスは、だらしなくソファにもたれたまま 、机の上に置いていた卒業証書を指差す。


「そうですね」


 頷いたマコトは、厳重にくるまれた布を丁寧に取る。

 証書が見えて来た所で、ころり、と爪先程の、小さな石が転がり絨毯に落ちた。

 毛足の長いそれに紛れない程の、鮮やかな赤い魔石にそれぞれが思い思いの顔 をした。 


「まぁ……二段構えなんてやりますね」


 感心した様に、口許に手を置いたのはサラ。


「どうするマコト? あたしはヨル様渋くて結構イイと思うけど」


 そう言って魔石を拾い上げたニムは、はい、と軽い口調で呟き、よく分かっていない表情のマコトに手渡した。


「お前らっ! ちくしょうどいつもこいつも!」


 カイスはマコトの手の平から引ったくるように奪うと、足音も荒く出て行った 。


「カイスもねー。もうちょっと落ち着きが出てくればいいんだけど」


 そんな事を呟きながら、窓越しにカイスの背中を見えなくなるまで見送る辺り、ニムは可愛い。

 女の子だなぁ、と微笑ましい気分でニムを見ていたマコトだったが、「お代わりはどうですか」と、サラに声を掛けられ残り少ない紅茶を飲み干した。


「お願いします」

「分かりました」


 カップを差し出したマコトに、サラは嬉しそうに微笑んでそれを受け取り、慎 重にお代わりを注いだ。

 机の上に置こうとしたので、マコトは上に乗っていた鞄を膝に引き取る。脇に避けようとした所で、何かに気付いた様に「あ」と小さく声を上げた。


(確か……)


 がさごそと鞄を探り出したマコトを取り囲む様に、ニムとサラは近付きお互い顔を見合わせた。


「あった……!」


 学校指定の鞄には、縫製ミスなのか、わざとなのか、皮と共布の間にポケットの様な隙間が空いていた。入り口は普段硬い革の重なりで隠れているので分かりにくく、マコト自身もクラスメートに教えて貰うまで全く気付かなかった。余談だが、持ち物検査の時にはとても役に立つという側面もあり、部活動の先輩後輩を通して生徒だけに伝えられている、トップシークレットだった。


 そんな由来があるポケットからマコトが取り出したのは――、高校を入学した時に撮った母との写真だった。

 桜の木の下第二十九回入学式と書かれた看板の前で、照れながらも晴れやかに 笑うマコトと母の姿。この頃はまだ母も元気に働いていて、少し化粧を乗せた顔 は血色も良く生き生きとしていた。


(なんか……)


 この世界に来てからまだ一ヶ月経つか経たないかで、さほど長い時間では無い。しかし、そこに映る母の笑顔が懐かしく思えた。


 卒業式だから、と母親の写真を持って行く事にしたのだが、クラスメートに見られる事が気恥ずかしくて、ここに隠していたのだが、 それ故に北の一族にも見つからずにすんだのだろう。


「何なのそれ?」


 動かないマコトに、ニムは焦れた様に身体を擦り寄せ、ひょいっと覗き込む。

 まずその精巧さに驚いたが、写真というものの存在は知っていたらしく、説明は求められなかった。


「今より少し幼いですわね。隣の方はお母様……」


 ニムに呼ばれて写真を覗き込んだサラは、途中で言葉を途切らせ、申し訳無さそうにマコトを見た。

 サラの言葉を頭の中でなぞり、ああ、と納得する。『イール・ダール』は、元の世界に戻れない。肉親の事に触れるのは禁忌だと思ったのだろう。


「母はこちらに来る前に亡くなってますから。大丈夫ですよ」


 微笑んで流してくれるように促したつもり……だったが。

 ぱこんと、後頭部に衝撃が走った。


「大丈夫じゃない顔して笑うんじゃないわよ。ばか」


 振り返れば、卒業証書の黒い筒を手に肩を怒らせていたのはニム。


「え……あ、はい」


 何故かその迫力に、マコトは素直に頷いて両手で頬を覆った。

 ……そんなに顔に出ているのだろうか。確かに久しぶりに見た母親の顔に、寂しい、と思ったのは確かだったが、ほんの一瞬だったはず。


 振り返れば、サラも少し悲し気に自分を見ている。

 それだけニムもサラも自分の事を見てくれていると言う事だろうか。

 嬉しい、と思う気持ちに素直に礼を言えば、ニムは照れたようにそっぽを向き、それから写真に視線を戻した。


「まぁでも、あんまり似てないわねぇ」

「お父さん似だとは、昔聞きましたけど」


 記憶を辿ってそう答える。父親について母親と話した事はあまり無かった。

 ただ、優しい人よ、とだけ繰り返す母親の穏やかな表情が印象に残っている。


「でもマコト様と同じくお優しそうな方ですわね。これは何かの式典ですか?」


 立派な門を指差したサラに、学校についての説明をすると、好奇心旺盛なニムにまた質問され話は飛び、結局夕方近くまで三人は部屋で話し込む事となった。





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