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第五十三話 引力


 サハルのゲルを飛び出したマコトは、しばらく走った所で徐々にその速度を緩めていった。


 走った勢いでほどけ、強い風に尾の様に伸びたショールに気付き、するりと引き下ろすとそのまま握りしめる。俯いて、露になった無防備な白い項に強い日差しが刺さった。


(どうし、よう……)


 まだ熱の残る唇に触れて、きゅっと眉を寄せる。突然キスされた驚きも、サハルの本気だという告白も、自分の気持ちを見透かされた恥ずかしさも、色々な事がぐるぐると頭の中で回って、考えが纏まらない。


 ただ、一つ確実な事は。


(サハルさん、怒ってた……)


 気持ちを軽んじて、冗談だと片付けて、笑った。怒るのは当然で、自分は謝らなければならなかった。あんな反射の様な心の伴わない謝罪では無くて。


『冗談にして欲しいですか』


 問われた言葉にぎくりとしたのは事実。向けられた事の無い類いの好意、と言うよりはその先にある未知の感情が怖くて、楽な方に逃げようとしていた事すら見破られていた。


 いつだってサハルは優しかった。だから、今回も甘えさせてくれるだろう、と心のどこかで思っていたのかもしれない。


(……嫌われた)


 そう結論づけようとして、ふと去り際に掛けられた言葉が脳裏に甦る。

 ――違う。それでも。


 酷い事をしました、と、そしてまだ好きだと言葉を重ねてくれた。


(敵わない)


 そう思う。

 あの優しい人は、自分の浅い思考回路などとっくにお見通しなのだ。


「どうしよう……」


 ぽつりと呟くと、ずっと堪えていた涙が頬を伝い流れていく。

 いつだって本当の兄の様に優しく接してくれたサハル。


 さっきはまるで見知らぬ男の様で、怖くなかったと言えば嘘になる。けれど、そんな行動に移させたのは、自分の不用意な一言だ。


 きっと酷い顔をしてるに違いない。このままゲルに戻ればサラやニムにだって心配を掛けてしまうだろう。

 マコトはおぼつかない足取りで、自然と人気を避けるように集落の外れに向かっていた。


(あれ……)


 少し離れた場所に誰かしゃがみこんでいるのに気付き、マコトは慌てて目を擦る。


(サーディンさん……?)


 確かにあの派手な髪色は彼しかいない。こんな外れに、と思って、そういえばサーディンが生活するゲルはこの辺りだったかもしれない、と思い直す。半ば無理矢理連れて来られた時は真夜中でその位置はよく分からなかったのだ。


(何してるんだろう……)


 ゲルの前にある小さな椅子に、背を丸めて座り……何か、作業しているように見える。

 一旦足を止めたマコトの気配に気付いたのか、サーディンは、ぱっと顔を上げて後ろを振り向いた。そして、マコトをその視界に映すと、ぱぁっと顔を輝かせ、弾ける様に立ち上がる。


 片手には木片、もう片手には彫刻刀らしきものをぶら下げて長い前髪を無造作に後ろに束ねている姿は、普段のイメージとは違い、まるでどこかの職人の――見習いの様だった。


 しかし、それらを無造作に放り投げると、主に尻尾を振る犬の様に真っ直ぐマコトの元へ駆けて来る。

 その恐ろしい程の満面の笑顔と勢いの良さに、マコトの身体は自然と後ずさった。


 そんな微かな拒絶も気にする事なくサーディンは、マコトの肩をがしっと掴むと、うっとりとした口調で呟く。


「なになにマコト。泣くなら前もって言ってくれなきゃ困るじゃん~! あああ超勿体無い……!」


 そのまますいっと顔を寄せ、マコトの目尻に残っていた涙を、ぺろりと唇で掬い取る。

 その理解出来ない台詞と生暖かい感触に硬直し、あれほど止まらなかった涙も自然と引っ込んだ。


「サ、サーディンさん……っ! あの、離して下さい!」


(……泣いてる顔が好きなんだっけ……!?)


「ああ、もうホラ。ちゃんと顔見せて?」


 顎を掴まれ、上に向かされる。目があったと思うと至近距離でふにゃ、とサーディンの顔が蕩けた。


「あ~……最高……超可愛い超美味しそう。食べちゃってもイイ?」


 うっとりとした声で抱き寄せられた耳元で囁かれて、ゾクリと背筋に悪寒が走る。明らかに先程とサハルから与えられたものとは、似て非なるものだった。


「……だっ駄目ですっ!」


 慌てて首を振り、その腕から逃れようと必死で胸を押すがどうみたって力の無さそうな薄い身体は、ピクリとも動く様子は無い。


「え~優しくするよ? 噛むの我慢するしぃ」


 頭から齧られる自分を想像して、顔を引き攣らせたマコトに、サーディンはぴくりと器用に片眉を上げて、猫の様に笑った。


「なんだ。マコトはぁ、……痛いのがスキなんだ?」


 薄い唇をペロリと舌で嘗め上げる。たったそれだけで、またぞわりと肌が粟立った。


 再び硬直したマコトの腰にサーディンの手が回されようとした時、背後から悲鳴に似た叫び声が飛ぶ。次いで分厚い本が、サーディンの頭ぎりぎりをすり抜けて、ざくっと砂の地面に深く刺さった。


「何やってんですか……っ!」 


 よく晴れた砂漠の空に響いたのは少年らしい高い声。

 意識が逸れたサーディンから身体を離し距離を置いた所で、声のした方向に視線を向ける。 そこには大きく肩を上下させながらサーディンを睨むハッシュの姿があった。 その横には、腰に挿した剣に手を掛けたままの状態で、驚いた様にハッシュを凝視しているカイスもいる。


「……ハッシュさん。カイスさんも」


 しかし呼びかけられた事ですぐにはっと我に返り、カイスは早足で二人の下へ駆け寄った。サーディンとの間に入りマコトをその背に庇う。


「離れやがれ!」


 とりあえず助かったらしい事実に改めて安堵して、地面に刺さったままの本を見てマコトは驚いた。――その分厚さに。

 マコトの世界で言うと辞書並の厚さで、幅十センチはある。


 これをあの勢いで投げれる腕力も大したものであるが、普段本を大事にしているハッシュの性格からは想像出来ない行動だった。


(え、あ、助けてくれたんだよね……?)


「うわぁ、有り得ない! コレ当たったら本気で即死モンだけど」


 同じく本を見下ろしながら、そう呟いたサーディンは眉間に皺を寄せる。それから、今気付いたとばかりに顔を上げ、カイスを見とめると、にやっと笑って人差し指を向けた。


「あ。負け犬」

「ぁあ!? 誰が負け犬だコラ!」


 そう怒鳴って殴りかかって来たカイスをひょいっとかわし、凶器となった本を拾い上げる。

 そして背表紙に記載されている走り書きを細い指で撫でると、とニッと笑って呪文を紡いだ。


「……っ」


 ぼっと発火する音がして、マコトは精一杯爪先で立ち、肩越しにサーディンの手元を見る。 青い空の下、橙色の炎が勢いよく踊って本を包み込んでいた。


「ちょっ……!」

「学院所蔵の大事な本なら、手から放しちゃ駄目だよねぇ?」


 ニヤニヤ笑ってサーディンは勢い良く燃え盛る炎の塊から無造作に手を離した。

 学院に寄贈される書籍は、大抵が希少で高価なものだ。所属する学生ならよっぽどのもので無い限り貸出許可は下りるが、紛失したとなれば、話は別。賠償責任とそれ相応の罰則が発生する。


 目を見開いたまま、信じられないものを見る様な形相で固まったハッシュに、サーディンは満足気に笑う。しかし、小さく肩を竦めると、両手を上にし、大袈裟に首を振った。


「ああやだやだ。ハッシュ最近兄弟子に似てきたんじゃない? 手加減無いとことかそっくり。あのお目目くりくりのちっちゃい可愛いハッシュはどこにいっちゃったんだろ」

「……っハッシュさん!」


 くらりと目眩を起こした様に、身体を傾けたハッシュは、目の前にひらひらと落ちてきた本の欠片を惜しむように地面にしゃがみ込んだ。


「まっいいけどさ。うるさいのも出てきたし僕もやる事あるし、今日はこの辺で。じゃ、マコトまたね~!」


 両手をパンパンと叩き散らばった灰を落とすと、マコトに向かって片目を瞑りくるりと背中を向ける。しかしすぐに、何か思い出した様に振り向くと、マコトをじっと見つめ、小首を傾げてにっこりと爽やかに笑った。


「『イタイの』。癖になるとスゴく気持ち良くなるよ?」


「~っこの変態が!」


 マコトが反応するよりも早く、カイスが怒鳴る。しかしサーディンは、焦る様子も無くのんびりと歩いて去っていった。


「……あの、ハッシュさん、大丈夫ですか」


 カイスの背中越しにサーディンが遠ざかったのを確認してから、マコトは、座り込んだまま動かないハッシュに駆け寄った。 恐る恐るハッシュの顔を覗き込み、どこか遠くを見る様な視線とその顔色の悪さに気付くと、慌てて頭を下げた。


「すみません! 私のせいで。あの、……大事な本だったんですよね?」


 その近さにはっと我に返ったハッシュは、少し仰け反って距離を置くと、耳まで赤くさせブンブン首を振る。


「だ、大丈夫です……! 謝ればきっと……きっと……許して下さると思います……」


 言葉尻の弱さに気付き、マコトは砂に落ちた灰を拾いじっと見つめる。

 ……何とかなるレベルの問題では無い。マコトはきゅっと眉を寄せると、思いきったように口を開いた。


「ハッシュさんが通ってらっしゃる学校の本なんですよね。あの、私、都に行った時に一緒に謝りに行きます」

「マ……マコトさん……!」


 ハッシュは振り返り、まるで女神を見た様に両手を合わせマコトを見つめた。


「あ、有難うございます……!」


 その瞳は熱く潤んでいる。


「……あ~。お前ら、ちょっと邪魔してわりぃんだけどさ」


 置いてかれた感漂うカイスがその間から遠慮がちに声を掛け、ハッシュは慌ててマコトと距離を置いた。その慌しさに 驚きつつ、カイスの手を取り、立ち上がったハッシュを見て、マコトは珍しい組み合わせだ、と思う。


(そういえば、どうしてこんな所に二人が……)


「あの、二人でどこかお出かけですか?」


 このまま行けば集落から出る。サーディンのゲルに近いと行っても、先程の様子から察するに、彼に用事があった訳ではないだろう。


「え……、いやっ! そういう訳じゃなくてな……! ほら、……つーか、お前が聞けよ……」


 カイスは肘で隣に立つハッシュを突付く。ぎょっとしたようにマコトを見てからカイスに視線を向けたハッシュは、ぶんぶんと首を振り、その腕を掴んだ。


「ええ! ズルいですよ! 一緒に聞こうって」


 どうやら二人は何か聞きたい事があるようだ。という事は、その為にここまで自分を探しに来てくれたのだろうか。

 言い争っていた二人だったが、暫くすると短気なカイスが覚悟を決めた様に緊張した面持ちで前に出る。そして視線を泳がせながらも、聞き取りづらい程小さな声で呟いた。


「つーか……さ。お前は……、その、サハルを選ぶのかよ」


 不意にカイスの口から出た名前に、マコトの心臓が跳ね上がる。今、一番聞きたくない名前だと言っても過言では無かった。


(そっか……カイスさん、次期頭領だから言っといて貰わないとって言ってたもんね)


 黙り込んだマコトに、カイスとハッシュは顔を見合わせ、何か確認する様に頷き、今度はハッシュが口を開いた。


「まだ決めてらっしゃらないんですよね……!?」

「え……あ、はい」


 俯いたまま返事をしたマコトにハッシュはマコトに歩み寄り、拳を握り締めて口を開いた。


「もしあの、迷ってらっしゃるなら全然僕でもいいですっ! いいって言うかむしろ選んで欲し」

「つーか! 俺もいいぜ! 大体年回りから言っても俺が一番不自然じゃねぇ……って、いてぇよ!」


 ハッシュの肩を掴み身を乗り出したカイスの足をハッシュは踵で踏みつける。


「言うに事かいて年齢の事言いますか!」

「っせぇ! お前だって抜け駆けしねぇ約束はどこいった!」


 ぎゃあぎゃあとまた騒ぎ始めた二人をまじまじと見詰めて、マコトは考える様に唇に手を置いた。

 選んでいいとか、抜け駆け、とか

 ……まさか……。


「あの」


 咄嗟に口を塞いでマコトは言葉を止まる。

 ……今、自分は何を言おうとしたのか。


「……」


 ――まさか、二人も自分の事が好き、だなんて。


(有り得ない有り得ない! これはうん、さすがに無い!)


 ちらりとでも思った自分の図々しさに、穴があるならそのまま入って埋まってしまいたい。

 そして。そういえば、自分にはオアシスがある事を思い出した。ああ、アレ付きだからここまで自分に興味を持って貰えるのかもしれない。 いやしかし西に残ると宣言した時点で、自分自身には、もう価値も無いはずだが。


 真っ赤になったマコトは、熱くなった頬に両手を当て、二人を見る。言い合いに夢中でマコトの呟きに気付いていないようだ。 ほっとして胸を撫で下ろしたが、今度は止めるべきか放っておくべきか悩む。


「大体お前はなんかセコイんだよ!」

「カイスさんこそ、次期頭領なら色んなものよりどりみどりでしょう! 譲って下さい!」


(……私が悩んでるの気付いて、二人とも心配してくれてるんだよね……?)


 だからこその申し出に違いない。そう、選んでもいいと言ってくれたのであって、サハルの様に「好き」だと言われた訳でも無いのだ。


 そこまで思って、そういえば、と大変な事に気付く。

 サハルに気を取られてすっかり忘れていたが、――タイスイールにも同じく想いを告げられていたのだ。


(……え、あ、あれ……? タイスィールさんは本気……なの? 派手で女の人にも人気あるみたいだけど、 サハルさんと同じようにそんな言葉を冗談で使う類の人じゃない、と思うし)


「……」


 暫く考えてまた思考の迷宮に迷い込む。

 もしかすると自分はあの二人を天秤に掛けて選ばなくてはいけないのだろうか。


 タイスィールはまず確実に無い。あれだけ魅力的な人を選んだら周囲が怖すぎる。それに大分マシになったとは言え、彼と二人きり になるだけでものすごく緊張するのだ。


 あの時のタイスィールの言葉を思い出してみる。

 ……そういえば『気に入ってる』と言われただけで、『好き』と言われた訳では無かっただろうか。


「……」

 きっとあの場の雰囲気を和らげる為に、名乗り出てくれたのだろう。

 サハルの二の舞になるかと思うと、再び確認する事は出来ず、とりあえずそういう事にしておこうと、自分でも分かる駄目な癖が出た。 しかし、この上、悩みを増やせば自分の頭はパンクしてしまう。


 カイス達もきっとマコトの負担を軽くしようと、こうして自分から候補を名乗り出てくれたのだ。 確かにカイスなら年回りも近いし、ハッシュは年下な分、話しやすい相手ではある。


(――ああ、ホントに恥ずかしい)


 口にしなくて良かったと改めて思う。


 マコトはそんな事を考えながら、少し離れた場所に移った二人を見る。 あまり話している所は見た事は無かったが、年の離れた兄弟の喧嘩を見ているようだった。 本人たちは大真面目だが、マコトの前で自重しているせいか、小突き合ってるその姿はなかなか微笑ましい。そんなやりとりに、マコトの顔に自然と小さな笑みが浮かんだ。


(……うじうじ考えても仕方無いよね。まわりに心配掛けるだけだし。サハルさんには……本気に取らなかった事きちんと謝って、真面目にちゃんと考えますって言おう)


 もうそれしか思いつかないし、謝罪もお礼も多分そこから始めた方がいいだろう。

 向けられた好意は本物だった。だがしかし自分のどこが良かったのか、想像がつかない。


(……サハルさん。私のどこが良かったんだろ……頼りなさすぎてほっとけない、とか……?)


 あり得る。


 しかしこれもまた面と向かって聞けそうに無い。

 頬を押さえていた手が唇に触れる。ふと、その熱がまた蘇って、マコトは唇をそっと撫でた。


(しちゃったんだよね……)


 キス。

 初めてだった。


 元の世界では、友達にも聞いた事だってある。もっと進んだ話も割と日常的だったし、それに比べればそれ程大した事では無い気がしていた。


 絡まる舌。

 ふいに漏れる吐息と、熱情。

 口付けとは想いを交わす為の手段、そう初めて気付いた。確かに、伝わった。サハルの苛立ちと焦燥、それに痛いほどの本気を。


(ぅ……わ、ぁ……)


 今更気付いた。

 明日どんな表情をして顔を合わせればいいのか。


「どうしよう……」

「マコトさん……?」

「えっ……ぁっ、すいません」


 ポツリと呟いたマコトに先にハッシュが気付き、次いでカイスも首を傾げる。

 マコトは赤くなった顔を隠すように俯くと、慌てて言い訳を探し、あ、と思いついたように声を上げた。


「あの、お心遣い有難うございます……! その、お菓子作らなきゃいけないんで、失礼しますね」


 そして俯いたまま逃げるようにその場から走り去った。




「……なぁ、俺達の言葉本気にしてると思うか?」

「……残念ながら」


 がっくりと肩を落とした二人は、小さくなっていくマコトの背中を同じ気持ちで見送った。




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