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第五十七話 許諾


 荷造りもとっくに終え、特にする事も無くマコトはゲルの中でぼんやり時間を過ごしていた。


(……暇だなぁ……)


 ゲルの壁に背中をくっつけて、マコトは子供の様に膝を抱え込み、端に寄せられた自分の荷物を見つめて小さく溜め息をつく。


 ゲルの中には、マコト一人。

 いつもマコトを巻き込んで賑やかにお喋りするサラとニムは、予定よりも多かった護衛の分のゲルの支度を手伝いに向かった。


 自分も、と申し出てみようかと思ったが、迎えに出た時のあの反応を考えれば、間違いなく拒否……いや、遠慮されるに違いなく、無理矢理着いていったとしても恐縮されて余計な手間を掛けさせる事になるだけだろう。


 ……そう思ってゲルに残ったのだが。

 自分の呼吸の音だけが微かに聞こえ、普段は有り得ないその静けさに、開放感よりも寂しさを感じ少しの戸惑いを溜息に乗せた。


(昔はそんな事、思わなかったんだけど……)


 元の世界では一人が当然だったし、母は亡くなる前も、女手一つでマコトを育てる為に忙しく働いていたので、幼い頃から留守番が多かった。 だからこんな風に一人で過ごす事は、馴れていたはずだが……。


「早く帰って来ないかなぁ」


 いい意味でも悪い意味でもすっかり集団生活に慣れたらしい。

 マコトはぽつりと呟いて、開け放たれたままの窓に視線を向けた。


 西の頭領であるイージ直々に戻る様に言われたのが二時間前。もともとタイスィールからもスェがいる間は、自分のゲルから出ない様に言われていたし、中で大人しくしているしかない。

 それに、イージの命令で護衛が二人、入り口の外側に立っていて、独り言すら声を潜めてしか呟くことすら出来ない状況で、気楽だとは言い辛かった。

 ……守られているよりも、何となく見張られている気がする、と思うのは、重要人物である『イール・ダ―ル』の自覚が足りないせいだからだろうか。


 何度目かの溜め息をついたその時、扉の向こうから微かな話し声が耳に飛び込んで来た。


(サラさん達にしては声が低い、よね。……誰か来たのかな?)


 もしかすると、後で改めて訪ねると言ってくれた頭領と長老だろうか。

 慌てて崩していた足を元に戻し、姿勢を正す……が、商談が纏まるにはいささか早すぎるのではと気付き、マコトは首を傾げる。


 はっきりしない話し声がしばらく続き、ふいに途切れた。


 次いで何の予告も無く、がちゃりと扉が開く。


「えっ……」


 突然の事に、マコトは正座したまま扉を凝視する。躊躇無く足を踏み入れた人物を見上げ、マコトは大きく目を瞬かせた。


「アクラムさん!」


 そう、そこにいたのは、何故か不機嫌な顔をしたアクラムだった。

 思わず名前を呼び掛けると、アクラムはそのまま部屋に入り、マコトの側まで歩み寄り立ったまま静かにマコトを見下ろす。


 二人の護衛は扉の両脇から、戸惑った表情顔でゲルの中を覗き込んでいて、反射的に会釈すると驚いた様に目を瞬かせてから、すぐに顔を引っ込ませた。バタンと扉が閉まったのは、どうやら気をきかせてくれたらしい。


「えっと……何か、サラさんかニムさんに用事ですか」


 立ち上がりながら、多分違うだろうな、と思いつつ尋ねてみると、アクラムは黙って首を振る。

 無表情ながら見下ろす視線が、何やら物言いた気である。


「……だ」


 微かに開いた口は短い単語を吐き出し、マコトはその小さな声を聞き取れるように耳を済ました。ややあって。


「空腹だ」


 確かにいつもならこの時間、アクラムに差し入れをしている時間ではある。しかし。


「すみません。今日はゲルから出れないのでおやつ作れなかったんです」


 確か昨日も同じ説明をしたはずだ。通じなかったのだろうか。しかも今日の分もと、いつもの倍近くある量を差し入れておいた筈だったが。


「それは昨日聞いた」


 間髪置かずそう答えられて、マコトは本格的に困った。

 アクラムの腹を満たせるものはここには無い。タイミングの悪い事に、常備している日持ちする菓子も、 今朝ニムが食べてしまったし、すぐ食べられる果物の類いも全て台所だ。


 台所の棚を探して適当に食べて下さい、とアクラムには言い難い、と言うか不可能な気がした。 もれなく見当違いな棚を次々開けて、せっかく整理した棚をしっちゃかめっちゃかにしそうである。


「えっと……お茶でも飲みますか」


 ニムかサラが戻って来たら何か持っていないか聞いてみよう。もしくは二人に頼んで果物を取って来て貰うのもいいかもしれない。

 それまでの時間潰しも兼ねてそう尋ねると、アクラムは素直に頷いた。マコトはほっとして座る様に促す。


 しかし。

 お茶のセットが置いてある奥の棚に足を向けたマコトは、その途中で足を止めた。あ……と、口元に手をやり、ゆっくりと振り返ると後ろめたそうに視線をアクラムからずらした。


「すみません。お湯とカップ……お茶葉もまとめて荷造りしちゃってて」


 自分の所にあるのなら荷物を解いても構わないが、片付けてくれたのはサラである。さすがに人の荷物を勝手にほどく訳にはいかず、しどろもどろと呟いたマコトの言葉に、むっとアクラムの眉間に皺が寄った。


「台所には」

「ありますけど……でも」


 外に出られない、と昨日も繰り返した話をしかけた所で、立ち上がったアクラムがマコトの腕を取った。そしてやや強引に引っ張ると 扉に向かいがちゃりと開けた。


「っアクラム様、どこへ」


 護衛の一人が、戸惑った様にアクラムを見て問い掛ける。

 それを無視して通り抜けようとしたアクラムの代わりに、マコトが口を開いた。


「あの、台所に行ってきますっ! すぐに戻って来ますから。すいません……!」


 ぺこりと頭を下げながらも引きずられていくマコトを、二人は唖然とした顔で見送った。


(そんなにお腹空いてたのかな……)


 そのまま台所に向かうその途中でその体勢の不自然さに気付いたのか、アクラムはそのまま手の平を滑らせてマコトの手を握り込んだ。


「あの、ちゃんとついて行きますから、大丈夫ですよ?」


 手を引き前を歩くアクラムにそう声を掛けてみるが、聞こえないのか気付いていないのか答えてくれる様子は無い。


(……そう言えば、こっちに来てこうやって手を引かれて歩く事多いなぁ。砂の上歩くの大分慣れたのに)


 サハルにタイスィ―ル、それにサーディン。最後は少し違う気もするが、よく手を貸して貰っている。

 砂を大きく蹴りあげる事も無くなってきたし、足を取られる事も無くなった。思わず手を貸さずにはいられない位、自 分はまだ危なっかしいのだろうか。


(まだまだって事なのかな……)


 ふと、何かを炒める様な香ばしい匂いに気付き、マコトは鼻を動かせた。

 倉庫代わりにしている大きなゲルを越えれば、もう台所である。


(いい匂い……サハルさんがお料理してるのかな)


 それとも長老達に付いてきた護衛の誰かが食事の支度をしているのだろうか。そう思ってマコトは首を傾げる。

 長老達の食事を作るなら、サハルさんに中に入ってもらって邪魔にならない程度に手伝いを申し出てみようかと思いながら、アクラムの背中越しに身体を曲げて作業台を覗き見る。

 挨拶しようとしていた口を開いて、マコトは固まった。


 沸騰している鍋の隣で、リズミカルに包丁を動かしているのは、野盗に拐われた時以来――久しぶりに見るナスルだった。


(ど、うしよう……)


 気付かなかった振りをして通り過ぎてしまおうか。ナスルに対してどういった態度を取ればいいのかまだ答えは出ていない。


(話し掛けられるのもやっぱり嫌なのかな)


 無難に気付かなかった振りをして通り過ぎてしまいたい。しかし、それを許してくれなさそうなのが一緒である。

 ちらりとアクラムを見上げ、溜め息をつく。そしていつの間にかその手が離れている事に気付いた。


(お疲れ様です、とか、お久しぶりです、とか……? でも、なんか馴れ馴れしいよね……。あ、助けに来て貰った時のお礼は言いたいし)


 第一声に迷いつつ、マコトは立ち止まったアクラムの影からナスルを見つめていたが、ナスルの包丁捌きや分厚い鉄鍋を振るその手際の見事さに思わず見入ってしまていた。


 鍋を振る力の有無もあるが自分よりも遥かに上手である。……もしかすると、サハルと張るかもしれない。


 アクラムはさっさと作業台に座り、マコトはどうすべきか一瞬迷ったが、当初の目的を思い出し、作業台に向かった。


「――あの、お久しぶりです。お茶の葉っぱと砂糖取らせて貰いますね」


 そう断り、邪魔にならない様に素早く目的のものを取る。

 当然ながらマコトとアクラムの気配には気付いていたのだろう。

 驚いた様子も無く、ナスルは無表情のまま手元にあった砂糖の入れ物をマコトの前まで滑らせた。


「すいません……っ」


 マコトが慌てて受けとると、ナスルは鍋の中のものを無造作に皿に盛った。

 アクラムの座るテーブルの上にお茶の葉と砂糖を移動させたマコトとアクラムに背中を向けたまま、ナスルは初めて口を開いた。


「……食べますか」


 どちらに言っているのか計りかねて、マコトはアクラムを見る。


「食べる」


 助けを求める視線に気付いたのか、あるいはそのつもりだったのか、 アクラムはきっぱりと頷いた。


(そ、そりゃそうだよね……)


 うっかり返事をしてしまいそうになってしまった自分が恥ずかしい。熱くなった顔を誤魔化す為に俯いてお茶を淹れようとしたら、また声が掛かった。


「『イール・ダ―ル』は」


 同時にかちゃりと皿を取り出す音がして顔を上げれば、ナスルの視線とぶつかった。しかし、すぐに逸らされどこか迷った様な小さな声がマコトの耳に入った。


「……食べますか」


 先程と同じ申し出に、マコトは今度こそ驚いてナスルを見た。


(私にも言ってくれてるんだよね……)


 そういえば、その手際の良さに思わず見入ってしまっていた。それでお腹が空いてるに違いないと気遣ってくれたのだろうか。ちらりと鍋の中を覗き込むと、軽く四、五人分はあった。


(せっかく言って貰ったんだし、いっぱいありそうだし)


「無理にとは言いませんが」

 黙ったままのマコトにナスルは視線を逸らしたまま続けた。


「いえ、頂きます」

 さほどお腹が空いている訳では無いが、せっかく気遣って貰ったのだ。自分に置き換えれば、やはり食べて貰えれば嬉しいし。何よりこちらの世界の料理に興味があった。


 ちらりと見た感じでは、野菜たっぷりの焼きそばの様な感じである。

 ナスルはアクラムの前に既に分けていた皿を置き、それから新たに取り出した小皿に少量取り、その隣に置く。

 マコトは少し迷いつつも、小皿の前に座った。


「道具を借りました。材料は、後で補充します。勝手をして申し訳ありません」

「あ、いえっ元々私もお借りしてるものですし、材料は使いきらなきゃ勿体無かったんです。有難うございます」


 ナスルの顔も見ずに慌てて頭を下げる。顔を上げた時には既にナスルは背中を向け、鍋の残りを皿に移し始めていた。


(自分が食べるんじゃなくて……誰かに作ってあげたのかな)


 色々考えながら、目の前の皿を見つめる。やはりそれは焼きそばに似ている。

 麺の代わり入っているのは、向こうの世界で言うすいとんの様なものだ。香ばしく少しスパイシーな匂いは、きっとマコトがまだ使った事のない調味料を使用しているのだろう。


「おいしい……」

 

 独特なクセのようなものがあるが、やはり見た目通り焼きそばに近い。懐かしい味に思わず目を細めて呟く。

 そんなマコトの様子を視界の隅に移しながらも、ナスルは黙ったまま使った鍋や包丁を洗い始めた。


(薄味ばっかりかと思ってたら、結構濃い味付けの料理もあるんだ……)


 中に入っている野菜の種類をチェックしながら、残りを口に運ぶ。空っぽにしたお皿を机に置き、いつもの習慣で「ごちそうさまでした」と 両手を合わせると、皿を手にし立ち上がった。

 声を掛けるのに、少し……どころでは無い勇気がいった。


「あの、洗い物なら手伝います」

「結構です」


 間髪置かずにきっぱりと断られ、分かってはいたもののやはり凹む。


(……そんな簡単に仲良く出来る訳無いか)


 せめて、自分の分位は後で洗おうと皿を持ったまま椅子に戻ろうとしたマコトの視界を何かが遮った。


「あ」


 そのままひょいと皿を取り上げられ、マコトは空になった自分の手を見下ろした後、驚いて振り返った。

 視界を遮ったものはナスルの腕だったのだろう。背中は相変わらず無言のまま。


(えっと……洗ってくれるって事かな)


 つまりは、そう言う事なのだろう。ご馳走になった上に、後片付けまでさせる事に良心の呵責を感じたが、これ以上話しかけるのも、迷惑に違いなかった。


 ありがとうございます、とだけ返し、マコトはアクラムがいる作業机に戻り、中断していたお茶を淹れはじめる。

 ナスルの分はどうしようかと迷って、結局三つカップを用意した。さじで茶葉を掬い、砂糖を入れようと入れ物の蓋を開けた所で、その中身が空っぽな事に気付いた。


「あれ……?」


 戸惑いが口につく。

 確かに今朝お茶を入れた時はまだ半分以上は残っていた筈だ。台所の整理は出発日にしようとサハルと決めていたし、また近い内に誰かが使うかもしれないからと、日持ちする食材と調味料の類いは置いていくと聞いていた。


(まさか)


 何故だか嫌な予感がし、おそるおそるアクラムの皿に視線を向けたマコトは思わずその中身に悲鳴を漏らした。


「アクラムさ……ッ」


 名前を呼ぶ途中で慌て自分で自分の口を塞ぐ。

 

 ――これは駄目だ。

 同じく拙いながらも、料理をする自分だからこそ分かる。

 

 とりあえず、このままナスルに気付かれないように視界を遮ろうと場所を移動する。早く食べる様にアクラムを急かすべきか、必死に考えていると、からん、と作業台に何か落ちる音がした。


 おそるおそる振り返ったマコトは、こちらを……正確にはアクラムの皿を唖然とした顔で凝視しているナスルを見た。


 ナスルとマコトの視線の先。


 そこには元の料理の上に、こんもりと砂糖の山が築かれていた。

 それよりも恐ろしいのはその山を端から崩し、これでもかと言う位炒めた野菜に絡めて平然と食べるアクラムの姿だ。


「……アクラムさんって甘党なんですよね! あの、私は十分って言うか凄く美味しかったん」

「ナスル」


 マコトの言葉を遮り、アクラムはフォークを置いた。ピクリとナスルの眉が動く。


「不味い」


 甘くもなかった、と付け加えたアクラムに、マコトは青ざめ、無表情を貫いていたナスルのこめかみにぴしっと青筋が浮いたのが分かった。


(不味くしたのアクラムさんじゃないですか~っ!)


 声にならない悲鳴を叫びマコトは、思わず目を瞑った。


 これはヒドイ。

 作ったものを好意で差し出せば、砂糖を山盛りに混ぜられてあげくの果てに「不味い」……。自分なら二度と台所に立てないかもしれない。

 

 しかしナスルは意外にも冷静だった。


「……それは悪かった」


 固い声音でそう呟いて作業台へ歩み寄ると、既に料理とは言い難くなってしまった皿に手を伸ばした。


「待て。捨てる位なら食べる。砂糖を入れたら食えん程では無くなった」


(アクラムさん……っ)


 あそこまで言って結局食べるんですか、と口に出しかけてすんでの所で押し止まる。

 そう、自分がここで口を挟めば、またアクラムが反論し、ますますこじれるに違いない。


「……」


 仕方無さそうに言われて、ナスルはアクラムの顔をまじまじと見つめ、それから小さく息を吐き出すと、手を引っ込めた。


 暫く無言の間が空き、アクラムはまた食事を再開する。

 ナスルもまた洗い物に戻り、マコトはほっとして中断していたお茶の続きを淹れた。

 少し蒸らして一つはアクラムの前に、もう一つは自分用に脇に寄せ、最後の一つはそのままポットの近くに置いておいた。


 とりあえずアクラムの隣へと戻り、自分用の熱いお茶に息を吹きかけ、冷まして口に含む。久しぶりの砂糖が入って無い紅茶はマコトには慣れたものだが、アクラムは飲まないかもしれない。


 ちらりと視線を流せば、甘党の彼は既に料理を平らげていた。

 微かに残る皿の上の砂糖に微妙な気持ちになったマコトは、本格的にアクラムのおやつメニューを考え直そうと心に固く誓った。


 いくら体に出ないと言っても不健康すぎる。


(……あれ……でも、もしかして、もう必要無いのかな)


 西の集落にはたくさんの人がいると聞いている。候補者達にもそれぞれ家族もいるだろうし、朝食の支度は不要になるのでは無いだろうか。


(なんか寂しいかも……ううん、また手持ち無沙汰になるなぁ……他に何か仕事あるかな)


 徒然そんな事を思いながら、マコトは残り少なくなったカップの上からそっとナスルの様子を伺う。

 既に洗い物は終わったらしく、台に持たれかかり、腕を組んで俯き瞼を閉じていた。

 その横のまだ手付かずの皿といい、きっと誰かを待っているのだろう。


(えっとアクラムさんがお茶飲んだら、ゲルに戻った方がいいよね。……あ、助けに来て貰った時のお礼!)


 肝心な事を思い出して、口を開きかけたマコトを背後からすっぽりと大きな影が包み込んだ。







「なぁんだよ。お前らすっかり仲良しかよ。か~っー! 若いっていいねぇ」


 聞き覚えのある声にマコトは慌てて振り向く。いつの間に来ていたのかすぐ後ろに、ナスルの兄でもあるザキ……いや、スェが立っていた。


「あ……」


 しまった、と思って、その少し後ろにタイスィールがいる事に気付く。

 ゲルにいるように言われていたのに思いきり見つかってしまった、と後ろめたい表情でマコトが会釈をすると、タイスィールは分かった様に頷き口を開いた。


「大丈夫だよ。頭領の許可は得てるから。彼も君に直接言いたい事があるらしいし」

「え?」


(何だろ……)


 マコトは思いがけない言葉にほっとしつつも首を傾げた。


「お、俺の好きなダッカじゃねぇか。旨そうだなぁ」


(ダッカ……)


 鼻を動かしながら皿を覗き込んだスェが嬉しそうに笑う。その呟きをこっそりと聞き止めて料理の名前らしき単語をマコトは頭に刻み込んだ。


 スェはそのまま指で掴み口に放り込む。その行儀の悪さに眉を顰めフォークを差し出したナスルをスェは、肘で突っついた。


「お前なぁ……その仏頂面やめろって言ってんだろ。 俺に似て男前なんだからちぃっとは笑え! なぁ?」


 最後は合意を求める様にマコトに受け取ったばかりのフォークの先を向けて、愛想のいい笑顔を浮かべた。

(……相変わらず明るい人だなぁ)

 初めて会った時も、この彼のペースに巻き込まれ最後には笑わせてくれた。一見大雑把な行動と言動が目立つが、本当はとても優しい人なのだと マコトは思っている。


「つーか……こうして並んで台所に立ってると新婚さんみたいだし。俺ら邪魔だったかもなぁ」


 ニヤニヤ笑ってそう付け加えたスェに、マコトは答えに困り曖昧に笑う。

 そんな二人を見て、それまで黙っていたナスルは眉間の皺を濃くして薄い唇を開いた。


「止めて下さい。冗談が過ぎます」


 その声の冷たさにマコトは、ぴくりと肩を竦ませて俯いた。

 やはり自分は嫌われている、と思い出させるには十分な声色だった。

 兄であるスェに出会えた事で自分への風当たりが弱くなるのでは、と、どこかで期待していた自分にも気付きその甘さに少し呆れた。


「ふぅん。そっか」


 しかしスェは重くなった空気に気付く事なく、あっけらかんと頷く。

 そして、あ、と声を上げて、名案を思い付いたとばかりに手を打った。


「じゃあ、嬢ちゃん。俺なんかどうだ?」 


 両手を広げて、マコトに歩み寄る。


「この前も言ったっけか? でも、やっぱ嬢ちゃんみたいなか弱い女の子には、年上の包容力が必要だろ! ほら遠慮しねぇで俺の胸に飛び込んで来いよ!」

「え、わ……!」


 その勢いに、戸惑ったまま動けずにいたマコトの腕をタイスィールが引いた。

 スェの両手が虚しく宙をかく。


「幾つ年が離れてると思うんです」

「……兄さん。いい加減にして下さい」


 タイスィールが呆れたように呟き、それに同意する様にナスルが名前を呼ぶと、スェは子供の様に口を尖らせて、面白く無さそうに視線を巡らせた。

 そして、黙々とお茶を啜っていたアクラムに目を止め、驚いた様に目を瞬かせた。


「なんだよお前、アクラムだろ! 元気してたか」


 顔を輝かせたスェとは対称的に、アクラムは珍しく嫌そうな顔をして席を立った。


「――ゲルに戻る」

「え、アクラムさん?」


 少し迷って後ろを向きタイスィールに会釈する。弛められた腕からすり抜けたマコトは 慌ててアクラムに歩み寄った。


「あいつは嫌いだ」


 ぼそりと呟いた声は、特に抑えた訳では無いのだろう。しっかりと全員の耳に届いた。

 感情を出さない、かつ他人にも興味を示さないアクラムが、こんな風に言い切るのも珍しい。


「何かあったのかい」


 内緒話をするような二人の距離を邪魔する様に、タイスィールがアクラムのフードを掴んで引き離す。


「昔……」


 ぽつりとそれだけ呟き、アクラムはぱちりとフードの留め具を外してそのまま抜き出ると、どこか覚束ない足取りで台所を出て行った。 あの方向ならきっと自分のゲルに戻るのだろう。


「昔……なにか心当たりが?」


 手の中に残ったフードを見下ろして、タイスィールは、行儀悪く立ったまま皿を抱えて料理を食べていたスェに視線を流した。 咥えていたフォークを口から外して空っぽになった皿を作業台に置く。


「ん~……感謝される事はあっても嫌われる事は無いと思うんだがなぁ。家に引き込もってばっかだったから、よく遊びに連れ出してやったし、あいつ偏食がちだったから、よく手料理ごちそうしてやったしな!」

「っ……兄さんの手料理、ですか……」


 得意気に胸を張ったスェの言葉に、ナスルの声が奇妙に上擦る。

 マコトとタイスィールは、そこに何かある事を悟った。


「……絶望的に下手とかそんな感じなのかい?」

「タイスィール! 失礼にも程があるぞ!」


「いえ……あの、少しばかり辛すぎると言うか」


 珍しく語尾を濁らせたナスルに、マコトも嫌な予感を感じて黙り込む。微妙な空気が流れた後、マコトは曖昧に笑って尋ねてみた。


「……どれ位なんですか」

「……七歳の子供が胃痙攣起こす程度です」


(それ、程度ってレベルじゃ……!)


 間違いなくタイスィールとマコトは心の中で同じ事を思った。

 しかも、あくまで他人事に装ってるが、その七歳の子供は間違いなく目の前にいるナスルだ。胃痙攣を起こす程の激辛料理。出来るなら一生無縁でいたい。


「……ナスルが、料理得意になる訳だね」


 タイスィールの呟きに、マコトも納得する。

 確かに命がけなら、生半可な料理教室に通うより上達しそうだ。


「それよりも可哀想なのがアクラムだね。あの味盲の原因をこんな形で知る事になるとは」


 しみじみとそう呟いたタイスィールにマコトも同意する。確かにあの甘党っぷりは味盲と言っても差し支えないかもしれない。


「……お前、さっきから何気に酷くね?」


 頷きかけたマコトだったが、恨めしそうにスェが自分を見ている事に気付き、慌てて話題を変えた。



「あの、スェ、さん。この前は有難うございました」


 一気にそう言って勢いよく頭を下げたマコトに、スェは不思議そうに目を瞬かせた。そして腕を組み、しばらく考える素振りを見せてから 困ったように口を開く。


「礼なんぞ言われるような事した覚えないんだがなぁ。何かしたっけか?」

「あの、色々気遣って頂いたのに、お礼も言ってなくて……それに庇ってもらいましたし」


 そう、思い返せば男達から助けて貰った後、サーディンが壊した壁からも身を挺して庇って貰ったのだ。


「いや、どう考えても巻きこんじまったの俺らだし。礼なんぞいらん……くも、無いかな」


 からから笑って首を振ったスェだったが、その途中でくるりと瞳を回し、何か思いついたように、意味深に笑った。


「よし、じゃこれで許してやろう」


 先ほどより素早く、スェがマコトの体をすっぽりと抱き込んだ。


「兄さん!」

「懲りませんね」

「え、ぁ……」


 ナスルの鋭い声が飛び、今度は反応が遅れたらしいタイスィールが、小さく溜息をつく。しかしすぐに引き離しに掛からなかったのは、 今までのマコトに対する接し方から害は無いと判断したからなのだろう。


 確かにその抱擁にいやらしさは無く、マコトも驚いたものの不快では無く、何故か逃げようとは思わなかった。


 サーディンの様に力任せでも、サハルの様に熱っぽくもない。一言で言えば――安心出来る様な抱擁。幼い頃に母親にされたそれが一番近かったかもしれない。


「お前らうるせぇよ。本人が良いって言ってんだから黙っとけ。なぁ嬢ちゃん?」


 あいつら思春期の娘を持つ父親かよ、とマコトの耳元でぼそりと呟く。その可笑しさにマコトが思わず噴出すと、スェはにっと口の端を吊り上げた。


「そぉそ。嬢ちゃんは笑ってるのが可愛いぜ? それに……ああ……うん。ほっとした」

「え?」


 最後の呟きが、本当に安堵したような声音で、マコトは小さく吐き出された吐息にスェの顔を見上げる。


「ほっとした、ですか?」

「いや、自分にな。……マジで良かった。……良かったよ。嬢ちゃんが『イール・ダール』で」


 曖昧に答えを濁し、スェは惜しむように体を放した。優しい手だ。そう思ったのは何故か分からない。

 スェはそのまま腰を落とすと、そっとマコトの右手を取り騎士のように傅いた。


「……母なるイールに感謝と、ダールの訪れに幸福を誓います」


 それは祝福の言葉なのだと気付くのに時間が掛かった。

 少し固い真面目な声音に、マコトはつながれた手をじっと凝視する。


 日に焼け骨ばった硬い手は、ただ白いだけの自分の手とは全く違う。

 見下ろしたスェの表情は俯いていて分からず、再び立ち上がったスェは、マコトと目が合うとそのまま顔を近づけた。


「……っ」


 口付けは額へと落ち、後ろに回った大きな手の平はマコトの頭をゆっくりと撫でる。

 至近距離見上げた瞳は柔らかく眇められ、その奥に移る自分の姿は少し揺らいでいた。


(スェさん……?)


 祭りの最中なのだし、スェは元々西の一族だ。『イール・ダール』である自分に祝福を贈る事は何の不思議も無い。


(もしかして、スェさんの言いたい事ってこれだったのかな……?)


 しかし、今までに明らかに違うその雰囲気と慈しむような動きが引っかかった。候補者達と交わした誓いとも違う、――何と言うか 口上だけでは無い――何か。もっと真摯な――。


 スェを見つめ、マコトは掴めそうで掴めないその真意と意図を探り出そうと考えを巡らせる。

 最後に頭を撫でてマコトから離れたスェはくるりと体を返すと、その一連の行動を静観していたナスルに声を掛けた。



「――そういやナスル。お前嬢ちゃん、試すような真似したんだって?」


 あくまで口調は軽く、なんでも無い事のように発したその内容に、マコトは一 瞬動きを止めた。

 背中を向けたスェの向こう側にいるナスルを見れば、顔を強張らせスェを凝視 していた。


「はい」


 言い訳も無く素直に頷いたナスルに、マコトは思わず声を上げる。この言い方 ではあまりにナスルに対して一方的だ。試されていた事は事実だが、自分だって 年齢を偽っていたのだし、今となってはお互い様だった気さえする。


 スェは読めない表情に、静かに笑みを貼り付けたまま、ナスルに歩み寄る。

 そして次の瞬間、大きく腕を振り上げてたかと思うと、ナスルの頬を思い切り殴った。


「……っ!」


 広場に響き渡った鈍い音は、マコトの身体を呪縛するのに十分だった。その音は鼓膜にこびりつき反響する。


 ナスルが殴られたのだと分かるまで、たっぷり数十秒掛かった。


「……っナスルさん!」


 後ろによろめいたナスルを再び殴りつける音に、ようやく我に返ったマコトは 、慌ててナスルの元に駆け寄ろうとした。しかし、そんなマコトの腕を後ろにい たタイスィールが掴んで押し止める。


「タイスィールさん!?」


 どうして、と振り返れば、タイスィールは、真面目な顔で何も言わずに首を振 った。


「離して下さい!」


 必死で振りほどこうとするが、その腕はぴくりとも動かない。

 スェの言葉を考えれば、ナスルが殴られているのは、間違いなく自分のせいなのに。


「ほぅら立て立て。まがりなりにも親衛隊だろうが。こんなんで気絶なんて出来る訳ねぇだろ? 女の子には優しくしろって散々言って育てたなのに。昔すぎて忘れちまったのか。ん?」


 砂の地面に転がったナスルの胸倉を掴み、スェは冷めた視線で見下ろして無理 矢理立たせる。

 そして再びドン、と鈍い音がし、マコトは咄嗟に目を瞑った。そして再び瞼を押し開いた時にはナスルの腹にスェの拳がめり込んでいた。


 人が殴り合う所など、幼い頃にしか見た事が無い。それも可愛いと言える程の拙いケンカで、今目の前で一方的に繰り広げる光景とは比べ物にならない。立ち上る砂埃も、骨の軋む鈍い音も、その対象が自分の知っている人間だという事も恐ろしかった。


(こ、のままじゃ死んじゃうんじゃ……っ)


 そしてまだ殴り続けようとするスェに冷たいものが背筋を駆け上がる。マコトは顔を引き攣らせて 叫んだ。


「っお願いです! やめてください……っ!」

「まぁ見てな嬢ちゃん。これはけじめだからな。同じ血が流れてる以上手加減なんかしてやんねぇから。一発で済ませたタイスィールとは違って俺は優しくないからな?」


 ……タイスィール?

 ふいに出された名前に驚き、マコトはまさか、とタイスィールを振り返る。

 タイスィールはまさか自分を引き合いに出されると思っていなかったのか、彼に は珍しく何かを誤魔化す様に曖昧に笑った。


 ……まさか。


(仮にも『イール・ダール』……大事な存在なんだから、ナスルさんに罰が無い訳無いんだ……!)


 タイスィール達が戻って来て危険を回避できたが、『イール・ダ―ル』を危険に 晒した事は間違い無い。

 そしてマコトを試した事実を、ナスルは隠す様子も無かった。

 そう、ナスルが責められるのは必然である。


 少し考えれば分かる事だったのに、自分の事に手一杯で思い付きもしなかった。



「……っ私、もう怒ってなんか無いんです! だから、もう止めて下さい」

「嘘つけ。見知らぬ世界で突然結婚しろなんて迫られて、その上他人まで巻き込 んで試されて、腹立たねぇ訳ねぇだろ?」


 淡々とした口調で発せられた言葉は、まるで心の中を見透かす様でマコトは一瞬押し黙った。

 確かに、怒っていた。


 自分はオアシスだけのおまけで、信頼などされていないのだと知らしめられた 。


「まぁ嬢ちゃんならもう怒って無いかもしれねぇけどよ。……傷は残ってるだろ 」


 ――痛くて悲くて悔しかった。

 しこりが残っていないかと言えば、きっぱりと否定出来ないかもしれない。


 けれど。


「その通りです……、本当は怒ってました。……でも! 助けに来てくれたんで す。嬉しかったんです。だから」

「許してやるって?」


「……もう止めてください」

「あ? ここではっきりさせとかねぇと後で引くぞ~」


 バキっとまた物騒な音が響いた。

 どこか切れたのかこめかみから血が流れる。ナスルは一度たりとも抵抗をして いない。既に赤く腫れ上がった頬を見て、マコトは首を振った。


「許しますから!」


 もう十分だ。

 砂と埃に塗れ、ぼろぼろになったナスルを見てマコトは首を振った。


「ホントに?」


 伺うような鋭いスェの視線に、マコトはぶんぶんと何度も頷く。


「はい!」


 マコトの悲鳴に近い返事に、スェの口の端をにっと吊り上げた。

 ナスルの腕を掴むと、引っ張り起こし座らせ、服にこびりついた砂を乱暴にはたくと、よし、と満足そうに頷いた。


「良かったなぁナスル。嬢ちゃん優しくて! じゃ、また後でな。メシごちそうさん」


 どこか呆れた様にその一幕を見ていたタイスィールの肩に手を置き、スェはまるで何も無かったかのように「そろそろ戻るか」と 変わらぬ口調で声を掛ける。


 そんなスェにタイスィールは苦笑し、未だ立ち上がれずに、肩を上下させているナスルに向かって口を開いた。


「ナスル、きちんと消毒して冷やしておくように。……これは命令だよ。じゃあ、マコトまた後で」


 二人が背中を向けると同時に、マコトはすぐに水置き場に向かい、ハンカチ代わりにしてい る布を水に浸してきつく絞る。そしてすぐに踵を返しナスルの元へ駆け戻った。


「ナスルさん。これ……」


 赤く腫れ上がった頬にそれを当てようとしたマコトの手を、ナスルは後ろに引 いて避けた。

 そして傷が痛むのか時々眉を顰めながらも立ち上がり、切れた口の中で小さく呟いた。


「……許さなくていい」

「え?」


 ……いえ、と首を振り、ナスルは切れた口元の血を拭い背中を向ける。


「決して、私を許さないで下さい」


 再びそう呟くと、ナスルはスェとは逆方向に向かって歩いていった。





 一方、頭領の待つゲルに向かっていたスェは、後ろを歩くタイスィールに振り向き、口を尖らせた。


「タイスィール、お前さぁ……余計な事言うんじゃねぇよ」

「貴方の思惑通りにはいきませんよ。マコトに気にして欲しいから、わざと顔ばっかり殴ったんでしょうに」

「なんだよ。可愛い弟に少しでもきっかけ作りと可能性をって協力してやっただけじゃねぇか。……ま、アイツも誰かに殴られたかったみたいだし、少しはすっきりしたんじゃねぇの」


「弟に協力ね……」


 小さく溜め息をついたタイスィールにスェは器用に片眉を上げた。


「何だよ。その意味深な」

「いえ、何か隠してらっしゃるみたいで。相変わらず秘密主義だなぁと」


 タイスィ―ルの言葉が意外だったのか、スェは一瞬だけ目を瞬かせた後、くく っと喉の奥で笑った。


「ははっ。まぁ悪くねぇ秘密だぜ? ……俺達にとってはな」

「私も、ですか?」

「いや違う。ホントにな。――世代交代ってヤツか。俺も年食ったはずだよな」


 スェは首を振り最後は独り言の様に呟いた。首を傾げたタイスィールがその意味 を知るまでに、あともう少しの時間が必要だった。






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