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第六十六話 贖罪

 大陸屈指の占い師であり、また現王の実の姉で西の一族に降嫁した王女を母に持つアクラムの護衛として、マコトが村に着くよりも先に、王都入りしたナスルは、自分の宿舎に戻っていた。


 扉を開け、留守が長かったせいで、埃っぽい部屋に一瞬眉を顰めたが、換気の為に窓を開ける事も無く、そのままベッドに寝転がる。ひんやりとしたシーツはどこか湿っぽく、鬱々した気分をより一層重くさせた。


 その感触から逃げる様に仰向けになり、ナスルはゆっくりと瞼を閉じた。闇に浮かんだのは、静かに自分を見つめる少女の姿。


『あの――大丈夫ですか』


 水に浸した布の向こうに、眉を寄せ、多分自分よりも痛そうな――泣きそうな顔をしていた。

 あれほど傷付けた時も、ただ静かに諦めた様な顔をしただけで、そんな顔はしなかった事を思えば彼女は自分の身より他人の傷に痛みを感じる性質なのだろう。


 ――正直、彼女とは顔を合わせたくない。


 その気まずさは、兄と再会した時に、羞恥心と共に確固たるものになっていた。彼女を責める表向きの理由が、変わらない兄の笑顔で氷解した。あるいは、兄が想像していた様に『イール・ダール』を厭ってくれれば、その代わりとしてまだ表面上は取り繕う事も出来たのに。

 いっそ、責めてくれればいいと思うが、彼女はそれ所か、至って正しい制裁からも庇おうとした。


 思わずその手を取りそうになったのは、自分の弱さか彼女の慈愛の深さか。

 許してくれ、などと言うつもりは無い。

 そんな事をすれば、彼女は自分を許さざるをえなくなる。


 憎んでくれればいい。彼女の性質を思えば、自分の他には決して向けられないであろうその感情を、誰よりも強く――。


「愚かな」


 八つ当たりするように、シーツに散らばった髪をくしゃりと掻き回したその時、規則正しく扉を叩く音が、部屋に響いた。

 すぐに身体を起こし、返事をすると、返ってきた声に素早く立ち上がり身支度を整え、扉を開けた。


「隊長」


 一歩引き、低く頭を下げれば、ナスルが所属する王の親衛隊を纏める立場にあ る男は、その地位に相応しい厳しい顔を和らげ、労う様にナスルの肩を軽く叩い た。


「無事で何よりだ。探してくれていたのだろう」

「いえ、わざわざご足労頂き、有り難うございます」


 アクラムを離宮まで送り届けた後、ナスルは報告の為に親衛隊隊長であるスィ ナーンの執務室を訪れたが、外出中だったのだ。


 ナスルはすぐに狭いですが、と断り中に入る様に勧めるが、彼はいや、と静か に首を振った。


「報告は後でいい。王が執務室に来るように仰せだ」

「王が……」


 じわり、と口に苦いものが広がり、ナスルは、言葉を途切らせた。

 珍しく迷う様な素振りを見せたナスルを、スィナーンはじっと見つめ、そして 何かに気付いた様に目を瞬かせた。


「怪我か?」


 自分の頬を撫でて顎で指す。

 スェに殴られた痣は、その後のタイスィールの気遣いによってやってきたアク ラムに断る間も無く治療されたが、よく見れば殴られた傷と分かる痣が残っている。


「……大した事ではありません」


 ナスルの呟きに、スィナーンは一旦押し黙ったが、すぐに「そうか」と頷くと、一歩下がって身体を引き、付いてくる様に促した。





* * *




 王の執務室の隣にある小部屋に通されたナスルは、旅立つ前と変わらぬ王の様子に、小さく安堵の息を漏らしていた。


 今年三十になる王は、実年齢よりも年若く見えるが、即位してから既に十七年が経過しており、それに相応しい威厳も理知的な雰囲気も併せ持っている。後ろに控える護衛に比べれば華奢に見えるその身体も、普段から鍛え抜かれ、幼い頃はナスルも王の鍛錬相手という名目で、剣を教えて貰っていた時期もある。

 いかなる時も穏やかで、声を荒げることもなく静かに場を制す。またナスルから見ても大陸の民の事を考え政をし、その真名の『アドル』――古い言葉で「真実」を示すその名の通り、即位したその年には 腐食した貴族や高官の不正を正した――賢君とはまさに彼の為の言葉である。

 兄が行方不明になってから、ただ一人自分を擁護してくれた方だった。


(――どうして兄さんは、王には黙っているように言ったのだろう)


 主従の枠を越えて親友だったのだと、王から聞いている。ならばきっと王だって兄の無事を喜ぶ筈だが。


 何かあるのは、分かっている。

 しかし、そこに自分が頭を突っ込んでいいものか――。


 兄にその理由を聞いてもはぐらかされるばかりで、肝心の答えを知る事は出来ないまま別れる事となった。

 すっきりしない頭を切り替えて、王を見上げる。しかし、黒髪である王を見れば自然と先程まで考えていた少女の姿が思い浮かぶ。視線を絨毯に戻し慣例通りの挨拶を交わせば、王はナスルを労った後穏やかに微笑んだ。


「して、『イール・ダール』は、どんな娘だったのだろうか」


 突然の質問に、言葉が見付からず会話が不自然に途切れた。


「ナスル。王のお言葉に返事を」


 後ろに控えるスィナーンに促されて、ナスルは重い唇を開いた。


「……小柄で……黒髪に同じ色の目を」


 一瞬王の表情が強張る。しかし、すぐに王は穏やかな笑みを浮かべて、そうか、と小さく頷いた。


「他には無いのか?」


 黒髪の『イール・ダール』の話は、王にとって忌まわしい過去の話だった筈だ。先程の一言ですぐに切り上げるだろうと思っていたナスルは、重ねて問いを口にした王を意外に思う。


 少し間を空けて、ナスルは俯いたまま口を開いた。


「……優しい方かと思います」


 それはきっと愚かな程。

 世界にたった一人の孤独を、突き放し、試して、傷付けたそんな酷い男を許せる程。

 それだけでは無く、聡い彼女は自分と連れ立って歩く時は必ず右側に並んだ。

 それは片目を塞いでいる自分の狭い視界を気遣っての事で、それは余計に苛立ちを増幅させた。


 王と前の『イール・ダール』に、何があったかは知らない。しかし、噂話とあの頃の自分を取り巻いていた周囲の態度を見れば、大体の事は予想出来た。

 そしてそれを真実だと信じて疑わなかった。そんな人間と『同じ』である『イール・ダール』に、自分が傷付いた分と同じだけの傷を与えたいと思った。


 ……なんて短慮で浅はかな思考なのだろう。


 今なら分かる。けれど常に王の側にある自分に償いなど出来る訳も無いし、またその方法も分らない。


「……ナスルは、真面目すぎる所がある。もっと身体の力を抜いた方が良いのではないか」


 穏やかなその表情には、慈しみが含まれている。そう、彼はいつもこんな表情で自分を見ていてくれていた。……彼が自分が『イール・ダール』にした事を知ればどう思うのだろうか。


「……恐れ入ります」


 怖い。しかしそれこそ、自分が受けるべき最上の償いの形だ。

 ナスルは再び頭を下げた。


 兄がいなくなってからは、彼が全てだった。役に立ちたいと思ったからこそ、親衛隊への所属を希望した。


 自分の全てを彼に捧げたい。裏を返せばそれ程、彼に依存している事になるのだろう。自分の意思など関係無く、命令のまま動けば責任は全て自分以外の誰かのものだ。


 控え目に扉が叩かれ、王が返事をすると、宰相が広間に入って来た。特にこちらを見ることも無く、王の側まで行くと、耳打ちする。


「さて、残念だが仕事に戻る。ナスルご苦労だった。 引き続き『イール・ダール』の警護を頼む」


 さも当然と言うように何気ない口調で付け足された思っても見ない言葉に、ナスルは伏せていた視線を上げ、王を見つめた。乾いた唇が何度か動き、そしてようやく言葉にした時には、不自然な程の間が空いていた。


「――西の頭領は何と?」

「いや特に何も聞いていないが……?」


 言外に何かあったのかと尋ねる王に、ナスルは躊躇いつつも口を開いたが、退室を促す様に宰相の窪んだ視線が薄く眇められた事に気付き、「いえ」と首を振った。


 自分のした事はタイスィールを通して長老に報告された結果、謹慎処分となった。当然ながら王にも伝えられ間違いなく『イール・ダール』の護衛から外されると思っていたが――。


(……端くれでも一族の人間だからか)


 深く考えずとも分かった。

『イール・ダール』を預かっているのは、西の一族であり、彼女を欺き試した人間がその一員である事を伝える訳には行かなかったのだろう。


 ここで自分が何もかも話してしまえば、『イール・ダール』は、西の一族から取り上げられるかもしれない。


「ではスィナーン。後の指揮は任せたぞ。ナスルも護衛は彼女がここに来てからの話だ。それまで身体を休ませる様に」

「……お気遣い感謝致します」


 俯いたその顔の下で、ナスルは唇を噛み締めた。




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