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第六十話 忘却


 すっかり荷造りも整い寝床以外は整理されたゲルの中、持ち主であるサハルは二人の為に茶を煎れていた。

 部屋の中央ではアクラムが上品に盛られた菓子を、そぐわない早さで口に放り込み、ハッシュはその横でサハルの寝床を借りて横になっている。うつ伏せの状態で冷やした布を頭に乗せ、それを左手で抑えながら、小さく溜め息をつく後姿を視界の隅に映し、サハルはコップにお茶を注ぎながら見えない角度で苦笑した。


(随分落ち込んでるみたいですね)


 今回の騒ぎの大元である鼻血はここに来る途中で止まっており、頭のコブも冷やしておけば大丈夫だろう、との事で大事は無かったが、このまま自分のゲルに帰せば砂にめりこむ勢いで落ち込むであろう事は予想がついた。だから半ば無理矢理ゲルに留まるように指示したのだが、自分の判断は間違っていなかったらしい。

横になっているにも関わらず、マコトに借りた手拭いはしっかりと手に握り込まれていて、そのいじらしさにサハルはふっと表情を緩めた。

 お茶を注ぎ終わり、サハルは二人の元へ向かうと、それぞれ目の前にお茶を出した。アクラムは無言のまま小さく頷き、ハッシュは恐縮した様に何度も頭を下げ、その度、痛そうに眉を顰めた。


「冷たいので、すっきりしますよ」


 程よく冷やしたカップには沢山の水滴が浮かんでいる。

 それを指先で拭い口をつけたまま、ぼんやりと自分を見つめているハッシュに、サハルは首を傾げて見せた。


「何か?」


 穏やかに続きを促すサハルに、ハッシュは眉間に皺を寄せた。


「……いえ、ちょっと自分が情けないなぁ、なんて」


 そう言って、乾いた笑いを浮かべたハッシュに、サハルは笑みを深める。

 何か慰めが欲しい心境なのであろう。一部始終を見ていたサハルは一連のその行動を浚い思わず込み上げた笑いを押し隠し、普段と変わらぬ穏やかな表情を作った。

 頭から滑り落ちた手拭いを拾い上げ、傍らの器に浸らせきつく絞る。


「……有り難うございます」


 恐縮して頭を下げたハッシュだったが、その拍子に痛みが走ったらしくすぐに呻いて顔を突っ伏した。 サハルはそのまま手の中の布をそっと頭の上にのせる。


「まだ若いのですから、仕方ありませんよ」 


 そう、十四歳と言えば思春期まっさかりの多感な年頃である。

 その上優秀すぎるが故に、幼い頃から男だらけの学院で過ごしてきたのだ。異性に免疫が無いのは当然であり、その上初恋相手のあんなあられもない格好を目の前して取り乱すなと言うほうが 無理な相談だろう。

 しかも。


(ハッシュにしては頑張りましたし)


 最後に見たマコトのはにかむような笑顔を思い出し、そう思う。

 向けられたのは自分では無い事が少し悔しい気もするが、あまり見る事の無い種類の笑顔を見る事が出来た。


 多分、あの場で自分がどれだけ言葉を重ねて誉めても、ハッシュの言葉程マコトに届かなかっただろう。 彼が不器用にあのタイミングで褒めたからこそ、マコトは羞恥心に穿つ事無く素直に受け取りあんな風に笑ったのだ。


「……それにしてもサハルさんは冷静ですよね」


 子供っぽく頬を膨らませた珍しい表情でそう言ったハッシュに、サハルは少し間を空けて苦笑する。

 自分だって普段に無いマコトの姿に驚き、その柔らかな肌と見事な曲線に見惚れたのは確かで、それを表に出さずにすんだのは、 それ以上に顔と態度に出していた目の前のハッシュのおかげだ。彼が自分の事を敬い尊敬してくれている事を知っている以上、取り乱して理想の兄弟子像を壊す事は出来ない。


 ハッシュがこんな事を言う位なら、きっと上手く動揺を隠し通す事が出来たのだろう。


 それに明らかにマコトは嫌がっていた様子だったし、どちらかと言えば呼ばれていない自分は、さっさとあの場を離れるべきだったのだ。しかし頭では理解してもすぐ行動に移せなかった辺り、自分も勿体ない、と思う心があったのだろう。

 ニムとサラの会話から察するに、マコトの意志に関係無く、候補者達の進展具合を計り、 人畜無害なハッシュが唯一の傍観者として選ばれた事は簡単に予想できたが、……面白くは無いのは事実。今更ながら「借り」だと言い置いた辺りに自分の心の狭さを感じ自嘲する。


「……確かに普段では見られないような艶っぽい姿で驚かされましたが……そうですね。私はそれより、恥らってる姿の方が」


 小さな動物の様に必死に身体を丸めて、自分を伺っていた。あの白く華奢な肩に幼さを残す顔には庇護欲をそそられ、その滑らかな女性らしい曲線を持つ肢体に目を奪われる。いっそそのまま抱きこんで自分を含めた周囲の視線から隠してやりたいとさえ思った。

閉じた瞼の裏に、耳まで赤く染め、羞恥唯に潤んだ瞳を思い出しサハルはゆっくりと頷く。


「……ああ、やっぱり可愛いですね」


 にっこりと微笑むサハルに、ハッシュは複雑そうな顔で溜め息をつく。そしてゆっくり視線を巡らせて残る人物に目を止めた。


「アクラムさんは、ええと……」


 個人的にあまり話す機会が無い故に自然と遠慮がちになった小さな声。

 しかし無視するかと思われたアクラムだったが、手は止めずに視線だけ上げてハッシュを見た。


「……何だ」

「え? ……あ、その、マコトさんの衣装です。似合ってたと思いませんか」


 そこで初めて手を止め、アクラムは何か思い出す様にゆっくりと瞼を閉じた。ややあってから、ごくり、と口の中に残っていたものを飲み下し、口を開いた。


「変わった恰好をしていたな」

「……変わった、ですか。……その、艶かしいとか色っぽいとかじゃなく?」


 もしかしたら彼にはそういう方向の感情が欠落しているのかもしれない、などと割りと失礼な事を思い、サハルはその時のアクラムの奇妙な行動を思い出し、口を挟んだ。


「そういえばアクラム。あの時、何か考えていた様ですが」


 マコトに触れるまでの空白の間。

 何かを考える様に動きを止め、答えが出た様に頷いていたが、あれは一体何だったのか。

 アクラムの奇怪な行動は今に始まった事では無いが、相手がマコトならば話は別である。きちんと釘を刺しておかねばならない。


 サハルと同じ心境なのであろうハッシュも、前のめりになって肘を付く。二つの真剣な眼差しを向けられたアクラムは、珍しく答えに迷う素振りを見せた。ややあって。


「……触れたい」


「……は?」


 落ちた呟きに、思わず反射的に口を開いてしまったハッシュだったが、そのおかげで珍しく言葉が足りないと気付いたらしいアクラムが再び口を開いた。


「と、思った」


「……」

「……」


 サハルとハッシュは思わずお互いの目を見て確認する。


 触れたいと思ったから、触れようとした。

 

 ……つまりは、そのまま言葉の通り。そういう事なのだろう。


 本能に忠実すぎる、と心の中で呻きながら、サハルは自然と寄った眉間 を撫でて小さく溜め息をついた。本能を理性で抑えるのが人間というもので、 もしや目の前のこの人物は、自分達と同じカテゴリに分類されないのだろうか、とサハルは軽く頭痛がしてきた頭を横に振る。


「前に、マコトに触れた時にカイスに理由もなく触るべきでは無いと言われた」

「っ分ってるじゃないですか!」


 続けられた言葉にハッシュが思わず、と言った風に突っ込んだ。

 そう言えば祭の挨拶の時に、カイスがそんな事を怒鳴っていた事を思い出す。なるほどたまにはカイスも良い事を言う。

 しかし、それを分かっていながら何故あんな暴挙に出たのか。


「で、でもマコトさんに触ろうとしてましたよね」


 意味が分からないとばかりに眉を寄せたハッシュが、訝しげに問いかけると、アクラムは、話の途中だと言うのにまた新たに菓子を抓んだ。辛抱強く二人は食べ終わるのを待つ。


「……つまりは、理由があれば触れても構わないのだろう」

「え」


 ――『どんな構造か興味がある』


 確かにアクラムはマコトに触れようとする少し前に、そんな事を言っていた。

 明らかにマコトに触れる為の口実としか思えないのに、そんな自分勝手な言い訳か通ると本気で思っているアクラムはある意味子供以上に厄介である。


 どっと疲労を感じ、サハルは細く長い息を吐き出した。


「――どんな理由にしろ、断りも無く、女性に触れてはいけません」

「……」

「返事は」


 無言で咀嚼しながら、上目遣いでサハルを見上げるアクラムに、サハルはすぅっと目を細め、目の前にあったお菓子を取り上げ静かに見下ろした。


 数分後、「……分かった」と頷いたアクラムに、サハルは籠を元の位置に戻すと、アクラムはひったくるようにその籠を抱えた。まるでその姿はおやつを取り上げられた子供の姿そのものである。


 微妙に「分かった」の前の空白の間が気になるが、まぁ言質は取れた。最低限の約束は守る意外と真面目なアクラムの事だから、多分もう下手な行動には出ないだろう。


 空っぽになった篭とコップを片付けようと、サハルはハッシュの前にあったコップを回収すると、何か思い出した様に顔を上げた。


「ところでアクラム。荷物にまだ空きがあったら、この前お借りした薬の瓶お返ししたいんですけどいいですか?」


 サハルの言葉にお菓子を口に運んでいたアクラムの手がぴたりと止まる。


「……? もう既に荷造り終わっているなら、向こうでお返ししても構いませんが……」


 首を傾げてそう申し出たサハルに、アクラムは動きを止めたまま、単語を反芻した。


「荷造り」

「……」

「あの、明日出発です、よ……?」


 サハルと同じく、悪い予感を感じたのか、おそるおそるハッシュが口を挟む。


「……明日?」

「タイスィールが伝えたはずですが」


 重ねて問いかけて、サハルの眉間に皺が寄る。


「まさか……長老達がどうして来てると思ってたんですか」


 溜息まじりで呟いたサハルの言葉に思い切りアクラムの目が泳ぐ。


「……ああ」


 なるほど。


「忘れていたんですね」


 どこか疲れたようにぽつりと呟いたサハルに、アクラムは無言のまま頷いた。


 ややあって。


「……すぐ行きましょう」


 ハッシュは悪い予感を感じつつ、上半身を持ち上げて、どこに、と思った。


「三人でやれば明日の出発に間に合うでしょうから。……ああ、ハッシュ、君は少し休んだ後でいいですよ」


 要約すれば、少し休んだら手伝え、だ。

 結局、サハルとハッシュは、夕方からアクラムの荷造りを徹夜でする羽目になり、ここを片付けろと指示する度に、 藥瓶やら乾燥した薬草やら既に纏めた荷物をひっくり返すアクラムは、 一時間もたたない内に、青筋を浮かせたサハルに厳命され、ゲルの隅で丸くなって二人が荷造りするのをのんびりと……時々船を漕ぎつつ見守っていた。




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