第五十八話 纏う衣装
「……ト……マコト!」
思考を断ち切る強い口調に、ぼんやりと明かり取りの向こうの景色を見ていたマコトは、はっとして顔を上げた。
「……あ」
すぐ側には四つんばいの体勢で顔を覗き込むニムの姿。こんなに近くにいたのに、呼び掛けられるまで気付かなかったらしい。
「すみません、少しぼんやりしていて」
体をニムの方に向けた拍子にマコトの膝の上に置いた本が、軽い音を立てて滑り落ちる。退屈だろうと気を利かせたサラが、ゲルに戻るついでにハッシュから借りてくれたものだ。受け取ってからかなりの時間が経つと言うのに、まだ十ページも進んでおらず、普段のペースを考えれば明らかに読書に身が入っていないのは明白だった。マコトはそのまま絨毯の上から拾い上げると、少し迷ったものの結局そのまま閉じた。今日はとてもじゃないが頭に入りそうに無い。
「さっきから、ぼうっとしてるけどさ。あたし達が出てる間に何かあった?」
マコトらしくないやけにゆったりした一連の動きを見ていたニムは、そのままマコトの側に座り込み内緒話をする様に体を寄せる。声を潜ませたのは扉の外には頭領が付けた護衛がいるからだ。先程の勢いは嘘の様に、真面目な顔を作ったニムに、マコトは小さく笑って首を振る。
「いえ、……あの、もうここも明日でお別れかと思うと寂しくて」
心配を掛けたくなくて咄嗟に言った言葉だったが、あながち嘘でも無かった。
この世界に召還されてほぼ一ヶ月。その間ずっと生活していた場所を離れると言うのは、思っていた以上に不安だった。
けれどそれよりも。
ふいに傷だらけのナスルの固い横顔が脳裏を掠めて、マコトは笑顔の下で溜息をつく。
スェの行動は、極端だったがマコトとナスルを仲直りさせるきっかけ作りのつもりだったのだろう。あの容赦の無い拳は、ナスルの身体に無数の痣を残し、その痛みと傷跡は自分の心の傷などとっくに越えていると思う。
せいせいした――と言う訳では無い。しかし、マコトの中でうやむやだった何かがすっきりと片付いたのは確かだ。出来ればあのまま、スェの思惑通りに仲直りしたかったというのが正直な本音だった。しかし仲直りすら人任せにしてしまった自分への罰だったのか、何か言う前にナスルに拒絶されてしまった。
『決して私を許さないで下さい』
固い、感情を押し殺した様なナスルの声は、耳の奥にこびりつき今も残っている。
――思い返せば思い返すほど、自分はあの時何か言うべきだった気がする。
それが何なのか、ナスルと別れた時からマコトはずっと考えていた。
「そうなの? まぁ、でも集落の方がここよりもずっと便利よ? 水路も整備されてるからわざわざ水運ばなくていいし、王都の近くだから買い物にだってすぐ行けるしね、品揃えの良い飾り細工の出店も、美味しいお菓子の店だってあるし、落ち着いたら案内してあげるわね」
マコトには分らない店の名前らしき単語を並べて、ニムはよく手入れされた細い指を折る。きっとニムなりに自分を 気遣って励ましてくれているのだろう。それにマコトだって年頃の少女である以上、甘味や華やかな装飾品は見ているだけで幸せな気持ちになれる。
「楽しみにしてます」
弾んだニムの様子に釣られるよう微笑んだ所で、もう一つの部屋から慌しくサラがやってきた。
「マコト様! これ見て下さいませ!」
興奮した悲鳴のような高い声に、マコトとニムは顔を見合わせ振り返った。
両手で抱えるほどの大きな箱を抱え、よろりと体を傾けたサラに、マコトは慌てて立ち上がり箱を支えた。
「マコト様、有難うございます。……って、ニム! あなたが手伝って下さいませ!」
一人のんびりと座ったまま二人の様子を見物していたニムを睨んだサラだったが、箱を絨毯の上に下ろすとすぐに蓋を開けた。 現金なニムが首を伸ばしその中身を覗き込む。
「……これは凄いわね」
「ええ!」
ニムが中に入っていたらしき布を取り出し、手の中のそれをまじまじと見つめそう呟く。嬉しそうに頷いたサラは、反対側で首を傾げているマコトの手を引き、箱の前に座らせた。
「さっき、頭領の護衛の方が持って来て下さったものなんですが……見て下さい! この衣装。宝飾品も素晴らしいですわ」
そういえば先程、会談が長引きそうなので挨拶はまた明日にでも、とスェの護衛が知らせに来た時に、何かサラに渡していた気がする。 重いから、と部屋の奥にまで運んで貰っていたのは、これだったのだろう。
「これなんてお似合いですわ。マコト様は肌がお白いですから、薄い色がとてもよくお合いになります!」
自分の事のように興奮に頬を染め、マコトの胸元に紫色の薄布を合わせて、満足気に頷く。じゃらじゃらと宝飾品を取り出したニムと、これにはあっち、あれにはこれと嫌に気合の入った目で品定めしている二人を見て、マコトは自分に押付けられ膝の上に落ちた布をゆっくりと見下ろした。
(もしかして、私のだったり……する? あ、そういえば祭りの時の衣装がどうのこうのって言ってたっけ……)
そう尋ねれば、サラはとんでも無い、とばかりに首を振る。ほっとしたのも束の間、サラは綺麗な笑顔で「それはまた別に手配しております」と爆弾を落とした。
一瞬の空白の後、あっという間に床に広げられたたくさんの衣装に視線を落とし、マコトは引き攣った表情で尋ねた。
「じゃ、あの……これは」
「これは明日マコト様が着るお衣装です。一族だけとは言え、初お目見えですもの、少し位身を飾らなければ」
「ね、それもいいけど、こっちもいいんじゃない?」
女同士の遠慮の無さで胸元に衣装を当てられ、思わず腰が引ける。見下ろせば、明らかにベルト……ここでは腰布と言うのだろうか、もしくはスカーフとしか思えないほど細い布切れに、マコトは言葉を失った。
下着、ですか? と、そう尋ねてみるには明らかに透けている。マコトの世界で言えばオーガンジーが一番近い。下着としての機能性はほぼ皆無だろう。
「あはは、マコトったら。もちろんこの下に下着つけるわよ」
からから笑って差し出されたのは、少し濃い色の今度は透けない素材だ。しかし先程と同様明らかに面積が足りない。
その下には妙にひらひらしたスカートらしきもの、色合いから思わず金魚の尾びれを連想し脳内で組み合わせてみれば、かなり際どい類の衣装になる事が予想された。
「踊り子さん、みたいですね……」
他人事の様にマコトはぼんやりと呟く。
そう、マコトの感覚で言えば一番それが近い。水着にしては華美すぎて、機能性が無さ過ぎる。
空笑いした後、マコトは思いきって物凄く気になっていた事を聞いた。
「まさか、私が着るんじゃ無いですよね」
「あんた以外に誰がいるの」
きっぱりと吐き捨てたニムにマコトは、再び手にした下着にしか見えない布の塊を見下ろした。
リオのカーニバル……。
派手な音を打ち鳴らし、マコトの脳裏を賑やかな集団が駆け抜けた。
(いやいやいや! ほんとにありえない!)
この世界に残る以上『イール・ダール』としての役割はきちんとこなすつもりでいた。しかし、自分の出来る範囲でなら、という大前提がある。
「無理です! 露出が多過ぎです!」
「何を仰います。屋内でしたら日焼けの心配もありませんし、マコト様の肌のきめ細かさやその女性らしい柔らかな曲線を隠すなんて勿体無いですわ!」
ぐっと拳を握り締め、熱く語りだしたサラに、マコトの顔色は青を通り越し、色を無くした。
本気で、こんな際どい衣装を自分に着せるつもりなのだろうか。しかもこれを着て衆人環視の前に出て行けと!
「む、無理です……! 駄目です。ほんっとにこれだけは勘弁して下さい!」
いっそ千切れてしまえ! とぎゅうっと握り締めてマコトは思い切り首を振る。
必死なその様子にさすがに可哀想だと思ったのか、それまで黙っていたニムが口を開いた。
「まぁ似合うとは思うけど。……その胸見られちゃ気付かれちゃうだろうしね」
女神がいた。
自分よりよほど『イール・ダール』に相応しい。その神々しさにマコトは思わず手を合わせたくなった。
そう、確かにこんな際どい衣装で外を歩けば、自分が年齢を誤魔化している事を言ってまわるようなものだ。どうして思いつかなかったのか、と自分の迂闊さに呆れる。
「……そんな事分ってます。……ああ、早くマコト様に一番お似合いの衣装をご用意出来る日が待ち遠しいですわ……」
出来れば一生来ないで欲しい。
絨毯の上に広がる衣装を見て、マコトは心からそう願った。
「まぁ、でもずっとしまいっぱなしも勿体無いわよねぇ。これ五百はするんじゃない?」
「イージ様がいいもの揃えたって仰る位ですから……その倍は固いと思います」
「この手の類はサイズ直し出来ないしねぇ」
「捨てるしかありませんわね」
ふぅ、と小さく溜息をつき、サラは暫く残念そうに布を見下ろしていたが、何かを決意したように顔を上げた。マコトの肩をがしっと掴む。
「――マコト様。一度位着てみませんか?」
「……はい?」
まるで逃がさないとでも言う様に肩に力を込められて、普段からは考えられないその強さにぎょっとする。
「こんな素敵なお衣装。一度も着ないで捨てるなんて勿体無いと思いません?」
――勿体無い。
その言葉に一瞬反応しかけた自分を慌てて叱咤した。
「だ、誰かに貰って貰えばいいんじゃないでしょうか。あ、サラさんとか、ニムさん良かったら」
「……アンタ、それ嫌味?」
「……え!? あ、わ、すみません……」
普段のマコトにすれば有り得ない失敗だった。確かにニムが着るには裾が短すぎ、そして……明らかに胸のサイズが違う。
今の発言でニムは確実にサラ側に回った事に気付き、マコトは必死で回避策を練る。このままでは本当にこの服を着なければ ならない事態に陥ってしまう。
「……えっと、じゃ、売りましょう!」
「この大陸じゃ、これ子供サイズよ。しかも胸がこんなバカデカイってあんた以外いないわよ」
鼻で笑われきっぱりと断言されて、さすがのマコトも眉間に皺を寄せた。
(バカデカイって……!)
何度も言うが、そこまで大きくは無いのだ。身長や手足それ以外が小さいせいで大きく見えるだけなのだ、とここに来て何度目かになる 説明をしようとしたが、すんでの所で思いとどまり口を押さえる。
いや落ち着こう。ある意味この話題はタブー。ニムとやり合えばお互いの傷を深め合う事になる事は既に学習済みである。
思考を切り替え、逃れる為の言い訳を必死で考える。そんなマコトを見てニムは、おもむろに口を開いた。
「千もするのよ?」
……千、と間を空けてニムの言葉を反芻したマコトだったが、すぐにお金の事らしい、と思い付いた。 しかしマコトはこの世界の貨幣価値には疎い。一体それは向こうの世界に 換金するとどれ位なのだろうか、と首を傾げると、ニムは兄によく似た人当たりのいい笑顔を浮かべ、人差し指を突き出した。
「そうね。あんた一人なら楽に一年は暮らせる位のお金よ」
「……」
――一年。
向こうの世界で言えば一月暮らすのに学費は含めずとも家賃、食費、光熱費と最低七万はいる。単純に計算して一年間で八十四万。しかも楽に暮らせると。
さぁあっとマコトの顔から血の気が引く。きつく握り込んでしまっていた衣装の裾を慌てて伸ばしながら、マコトは本気で泣きたくなった。
* * *
「まぁぁ……!」
あまり広いとも言えないゲルにサラの悲鳴の様な声がこだました。扉についている護衛二人は、先程から上がる歓声と微かに聞こえる 『イール・ダール』らしき少女の呻き声に踏み込むべきか否か視線だけで論議していた。が、そんな事など知る由も無い三人は、それぞれが思い思いの顔をしていた。
「ふふん。やっぱり前髪上げて正解だわ!」
得意そうに胸を張り頷きながら自画自賛したのはニム。
「とってもお綺麗です~!」
興奮を抑えきれない様に、両手を合わせ拝むようにマコトを見つめているのはサラである。
残るマコトと言えば、そんな二人の前で居心地悪そうな顔で立っていた。普段と違い露にした額が気になるようで、しきりなしに前髪をいじっている。
「あの、そろそろ脱いでもいいですか」
既に何度目かの言葉を口にすれば、サラは「そんな……!」と必死で首を振る。
「今、着たばっかりでしょ!」
ニムの鋭い叱責が飛び、マコトはその勢いに押され「……ハイ」と大人しく頷いた。
ゲルに姿見は無く、手元にはニムが普段愛用している手鏡一つきり。全身を知る事が出来ないので、いくら褒めて貰っても物凄く不安である。 まだ日は高いので当たり前の様に暑いのだが、普段出さない二の腕やら腹が露出しているせいか心許なく肌寒くさえ感じる。
あれからすぐに脱がされ着付けられ、宝石で飾られ、綺麗に巻かれた髪を一房残し高く結い上げられ髪には大きな白い花が飾られた。 化粧箱を出された時は出かける訳でも無いから、 と止めたのだが、唇と目元だけ! と必死の形相のサラに押し切られ、 結局されるがままとなった。
(日本人だもん、こんなの。似合う訳ないじゃない……)
若干やさぐれ気味にマコトは、二人にばれないように溜息をつく。
きっとコスプレ……とでも言うのか、思わず笑ってしまう様なものすごい違和感があるに違いない。こんな服を着せたがる二人の心情が理解出来ない。
着付けられている間中、二人に何か嫌がらせされる様な事でもしてしまっただろうか、と本気で悩んだ。
「最高傑作ですわ……! ああ、これを誰かに見せないなんて勿体無い……!」
先程から感嘆の声しかあげないサラは、色んな角度からマコトを熱っぽく見つめる。しかしその内容にマコトは悪い予感を覚え、思わずサラを見下ろした。若干睨んでいたかもしれない。
今、なんて。
「ちょ……」
「あー確かに、お兄ちゃん達に見せたら反応面白そうだわ」
ニムがぽつりとそう呟き、振り向いたサラと視線が絡まり合う。
「いいですわね……! ああ、でも誰にしましょう。サーディン・アクラム様は問題外として、タイスィール様はそのまま攫われてしまいそうですし、そうなった場合お止め出来るか自信がないですわ」
「カイスは駄目だからね。……んーお兄ちゃんは、今の所一番優勢だし、反応もイマイチ面白く無さそうだし。……無害で反応が楽しそうなのは……」
盛り上がる二人の間に挟まれてはいるが、口を挟む隙間すら与えられず、マコトは交互に二人の顔を見渡す。
(まさか、誰かに見せるつもりなんじゃ……!)
サラとニムは同じタイミングで頷いた後、声を揃えて叫んだ。
「ハッシュ!」と。




