第五十六話 会談(長老視点)
マコト達がゲルの影に隠れ見えなくなったと同時に、砂埃を巻き上げて近付いてきた馬から、二人の男が飛び降りた。
入り口近くにいた男がその手綱を引き取ると、一人は駆け足で、――もう一人は対照的にその後ろからのんびりと一同の元へ歩み寄ってきた。
駆けてきた勢いのまま、ムルシドと頭領の前で膝をついたのはナスル。鮮やかな赤い髪が振動に跳ね、汗が頬へ流れ落ちるのも構わず 彼はそのまま深く頭を垂れた。
「申し訳ありません。まだ時間には早すぎると再三申したのですが」
挨拶もそこそこに、彼にしては珍しく言葉を濁し、ちらりと後ろに視線を投げる。
その先にいた男は興味深げにきょろきょろ周囲を見渡し、時々懐かしむ様に目を眇めていた。
(……ザキ)
十年振りになる名前を心の中で呼びかける。
自分にとっても深く馴染みのあるこの名前は捨て、今はスェと名乗っているらしい。そう報告したタイスィールも複雑な表情をしていた。
交渉をしに来たとは思えない彼の様子に眉を寄せたイージを宥め、ムルシドは長い髭を撫でながら、首を振ってナスルに立つように促した。
「相変わらずで何よりだ。昔から人の裏をかくのが好きだったからの……」
(……十年になるのか)
あの頃微かに残っていた若さ故の甘さはすっかり無くなり、 年を重ねただけでは有り得ない貫禄と雰囲気は、まるで別人だった。
しかしムルシドをその目に映すと、男は片頬を上げて気障に笑った。……それだけは変わらなかったのかと、自然と口元に笑みが浮かぶ。
正直に言えば、もう彼とは二度と顔を合わせる事は無いだろうと思っていた。彼から彼の少女を奪ったのは自分。きっと彼が、まだ知らない真実を知 れば自分を許す事は無いだろう。
『あるいは――かもしれん』
『……本当、なんですね』
そう繰り返した彼女の顔は酷く青ざめ、それでもその瞳に小さな希望の光が見えた事に、安堵感と罪悪感を感じた。
『言っておくが、馬鹿な事を考えててはならぬ。お前が諦めてさえくれれば全て丸く収まる……酷な話だが堪えてくれ』
あらかじめ用意していた、自分の良心の呵責を抑える為の言葉を口にしてその手を取れば、か細い肩を震わせて、彼女はそれを強く握り締め、深く頭を下げた。砂漠ではあまり見ない艶やかな黒髪がさらりと零れる。その動きが砂を焼く強い日差しにぼやけて滲んで見えた。
『……教えて下さって有難うございます』
そして再び彼女の姿を見る事は無かった。
枯れたオアシスに浮かんだ花嫁の白い髪飾り。
拾い上げたそれは泥に塗れて、少し握っただけでぐしゃりと形を変えた。
――全ては、自分の筋書き通りに。
『どうして、そんな事を! 知ってたくせに……分かってたくせに。そんな事言ったらあの子がどうするかくらい!』
それぞれに傷を残し、それでも少女の犠牲の上にまた日常が戻る。
一週間程経ったある日、薬の知識を伝授していたその途中イブキは掴みかかる勢いでムルシドを責めた。……もういなくなった少女と同じ黒い瞳は、 涙に濡れてその雫を乾いた砂に落とした。
しかし、イブキは結局、ザキに真実を告げなかった。
それは彼女の優しさで、きっと秘めた真実はきっと傷跡となり今も彼女を苦しめているのだろう。
イブキの妊娠を報告したラーダの複雑な表情を見れば、それは分かった。
あれから十年経った。
短かったのか、長かったのか。
彼は果たしてどちらなのだろう。
それしか道が無かったのだ、と、それでも選んだのは彼女自身だと、ザキに話し自らにも言い聞かせた。一途すぎる想いは世界の均衡を崩し、また争いの火種 になるかもしれなかった。それは事実。一族の安寧と世界の均衡を考えれば、間違っていたとは思えない。
彼を、見る。
吊り上がった目がムルシドを捉え、少し下がった。 苦笑にすら見えるその表情に、違和感を覚える前にザキ――いや、スェ が軽く左手を上げた。
「よぉ、じいさん久しぶり」
片手を上着の合わせ突っ込んだまま、ムルシドの前に立ったスェに、数人の護衛の眉間に皴が寄る。
責める視線はただ、元は王に次ぐ最高位であった自分に対する礼儀ではない事を責めるものだろう。それを咳払いでたしなめたのは、イージだった。
スェと彼らとは勿論面識は無い。十年前の悲劇のその加害者の容貌は、この大陸ではさほど珍しく無く、王が自ら箝口令を引いた事により、十年たった今では ナスルの兄だと言う事すら知らない者も多い。また『イール・ダール』が現れた事で、繰り返す事の無い様に自然と口を噤む風潮が広がっていた。
彼が元の地位に戻りたいと言えば不可能な話では無く、名前を変えた上で自分が口添えすれば可能だろう。 全てを知る王もきっとそれを望んでいる。
しかし、今更彼が一度捨てた地位を望まないであろう事は何となく分かっていた。
「それで一体何の用だ」
スェとの間に警戒心を滲ませてイージが入る。血を分けた息子であり、一族の代表である彼は大体の事情を知っている。 彼がどこかで真実を知り、自分に危害を加えるかもしれないと危ぶんでいるのだろう。
「ああ、なぁに西にとっても悪い話じゃない」
イージの態度に気を悪くした様子も無く、スェはにやりと笑って首を竦ませる。そのすぐ傍で、様子を伺っていたサハルが穏やかな態度を保ったまま声を掛けた。
「部屋の用意は整っております。こちらへどうぞ」
イージは指示を飛ばし、手際よく護衛を配置する。その内の二人をムルシドの前後に付け、サハルの後に続いた。
今日の為に空けたゲルの上座に頭領が座りその両脇よりやや後ろを護衛が固め、スェはその真向かいに座った。ムルシドは自然な動作で扉近くに控えていたナ スルの隣にしゃがみ込み胡座をかく。
その席順にナスルは一瞬眉を寄せ、次の瞬間顔を強張らせムルシドに視線を向け た。何か言いかけたナスルの様子に気付いたムルシドは、いつもと同じ仕草で髭 を撫で、小さく笑って首を振った。それだけで大体の事情を汲み取ったらしく、ナスルは苦い表情で唇を硬く引き結び、視線を真っ直ぐ戻した。
「さて、スェと言ったか。まどろっこしい挨拶は無しにしよう。この会談を望ん だ目的を聞かせて貰おうか」
全員それぞれ用意された場所に落ち着くが否や、イージは真正面に座っている スェをまっすぐ見据えた。その強い視線に気後れする事なく、スェは低く笑う。
「話が早くて助かるな。――これを」
そう言って懐から取り出したのは華奢な首飾りだった。無造作に放り投げたそ れをイージは危な気なく片手で受け止め、手の中のそれを見下ろすと、すっと 目を眇めた。
「変わった石だな。……それに……細工が素晴らしい」
イージは少し表情を変え、手の中の首飾りを細かく観察し、彼には珍しい素直 さでそれを評価した。次いで右隣へと首飾りを回し、他の者もある者は素直に感 心し、ある者は訝し気にスェと首飾りを見比べた。中辺りで手元に回ってきた首飾 りを、ムルシドは窓から差し込む光に当てて下からそれを覗き込む。
「ふむ……」
色彩、光沢、透明度どれを取っても文句は無い。傷も少なく加工に当たった者 の技術も高い事が分かる。
確かに、王都でも滅多に見ないほど優れた宝飾品だった。石の周囲を飾る台座の細工も宝石の美しさ を最大限生かすように彫り込まれ、鎖を繋ぐ金具の表面にも一つ一つ細かな細工が施されている。
それぞれが観察し終えイージの手に戻った所で、スェはゆっくりと話し始めた。
「村の近くの山では鉱石が取れる。小振りだが純度の高い良い石だろう? そ れを細工したのは、村に住む女や子供だ」
「……野盗の村か」
「まぁ、そう言うなよ。俺が頭になる前は、使い方の分かってない馬鹿ばっかり だったからな。ほったらかしで、鉱石ばっかり掘って武器にしてた。元々捕虜が 集まって出来た村だからな。中には職人や細工師もいる。好きでいる人間なんていやしねぇし、一くくり にされて毛嫌いされちゃ奴らも可哀想だぜ」
「それで私達にどうしろと?」
イージはそう尋ね返すが、既にこうして会談を申し出たスェの話の内容は、大 方見当がついているのだろう。警戒心を残しながらも、既にその顔はすっかり商 人の顔である。剣術の類いはからきしだったが、幼い頃からイージは頭が切れ、 頭領になってからは交渉事の類いを得意とし、一族の収入も格段に増えた。
この戦の無い時代イージの在り方が一族の頭領として正しいのだろう。
それを少し寂しいと思うのは、年寄り染みたただの感傷に違いない。
時代は変わり、人も思いも変化する。自分は長く時代に留まり過ぎた。
「野盗の村から出したものなんて、どう考えても売れねぇだろ。物が良くても買い手がつかない。そこでだ。まず西の一族の商人に後見人になって売買ルートを確保したい」
「……成程な」
「まぁそれ以前に、道具を揃える為の融資をちぃっとばかり都合して貰わなきゃならないんだけどな」
「どの位必要なんだ」
「何、あんたの私財で賄える位だ。しかし大量に揃えるとしたら伝がいるだろ」
そう言ってスェは具体的な金額を口にした。確かにムルシドの感覚としては、 決して多くは無い。どちらかと言えば本当に必要なのは、伝の方だろう。
「……頭領。相手は野盗です。信頼出来ません」
イージの補佐をしている男の一人が、たしなめる様に低く呟く。同意を求める 様に男はムルシドを見たが、敢えて気付かない振りをした。
既に隠居した身で、一族の交渉に口を出す訳にはいかない。それに。
「だ、そうだが」
案の定、食えない顔でイージはスェに話を振った。
予想していた質問だったのだろう、スェは大して焦った様子も無く、だろうな 、と頷いた。
「まぁな。野盗もな、俺達が商売始めるには邪魔だったからなある程度は片付けた。個人でやってるやつはどうしようも無いが、 徒党を組んでた所はとっくに吸収した。――最近めっきり減ったろ?」
「確かに一年前から、野盗の被害は確実に減ってます」
静かに言い添えたのは、それまで黙っていたタイスィールだ。普段の彼の仕事 は王宮の警備を司るミダルの顧問だが、定期的に大陸を回り、大陸の要所要所に 置かれた警備所を視察しているので、大体の被害状況は把握していた。
タイスィールの口添えに、スェは口の端を吊り上げる。
「それが証拠になんねぇか? この話が軌道に乗れば、俺達だって野盗業は廃業……と言いたいところだが、必要悪ってのも必要だと思うんだ。なぁタイスィール?」
「……やはり、わざとだったんですか」
「どういうことだ?」
隣にいたカイスが眉を顰めて問い返す。護衛の内半分は同じ表情をしており、ムルシドは小さく溜め息をついた。
ここ最近の潰し合いとも言える野盗達のの奇妙な動きは、ムルシドの耳にも届いていた。足取りを掴めない事もあり、気になる案件ではあったが、正直に言えば彼らがいなくなるのに越した事は無く、緊急性も無い事から先送りにしていた。一月に数回は彼らに荷を奪われていた事を考えれば非常に有難い話ではあったのだ。
「……ここ一年襲われたのは、黒い噂があった商人だけなのです。人身売買、麻薬の密売……おかげでずいぶん王都は綺麗になりました」
タイスィールは、小さく息を吐き出すとそう説明し、最後にイージを伺うよう に視線を向けた。
「もちろん潮時がくれば野盗業も廃業する。ミダルだって砂漠の隅々まで目が届かねぇだろ。警護も兼ねてある程度は俺らが見回ってやるよ」
スェはここに来て初めて真面目な顔を作ると、正面にいるイージを真っ直ぐ見つめた。
ややあって。
「一時間ほど時間をくれ」
そう言ったイージは初めて表情を崩し、小さく頷いて見せた。
それを確認し、ムルシドはそっと息を吐き出した。
――確かに悪くない申し出ではある。
彼がしてきた『下準備』を考えれば、本気である事は明白であり、むしろこれほどの細工物を、一定期間と言えども西の一族で独占販売出来れば、その利益は侮れないはずだ。
「ま、いいぜ。じゃ俺席外すわ」
イージの表情でさほど悪く無い答えが出る事が分かったのだろう。スェは真面目な顔を崩し、愛想のいい笑顔を浮かべると思い出した様に手を打った。
「で、『イール・ダ―ル』……いや、マコトだっけか、その嬢ちゃんとは会えるのか?」
「マコトに何の用だよ」
気負いなく吐き出された言葉に、カイスはうろんな視線を向けた。スェは小さ く肩を竦めて助けを求める様にムルシドを見た。
「そう睨むなよ。一応独身だし祭りの真っ最中だし、『イール・ダ―ル』のご加護にあやかりたいってだけだよ。顔が見たいだけなんだがな」
「駄目に」
決まってる、と言いかけたカイスを制し、ここに来てムルシドは沈黙を破った。
「わしからも頼もう。イージ構わんか?」
きっと彼がこういうからにはきっと何かあるのだろう。思い当たるのは最初に見たスェの表情。
一族に害が無いなら好きにさせてやりたいと言う自分の贖罪の意味もあった。
「人を付けても良ければ構わない。だが、二、三聞きたい事があるからもう少し残ってくれ」
元長老と頭領から許可が出れば、次期頭領と言っても反論は許されない。カイ スは眉間に皺を寄せ押し黙ると、不機嫌に足を伸ばし座り込んだ。
サハルはそんなカイスを見て、そしてムルシドに視線を向けた。
恐らく何故自分がスェの肩を持つのか不審に思ったのだろう。ムルシドは曖昧に笑って髭を撫でると、サハルは苦笑して静かに視線を外した。
「了解。……あーそれにしても腹減ったな。朝飯食わずに来ちまったからな。あ、そういえば嬢ちゃん料理うまいんだっけ」
一気に緩んだ緊張感に足を崩したスェは腹を擦り、大きく溜め息をつく。
「……っ」
その言葉に怒鳴ろうとし、すんでの所で思い止まったらしいカイスは、ぎりっと拳を握り締めた。
そして独り言らしかった呟きに、サハルが穏やかな表情のままやんわりと答える。
「まさか稀有な存在である『イール・ダール』に料理をさせろと?」
完全に、毎朝朝食の支度を頼んでいる自分達の事は棚上げである。素知らぬ顔 で、とんでもない、とわざとらしい表情を作ったサハルに、タイスィールは苦笑して成り行きを見守る。
しかしそれよりも、マコトがここで皆の食事の支度をしている事は、一部の人間達しか知らないはずである。その上で『美味い』となればおのずと食べた事の ある人物しか漏らせないはずだ。
候補者達の……主にカイスの厳しい視線に晒され、ナスルは居心地悪く視線を逸らした。
「まぁ、それもいいけど。……なぁ、ナスルなんか作ってくれよ」
胡乱な空気に気付いていないのか敢えて無視しているのか、スェはのんび りと首を回し、後ろに控えているナスルに声を掛けた。
一瞬間が空いて。
「分かりました。失礼します」
唖然とする一同を尻目にナスルは言葉少なく頷くと、素早く身体を翻しゲルを後にした。
「……おい」
「……ナスルが料理、ですか」
カイスがサハルを見て、サハルは困惑気味にスェを見た。
「ああ、一人暮らしが長いからな。普通に美味いぞ」
滅多に感情を見せず、誰とも馴れ合わず。
剣を握らせれば、タイスイールに次ぐ腕前と言われ、
暗殺者に向けるその冷酷とも言い変えられる程、非情なその仕事振りは親衛隊以外でも有名である。
――その、ナスルが。
「……料理?」
居並ぶ男達も同じ事を思ったらしい。
ゲルの中に微妙な空気が流れた。




