第五十一話 背後の影(サハル視点)
いつもの様に洗い物を手伝った後、ゲルに戻って書き物の続きをしていたサハルは、 先ほどまで一緒だった少女の表情を思い出し、苦笑した。
手を動かしながらも、時折自分とタイスィールに視線を投げ、何か言い出すのを待っていたマコト。去り際縋る様な 引き止める視線だった事に彼女自身は気づいているだろうか。
(……このまま冗談だと流されたくはありませんし……)
敢えてあの後何も言わなかったのは、どれだけ言葉を重ねたとしても、 またタイスィールに邪魔される事になるのが分かっていたからだ。
(全く気付いて無かったようですしね)
自分としては好意を全面に押し出していたつもりだったし、嫉妬に駆られ子供じみた事をした事もある。 今頃は自分の真意を探ろうと躍起になって思いあぐねているのだろうか。
可哀想な気もするが、それ程彼女の心を占めているのが自分だと思うとそれすら嬉しかった。
苦い笑いを小さく漏らして、サハルは筆を置く。
これで、彼女は自分の事を意識してくれるだろう。
事実マコトは婚約者の誰も、そういう対象として見た事が無いのは、彼女の様子を見ていれば分かる。 彼女自身の自信の無さが、彼等をそんな対象として見ることを拒否している事にもサハルは早い内から気付いていた。 彼女は優しい。縋り付かれれば、振り払えず共に溺れてしまう程。だから、あの状況で気持ちを告げられれば、彼女が断れる訳が無かった。
――予定通り、だったなら、だが。
(……まさか、タイスィールがあそこで動くとは)
まさか飄々としながらも色恋沙汰に関しては百戦錬磨だという彼があんな所で、……こう言っては何だが、後手に回り安っぽく想いを告げるなんて想像もしなかった。
敢えてあそこで自分に続いた理由は、自分の告白を軽く思わせる為の演出と、マコトの答えを引き延ばす為のものだったのだろう。
「……惜しかったんですけど、ね」
タイスィ―ルかあのタイミングで口を開かなければ、マコトは間違いなくあのまま頷いていたはずだ。
しつこい程、カイスに確認したのは、自分の想いを効果的に候補者達に知らしめ一度は確認した事で、 後で揉めないようにする為だ。あの場面でカイスが何も言えなくなるのは、 長年の付き合いで分かっていたし、ハッシュに対してもいい牽制になっただろう。けれど、それは足止めにしかならない。
想いは育ち、緩やかにも急激にも変化する。
――自分のこの心の様に。
(――方向性を変えていくべきですかね)
優しく微笑んで別れたのは数十分前。
筆を取ろうとした拍子に袖に忍ばせていた小指程の小瓶が机の端に当たる。それを取り出しちょうど半量残った中身を振ると、揺れる水面に鮮やかな青が走った。
「――意外に効きましたね」
言葉と同時に、項にちりっとした鋭い熱が走った。サハルは顔色一つ変えず、 視線を書類に落としたまま真後ろに立つ――サーディンに声を掛けた。
「うわぁ虫も殺さない顔して、僕に薬盛るなんて、案外イカれてたんだねぇ?」
ズボンのポケットに手を入れたまま、サーディンは座ったままのサハルを後ろから覗き込む。さらりと流れた長い前髪がサーディンの表情を隠した。
「だって貴方一昨日から不眠不休でしょう? 私みたいな素人が盛った薬に気がつかないのがいい証拠です。身体は大事にしないと」
ゆっくりと振り返ったサハルにサーディンは、囁く様な近い距離で肩をそびやかした。
「まぁびっくりする位ゆるい睡眠薬だったしね。うっかり眠気と間違って寝ちゃったくらいだし」
「元々貴方に使う為に用意したものではありませんから。……大事な話をしている時に余計な邪魔はされたくありませんしね」
まぁ君だけじゃ無かったですけど、と心の中だけで付け足し、サハルは手の中で転がしていた小瓶を机の上にコトリと置いた。
「で、本題。カイスに聞いたけどさぁ、マコトに告白したんだって?」
「ええ、まぁ」
穏やかに微笑んだまま頷いたサハルにサーディンは、ぎゅっと眉を寄せた後、子供の様に口を尖らせた。
「ズルいっズルいよ! サハルのキャラでそれやんの反則じゃん! 僕なんかずっと告白してんのに本気にしてくんないしっ! サハルのバカバカっ!」
「日頃の行いの問題です。まぁこっちも冗談にされてしまいそうですがね」
「まぁタイスィールがちゃんと邪魔してくれたらしいし、いいけどさ。……サハルにしちゃ上出来だよね? 誰よりたっかいプライド持っちゃってる癖に、『イ―ル・ダ―ル』とは言え、たかが小娘に皆の前で求愛するなんてさ。振られたら恥ずかしくてたまんないよね?」
なるほど、サーディンの中の自分と言うのは、鼻持ちならないプライドの高い男らしい。
「振られたとしても、なりふり構わず求愛は続けてたと思いますよ?」
二人の間に、沈黙が落ち、サーディンはにぃっと満足気に唇の端を吊り上げた。
「まぁ悪く無い答えかな?」
そんな呟きを漏らし、くるりとサーディンは踊る様に身体を返す。今度はきちんと扉に向かい、その数歩手前で足を止めた。
「あっそーそ。サハル」
くるりと首を回し横目でサハルを捉える。男にしては細い指をサハルに向けた。
「二度目は無いからね?」
くいっと指の先を動かした刹那、パシッと机の上に置いていた小瓶が砕け散り残っていた薬液が机に飛び散り片付けたばかりの書類を濡らす。眉を顰めたサハルにサーディンは、あはは、と声を立てて笑いゲルから出ていった。




