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第五十九話 軋む体


「いたた……」


 固く強張った足に湿布を貼り、ハッシュは眉を顰めて低く唸った。ぎゅっと目を閉じ痛みをやり過ごした後、ずれない様に包帯を巻き、裾を戻して立てた膝に顎を乗せ小さく息を吐く。


(……今日も厳しかったな……)


 心の中で呟いて、普段自分が使っている机の前で課題の出来をチェックしているサハルを盗み見た。


(大丈夫、かな。……自信はあるけど)


 日課となった鍛練が終わった後サハルが課題のチェックを申し出てくれたので、有り難くその言葉に甘えたハッシュだったが、やはりこうして目の前で推敲されれば緊張する。既定枚数は越えているし、自分なりに解釈した注釈も付けたが、相手が尊敬している兄弟子でしかもハッシュが在籍する学院を優秀な成績で卒業した先輩ともなれば尚更だった。


 それに。


(……マコトさんは、もう返事したのかな……)


 三日前の朝食での告白から、複雑で気まずい何かを感じて居心地が悪い。 鍛練している間は集中しそれ以外考えれなくなるのでいいのだが、こうして静かな空間で二人きりになると、どうしても色々考えを巡らせてしまう。


 サハルと自分との関係は、世間では一般的に恋敵と言うのだろう。

 マコトに告白すらしていない以上、本人はおろかサハルにも認識して貰えていないのは当然だったが、もし『協力して欲しい』と言われたら自分は どんな言葉を返せばいいのか。


 サハルの事は好きだし尊敬もしている。年を重ねたなら自分もこうありたいという理想の人物だ。他の事ならどんな事でも協力するが、マコトと仲を取り持つことだけは勘弁して欲しい。


 それにしてもまさかサハルが彼女の事を……と、思って否定する。いや、思い返して見れば、最初からマコトに対する態度は他の……例えばサラやニムとは 違った。いつも理知的で穏やかなサハルが、感情の揺らぎを第三者に感じさせたあの時の違和感。もう少し深く考えれば察する事は出来たはずである。


(つくづく勉強不足……いや、経験不足だよなぁ)


 優しく気遣いに溢れ、一緒にいるだけで穏やかな気持ちにさせてくれるマコト。自他共に認める勉強一筋だった自分が好意を抱く位なのだから、他の候補者が惹かれない訳が無い。


 サーディンは最初から好意を示していたし、サハルだって、タイスィールだって、カイスだって……正直アクラムだって怪しいと思う。

 年の差に、手強い恋敵――自分には不利な状況のトドメを刺すようなサハルとタイスィールの告白に、それはもう地面にめり込む勢いで落ちない訳が無い。


 サハル達の告白の後、同じ立場だったらしいカイスと共に、想いを告げる為にマコトを探したが、結局サーディンのせいで空回りに終わり、伝える事は出来なかった。


 それ以降も機会を伺ってはいるが、基本的にマコトには常にサラが寄り添い、たまに席を外したと思えば、今度はニムがいる。期限は明日、出発の日までに返事をする約束だった筈だ。それまでに気持ちを告げる事が出来れば、仮初めの婚約者になれる可能性はゼロでは無い。


 もちろん、選ばれ無かったとしてもそれはあくまで『仮初め』であり、決定では無い。しかし周囲の認識と言うのは侮れないもので、選ばれれば自然と二人でいる機会も増えるだろう。他の候補者達との差を縮める絶好の機会である。

 

(……マコトさんは、誰を選ぶんだろう……)


 あの場面で口を挟む事なくただの傍観者に成り下がってしまった自分。深く考えなくても自分だって候補者の一人で、彼女を好ましく思っている以上、口を挟む権利は十二分にあったはずだ。それが出来なかったのは、驚きとやはり二人に対する劣等感。サハルかタイスィール、この二人より優れた所など、今の自分にはあるはずも無い事は痛い程分かっている。


 それでも、今は、と付けられる程度には、諦め切れない。諦めるつもりもない。

 時折紙を捲る静かな音が響き、暫く経った所でサハルが口を開いた。


「はい。良い出来ですよ」


 穏やかな微笑みと共に吐き出された言葉に、ハッシュは、ほっと胸を撫で下ろし、居住まいを正して、頭を下げた。差し出された課題を受け取り、綴り紐をしっかり結わえて小さな鞄にしまいこむ。


「それで剣術の稽古はどうしますか? もしまだ続けるつもりがあるなら、引き続き私が見ても構いませんが、この短期間で思っていた以上に成長しましたから筋がいいんでしょうね。 きちんとした方に指導して頂く方がいいかもしれません」


 どこか満足そうな表情でサハルはハッシュを見つめる。勉強とは違い、目に見える成果を感じられない中で、思った以上に成長した、というサハルの言葉は意外で嬉しかった。


「本当ですか……っ!」


 思わず聞き返してしまったハッシュに、サハルは頷いて肯定する。


「何故か突然厳しくなったと思ってましたけど、見所があると思って下さったんですね!」


 ずっと不思議に思っていた事を口にすれば、サハルは何故か少し間を空けしかし表情は穏やかな笑みを称えたまま、「……ええ、まぁ」と頷いた。


 しかし、舞い上がったハッシュにはその不自然さは特に引っ掛かる事無く、何だか盛り上がってきた気持ちを抑えて一つ呼吸をすると、勢いよく頭を下げる。


「ご迷惑だとは思いますが、王都に戻っても教えて――」


 ハッシュの言葉を遮ったのは、控えめながらも急かすような短いノックだった。

(……誰だろう?)


 はい、と返事をして、すみません、とサハルに小さく頭を下げ扉を開ければ、そこには先程顔を合わせたばかりのサラとニムの姿があった。


「どうかしたんですか?」

 先程は、サラに頼まれ、ゲルから出られないマコトの為に本を数冊渡した。もしや好みに合わなくて交換しに来たのだろうか、と不安になった所で、真正面から伸びたニムの両手に、がしっと腕を掴まれた。


「な、何ですか!」


 そのまま引き摺って外に出させるつもりらしいニムに、ハッシュは驚き足に力を込める。しかし、ニムに掴まれた反対側の腕にサラの手が絡み付いた。


「いいからあたし達のゲルに来て。すっごくいいもの見せてあげるから!」

「ええ! 泣いて感謝して下さいね!」


 満面の笑顔で二人はかわるがわる口を開く。しかしどこか面白がる様な声音に、ハッシュは悪い予感を覚え顔をひきつらせた。


 この二人……特にニムがこんな顔をしてものを頼む時は、大抵ろくな事ではない。それにしても、最近とみにサラのニム化が進んでいる気がするのは気のせいだろうか。気の強いニムが少々苦手な自分としては、切実に困るのだが。


「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 流されては駄目だ、と、長年の勘からそう判断し、足に力を込めて、ドアの取っ手を握る。

 しかし、いくら力がついて来たとはいえ、さほど身長の変わらぬ二人に引っ張られて、ずるずると足が動いた。やはり先程のサハルの言葉は、ただの慰めだったのだろうか、思わず遠い目になったハッシュに、後ろから救いの手が伸ばされた。


「一体、何をしてるんです」


 その声に首を回し助けを求めれば、どこか呆れた様な顔をしたサハルが自分の妹を見下ろていた。


「あら、お兄ちゃん。いたの。ちょっとハッシュ借りるわね」

「……ニム。ハッシュは物では無いのですから、そういう言い方は止めなさい。一体どうしたんです」


 サハルの言葉に、ニムとサラは顔を見合わせ、何やら目配せしあう。


「駄目ですわ。マコト様にもハッシュだけって約束しましたし」

「そうねぇ。お兄ちゃんにまで見せたら、後で煩い事言ってきそうな人もいるし」


(マコトさん……? 僕だけって……)


 一体何なんだ、と考えてはみるものの答えは出ない。そうこうする内に焦れたニムがすっかり油断していたハッシュの腕を掴んだ。


「とりあえず、とっとと来なさい! これ以上騒ぐとみんな集まっちゃうでしょ」

「損はさせませんわ! いいもの見せてあげますから!」


 一番煩いのはニムだ、と心の中だけで突っ込みつつ、まぁいいかと足を動かしたその時、ぽんと肩に手を置かれた。


「私も行ってもいいですか」

「え~……お兄ちゃんも?」


 どうする? と、ばかりにニムが視線でサラを伺うと、いつにない頑固さでサラは首を振った。


「駄目ですわ。さっきも言ったでしょう? サハル様優勢なんですから」


(サハルさんが優勢……? 一体……)


 しかしサハルには何か思い当たる事があるらしい。にっこり微笑んで口を開いた。


「ニム。この前言っていた服ですが、買ってあげてもいいですよ」

「本当!?」


 ぱあっとニムの目が輝き、ハッシュの腕を掴んでいた手が弛む。その隙にニムから距離を取ろうとしたハッシュだったが、反対側の腕を掴むサラに阻止された。


「ええ。だから私も一緒させて下さいね」


 うん! と勢いよく頷いたニムにサラはぎゅっと眉を寄せた。じとり、と自分より背の高いニムを恨めしげに睨む。


「ニム……あなたって人は」


 分りやすい取引だった。その自覚はあるのだろう気まずそうに明後日の方向を向いたニムを庇う様に口を開いたのはサハルだった。


「サラ」

「……何でしょうか」


 警戒を含ませた声音に、サハルは苦笑する。

 しかしいつもと同じ様に穏やかに微笑むと、懐から小さな何かを取り出した。サラの目の前でしゃらり、と鎖が伸び小振りの台座に嵌めこまれた石が振り子の様にゆらりと触れる。扉の向こうから差 し込む光に反射し、金属が鈍く光る。台座に嵌め込まれた石は柔らかな青緑だった。


「実はこれ貴女に渡そうと思っていたんです」

「それは……!」


 サラの目がそのネックレスに釘付けになる。ぎゅうううっと腕を掴まれ、ハッシュはその強さに呻いた。


「……首飾り」


 思わず手を伸ばしたサラの手首を優しく掴んだサハルは、手の平を上にし、その中にネックレスを落とした。


「ええ、近くまで長老を迎えに行った時にオアシスに寄って、買ってきたんですよ。同じ店でね。ちょうど一つしか無かったので幸運でした。石の色は違いますが、細工は一緒ですよ。良かったらどうぞ」


 呆然と自分の手の中の首飾りを見つめているサラの手の上に自分の手も添え、そのまま握り込ませる。

 勿体振る訳でもなく、惜し気も無くサラに渡したサハル。交換条件としてこれ見よがしに出されたなら、いくら喉から出る程欲しい、と言っても側仕えとしてのプライドで意地でも払いのけたはずだったが、こうも下手にこられると逆に断りにくい。


 サラは押し黙り、緩く開いた手の平の上の首飾りを苦渋な表情でじっと見下ろしている。


「いいじゃない! あんただってどうせなら、ハッシュ以外にも自分の腕前披露したいでしょ。ハッシュから気の利いた褒め言葉が出る訳も無いし!」


 同じ穴に引き込みたいらしいニムが、サラの背中を押す。

 考えなくても分る。気の利かない男だと断言され、サラもそうですわね……、と、同意する様に頷かれて、ハッシュはむしろ泣きたくなった。 自分が何をしたと言うのか。酷い言われようである。

 

「わ、私の腕と言うよりは、マコト様の素晴らしさを見て頂きたいのです……っ」


「それは是非拝見させて下さい。いつもの控え目な装いもいいですが、こんな機会でも無いと着飾った姿など見れないでしょうからね。マコトは必要以上に自分を卑下している所がありますから、サラは自信を持って貰いたいのですよね?」


「ええ……!」


 その言葉にサラは目を見開き、「そうなんです!」と何度も頷いた。


「ああ……やはりサハル様ですわね。マコト様の事をよく分っていらっしゃいますわ!」


(着飾る……?マコトさんが……ああっ! もしかして二人はそれを僕に見せてくれるつもりで……)


 なる程、と思う一方、何故自分だけ? と疑問が湧く。


(もしかしてマコトさんが僕だけに……って指名してくれたんじゃ……!)


 理由は分らないが、サラとニムの会話から考えればつまりはそう言う事なのだろう。


(ぅわー……うわー本当かな。どうしてだろ……っ)

 少しでも気を緩めれば、顔の筋肉が緩んでしまう。サハルの手前それだけは避けたいのだが、……駄目だ。嬉しすぎる。


 掴まれた手が痛かった振りをして俯いて三人から顔を背ける。

 それにしても失敗した。こんな事なら抵抗せずさっさと着いて行けば良かったのだ。ならサハルに邪魔されずマコトの着飾った姿を独り占め出来たはず。


 しかし、最初の二人の短い会話だけでおおよその事情を察したサハルは、色んな意味で凄すぎるのでは無いだろうか。 しかも、難攻不落だったサラまで簡単に落とし、同行の許可もしっかり貰っている。


「……分かりましたわ。けれどマコト様が恥ずかしがると思いますから他の方には内緒にして下さい」

「勿論ですよ」


 難なく落ち、しかしそれでも最後のプライドでそう付け足したサラに、にっこり、といつもの様に穏やかに微笑んだサハルがちょっぴり憎い。 あの要領の良さが自分にあれば……! と、ハッシュはその涼し気な兄弟子の横顔を恨めしく思った。





 誰にも見つからない内に、とでも言うように、それからすぐに四人は連れ立ってゲルを出た。自然と早足になるのは、自分達だけという後ろめたさもあるが、やはりゲルで待っているマコトの姿が楽しみだからだろう。


(どんな恰好してるのかな……)


 いいもの見せてあげるから、と力説していた二人の剣幕を思えば、相当期待出来るはずだ。普段の彼女の装いと言えば、落ち着いた……悪く言えば地味な色合いが多く、控え目な彼女らしいとは思うものの、  もっと華やかな色も似合うのでは無いかと思っていた。……故にものすごく楽しみである。


 ほどなくしてゲルに着き、まずはサラが軽くノックをした。その音に釣られるようにハッシュの心臓も自然と大きな音を刻む。


「入りますね」


 サラが開けた扉の隙間からゲルの中を覗き込めば、不思議な恰好をしたマコトがいた。こちらに気付いていないらしく、胸を反らせて両手を背中に回し何かごそごそしている。その横顔は必死である……が、それよりも剥き出しの華奢な肩と、理想的な形で並ぶ肩甲骨の白さに目を奪われた。


「マコト様」


 サラの呼び掛けにマコトの肩がびくっと上がる。そのままくるりと振り返り慌てて手を前に戻したマコトは、ハッシュとその後ろのサハルを見やり、しゃがみこんで小さくなった。


「サ、サハルさんもいらっしゃったんですね……」


(……う、わ……ぁ)


 低い位置から見上げたせいで自然と上目遣いになるマコトの顔は、みるみる赤くなる。必死で自分の体を抱えこんでいるせいで、衣装は全く見えないのだが、代わりに白く瑞々しい谷間がこれでもかと言う位視覚を刺激した。理性と本能がぶつかりあい、かろうじて前者が勝ちハッシュは必死に視線を剥がし逸らした。


 これ以上カッコ悪い所を見せてはタダでさえ低い可能性がゼロになってしまう。


「マコト様、脱ごうとしてましたね……?」


 かつてない程、低い声でそう問いかけるサラに、マコトの目が思いきり泳ぐ。

 なるほど、先程の妙な体勢は背中にいくつも付いているボタンを外そうとしたものだろう。必死の、言い替えれば無駄な努力だったが、背中に並んでいる下から二番目の金色のボタンが外れていた。


「で、さぁ、隠してるつもりのあんたに言いにくいんだけど、その体勢だと胸の谷間ばっちり」


 やや僻みが込められた女同士故の遠慮の無さにマコトは、ますます顔を赤くさせ弾ける様立ち上がった。

 その勢いに釣られる様に、真正面から見てしまったハッシュは、今度こそ呻いた。いや、悶えたと言った方が近いかもしれない。


 腰に巻き付けた薄布は、赤や青の小さな宝石で止められ、後ろは長いが、前はかなり短い。剥き出しの膝小僧も気になるが何より目に付くのは胸元だった。零れ落ちそうな二つの膨らみを隠すのは、ラインストーンと細かな刺繍が入った三角形の布。しかもそれを支えているのは細い飾り紐と背中の小さなボタンだけという何とも頼りないものだった。


(ちょ、これは……ッ)


 目を逸らすべきだと分かっているが、既に自分の意志ではどうにもならない。

 しかし、鼻の奥を生温いものが通った感覚がした時、ハッシュはわりと高いプライドのおかげで覚醒した。咄嗟に口ごと鼻を押さえ、出来るだけ自然に俯く。


(鼻血とか……ッ! バレたら軽蔑される……ッ)


 こんな状況で鼻血なんて、いかにもマコトのあられもない姿に興奮しました、と自分で告白している様なものだ。『変態』と言うサーディンと同じカテゴリに分けられるのだけはごめんだ。むしろ死ぬ。


(さ、さりげなく外に……っ)


 取りあえず一旦外に出て落ち着こうと、ハッシュは慎重に摺り足で場所を移動し、後ろ髪引かれつつ入ってきたばかりの扉に向かう。


 サラとニムはマコトを取り囲み、渋るマコトを説得し、残るサハルはそんな三人を微笑ましく見つめていて、こちらに気付く様子は無い。


 それぞれの動きを確認しながら、ハッシュはまた一歩後ろに下がった。

 もう少しで扉。その少し手前で。


「~っわ……ッ」


 ハッシュの足を引っ掻けたのは、小さな宝石箱だった。見た目のわりに重いそれはハッシュの足を取りそのまま鎮座する。しかしつまづいたハッシュの方は、勢いよくその横の柱に抱きつくように横転した。


 ごん、と鈍い音がゲルに響く。

 次いで端に寄せていた明日の荷物の中に飛び込む形で埋もれ、くぐもった悲鳴にそれまで騒いでいたニムとサラもピタッと口を閉ざした。


 そして、ハッシュがいた方向を見て、眉間に皺を寄せる。


「……」

「……」


 サラとニムからは、荷物に埋もれ足しか見えない。一体何があったのか――、しかし、俯き加減で肩を震わせているサハルに気付いたニムは、きっと大した事ではないと片付けて、マコトへの説得を続けようとした。サラも然りである。


 しかし。


「だ、大丈夫ですか!?」


 沈黙が続くなか、一番初めに口を開いたのはマコトだった。急いで駆け寄り、荷造りした袋を脇に寄せ、中にはまっていたハッシュを救出する。


 顔の下半分を覆った指の間から幾筋も血が流れており、マコトは驚いて手を伸ばした。一瞬後頭部を襲った激痛に意識を飛ばし掛けていたハッシュだったが、すぐ間近で顔を覗き込まれて、息が懸かる程の近さに一瞬痛みが飛んだ。


「顔打ったんですか?」

 

「い、いえ……ぁの、汚れます」


 どうやら鼻血の原因を都合よく誤魔化せたらしい。したたかに打ったのは後頭部だったが、ハッシュはそのまま鼻を押さえて顔を背けた。


「私が見ます」


 いつの間にか近寄ってきていたサハルがマコトの肩に手を置く。


「だ、大丈夫、す……ッ」


 サハルに見られれば、間違いなくバレる。いや、むしろ既にばれている気がものすごくする。


「あの、アクラムさん呼んできますね」


 そう言って今にもゲルを飛び出して行きそうなマコトにぎょっとし、慌てて伸ばしたその手よりも早く腕を掴んだのは、ハッシュでは無くサハルだった。幾つもの腕輪が擦れ合い、しゃらん、と軽い音が鳴る。


「大丈夫ですよ。大した事無さそうですし」

「……でも、血が出てるって事は強く打ったんですよね。骨が折れてるかもしれませんし」

「いえっ……! だいひょうぶですっ」


 慌てて体を起こすとくらりと目眩がする。マコトに気付かれないように、さりげなく頭を撫でれば、それはもう大きなコブが出来ていた。


「本人も大丈夫だって言ってますし」


 ね? と優しく諭したサハルに、珍しくマコトは納得のいかない顔をして食い下がる。普段ならそれほど自分の事を心配してくれているのだろうかと嬉しく思う場面だが、今回だけはその優しさが痛い。


「でも……」


 なおも心配そうにハッシュを見つめるマコトに、サハルは観念したように小さく溜め息をついた。


「――分かりました。ニム、アクラムを呼んで来てくれませんか」

「え、……あ、分かった」


 のん気に構えていたニムだったが、医者を呼ぶほどの怪我だったのか、とバツが悪そうにサラと顔を見合わせた後、すぐにゲルから飛び出した。


 残されたサラも心配そうにマコトの隣に駆け寄り、ハッシュを見下ろしている。


 ニムが出たと同時に、マコトはすぐに立ち上がり、一度奥の部屋に入り手拭いを手に戻ってくると、水差しを傾けそれを軽く湿らせた。


「あの、これで押さえていた方が」


 そっと差し出されて、ハッシュは気まずさと、柔肌までの近さに視線を逸らしながら受け取った。

 突然の出来事に羞恥心を忘れたのか、余程慌てているのか――あれほど恥ずかしがっていたにも関わらず、マコトは身体を隠してはおらず、 柔らかそうな胸に、括れた腰、形の良い臍まで惜し気なく晒されている。

 中途半端に絡み付く薄い布が肌の白さの対比を引き立て、 目尻と唇に差した赤が鮮やかに 神秘的な艶やかさを称えている。我を忘れている今なら見たい放題ではあるが、本能に忠実に行動すればむしろ自分が我を忘れそうである。それに。


(も、勿体無いけど……ッこのままじゃ鼻血止まんないし!)


 刺激の連続にハッシュの顔は熱く、しかしこのままではいけない、と、ふらりと立ち上がった。


「え、あの……動かない方が」

「いえ、大丈夫、です」


 マコトの心配そうな声に、何度目かの返事をした所でで、ばたん、と勢い良く扉が開いた。


「お待たせっ! ほら、アクラム早く!」


 飛び込んできたニムとは対象的に、アクラムは少し間を空けてゲルに足を踏み入れる。そしてそれこそお義理程度に首を回したが、そのガラスの様な目がマコトを捉えた時、ぴたりと動きが止まった。


「……」

「……あの」


 じいっと見つめられて、マコトは首を傾げつつも、声を掛ける。しかしアクラムは無言のまま、ゆるく瞬き一つしただけで、何か考えるように、またその答えを探るようにマコトを凝視した。


「……」


 アクラムの首が傾く。

 数秒後細い顎に手を掛け、ようやく答えが出たのか「ああ」と小さく頷きその手をマコトに伸ばしかけた所で――、


「……アクラム。君の患者はハッシュだ」


 待った、が掛かった。もちろん相手はサハルである。

 アクラムの奇っ怪な行動にハッシュ含め、その場にいた全員が首を傾げていたが、サハルの言葉に我に返り、ニムが強引にアクラムの背中を押した。


 微かに物言いた気な表情をしたアクラムだったが、口に出す事はせず素直にハッシュの前にしゃがみこむと鼻を覆っていた布を外す。 指先が形のいいハッシュの鼻の形をなぞる様に動き、しかしすぐに、また首を傾げてぽつりと一言呟いた。


「のぼせたのか」


 ギクリとハッシュの心臓が跳ね上がる。アクラムに状況を察して下さい、なんてある意味サーディンに、まともに仕事して下さい、と頼むより難しい。


「……? いえ、ぶつけたんだと思うんですけど」


 遠慮がちにマコトが口を挟み、その気遣いにハッシュは追い詰められる。 自分が魔術師だったなら、アクラムの手を取り今すぐ消えるだろう。軽く現実逃避しはじめたハッシュに助け舟を出したのは、サハルだった。


「いえ、ぶつけたんですよ。私も見てましたし」

「……ただの」


「もうすぐ日も暮れますし、女性が住んでいるゲルに長居する訳にもいきませんからね。道具も一通り揃ってますし治療は私のゲルでしましょう。……ああ、そうだ。頂き物のお菓子があるんですよ。アクラムどうですか」


 アクラムの返事を遮りつつ、サハルは思い出したように手を打つ。


「……食べる」


 アクラムは、そう即答しハッシュから離れる。サハルは苦笑しハッシュに手を貸すと耳元で囁いた。


「一つ貸しですよ」


 ……ああ、やはりバレていたのか、と思う一方、助かったのだ、という安堵感にハッシュは心の中で胸を撫で下ろした。

 さすがに血は止まっているだろうが、血まみれの顔を晒す訳にもいかず、手拭いで顔半分を隠したまま、ハッシュはマコトに向かって頭を下げた。


「あの、これお借りします。ご迷惑お掛けしてすみません」


 本当に、と自嘲しおそるおそる顔を上げる。

 やや、戸惑った顔をしていたマコトは慌てたように首を振った。


「いえ、こちらこそ。あの、お忙しいのに呼び出してしまってすみません。手拭いは、あの、取れないと思うし、捨てて下さいね」


 不覚にも気遣う言葉に涙が出そうになった。

 慌てて顔を背ければ後ろにいたアクラムは、ハッシュとマコトの間に入ってきた。


「……よく似合う」


 唐突に、そして無表情のまま、しかし分かる人には分かる微妙に嬉しそうな顔で呟いたアクラムにマコトは、驚いたまま目を見開き、数回瞬きした後、何か思い出したように下を見た。


 恐らく、ようやく自分の今の格好を思い出したのだろう、慌てて自分の両腕を抱え、周囲を見渡しその奥の部屋に逃げ込もうと背中を向けた――その手をアクラムがしっかりと掴んだ。


「どういう構造か興味がある」


 反対側の手が背中をなぞり、首元に掛かる。しかしその指が紐に掛けられようとした瞬間――アクラムの体が横に傾いた。


「マコト様に触らないで下さいませ!」


 身をもってマコトを守るようにアクラムに体当たりしたのはサラだった。


 少し垂れ目がちな目をこれでもかと吊り上げ、親の敵でも見るようにアクラムを睨んでいる。……アクラムは、サラにとって候補者には入っていない。


 むしろ薬師兼占い師という怪し気な仕事を持ち、気が乗らなければそれすらマトモにやろうとしない男なんぞ、オアシスの隅っこでうろちょろしている巨大イモムシのようなものである。マコトに相応しい訳が無い。むしろ害虫。


 痛い、と感情の篭らない言葉で呟いたアクラムは眉間に皺を寄せて、自分を睨みつけるサラを見下ろす。火花のようなものが二人の間に見えたその時、サハルがアクラムのフードを掴み開けっ放しだったゲルの扉の向こうへ押しやった。ちなみにこっちもわりと容赦が無い。


「ハッシュも行きますよ」


 背中越しにそう声を掛けられ、ハッシュは慌ててマコトを見る。

 今言わなければ、きっと一生言えないだろう。せっかく名指しで指名してくれたのに、このまま去るのはあまりにも失礼だ。


 タイミングを外せばどこまでも外せる自分の運の悪さを自覚しているハッシュは頑張った。


「ちょ、っと待って下さい」


 姿勢を正して、少しでも肌を隠そうとしているマコトに気遣い視線を落としたまま――むしろ上げられなかっただけだが、考えを纏めて一気に口を開く。


「あの、すごく綺麗です。その……上手く言えないんですけど、マコトさんにはそういう明るい色が似合うと思うんです」


 途切れ途切れ吐き出した言葉に、マコトの目が丸くなる。

 失敗しただろうか、とその空白の長さに不安になり、ハッシュはおそるおそる顔を上げたその時、マコトの目がゆっくりと細まり、赤いままの顔ではにかんだ。


「ありがとうございます」


 ふわりと控えめに微笑むその表情は、多分、自分が一番好きな顔で。


「か、……」


 わいい、と思わず漏らしてしまいそうだった口に気付き、慌てて押さえ込む。血が口に入って鉄くさい味に眉を顰めれば、マコトの顔が心配そうに歪んだ。


「大丈夫ですか?」


「あ、ッはい……! あの、お騒がせしてすみませんでした!」

「……行きますよ。では、おやすみなさい」


 サハルに促され、ハッシュは自然と緩む表情を手拭で隠しその後に続いた。





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