第六十二話 道行
集落までの移動手段は馬だった。初めは砂漠の移動が初めてだというマコトの為にラクダの方が安定して良いのでは、との意見も出たが、座場を乗せる事が出来る分、乗り心地は良いがその歩みは人が歩くよりも遅く、他の部族に干渉される危険性も高い故に早い段階で却下された。
そして、結局、最終的に選ばれたのが一般的な移動方法である馬だったのだが、しかし当然ながら乗馬の経験の無いマコトが一人で扱える訳も無い。そしてその相乗り相手となったのは、タイスィ―ルだった。
思えば候補者でかつ現地点できちんと求婚しており、元親衛隊隊長という肩書きを持つ以上、馬の扱いに加え護衛としてもまさにうってつけ。タイスィールが選ばれるのは自然な流れだった。
(三日、か……)
出発の朝、カイスを遣いにマコトを呼び出した頭領は、昨日訪ねられなかった事への詫びと、今後の日程を細かく教えてくれた。おかげで、大体の予定は頭に入っている。
既に集落から出て八時間。慣れないマコトの為だろう、二時間に一度は休憩が入る事もあって、想像していた程疲労は感じない。
重ねてサラが、ワンピースの下に乗馬用の分厚いズボンと、太股に巻く布を用意してくれたので、カイスと買い物に行った時の様に擦れて痛む事も無く、ここまでは思っていた以上に快適な旅だった。
(でも、ずっとタイスィールさんと一緒なのかな)
マコトは背中越しに感じるタイスィールに気付かれない様に、こっそりと溜め息をつく。
良い人なのは分かっているが、その艶やかな声、仕草や雰囲気に慣れる事が出来ない。しかも最近はそれを分かって、やたらとからかっている節がある。
――そして、今も。
後ろから回された手は重ねられ、安心させる為かからかう為か……多分後者であろうと思いながら、マコトは身体を強張らせていた。
「マコト、余計な力を抜いて。明日筋肉痛で起きられなくなるよ」
耳元で囁かれ、肩に顎を置かれてマコトの身体がますます強張る。
「……ッタイスィールさん……! あの、耳がくすぐったいんで、その」
このままでは、到着する前に落馬する。そう結論づけ、勇気を振り絞り口を開けば、タイスィールはマコトの顔を覗き込み、艶やかな笑みを浮かべた。フードから溢れたタイスィールの柔らかな髪が頬を擽り、マコトは首をすくませ身を捩る。
「ああ、それは悪かったね。気付かなかったよ」
「……いえ」
至近距離にある整った顔を直視しない様に視線を流せば、いつの間にか横に来ていたカイスに気付く。
眉間に深い縦皺を刻み、物言いた気な顔をしている――、と思ったと同時に、不機嫌に結ばれていた唇が開いた。
「っおい! マコト嫌がってんだろうが、離れやがれ」
どうやら自分を心配してくれているらしい。
ほっとした少し後で、カイスに気付かれる程顔に出ているのか、と心配になった。そもそも自分が一人で馬に乗れないせいで、タイスィールに相乗りして貰っている状態だ。それはいくらなんでも失礼すぎる。
(とりあえず、一人で馬に乗れる様に練習しなきゃいけないよね)
ニムやサラでさえも、一人で危な気無く乗りこなしている事を考えれば、きっとこの世界の移動手段として必要不可欠なのだろう。
「カイス。君は頭領の側にいなくていいのかい」
マコトと違い、カイスが近付いて来た事にとっくに気づいていたのだろう。
タイスィールはマコトとの距離を変える事無く尋ねると、カイスは眉間に皺を寄せたまま前方を顎で示した。
「その頭領から伝言。もうすぐ夜営予定地に着く。お疲れでしょうがもう暫く我慢下さい、だとよ」
「はい。分かりました。お気遣い有難うございます、って伝えて頂けますか」
多分、自分への伝言だろう。そう考え、マコトは口を開く。
もう一時間もすれば日も沈む。
簡易テントを組むと聞いているので、その準備を考えれば妥当な時間だろう。
マコトの返事に、カイスは頷いてから、再びタイスィールに視線を戻した。手綱を緩め前に出ながら、ぴしっとタイスィールを指さす。
「マコト。タイスィールに何かされたら大声で呼べよ。俺が乗せてやってもいいしな」
人聞きが悪いね、と溜息をつくタイスィールに苦笑し、マコトはぺこりと小さく頭を下げた。
「有り難うございます」
ぶっきらぼうながらも、優しい気遣いにマコトは表情を緩めると、カイスは「おう」と片手を上げ、手綱を引き前の列へと戻って行った。
* * *
一団が夜営地予定に付くと、頭領の指示により、簡素な天幕が立てられ始めた。
(わ、手早い……)
マコトはニムと共に、てきぱきと手際よく組まれていく天幕を感心しながら見つめており、サラは強くなって来た風に、何か羽織る物を探して来ます、と馬が繋がれた場所に戻って行った。
立っているだけ、と言う状態にいささか抵抗を感じるが、テントすら組んだ事も無いマコトに天幕など組めるはずもない。むしろ ここで自分が手を出しても邪魔になるだけだろう。
冷えてきた夜風に両手を擦り合わせ小さく溜め息をついたマコトの隣に、大きな影が二つ並ぶ。
気配無く突然生まれたそれに驚いて顔を上げると、そこにはサハルとタイスィールが立っていた。
身を叩く様な風が緩むのを感じ、二人が風避けに立ってくれた事に気付いて、それぞれの顔を見つめると、タイスィールは悪戯っ子の様に片目を瞑って見せた。
「夜風は女の子には良くないからね」
「有難うございます」
気付けば、ニムはサハルのマントにくるまり、子供の様に顔だけ突き出している。兄妹ならではの遠慮の無さと、カンガルーの親子の様な姿に思わず微笑むと、それに気付いたニムが「何よぅ」とそれこそ子供の様に唇を尖らせた。
「マコトもやるかい? 確かに暖かそうだ」
同じ様に見ていたタイスィールが、外套の袂を引っ張り、中を見せる。
マコトは慌てて首を振り、一歩後ずさった。その背中にふわりと何かが掛けられる。
「タイスィール様。マコト様を困らせないで下さいませ」
振り返れば手に嵩張るものを持ったサラの姿。
柔らかな布が肩を覆い、その暖かさに自然と強張っていた肩の力が抜けていくのが分った。
既に分厚い外套を着込んでいたサラは、マコトとタイスィールの間に割り込む様に身体を差し入れ、くるりと振り返るとマコトのボタンを丁寧に止め始めた。
いつも以上の甲斐甲斐しさに少し驚いたものの、すぐにタイスィールとの距離を取ってくれているのだと気付き、マコトは声に出さず有難うございます、と口を動かした。察したらしいサラは、嬉しそうに笑って最後のボタンを止めた。
「おや、残念」
言葉ほど思っていない軽い口調でタイスィールはそう呟くと、聞こえない振りをする二人に苦笑した。
* * *
それから暫くし、設置に加わっていた頭領の護衛の一人がやって来て、マコトはタイスィール達と別れ、ニム、サラと共に天幕へと移動した。
「広いんですね」
捲り上げた入り口から屈んで入ったマコトは、くるりとゲルの中を見渡し、控え目な感想を漏らした。見た目よりも奥行きがありかなり広く感じるが、続いて入ったニムには、否定する様に首を傾げられてしまった。
籠った匂いを消す為か、その中心ではやや強い香が炊かれ、天幕を支える真ん中の柱を中心に、布の様なものが三つぶら下がっており、マコトは首を傾げてそれに歩み寄る。
「……ハンモック?」
思い付いたまま口に出してしまったマコトに、最後に入って来たサラは、律儀にその呟きを拾うと、マコトの隣へ並び視線を落とす。
「ええ。寝心地があまり良くありませんけれど、砂の中に毒虫が潜んでいるかもしれませんし、冷たい砂に体温を奪われる事もありませんから、こちらの方が安全なんです」
眉尻を下げ申し訳無さそうに顔を覗き込んで来たサラに、マコトは慌ててハンモックに触れていた手を離し、首を振った。
「あ、違うんです。別に嫌なんじゃなくて、むしろ嬉しいって言うか……子供の頃から憧れてたんですよね。ハンモックで寝るの」
珍しく捲し立てる様に勢い込んだマコトに、サラは驚いた様に目を瞬かせたが、すぐに笑顔を浮かべ「そうなんですか」と少し安心した様に表情を和らげた。
早速手持ちの荷物をほどいていたニムが、そんな二人を少し冷めた目で見つめて、これみよがしに大きく肩を竦めて溜め息をついた。
「マコトってホント子供よね。こっちじゃ珍しく無いわよ」
子供、と言う言葉に引っ掛からない訳でも無かったが、いつもよりテンションが上がっている自覚はある。だって、ハンモック。きっと向こうの世界の……多分同じ年頃かそれ以下の人間なら分かってくれるに違いない。
そう考えて、最初に思い浮かんだのはこの世界で唯一の顔見知りであるイブキだった。
(イブキさんも大人だけど、きっと分かってくれるはず)
何となく好きな感じがする。本当に何となく、だが。
「元の世界、って言うか私の国ってそれこそベッド……寝台か、集落での寝床みたいな感じなんですよ。ハンモックってそれこそ物語の中でしか見たこと無くて」
ふぅん、ニムが気のない返事をした所で、天幕の出入り口から声が掛かった。
すぐ側にいたサラが対応し、ニムへと振り返る。どうやら夕食の手伝いを――との事らしい。
「では、マコト様。行ってきますね。入り口に護衛が付くそうですから、ご安心下さい」
「え~っ……ちょっと休憩させてよ~ッ」
「何仰ってますの! 途中手綱取るの面倒くさい、なんて言ってサハル様に相乗りして頂いていたじゃありませんか!」
タイスィールにばかり意識がいっていたので気付かなかったが、後ろではそんな事があったらしい。ニムらしい要領の良さに苦笑する。
そして、嫌がるニムを引きずる様にして、サラは天幕を出ていった。
いってらっしゃい、と入り口から顔を出し手を振ったマコトは、すぐ傍らにいる護衛の男に軽く会釈し、再び中に戻った。
とりあえず端に寄せた荷物から、着替えを取り出そうとして手を止める。
(あ、まだ着替え無い方がいいかな?)
扱いから考えてあまり可能性は低いが、夕食を皆で一緒に取る事になるかもしれないし、思っていた以上に、面倒見のいい頭領が尋ねてくる可能性もある。
サラに聞いてからにしよう、と手にしていた紺色のワンピースをリュックの一番上に戻し、それから汚れたズボンだけ脱いだ。
簡単に砂を払い軽くたたむ。分厚いズボンのせいで蒸れた足が、ひんやりとした外気に晒され気持ちが良い。 その場に座り込み、軽くふくろはぎをマッサージし終えた所で、一人だし、と行儀悪く足を投げ出し反り返るように天井を見た。
(暇だなぁ……)
しん、と静まり返った中を見渡し、マコトは膝立ちでハンモックに歩み寄った。しっかり結ばれているのを確認する為に、その端をぐっと両手で掴んで下に引っ張ってみるが、柱は少し軋んだだけで大丈夫そうだ。
「乗ってみようかな……」
毒虫がいるって言ってたし、このまま絨毯の上に座っているよりはいいかもしれない、と、どこか言い訳めいた言葉を心の中だけで付け足し、そのまま手を滑らせて布の固まりを広げてみる。それは思っていた以上に大きく、そして意外な程その位置は低かった。あまり高くないマコトの膝あたり……だろうか。鮮やかなエメラルドグリーンの海を背景に、高い椰子の木の中程の高い位置にぶら下がっているイメージだったが、すぐにその疑問も解決した。
(あ、そっか。落ちたら怪我する……って言うより、これ以上高くしたら、自力で降りられなくなりそう)
虫除けと体温調節が主なら、それこそこれくらいが丁度いいだろう。
なるほど、と頷いて、マコトは少し迷ってからその布の中心に膝を入れた。
「あれ?」
体重を乗せた途端大きく沈んだ布にゆらゆらと重心がずれて、慌てて身体を戻す。
……意外に難しい。
もしかして勢いがいるのだろうか、と考えて思い切って飛び乗ろうとジャンプしたら、片方の膝が乗りきれず大きく布が揺れ、そのまま反対側に落ちそうになった。
(の、乗れない……)
イメージ的に難なく乗れるものだと思っていたが、意外に難しい。
これはコツでもあるかと首を傾げた所で、後ろから押し殺した様な笑い声が聞こえた。
慌てて振り向いたその先にいたのは、カイスだった。
「カイスさん!」
(み、見られた……っ!)
片手で扉代わりの布を捲ったままの体勢で俯き、肩を震わせている。
一体、どの辺りから見られていたのだろうか。
八つ当たりも交じり、入る前に声を掛けてくれればいいのに、と恨めし気な視線を向けると、カイスは、ゆっくりと笑いを納めて中へと足を踏み入れた。
「悪ぃ。でも、一応声掛けたんだぞ」
「……ぅ、そうですか……」
どうやら自分が思っていた以上に熱中していたらしい。
自分の子供っぽい行動と八つ当たりした気まずさに視線を反らせば、カイスはマコトの隣に並び、ハンモックに視線を落とした。
「まぁ、今じゃ滅多に見ないからな。はしゃぐ気持ちも分かる」
「……はは」
「俺も結構好きだぜ? 子供の頃は寝台あんのに、わざわざジジイのコレ借りて寝てた時期あるし」
優しいフォローだと思ったが、実話らしい。意外な所に意外な仲間がいたものである。
カイスはハンモックの端を引っ張り強度を確かめた後、そのハンモックの布を両手で一つに纏め、片足を上げて跨いだ。
「慣れりゃどうとでも乗れるけどな、慣れない内は、こうして跨いでだな」
両手を離し、それを今度は自分の後ろに回したカイスは、後ろ手に布を広げた。
「こうやって尻から乗って、前を広げて足を入れる。……な?」
言葉通り見本を見せたカイスの身体はすっぽりとハンモックに包み込まれた。
なるほど、と感心するマコトに、カイスは満足そうに笑って、飛び降りる。
「ほら、やってみろ」
なるほど、と素直に頷いたマコトは、言われるままにハンモックを掴む。
(そっか、お尻が一番重いって事なんだよね)
確かに利に適った乗り方であり、簡単である。
カイスの言葉通りにすれば、先程までの苦労が何だったのかと思う程、マコトの体は簡単に布に包まれた。
思っていた以上に窮屈な気がするが、これ位の幅が無ければ寝返りの度に落ちてしまうだろう。
(あ、でも気持ちいい。結構好きかも……)
何はともあれ、異世界で長年の夢を成就する事が出来るとは思ってなかった。
上機嫌で起き上がろうとしたその時、ふと、無言のままのカイスの視線を感じた。
「……?」
カイスの視線はマコトの足元に注がれており、スカートの裾が少しだけ捲れ上がってほんの少し膝が見えていた。 元の世界ではもっと短いスカートを履いていたので気になる丈では無かったが、あまりにまじまじと見つめられているので、 何かついているのか、あるいは虫でも潜んでいたのか……何だか居心地の悪さを感じてしまう。
「何か……?」
起き上がり、視線を遮るようにマコトが顔を覗きこむと、カイスは「ぅあ」と奇妙な叫び声を上げた。 そして首を傾げるマコトと足元に代わり代わり視線を送り、瞬時に――それこそ耳まで真っ赤になった。
「……ッいや! 別に見てた訳じゃ……!」
その慌てぶりにマコトはようやく、自分の感覚とカイスの、恐らくこの世界の感覚がズレている事に気付いた。 思えば、この世界に来てからは長ズボンばかり履いていたので、すっかり忘れていた。
もしかすれば、カイスの目の前で横になり、足を見せている今の状態はとても非常識なものなのだろうか。
「え、ぁ、すみません……?」
反射的に謝れば、カイスは拳で口元を覆い、顔を背ける。そしてそのまま手探りで毛布を掴み、マコトの 足元に乱暴に被せた。
「つっ、慎みをだなぁ……っ」
「ぼんきゅっぼんとか仰ってるカイスにだけは言われたくありませんわ」
カイスの上擦った声に被せる様に響いたのは、冷ややかなサラの声だった。
「サラさん」
「さぁ、マコト様。行きましょう。もう準備が出来ましたから。カイス起こして差し上げて下さい」
固まるカイスに一瞥すら寄越さず、サラはにっこりと笑ってマコトを促すと、カイスは苦虫を噛み潰したような 顔をし、両手を差し出した。
「……ほらよ」
少し屈み込んで、自力で起きようとして布の中で溺れるマコトの身体を掬い上げる。
「わ……あ、有難うございます」
マコトを絨毯に下ろしたカイスは、すぐに背中を向け、逃げるようにゲルから出て行った。
「まだまだですわねぇ……」
ぽつりと呟いたサラの一言に、マコトは何の事かと、首を傾げた。




